尖閣諸島領有権に関する日本共産党の見解(法的側面)に対する素朴な疑問

2010.10.30

*私がこのコラムで提起した尖閣諸島領有権に関する日本共産党の見解(以下「党見解」)に対する問題提起については、残念ながらこれまでどなたからも納得のいく答なり、解明なりに接していません。私の的を絞らない問題提起の仕方が悪かったのかも知れません。私が腑に落ちないことの一つは、共産党は従来、日清戦争及びその結果としての下関条約(馬関条約)、サンフランシスコ条約(及びそれらを根幹とするサンフランシスコ体制)並びに沖縄返還協定に対して強い批判を行ってきたのではないか、そういう批判をしてきたものを日本の尖閣諸島の領有権の正当性の法的根拠とすることはおかしいのではないか、という点です。
 私は、そういう疑問を持つのは私のこれまでの共産党の見解に関する理解がうろ覚えだった、あるいは間違っていたせいかもしれないと思い、これまでの共産党のこの三つの条約にかかわる見解を、主要と思われるものについてもう一度読み直してみました。その結果、やはり「腑に落ちない」と思った法的問題点については疑問が解消しないので、なるべく具体的に下記1.に整理してみました。また、この三つの条約にかかわる共産党の従来の見解についても、皆様の参考に下記2.に載せておきます。お忙しい方は1.だけを読んでくだされば、と思います。
 このコラムを読まれる方から、私の疑問について答なり、解明なりをしてくださる方がおられたら幸いです(10月30日記)。

1.私の疑問点

 私は、特に日清戦争及びその結果としての下関条約そしてサンフランシスコ条約、沖縄返還協定を日本の尖閣諸島領有権の正当性の根拠としている(と私には読める)共産党の見解について、次のような疑問を持ちます。

(1)日清戦争及び下関条約の位置づけ

 党見解は、次のように述べて、中国が75年間「一度も抗議していない」ことをもって、「日本の領有が国際法上正当なものである決定的な証拠の一つ」「(中国側主張の)最大の問題点」としていますが、この2箇所は下関条約の有効性、正当性を暗黙の前提にしたものと受け止めるしかないと思います。

 「領土紛争においては、相手国による占有の事実を知りながらこれに抗議などの反対の意思表示をしなかった場合には、相手国の領有を黙認したとみなされるという法理も、国際裁判所の判例などを通じて、確立してきている。この法理にもとづいて、1895年の日本の領有宣言以来、中国側が75年間にわたって一度も抗議をおこなっていないことは、日本の領有が国際法上、正当なものである決定的な論拠の一つとなる。…」
 「中国側は、尖閣諸島の領有権を主張しているが、その最大の問題点は、中国が1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議もおこなっていないという事実である。…」

しかし、中国側は、私が検証した法院論文にしても鐘厳論文にしても、日清戦争が戦われている中で行われた日本政府による尖閣領有行為そのものの有効性、正当性に根本的に異議を唱えているわけです。決して何らの異議申し立ても行っていないということではないと思います。
そして、以下の2.で詳しく引用しているように、『日本共産党の60年』は、日清戦争を「日本がひきおこした強盗的な侵略戦争」、「天皇制政府は、はじめから侵略的であり、1874年(明治7年)の台湾侵略から、朝鮮への干渉、日清戦争による台湾や遼東半島の割譲など軍国主義的性格を露骨に発揮した」と位置づけています。この文章に基づいて判断するならば、共産党としては中国側の根本的な異議申し立てに同感なのではないか、少なくとも無視はできないのではないか、と考えるのです。
つまり、中国側は、日清戦争がらみで日本が行った尖閣領有行為そのものは「無主先占」として正当化しうるものではないと異議申し立てをしてきたわけで、日清戦争及び下関条約について根本的に批判的な立場を取ってきた共産党としては、「中国側が(1895年以来)75年間異議を唱えてこなかった」(党見解)という結論を押し出すことには無理があるように思うのですが、どうなのでしょうか。
それとも共産党としては、日清戦争は政治的、軍事的には侵略戦争であったが、尖閣領有問題に関しては影響を及ぼさない、という見解なのでしょうか。それとも、日清戦争に関する共産党の見解にはその後変化があって、私はそれを承知していない、ということなのでしょうか。もしそうであるとするならば、その点について詳しい説明、解明をお願いしたいし、共産党がそういう労をいとわれないことが日中間の生産的な話し合いにつながるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

(2)サンフランシスコ条約及び沖縄返還協定の位置づけ

 同じ疑問が、サンフランシスコ条約(体制)及び沖縄返還協定についても起こります。つまり、下記2箇所の党見解は、サンフランシスコ条約及び沖縄返還協定の有効性を前提にして書かれていると思います。

