日中関係-回顧と展望-
 新防衛計画大綱に対する根源的批判として
第1回:日中関係の不幸な歴史

2010.12.19

*民主党政権の下で新防衛計画の大綱が発表されました(12月17日)。前原外相を筆頭とする「勇ましい」連中が音頭取りをしたとも伝えられていますが、内容的には小泉・ブッシュ路線を忠実に継承「発展」させたものに過ぎません。要するに、対中国シフトを鮮明にしたということであり、それだけでは「まずい」という考慮も加わって対朝鮮対応的側面を加味したというのが本質です。私は、アメリカの対中軍事戦略に日本が思考停止のまま身を預けてしまうこと以外の何ものでもない今回の大綱は正に国の進路を誤る最悪のものだと確信します。
 11月10日に、広島弁護士会平和憲法問題対策委員会で「尖閣問題と日中・日米関係」というテーマでお話ししました(テープが起こされてきたものに、正確を期してかなり手を加えましたので、分量的に多くなってしまいました。)。今回の大綱が出される前のものですが、内容的には、なぜ大綱が根本的に間違った選択であるかということを理解し、認識するための基本的判断材料がつまっているはずですので、紹介します。ただし、4回に分けて掲載することにします(12月19日記)。

はじめに

ご紹介頂きましたが、私が外務省で中国問題を担当したのは今からもう20数年前までのことです。その後、大学の世界に移り、広島に来るまでは、ゼミなどでは中国問題に関連づけてフォローを心がけてきたことはありますが、広島ではそういうこともなくなりました。したがって、今や中国問題について臨場感を持ってお話しする自信はございません。過去の蓄積に寄りかかりながらのお話としてお聞き頂きたいと思います。
山田先生からは「尖閣問題と日中・日米関係」という題でお話しするようにということでした。実は正直に申し上げて、私は尖閣問題というか、いわゆる領土問題という類の問題には、外務省在勤時代から本質的に関心がないのです。竹島(独島)、千島(クリール)、尖閣(釣魚)のいずれをとりましても、要するに領土問題なるものは、私は、国際関係における歴史的な遺物であると考えておりましたし、合理的、理性的に解決がつく類の問題ではないと思っておりました。その認識は今も変わりません。そういう意味で、領土問題は非常に興ざめするテーマでございます。実は昨日(11月9日)付けの毎日新聞の囲み記事を読んでいましたら、「赤旗まつり」で記念演説をした志位委員長が、「領土問題は血が騒ぐ」という発言をしたというのが書いてありまして、私としては「今の共産党はどうなっているのだ」という幻滅感を深くした次第です。
さて、私が外務省にいた時(中国課長時代)に、この尖閣がらみでやろうとしたことは別のことでした。1978年、当時の中国の最高指導者である鄧小平が、日中平和友好条約の批准のために来日した時に、福田首相と首脳会談を行った後の記者会見で発言したことがあります。ご記憶の方もおられると思いますけれども、要するに、「尖閣問題については、我々よりは賢い次の世代の解決に委ねましょう」と、彼は言ったわけです。いわゆる「棚上げ」方式を提案したということで理解されています。もし、日本政府として、そういう「棚上げ」ということが認められないのであれば、鄧小平がその発言をした時に直ちに異議を唱えるべきでしたが、そういうことはしなかったという事実に鑑みても、日中双方において、尖閣領有権という領土問題については「棚上げにしておく」ということで、1978年時点で双方の暗黙の了解がついたということなのです。
中国の神経を逆なですることに快感すら覚えていた可能性がある小泉首相の時である2004年に、中国の活動家が尖閣に上陸したという事件があります。その時に日本政府はどうしたかといいますと、中国の神経を逆なでしてでも靖国参拝を強行し続けた小泉首相ですら、活動家を中国に強制送還するということで事態を収めたのです。確かに、その時にも中国側はいろいろ反応しましたけれども、とにかくそれで事態は収まったわけです。ところが今回は、中国漁船の巡視船衝突という問題が日中関係に深い亀裂をもたらす事件になってしまいました。それはなぜでしょうか。
今、ユー・チューブの映像を通じて、中国漁船が巡視船に体当たりしてきたということが盛んに取り沙汰されております。私たちは、そういう報道に接することによって、やはり中国漁船が体当たりしてきたことは明らかだからそれを取り締まるのは当然、というような受け止め方をさせられているわけです。すなわち、中国漁船が体当たりするという不法な行動に出たのだから、船長を逮捕するのは当然だ、という受け止め方が日本国内では当たり前になっています。 けれども、中国側の立場からしますと、そういうことはそもそも問題の本質ではないわけです。つまり、中国側は、釣魚島は自分たちの領土だと思っているわけですから、その領海で中国漁船が操業するのは当然の権利ということです。その当然の権利を日本の巡視船が不当にも待ったをかけて邪魔をしたことが「けしからん」わけです。しかもあろうことか、中国側から見ての「あろうことか」ですけれども、その報を受けた当時の国土交通大臣である前原氏が、「尖閣は日本の固有の領土だ。領土問題は存在しない。」、「本件については、国内法に基づいて粛々と対処する。」と言ってのけたのですから、中国側からしてみたら、一体1978年以来の日中間の了解はどうなっているのだ、日本政府は日中間の約束事を何と心得ているのか、ということになるわけです。そこが最大のポイントなのです。
ご丁寧なことにというか、頑迷にもというべきかはともかく、前原氏は外務大臣になった後の記者会見でも、記者の質問に答えて、「2004年の事件と今回の事件とでは、まったくことの性格が違う」と言い張っているのです。つまり、2004年の事件は不法上陸だったが、今回は体当たりをしてくるという刑法上の悪質な不法行為であるという主張です。しかし、そういう主張は1978年の日中間の暗黙の了解を覆す以外の何ものでもないということを、前原氏はまったく理解していない。中国側が何故に怒っているのかということがまったく分かっていないのです。これが問題を大きくした最大の原因であると私は思います。その点を理解しないと、本件についての正確な認識が得られないのではないかということを冒頭に申し上げておきたいと思います。

