オバマ政権の核政策の本質と私たちの運動のあり方

2010.12.17

*広島ジャーナリスト会議の依頼を受けて、オバマ政権が行った臨界前核実験にかかわらせて、同政権の核政策に対する幻想に踊らされた広島(そしてマスメディア)のあり方について書いた文章です。題材自体は若干古くなっていますが、2011年以後の私たちの運動のあり方に対する私の意見を示していますので、載せておきます(12月17日記)。

<プラハ演説の虚実>

 9月15日にアメリカのオバマ政権が臨界前核実験を行ったことが明らかにされて、広島は大騒ぎになった。その理由はきわめて簡単である。オバマ大統領は、2009年4月5日にチェコの首都プラハで演説を行い、「核のない世界」を高らかに謳いあげた。そして、「アメリカには行動する道義的責任がある」と述べた。広島では、実際にはオバマはそう言っていない(正確に言えば、オバマは「行動する道義的責任」の対象を明らかにしなかった。もっと平たく言えば、「何について行動する道義的責任」なのかは曖昧にしていた、ということだ。)のに、彼が「アメリカは核兵器のない世界を目指して行動する道義的責任がある」と述べたと受けとめられることになった(その典型的な例は、その年の広島市長の平和宣言)。正確を期していえば、広島だけがプラハ演説に舞い上がったのではない。マス・メディアはこぞって「核兵器廃絶の展望が生まれた」とこの演説を歓迎し、その後の論調は、あたかも核兵器廃絶が現実的な政治日程に上ったかの如き言説で埋め尽くされることになった。
そういうオバマに対する幻想に過ぎない広島の期待を、臨界前核実験の実施は木っ端微塵に打ち砕いたのである。オバマに「裏切られた」という気持ちを多くの人びとが味わうことになった。主にプラハ演説を行ったことに対する「功績」としてノーベル平和賞を受賞されたオバマに対して、その賞を返せという声まで広島では上がる始末だった。
 しかし、私に言わせれば、そういう広島の反応を知らされたら、オバマは間違いなく当惑するだろうと思う。そして、こうつぶやくに違いない。「プラハ演説をよく読んでくれ。私は、「核兵器のない世界を目指して行動する道義的責任がある」などとは言っていない。また、臨界前核実験についても、有効で効果的な核兵器を維持するというプラハ演説の発言の中に織り込み済みであり、そういう実験をやらないなどと言った覚えはまったくない。」と。
私は、正直に言って、オバマが以上のようにつぶやくだろうことを容易に想像できる。そして、それは彼の逃げ口上などではない。オバマのプラハ演説を正確に読めば、広島(をはじめとした日本国内)の受け止め方には何らの根拠がないことははじめからハッキリしていた(念のために言っておくが、私は今になってこういうことを言いだしているわけではないことは、例えば、演説から間もない2009年6月14日付で私のウェブサイトに載せた文章を見て欲しい。)。オバマは、「核兵器のない世界」に言及した直後に、「私の生きている間に核兵器がなくなることはないだろう」とハッキリ言っていた。単純に考えても、彼の生きている間つまり約40年間は核兵器がなくなることはない、とオバマははじめから言っているのだ。それだけではない。既に紹介したように、オバマはさらに、「これら兵器が存続する限り、アメリカは、どんな敵をも抑止するために、安全で、確かな効果的兵器庫を維持する」とも明確に述べていたのだ。放置すれば武器としての寿命が来る核兵器が「有効で効果的」であり続けるためには、常に「使える兵器」であるかどうかをチェックしなければならない。だから、遅かれ早かれ臨界前核実験はすることになっていたのだ。