 「1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うこととひき換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことに伴って、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。…」
 「中国、台湾が尖閣諸島の領有権を主張しはじめたのは1970年代に入ってからである。台湾は1970年に尖閣諸島の領有を初めて主張し、71年に 入って主権声明を出した。中国政府は、1971年12月30日の外交部声明で領有権を公式に主張した。…」

しかし、中国側は、自分たちが交渉にも招かれず(もっと正確に言えば、交渉参加から排除された)、内容にもまったくタッチしていないサンフランシスコ条約に対しては「1951年…9月18日、周恩来外交部長は、中国政府を代表して、このいわゆる平和条約は中国の参加、制定及び署名のないものであり、したがって不法であり、無効である。中国は絶対に受け入れない。中国は異議がないなどとどうして言えようか、と宣言した」(鐘厳論文)わけで、ここでも根源的な異議申し立てを行っているわけです。
国際法の常識では、条約は締結当事国のみを拘束するわけで、中国の主張にはなんら無理はありません。ましてや、アメリカがポツダム宣言(及びカイロ宣言)を無視して強行したサンフランシスコ条約であるから、中国がそれに縛られるいわれはないと主張するのは筋が通っています。ここでも、党見解が指摘するような「中国は75年間異議を申し立てなかった」という主張は成り立たないのではないでしょうか。
私がここでもやはり素朴に疑問に感じざるを得ないのは、サンフランシスコ条約(体制)に関する共産党の従来の見解と、尖閣領有について日本の立場に根拠ありとしてサンフランシスコ条約を根拠にする党見解との間には一貫性が欠けるのではないか、ということです。サンフランシスコ体制こそ、日本国憲法が指し示した新生・日本の歩むべき進路と真正面から対立するものであり、清算されなければならないと考える私は、共産党の従来の見解が正しいと思っています。
共産党のこれまでの文献を見ると、共産党は、サンフランシスコ条約(体制)については、きわめて厳しい見方を取ってきました。詳しくは下記2.を見ていただきたいのですが、『日本共産党の60年』では次のように述べています。

「アメリカ帝国主義と売国的独占資本は、ポツダム宣言の制約をはなれて、アメリカ帝国主義の対日支配を「合法的」に永続化し、日本をひきつづきアジア侵略の足場とするために、1951年のはじめごろから、ソ連や中国を排除した単独講和の準備をいそぎ、51年9月8日、サンフランシスコで「平和」条約と日米安保条約をむすんだ。…(p.138)
 この二つの条約は、日本を形のうえで主権国家としただけで、実際にはアメリカ帝国主義の半占領下におき、日米軍事同盟によって日本を無期限にアメリカの戦争計画にしばりつけた。…二つの条約に法制化されたサンフランシスコ体制こそは、まさに「アメリカにたいする日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧と収奪維持の体制」(日本共産党綱領)であった。(p.139)…
 サンフランシスコ諸条約の批准のために召集された51年10月の国会においても、二つの条約に党として反対の態度をとったのは、日本共産党と労農党の議員団だけであった。」

 また、これまた詳しくは下記2.のとおりですが、1957年には宮本顕治委員長が次のように述べていました。

 「サンフランシスコ体制が、ソ連邦、中国はじめアジア諸民族に敵対してつくられた体制であり、日本軍国主義の復活を促進するものであるということは、日本政府の内外政策を大きく支配しており、日本政府を平和共存と国際緊張緩和に反対して行動させる根源となっている。…
 サンフランシスコ体制は、アメリカ帝国主義の占領体制の単なる継続ではない。事実上、半占領をつづけながら形式上日本を主権国とする方法をえらんだのは、アメリカ帝国主義が日本独占資本を中心とする反動勢力の従属だけでなく、積極的協力を確実にするためであった。売国的諸条件とこれにもとづくアメリカの半占領は超憲的なものであり、民族主権にたいする明白な侵害である。しかし、他方、日本政府の外交、内政は憲法にもとづいておこなわるべきものとされた。これは全一的な占領支配からサンフランシスコ体制への移行の生んだ新しい矛盾である。したがって、日本人民は憲法で保障された権利を主張し、それをサンフランシスコ体制そのものを打破する闘争を公然とおこなう法的根拠としている。」