Ⅰ 不幸な日中関係の歴史:対等平等な存在として認め合うことがなかった関係
(西欧的国際関係が成立したことがない日中関係)

1 対等平等ではなかった日中関係

これからは、レジメに即して私が考えていることをお話ししていきたいと思います。
そもそも日中関係は、双方が相手をどのように位置づけるか、どのように認識するか、イメージするかというもっとも根本的な点で曖昧なまま推移してきた、いわば非常にやっかいな2国間関係だと私はずっと思っています。それがまさに不幸な日中関係の歴史ということです。つまり、日本も中国も、相手を対等かつ平等な存在、主権国家として認め合う、認識し合う、ということが未だかつてないわけです。このことが日中関係の根幹にある問題点だと私は思います。
よく国際関係といいますが、普通に国際関係という時には国家の間の関係ということで、そういう国際関係が最初に成立したのは西欧においてであり、まさにウェストファリア条約の1648年以来のことです。要するに国家の大小、強弱、貧富の差に関わらず、主権者として対等平等の存在であることです。当時は、国家ではなくて主権者、君主だったわけですけれども、とにかく主権を持つものであるかぎりにおいて対等かつ平等な存在であるという認識が確立し、それによって初めて西欧的国際関係が成り立った。そしてその西欧的国際関係が第1次、第2次大戦を経て、地球規模に広がってきたということなのです。
ところが日中関係が営まれてきた基盤である東アジアの国際関係というのは、西欧的にいう国家同士が相互に横並びで相対するという横の関係ではなくて、どの国家が上に来てどの国家が下に来るかという上下、縦の関係だったのです。つまり、中華帝国が頂点に君臨して、その周辺にもろもろの国家が下位に位置する。頂点に立つ中国からすると、例えば日本は東夷、東の夷狄で、要するに下位に位置する野蛮な存在であり、中国にとって対等な存在ではあり得なかったのです。
日本の方から中国を見る場合も、確かにその時々の支配者によっては、例えば織田信長や豊臣秀吉のように、「中国何するものぞ」という意識を持った例外的なケースはありましたけれども、概して言えば、中華世界の中の一員として中国を一目も二目も置く存在と見なしてきたわけです。中国文明なくして日本の文化はあり得なかったということに鑑みてもそういう意識にはそれなりの根拠があるわけで、総じていえば、日本は明治維新に至るまでは、とにかく中国を格上の存在と見なしてきたといえます。
そういう日本側の対中国認識における変化のきっかけとなったのは、清帝国がアヘン戦争その等によって西洋列強によって蹂躙されたことを目の当たりにしてからのことです。それまで畏敬の対象であった中華帝国がもろくも西洋列強によって打ち破られるという事態に直面して危機感を抱いた日本の指導者たちが明治維新を断行し、脱亜入欧をスローガンにして、背伸びして西欧列強に認められる存在になろうとして富国強兵政策に邁進しました。
日本の機敏な動きと比較しますと、清朝・中国の立ち遅れは否めず、その結果が1894年~95年の日清戦争における日本の勝利となったわけです。そして、日清戦争で勝利した日本は、中国に対して軽蔑感を持って接するようになったということです。つまり、上下関係が逆転したと捉えられたのです。つまり、欧米列強との間ではとにかく横並びの関係になりたい、欧米国際社会の対等平等な一員になりたいと努力する一方で、ことアジア諸国との関係となると、日本は今や中国に代わって自らが東アジア世界の頂点に君臨するという旧態依然の発想で臨んだということです。そういうことで、要するに1945年に至るまで、日中間には対等かつ平等な国家関係は成立しなかったということです。