<私たちが認識し、行動するべきことは何か>

私たちは、私たちの根拠のない期待を「裏切った」オバマを責めるのではなく、勝手に作り上げた期待に胸を膨らませて舞い上がっていた自らの不明を見つめ直し、私たちは何を間違ったのかを深刻に反省し、真摯に教訓を学び取るべきである。何よりもまず、核政策を根本的に改める意思がないオバマに期待しているだけでは、核兵器廃絶実現は夢のまた夢であることを認識するべきだ。そして、核兵器廃絶を本気で実現しようとするのであれば、核兵器がない世界が望ましいと考えるところまでは来ているオバマ(オバマがそのように考えることになった重要な要素の一つは、間違いなく、広島及び長崎の原爆体験に出発点を持つ世界の核兵器廃絶を要求する国際世論の長年にわたる、根強い運動の存在である。)をして、核固執勢力の圧力をはねつけて核兵器廃絶に本気で取り組むように追い詰めていく国際世論を高めるほかない、ということを学び取るべきである。オバマの善意にすがる他力本願ではなく、私たちの反核世論を高めることこそが核兵器廃絶を実現する唯一の道であること、これこそが私たちの認識するべきことである。
このことを明らかにするために私がよくたとえに使うのは、「オバマ=やじろべえ」ということだ。オバマは言うならば、右手を反核国際世論に引っ張られ、左手を核固執勢力に引っ張られて、いわばどちらにでも傾きうる格好でいるやじろべえなのだ。プラハ演説から臨界前核実験までの経緯が示しているのはこういうことだ。すなわち、反核国際世論の圧力のもとで、オバマはプラハ演説で「核兵器のない世界」をビジョンとして示すまでにはなった。ところが、そんなオバマに他力本願になってしまった国際世論が力を抜いてしまっている間に、核固執勢力がオバマに対して猛然と働きかけて核政策の地盤固め(臨界前核実験)を行ったということだ。だから、オバマというやじろべえを核兵器廃絶に本気で取り組むようにさせるためには、反核国際世論を従来より何倍も、何十倍も強め、オバマが退路を断って核兵器廃絶に目の色を変えて取り組むように働きかけなければならない。
反核国際世論を強める上でもっとも重要なポイントは、オバマを含めたアメリカをして広島及び長崎に対する原爆投下はどんなことがあってもやってはならなかった誤りであることを認めさせることだ。アメリカの核固執政策は、広島、長崎への原爆投下は正しかった(したがって、将来的に核兵器を使用することが正しい場合があり得る)という立場に根拠をおいている。その立場を根底から突き崩さないかぎり、アメリカの核政策を見直させることはできない。
原爆使用の誤りを認めさせることは「報復」ではない。生物化学兵器が反人道的な国際法違反の兵器であることが確立した現在、生物化学兵器よりはるかに反人道的な核兵器の使用、存在が認められていいはずがない。その認識をアメリカが我がものにするとき、はじめて「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」の訴えが現実のものとなり、世界を非核化するための根本的な条件が生まれることにつながるのだ。

<楽観を許さない広島の状況>

 臨界前核実験で痛い教訓を学んだはずの広島だが、これからも同じような体験を性懲りなく繰り返す広島になるのではないか、と私は恐れ、心配している。この機会にその点についても触れさせてもらう。
オバマに対する根拠のない期待で思考停止した広島は、2010年5月のNPT再検討会議にも過大な期待感を持ってしまった。「この会議では核兵器廃絶に向けた具体的な措置がとられるだろう、いや、とられるに違いない」という、これまたなんの根拠もない予測が膨らんだ。あらかじめ断っておきたいが、私自身は、今回のNPT再検討会議で採択された最終文書は、非同盟諸国、市民社会の力がアメリカをはじめとする核兵器保有国の抵抗を押しきった産物で、核兵器廃絶に向けた積極的な内容を含む重要な成果だと考えている。しかし広島では、多くの人びとが期待した「具体的な措置」(広島では期限を区切った核兵器廃絶に向けた何らかの約束が行われることを予想し、期待する声が強かった。)がなかったために、この会議の結果に落胆し、失望する声が強かった。
それでも広島ではまだ懲りもせず、「核兵器のない世界」を口にしたオバマなら何かしてくれるだろう、という希望的な観測(私にいわせれば、幻想に過ぎないのだが)がその後も続くことになった。8月6日にはオバマが広島を訪問してくれるかも知れない、という希望的な観測がひとしきり続いたことは記憶に新しい。オバマは来ず、代わり(?)に来たルース駐日大使が献花もせず無言で帰ってしまったことに批判の声が上がった。それでもまだ懲りず、11月12-14日に広島で開催されることになったノーベル平和賞受賞者サミットに、広島市はオバマの参加を呼び掛けた。同じ期間に横浜でAPEC首脳会議が開かれることになっており、この会議に出席することになっていたオバマを広島に呼び寄せようという目論見だった。
ちなみに、聞くところによると、創価学会の池田大作名誉会長は、原爆投下から70年となる2015年に広島と長崎で核廃絶サミットを開催することなどを盛り込んだ平和提言を行っており、今回のノーベル平和賞受賞者サミットはその第一歩と位置づけられていたらしい。そういう創価学会側の思惑と、「オバマジョリティ」の提唱者である広島市のオバマの広島訪問実現に対する熱い思いとが一致したのが今回のサミットということなのだろう。創価学会の目的は実現したが、広島市の目的は空振りに終わった。オバマは広島を訪問する時間はないと言いながら、鎌倉は訪問して帰国した。
私は2011年3月末には広島での滞在が終わることになっている。日本を本当に国際的な平和の拠点にするために、広島には心から期待を持っているし、是非とも奮起して欲しい。しかし、今の広島には地団駄を踏むほどに歯がゆい思いが募るばかりだ。「ノーモア・ヒロシマ」を空念仏にしないでくれ、と叫びたい思いだ。ヒロシマを私物化し、食い物にする政治には心底怒りを感じる。沖縄戦が戦われた沖縄と原爆が投下された広島及び長崎とが、血相を変え、まなじりを決して立ち上がるのであれば、「戦争する国」にまっしぐらに走り出そうとしている日本の政治を食い止めるチャンスはまだまだあるはずだ。
広島よ、怒れ! 広島よ、起て! 広島よ、ヒロシマたれ!!

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