 またこれまでの綱領、行動綱領も、「サンフランシスコ体制の打破、すなわち、いっさいの売国的条約・協定の破棄」(1958年の行動綱領)、「サンフランシスコ「平和」条約の売国的条項の破棄をはじめ、サンフランシスコ体制を根本的に打破」(1961年以後の綱領)、「サンフランシスコ体制――すなわちサンフランシスコ「平和」条約、日米「安全保障」条約などの一連の諸条約に法制化されている反ソ、反中国、反共の「講和体制」であり、同時に、アメリカにたいする日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧と収奪維持の体制――」(1973年の綱領)、「中国革命の勝利など、世界とアジアの情勢の変化に直面して、アメリカ帝国主義は、その目的を達するために、新しい手段をとった。1951年、ソ連と中華人民共和国をのぞいてサンフランシスコ平和条約がむすばれ、同時に日米安全保障条約が締結された」、「党は、サンフランシスコ平和条約の主権を侵害する諸条項の廃棄をはじめ、日本の真の独立のためにたたかう。党は、歯舞、色丹および全千島の返還のため、平和的、外交的に努力する。」(1994年綱領)等とも明確に述べています。
 このように、共産党は、サンフランシスコ平和条約が中国を除外して行われたものであることを正確に認識していますし、サンフランシスコ体制そのものが打破されるべきであるとしてきたのです。廃棄(打破)されるべきサンフランシスコ条約(体制)が、尖閣領有問題に関してだけは日本の主張を正当化する根拠となる、という論理には、私の頭ではついて行けないものを感じるのですが、どうでしょうか。
 沖縄返還協定についても同じ疑問が起こるのです。『日本共産党の60年』は、共産党が沖縄返還協定反対を明確にし、反対闘争を行ったことを史実として明確に述べています。そこでは、沖縄返還協定によって「日米軍事同盟の侵略的性格がいっそうつよめられ、日本全土が文字どおり、アメリカ帝国主義の第一線の侵略拠点に変えられた」、「沖縄『施政権』返還とひきかえにとりきめられた1969年の佐藤・ニクソン共同声明の『韓国』・台湾条項とベトナム条項は、極東各地域での侵略戦争にさいして『事前協議』を事実上空文化したものであり、日米安保条約の重大な変質をもたらした」という解明が行われていますが、その本質的な正しさは、沖縄返還交渉において外務省で中心的役割を果たした栗山尚一著『沖縄返還・日中国交正常化・日米「密約」』(2010年)によって客観的に裏付けを得ています。このように共産党が反対した協定を根拠にして尖閣領有を正当化するという論理の建て方には、私は素直について行けないものを感じるのです。
 ただし、中国側は、沖縄返還協定によってアメリカが尖閣の領有権について日本側の見解を支持する立場に立ったということを意味しない、としています(鐘厳論文)が、アメリカ政府関係者の最近の発言はそれを裏書きしていることについては、私もこのコラムで指摘してきたとおりです。
 前にも書きましたように、私は日本側の主張が間違っている、中国側の主張に分がある、などと言おうとしているわけではありません。偏狭なナショナリズムをあおるだけで百害あって一利もない領土問題にはあまり関心がないし、このような問題で日中関係の大局が損なわれるようなことがあってはならない、と考えています。しかし、中国側の見解は少なくとも日本側の言い分を踏まえた上で改めて自分たちの主張を行っているのですから、日本共産党がこの問題に対して発言する以上は、中国側の主張にも虚心に耳を傾け、その理非について改めて誠実に見解を示すことが求められるのではないか、と思うのです。
ただし、日中両共産党間には理論交流などの場が設けられているのですから、いきなり公開論争という形を取るのではなく、それこそ膝をつき合わせてじっくり話し合って相互理解・認識を深めていってほしいと思います。そうしてこそ、共産党は日中関係の平和的発展に対して独自の立場から積極的な貢献を行うことができるのではないでしょうか。

2.日本共産党の日清戦争、サンフランシスコ体制及び沖縄返還問題に対する見解

 以下は、私がチェックした限りの共産党のこれまでの見解を整理したものですので、興味ある方はお読み下さい。少し長すぎるのですが、前後の脈絡も記しておかないと「つまみ食い」になってしまう危険性があると思いますので、ご了承願います。

(1)『日本共産党の60年』(1922-1982)