2 サンフランシスコ体制と日中関係

1945年に日本が敗戦したことによって、初めて日中関係にいわゆる欧米的な意味での国際関係、つまり横並びの関係としての国家関係、2国間関係が成立する条件が生まれかけました。けれども、現実には皆さんもご承知のように、中国は内戦を経て共産党政権ができる。そしてその共産党政権の中国を敵視したアメリカは、元々は日本を平和憲法の下で牙のない無害な民主国家に作り変えようとする政策を取っていたのですが、アジア太平洋における反共の砦として日本を再建するという政策に急速に舵を切り替えていったわけです。
その結果が1952年のサンフランシスコ平和条約であり、それとパッケージであった日米安保条約、そして中国との関係でいうと中国大陸とではなく、台湾に逃れた蒋介石政権との間に日華平和条約を結ぶことによって、いわゆるサンフランシスコ体制というものが出来上がっていくことになります。その結果、日中関係は横並びの国家関係ができるどころではなく、伝統的な上下関係ともほど遠い敵対関係として1972年まで固定化されてしまうということになったのです。ですから、この期間においては、日中双方が相手国に対して、本来の2国間関係を営む上での前提条件である、国家として対等平等な存在という正確なイメージを形成する条件がそもそも欠けていたのです。
1972年に日中両国は国交正常化を成し遂げるのですが、それも極めて他力本願だったわけです。つまり、その前にニクソンの訪中があって、米中がソ連をにらんだ戦略的和解を実現する。要するにアメリカの対中政策の激変という条件ができたもとで初めて、日本も台湾と断交し、中国と外交関係を樹立することが可能になったのです。つまり、日中国交正常化を可能にした最大の要因は、米中それぞれの国際戦略・認識の変化ということであり、日中両国が互いに対等平等な主権国家であることを認識・承認した上で本来あるべき横並びの国家関係のあり方を目指した、ということではなかったのです。
米中の戦略的考慮によって可能となった日中国交正常化でしたから、その後の日中関係には常にアメリカの影がつきまとうことになりました。私が中国課長をやっていた時に、いつも悲哀を感じていたことがあります。それは、日中首脳会談とか外相会談を行う時には、日本側としては常に一つの前置きを言ってからでないと始まらなかったということです。それは何かと言いますと、「日米同盟を基軸としてその下で日中関係を進めて参りたい」という前置き的発言が必ず日本側からなされてから本番に入るということでした。つまり、強固な日米安保関係を前提とした条件の下でのみ日中関係は存在する、ということです。サンフランシスコ体制を前提とした日中関係である、とも言えるでしょう。
これを平たく言いますと、後でも出てきますが、要するに台湾問題に収斂するのです。日米安保の適用範囲というのは第6条によって極東ということになっていて、その極東にはフィリピン以北ということで、台湾も含まれる。有り体にいえば、中国が台湾を武力解放するような行動に出る時には、アメリカは台湾の側に立って、中国と軍事対決するという政策上の選択肢を常に持っているわけですが、そういう軍事力行使を可能にするためには、日米安保に基づく日本の全面的支援が必要です。日本列島がアメリカの出撃・兵站基地として機能しなければ、アメリカは中国との戦争を継続的に行う能力、つまり継戦能力は持ち得ません。日米安保にいわゆる極東条項(第6条)が入っているのは、正に台湾有事に備えるためでもあるのです。