明治いらいの日本資本主義の急速な発達は、国内での労働者、農民にたいするきびしい搾取と収奪とともに、朝鮮、中国などアジア諸国への侵略と略奪によって特徴づけられてきた。明治維新いらい朝鮮への侵略をくわだててきた天皇制政府が産業資本の市場要求もくわわって、朝鮮を属国とみなしていた清朝中国と朝鮮の支配を争った日清戦争(1894-95年)や、日本と帝政ロシアが中国東北部、朝鮮の支配権を争った双方のがわからの帝国主義戦争であった日露戦争(1904-05年)をはじめ、日本がひきおこした強盗的な侵略戦争は、すべて天皇の名でおこなわれ、これに反対するものは、きびしく弾圧された。(p.15)
 …天皇制政府は、はじめから侵略的であり、1874年(明治7年)の台湾侵略から、朝鮮への干渉、日清戦争による台湾や遼東半島の割譲など軍国主義的性格を露骨に発揮した。(p.16)
 党は、1923年(大正12年)…3月には、東京・石神井で臨時党大会をひらいて、綱領草案を討議した。…
 …綱領草案は、外国にたいするあらゆる干渉企図の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の完全撤退を要求した。綱領草案が、こうして日本帝国主義のロシア革命と中国革命への干渉戦争に反対し、日本帝国主義の植民地であった朝鮮、台湾の解放の旗を敢然とかかげたことは、日本共産党のプロレタリア国際主義の立場を、創立の当初から明確にしたものとして、重要な意義をもっている。党は、それ以後半世紀余の活動をつうじて、一貫して侵略戦争に反対し、アジアと世界の平和、諸民族の独立のためにたたかってきたが、これは日露戦争当時の反戦闘争をはじめ、日本社会主義運動の反戦、平和の伝統を発展的にうけついだものである。
綱領草案にしめされたこれらの方針は、他の諸政党と根本的にことなる、日本共産党のもっとも重要な革命的伝統となった。(pp.25-26) 世界の民主勢力と日本人民の圧力のもとに、アメリカ占領軍は、戦後、ポツダム宣言の条項にある程度そった一連の「民主化」措置をとった。しかし、すでにその世界支配政策にもとづいて対日支配の確立とソ連などにたいする侵略戦争の野望をもっていたアメリカ帝国主義は、日本の独占資本を中心とする反動勢力を、目したの同盟者として復活させ、民主主義革命を流産させる方針をしだいにむきだしにし、帝国主義支配者の本質をあきらかにしてきた。(p.109)
…アメリカは、戦後の初期には、蒋介石の国民党が支配する中国をアメリカ帝国主義のアジア支配の拠点にしようとし、その見地からも日本の弱体化をはかって「民主化」政策をすすめてきたが、中国革命の前進、世界と日本の平和、民主主義と社会主義の勢力の前進に直面して、アメリカ帝国主義は、日本をかれらの世界支配の重要拠点としてかためる政策に急速に転換し、反動支配体制の強化にのりだした。(p.114)
アメリカ占領軍は、片山、芦田内閣の協力のもとに、日本をアジア侵略の前進基地とする政策を全面的におしすすめた。48年1月、アメリカのロイヤル陸軍長官は、サンフランシスコで、日本を極東における「反共の防壁」とするという演説をおこなったが、これはアメリカのあたらしい対日政策の核心をあからさまに宣言したものであった。(pp.115-6)…
戦後日本に進駐してきた連合軍は、ほんらいは、米、英、ソ、中4カ国の対日共同綱領であるポツダム宣言の実行を使命とするものであった。事実連合軍は、国際民主勢力と日本人民の要求におされて治安維持法の撤廃、政治犯の釈放はじめ一連の民主的措置をとった。したがって、第5回党大会が、連合軍が日本の人民大衆にとって「民主主義革命の解放軍としての役割をすすめてきた」と規定したのには、一定の根拠があった。この時期、連合軍を解放軍と規定したこと自体を誤りだと単純化することはできない。
しかし、日本に進駐した連合軍の主体はアメリカ帝国主義の軍隊であり、日本は事実上アメリカ軍の単独占領下におかれるという一面をもっていた。…(p.116)
当時、アメリカ帝国主義は、4大国の一致による対日講和の準備に反対し、講和会議をひきのばしてアメリカの対日支配を既成事実としてつくりあげようとしていた。党は、これにたいして、48年8月の中央委員会総会で、「講和に対する基本方針」を決定し、ポツダム宣言の趣旨にしたがった公正な講和の諸原則をあきらかにするとともに、この基礎のうえに一日も早く講和がむすばれて占領軍を撤退させることが、独立・民主・反映の日本への道であることをしめした。…
「三、領土 民族的、歴史的にみてもともと日本に属すべき島々の日本への帰属。…
九、講和 単独講和反対、旧連合国との全面的な、かつ一日も速やかな講和の締結」(pp.120-1)
アメリカ帝国主義と売国的独占資本は、ポツダム宣言の制約をはなれて、アメリカ帝国主義の対日支配を「合法的」に永続化し、日本をひきつづきアジア侵略の足場とするために、1951年のはじめごろから、ソ連や中国を排除した単独講和の準備をいそぎ、51年9月8日、サンフランシスコで「平和」条約と日米安保条約をむすんだ。…(p.138)
 この二つの条約は、日本を形のうえで主権国家としただけで、実際にはアメリカ帝国主義の半占領下におき、日米軍事同盟によって日本を無期限にアメリカの戦争計画にしばりつけた。…二つの条約に法制化されたサンフランシスコ体制こそは、、まさに「アメリカにたいする日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧と収奪維持の体制」(日本共産党綱領)であった。(p.139)…
 サンフランシスコ諸条約の批准のために召集された51年10月の国会においても、二つの条約に党として反対の態度をとったのは、日本共産党と労農党の議員団だけであった。(p.140)
 (1961年の第8回党大会で採択された)綱領は、日本の現状について、日本は、サンフランシスコ「講和」によって真の独立を回復することができず、高度に発達した資本主義国でありながら、いまなおアメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国の状態にあることをあきらかにし、当面、サンフランシスコ体制-アメリカ帝国主義と日本独占資本の二つの敵の支配を打破して真の独立と民主主義を確立することこそが、日本の労働者階級と人民の最大の歴史的任務となっていることを明確にした。(p.177)…
 綱領は、国際情勢について、「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の支柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国人民の共通の敵となっている」ことを明確に指摘し、アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際統一戦線を、世界の反帝民主勢力の当面の任務として提起した。
 第8回党大会における綱領の確定によって、日本共産党と日本人民は、どんなに複雑な情勢のもとでも、人民解放の道、日本革命の正確な進路をさししめす科学的社会主義のら針盤をもつことになった。(p.179)
 71年から72年にかけて、日米沖縄協定が政治的対決の最大の焦点となった。 (p.290) …
 自民党や日米支配層は、「施政権返還」の意義を前面におしだして世論の支持をひきつけ、共産党その他を「返還反対」勢力として孤立化させようとしたが、党は、国民が真にのぞむ沖縄全面返還協定をこれに対置して自民党の策謀をあばき、協定の発表にさきだって、71年4月には日米秘密交渉の全ぼうを詳細にあきらかにして、その屈辱的、侵略的な内容を糾弾した。さらに6月17日の日米沖縄協定調印にさいしては、他のどの野党も協定にたいする明確な態度をきめえないでいるときに、即日、中央委員会幹部会の声明を発表して、日米沖縄協定反対の旗を明確にかかげ、本土と沖縄のすべての革新勢力、すべての愛国勢力にこの党争への統一的な決起をよびかけた。つづいて71年7月の第5回中央委員会総会(第11回大会)では、沖縄協定批准反対、沖縄全面返還、安保条約反対の立場にたつすべての勢力の共同闘争を提唱し…た。
 …こうして党は、沖縄問題での党争の正しい方向をしめし、沖縄協定反対の闘争で先進的役割をはたした。(p.291)
 アメリカ帝国主義と自民党政府の合作による1972年の日米沖縄協定は、沖縄県民をはじめとする日本国民の全面返還要求をそらせながら、米軍基地を存続させたままの施政権返還によって、日米軍事同盟を侵略的に強化するものとなった。
 侵略的、屈辱的なこの沖縄協定の発効とともに、サンフランシスコ体制は再編され、沖縄も本土とともに半占領下に移された。極東最大の沖縄基地が在日米軍にくみこまれた結果、日米軍事同盟の危険性はいっそう大きくなり、安保条約の事実上の改悪がおこなわれた。日本の安全のためにも、アジアの平和のためにも、日米安保条約廃棄と平和・中立化は、いよいよ切迫した課題となった。
 日米沖縄協定によって、日米軍事同盟は、1960年の安保改定につぐあたらしい段階にはいった。党は5月15日、沖縄協定の発効にさいして幹部会声明を発表し、この協定の本質についてつぎのようにのべた。
 「第一に、極東最大の戦争基地であり、西太平洋のどの地点にでもいつでも緊急出撃できる即応兵力を、核兵器とともに配備した沖縄米軍基地が、安保条約下にあらたに在日米軍としてくみこまれ、本土の米軍基地と一体化した結果、日米軍事同盟の侵略的性格がいっそうつよめられ、日本全土が文字どおり、アメリカ帝国主義の第一線の侵略拠点に変えられた。
 第二に、条約上も、沖縄『施政権』返還とひきかえにとりきめられた1969年の佐藤・ニクソン共同声明の『韓国』・台湾条項とベトナム条項は、極東各地域での侵略戦争にさいして『事前協議』を事実上空文化したものであり、日米安保条約の重大な変質をもたらした。…」(p.293)