しかし、アメリカが台湾有事に際して中国との戦争に踏み切ることができるためには、もう一つの問題をクリアしておかなければなりません。それは、アメリカが軍事介入することが国際法的に正当だ(少なくとも違法であると指弾されない)と主張できるということです。なぜ、その点が問題になるかといいますと、中国は台湾が中国の領土の一部であるという立場を堅持しているからです。台湾が中国の一部であるとするならば、台湾有事に際してアメリカが軍事介入することは明白な内政干渉ということになりますから、アメリカは国際法(国連憲章)が認めない不法な戦争を行うことになります。ですから、アメリカが台湾有事に軍事介入することを正当化するためには、台湾が中国の領土の一部であっては困るのです。日本としても、台湾有事になったときに、アメリカの軍事作戦に全面的に協力することを正当化するためには、やはり、中国の主張を認めるわけにはいかないという事情があります。
そのために、アメリカそして日本は、台湾が中国のものであるという中国側の主張を認めていないのです。アメリカは、1972年の上海コミュニケで、「台湾は中国の領土の一部だ」とする中国側の主張・立場を「認識する」(acknowledge)と述べました。それは、中国側の主張・立場を承認した、受け入れたということではない、というのがアメリカ政府の一貫した立場です。
日本はどうかといいますと、1972年の日中共同声明で、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」(第3項)と表明しました。つまり、ポツダム宣言第8項で引用されているカイロ宣言が述べている「台湾は中国に返還されるべきである」ということまではコミットしました。しかし、「返還されるべきである」ということは、裏を返せば、「今は返還されていないね」ということなのです。さらにいうと、返還されていない状況だから、今の時点で台湾がどこの国家のものかは決まっていないということになります。こういう日米の立場を「台湾の領土的帰属未決定論」ともいいます。
だから台湾海峡で紛争が起こった場合、アメリカとしては、内政干渉という中国側の批判によって制約されることなく、国内法である台湾関係法及び日米安保に基づいて中国の武力解放を阻止するための軍事行動をとることができると主張することになります。そしてそのアメリカの軍事行動に対して、日本もまた、台湾の領土的な帰属は未決定であるという立場から、基地提供もするし、後方支援もするということになるのです。
ちなみに、そのことに肉づけしたのが、小泉・ブッシュの下でできた「ツー・プラス・ツー」の合意であり、日米軍事同盟が変質強化されたと言われている内容です。 つまり、それまでは極東の範囲に台湾が含まれるということは言っていても、台湾有事に際して日米安保が直ちに発動されるということまでは日本側は言おうとしなかったわけですが、まさに小泉・ブッシュの「ツー・プラス・ツー」の合意の中で台湾海峡を明言することによって、いったん事があれば、日米軍事同盟は台湾有事に対応するというところまで踏み込んだのです。
話がずいぶん飛びましたので、元に戻して結論をお話しすれば、日中両国は国交正常化したけれども、本当の意味で日中関係が健全な基盤の上に成立したというわけではないということ、あくまでサンフランシスコ体制という日米関係の大枠の中での日中関係であるということです。だからこそ、日本側は中国側に対し、日米関係を前提とした日中関係ですよということを念押ししなければ気が済まないということになるわけです。