(2)日本共産党の綱領及び行動綱領におけるサンフランシスコ体制にかかわる言及

 以下の文章は、「日本共産党資料館」というウェブ・サイト(その冒頭には、「このホームページは、主観的な評価を加えずに日本共産党の主要な資料(主として61年綱領確定以後)を紹介していくサイトです。共産党に対して敵対したり、また、その反対に迎合したりするものではありません。今のところアップしている資料は不十分ですが、今後、徐々に充実させていく予定です。」という紹介があります。)に掲載されているものからコピー・アンド・ペーストさせていただいたことをお断りしておきます。

〇綱領(1958年)問題についての中央委員会の報告(1957年7月26日 中央委員会常任幹部会員 宮本顕治)

51年綱領は、アメリカ帝国主義の日本にたいする占領支配への闘争とそれからの解放を革命の課題として強調した。
 またアメリカのたくらんだ単独講和の道が、ソ連邦、中国との戦争準備の道であること、「アメリカ帝国主義は、アジアにおけるかれらの支配を日本人の手と血で獲得するために、日本を新らしい侵略戦争にひき入れようとしている」ことを指摘して平和愛好諸国との平和と協力の道を呼びかけた。
 こうして、アメリカ帝国主義との闘争を強調したことは、第6回大会後、党内外で提起されつつあったアメリカ帝国主義との闘争課題に一つの重要な定式化を与えたものであった。…
 サンフランシスコ条約とこれにひきつづいて結ばれた日米安全保障条約、行政協定および、MSA協定など一連の諸条約と協定は日本をアメリカ帝国主義に従属させる法制上の保証となっている。
 これらの諸条約と協定をその法制化としてつくりあげられているサンフランシスコ体制は、従属的な関係で結ばれた米日独占資本の政治的軍事的同盟のあらわれであり、同時に、アメリカ帝国主義の日本にたいする民族的抑圧の体制である。すなわち、それはアメリカ帝国主義と日本の売国的な支配層が日本人民に押しつけた戦争と隷属、支配と収奪の体制である。…
 サンフランシスコ体制が、ソ連邦、中国はじめアジア諸民族に敵対してつくられた体制であり、日本軍国主義の復活を促進するものであるということは、日本政府の内外政策を大きく支配しており、日本政府を平和共存と国際緊張緩和に反対して行動させる根源となっている。…
 サンフランシスコ体制は、アメリカ帝国主義の占領体制の単なる継続ではない。事実上、半占領をつづけながら形式上日本を主権国とする方法をえらんだのは、アメリカ帝国主義が日本独占資本を中心とする反動勢力の従属だけでなく、積極的協力を確実にするためであった。売国的諸条件とこれにもとづくアメリカの半占領は超憲的なものであり、民族主権にたいする明白な侵害である。しかし、他方、日本政府の外交、内政は憲法にもとづいておこなわるべきものとされた。これは全一的な占領支配からサンフランシスコ体制への移行の生んだ新しい矛盾である。したがって、日本人民は憲法で保障された権利を主張し、それをサンフランシスコ体制そのものを打破する闘争を公然とおこなう法的根拠としている。
 これにたいしてアメリカ帝国主義と日本の独占資本は、日米間の条約をいっさいの国内法に優先させ、憲法に違反している自衛隊―軍隊とその海外出兵を合法化し、人民のいっさいの民主的運動を根本的におさえつけることによって、すなわち憲法を改悪し、新しい形態の専制的な支配をうちたてる方向でサンフランシスコ体制の矛盾を解決しようとしている。これはサンフランシスコ体制の反動的な完成の方向である。…
 サンフランシスコ体制は、日本を形のうえで主権国にするという新しい矛盾によって、内外の平和勢力の全面講和への要求をいっそう強く呼びおこす結果となった。ソビエト連邦との国交回復、その結果としての国連加盟、ポーランド、チェコスロバキアとの国交回復は、内外の情勢と、平和共存を求める世界および日本人民の正当な要求のために、また副次的には米日独占資本の内部矛盾のために、サンフランシスコ体制の基礎が大きくゆれていることを示すものである。日本政府がアメリカの方針にしたがい、中華人民共和国との国交回復を拒否しているのにたいして、日本人民は世界の平和勢力とともに、サンフランシスコ体制の基礎をゆるがす新しい闘争をねばりづよくおこなっている。こうして、サンフランシスコ体制によって、日本をソピエ連邦や中華人民共和国をはじめ社会主義諸国と長く敵対関係におこうとした目的は破綻しつつある。したがって、中華人民共和国をはじめとするすべての国々との国交回復の闘争は、今日非常に大きな意義をもっている。…
 サンフランシスコ体制打破の闘争が国際的規模での全般的軍縮および全般的集団保障体制樹立の闘争と結びつくことはこの闘争の勝利をいっそう有利にしている。…
 日本共産党は、日本人民解放闘争のために当面つぎの要求をかかげる。
一、平和と独立のために
 2 サンフランシスコ体制の打破、サンフランシスコ平和条約の基本的改訂と、安保条約・行政協定・MSA協定の破棄、沖縄、小笠原の返還、全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃。
 5 日台条約の破棄、中華人民共和国との国交回復と中国の国連における正当な地位の回復、朝鮮民主主義人民共和国およびベトナム民主共和国との国交回復。朝鮮およびベトナムにおける休戦協定の実施と平和的民主的統一の支持。

〇日本共産党行動綱領〔第7回党大会1958年8月1日〕

 党は、アメリカ帝国主義と、日本の独占資本を中心とする反動勢力の戦争と反民族的・反人民的抑圧の体制であるサンフランシスコ体制の打破、すなわち、いっさいの売国的条約・協定の破棄、沖縄・小笠原の日本への返還、全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃など民族の完全独立のためにてってい的にたたかう。…

〇日本共産党綱領(第8回党大会、1961年7月27日決定)

 中国革命の偉大な勝利、世界と日本の平和と民主主義と社会主義の勢力の前進に直面して、アメリカ帝国主義は朝鮮にたいする侵略戦争をおこないながら、日本をかれらの世界支配の重要拠点としてかためるみちをすすんだ。そしてアメリカ帝国主義は、かれらの目的を達するために、あたらしい手段をとった。1951年、アメリカ帝国主義と日本の売国的独占資本の共謀によって、ソ連邦や中華人民共和国などをのぞきサンフランシスコ「平和」条約がむすばれ、同時に日米「安全保障」条約が締結された。それは、一方では、ポツダム宣言の拘束をまったくすてさり、日本をソビエト連邦と中華人民共和国などに敵対させ、日本の支配勢力をより積極的にアメリカ帝国主義に同調させ、日本の軍国主義を復活し、アジア人をアジア人とたたかわせることを目的としたものであった。また他方では、ポツダム宣言にもとづく全面講和にたいする内外民主勢力の要求をそらし、日本人民の民族独立のたたかいをおさえるためのものであった。…  わが党の当面する行動綱領の基本はつぎのとおりである。
 党は、安保条約をはじめいっさいの売国的条約・協定の破棄、沖縄・小笠原の日本への返還、全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃のためにたたかう。党は、アメリカ帝国主義との侵略的軍事同盟から離脱し、いかなる軍事同盟にも参加せず、すべての国と友好関係をむすぶ日本の平和・中立化の政策を要求してたたかう。党は、サンフランシスコ「平和」条約の売国的条項の破棄をはじめ、サンフランシスコ体制を根本的に打破し、日本の真の独立のためにたたかう。…

〇日本共産党綱領(第12回党大会、1973年11月20日一部改定)

 1951年、アメリカ帝国主義と日本の売国的独占資本の共謀によって、ソ連邦や中華人民共和国などをのぞきサンフランシスコ「平和」条約がむすばれ、同時に日米「安全保障」条約が締結された。それは、一方では、ポツダム宣言の拘束をまったくすてさり、日本をソビエト連邦と中華人民共和国などに敵対させ、日本の支配勢力をより積極的にアメリカ帝国主義に同調させ、日本の軍国主義を復活し、アジア人をアジア人とたたかわせることを目的としたものであった。また他方では、ポツダム宣言にもとづく全面講和にたいする内外民主勢力の要求をそらし、日本人民の民族独立のたたかいをおさえるためのものであった。…
 アメリカ帝国主義と日本独占資本の合作によるサンフランシスコ体制――すなわちサンフランシスコ「平和」条約、日米「安全保障」条約などの一連の諸条約に法制化されている反ソ、反中国、反共の「講和体制」であり、同時に、アメリカにたいする日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧と収奪維持の体制――のもとで、労働者、農民をはじめとして勤労市民、知識人、中小企業家などブルジョアジーの一定部分をふくむ広範な人民諸階層の平和と独立のねがいはふみにじられ、生活と権利は圧迫されている。…
 わが党の当面する行動綱領の基本はつぎのとおりである。
 党は、安保条約をはじめいっさいの売国的条約・協定の破棄、沖縄・小笠原の日本への返還、全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃のためにたたかう。党は、アメリカ帝国主義との侵略的軍事同盟から離脱し、いかなる軍事同盟にも参加せず、すべての国と友好関係をむすぶ日本の平和・中立化の政策を要求してたたかう。党は、サンフランシスコ「平和」条約の売国的条項の破棄をはじめ、サンフランシスコ体制を根本的に打破し、日本の真の独立のためにたたかう。

〇日本共産党綱領(第13回臨時党大会、1976年7月30日一部改定)