3 日中国交回復が解決した問題と残された問題

「日中国交回復が解決した問題と残された問題」ということでお話しすれば、これまでのお話でお分かりいただいたと思うのですが、一番大きい台湾問題は本質的に宙ぶらりんのままであり、解決しなかったということです。
日中間の戦争状態の終結という問題も、1972年の交渉における重要なポイントの一つでした。共同声明は、日中間の「これまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」(第1項)という表現で締めくくっています。日本側としては、日本政府は全中国を代表する政権としての台湾の国民党政権との間で日華平和条約を結んだわけで、日中間の戦争状態は1952年の時点で終了したという法的立場なのです。しかし中国からすれば、亡命政権が約束したことに我々が縛られるいわれはないということですから、1972年まで日本との戦争状態は継続しているわけです。ですからこの双方の異なった立場をいかにまとめるかということが、日中国交正常化における難題だったわけです。それを日中共同声明において、すでに紹介しました苦心のあげくの作文によって一件落着とすることになりました。中国は、1972年の時点で戦争状態は終結したと解釈するし、日本は、戦争状態は1952年に終わっていて、日中共同声明はそのことを「確認した」と解釈するということです。外交ではよく「玉虫色の決着」ということがいわれますが、これはその典型例といえるでしょう。
それから日本の戦争責任問題も大きな難題でした。日本側としては、日本の戦争責任を認めたら、中国側から天文学的な賠償を要求されるのではないか、それだったら国交正常化に応じることはできないということだったのす。ところが中国側は国交正常化前の段階から、「賠償は請求しない」というシグナルを送ってきました。「それだったらいいな」ということで田中角栄氏は計算高く訪中し、共同声明では中国政府が「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」(第5項)ということで落ち着いたわけです。
今日問題になっているのは、中国が放棄した賠償請求権には個人の請求権も含まれるのかという点です。この点は、1972年当時には必ずしも正確に詰めた話をしたわけではありません。日本側は、伝統的な国際法に基づき、いわゆる「放棄される賠償請求権には個人に関わるものも含まれる」という解釈に立ってきましたし、今もその立場です。ですから、いわゆる従軍慰安婦とか強制連行に関わる中国人の個人的請求権は、日中共同声明で解決済みという立場を取っているわけです。中国側についていいますと、個人の請求権という問題が浮上してきたのは1980年代になってからなのです。そういう中で、強制連行、従軍慰安婦、毒ガスとかいろいろありますけれども、そういう「個人の請求権まで国が放棄するというのはおかしい」という議論が、中国国内でも出てきています。その結果、中国でもいろいろ経緯があったのですが、最終的に中国政府は、今は、「日中共同声明によって個人の請求権まで放棄したということではない」という立場を取るにいたっています。ですから、この点については問題が残っているということです。
日中共同声明で未解決の問題としては、歴史認識の問題もあります。日本側としては、日中共同声明(前文)でお詫びを言いました。これでもう過去の問題はケリがつきました。これからの日中関係では未来志向でいきましょう、ということなのです。しかし中国側の歴史認識は、「過去を踏まえてこその未来だ」ということなのです。つまり、「過去を真摯に反省しないで、どうして未来を建設的に展望できるのか」という発想ですから、お詫びを口にすればそれでおしまい、という類の話ではない。
日本人的な感覚でいいますと、「過去を水に流す」ことをよしとし、「過去をグジグジ言うのは男らしくない」とか何とかよく言われますけれども、そういう日本人的な歴史感覚は、国際標準でいうとむしろ異常です。ドイツの例を見れば分かるように、過去を真摯に直視して、それにどう向かい合うのかという問題をわが身の問題として扱うという歴史認識を持たなければ、国際的に責任ある、一人前の国家として認められません。そういう歴史認識を備えておらず、歴史という問題に対して感覚的にしか反応しない日本、日本人に対しては、中国も韓国も危なっかしい気持ちを持たざるを得ないと思います。要するに、「過去を忘れるものは過去を繰り返す。」ということです。そういう日本が再びアジアに対してやましい野心を持たないという保証はないということなのです。そういうことが、実は歴史認識の問題では根本なのです。

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