 アメリカ帝国主義と日本独占資本の合作によるサンフランシスコ体制――すなわちサンフランシスコ「平和」条約、日米「安全保障」条約などの一連の諸条約に法制化されている反ソ、反中国、反共の「講和体制」であり、同時に、アメリカにたいする日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧と収奪維持の体制―― のもとで、労働者、農民をはじめとして勤労市民、知識人、中小企業家などブルジョアジーの一定部分をふくむ広範な人民諸階層の平和と独立のねがいはふみに じられ、生活と権利は圧迫されている。…
 わが党の当面する行動綱領の基本はつぎのとおりである。
 党は、安保条約をはじめいっさいの売国的条約・協定の破棄、沖縄・小笠原の日本への返還、全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃のためにたたかう。党は、アメリカ帝国主義との侵略的軍事同盟から離脱し、いかなる軍事同盟にも参加せず、すべての国と友好関係をむすぶ日本の平和・中立化の政策を要求してたたかう。党は、サンフランシスコ「平和」条約の売国的条項の破棄をはじめ、サンフランシスコ体制を根本的に打破し、日本の真の独立のためにたたかう。…

〇日本共産党綱領(第17回党大会、1985年11月24日一部改定)

  沖縄、小笠原は、ひきつづきアメリカの直接の軍事占領下において属領化された。その後「施政権」は返還されたが、沖縄はいぜんとしてアメリカ帝国主義のアジアにおける核部隊をふくむ最大の軍事基地とされ、小笠原の硫黄島も重要な軍事基地にされている。わが国には数多くのアメリカ軍事基地があり、核兵器がもちこまれ、アメリカ帝国主義はわが領空、領海をほしいままにふみにじっている。戦後40年間、アメリカ帝国主義者の不法、野蛮な行為によって多くの同胞が殺傷され、はずかしめをうけている。広島、長崎への世界さいしょの原爆投下、ビキニの水爆被災など、日本人民は三たびアメリカ帝国主義の核兵器の犠牲とされたうえ、さらにアメリカ帝国主義のたくらむ新しい核戦争の危険にさらされている。…
 わが党の当面する行動綱領の基本はつぎのとおりである。
 党は、安保条約をはじめいっさいの売国的条約・協定の破棄、[……]全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃のためにたたかう。党は、アメリカ帝国主義との侵略的軍事同盟から離脱し、いかなる軍事同盟にも参加せず、すべての国と友好関係をむすぶ日本の平和・中立化の政策を要求してたたかう。党は、サンフランシスコ「平和」条約の売国的条項の破棄をはじめ、サンフランシスコ体制を根本的に打破し、日本の真の独立のためにたたかう。党は歯舞、色丹および全千島の返還のため平和的、外交的に努力する。…

〇日本共産党綱領 1994年7月23日 一部改定

<サンフランシスコ体制の成立>
 中国革命の勝利など、世界とアジアの情勢の変化に直面して、アメリカ帝国主義は、その目的を達するために、新しい手段をとった。1951年、ソ連と中華人民共和国をのぞいてサンフランシスコ平和条約がむすばれ、同時に日米安全保障条約が締結された。これらの条約は、形式的には日本の独立を認めることで日本 国民の民族独立のたたかいをおさえながら、一方では、ポツダム宣言の拘束をまったくすてさり、実際には、日本をアメリカの世界支配の重要拠点としてかた め、日本の支配勢力をアメリカ帝国主義により積極的に同調させ、日本の軍国主義を復活・強化することを目的としたものであった。
 この二つの条約に法制化されたサンフランシスコ体制は、アメリカにたいする日本の従属的な同盟の体制であると同時に、アメリカ帝国主義と日本独占資本の合作による、戦争準備と人民収奪の体制、日本民族抑圧の体制だった。アメリカ帝国主義の全面的な占領支配は、半占領状態にかわり、日本政府の統治権は以前 よりも拡大され、日本はかたちのうえではいちおう主権国家とされたが、民族主権は深く侵害されつづけ、真の独立は回復されなかった。
 また、サンフランシスコ平和条約が千島列島の放棄を規定したことは、第二次世界大戦中、連合国のあいだで公約された領土不拡大の原則に反する不公正な措置であった。
 日米安保条約は1960年に改定されたが、これは、日米共同作戦の条項や日米経済協力の条項をもりこむなど、日本をアメリカの戦争にまきこむ対米従属的な軍事同盟という内容をより本格的にしたもので、日本の主権と独立の侵害という実態はかえってつよめられた。…
<当面実現めざす目標>
 わが党の当面する行動綱領の基本はつぎのとおりである。
 党は、日米安保条約をはじめ、民族の主権をそこなういっさいの条約・協定の廃棄、全アメリカ軍の撤退と軍事基地の一掃のためにたたかう。党は、アメリカとの軍事同盟から離脱し、いかなる軍事同盟にも参加せず、すべての国と友好関係をむすぶ日本の平和・中立化の政策を要求してたたかう。党は、サンフランシスコ平和条約の主権を侵害する諸条項の廃棄をはじめ、日本の真の独立のためにたたかう。党は、歯舞、色丹および全千島の返還のため、平和的、外交的に努力する。

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