日本政治と日米・日中関係

2010.09.18

*正直言って私は、民主党政権に対しては一切の幻想を持っていません。そもそも民主党という政党についても、確かに草の根レベルでは良心的な人々が頑張っていることを承知していますが、中央レベル特に最高指導レベルにいけばいくほど、自民党と五十歩百歩の旧態然たる政党で、日本の将来を託すに足りないと前々から考えてきました。したがって、このコラムでも個々の問題に関しては別として、民主党あるいは民主党政権そのものについて取り上げる気持ちも起こらなかった、というのが事実です。しかし、少なくとも、何かの機会には私の基本的考えについては述べておく必要(義務)があるという気持ちも確かにありました。 たまたま、民主党・菅直人新政権のもとでの日米関係と日中関係についてある新聞社から取材を受けて述べることがありましたので、その要点をかいつまんで記しておこうと思います(9月18日記)。

<日本政治の根本問題>

 1年間の民主党政権の外交「実績」(負の実績!?)を踏まえて確認されることは、民主党政権には今日の国際情勢をどのように認識するのかという基本的視点もなく、したがってまた、21世紀の国際関係に日本をしてどうかかわらせていくか(日本をどう舵取りするのか)というもっとも基本的な点についても自民党と大同小異の旧思考のままであること、要するにしっかりした歴史的視野を踏まえた国際観及びそれに基づく戦略的思考がまったく欠如しているということです。しっかりした国際観及び戦略なくして対米政策及び対中政策のありようはない(無から有は生じ得ない)わけです。さらにいえば、対米・対中関係に限らず、また、外交という面に限定することではなく、内政外交を含めて、民主党政権に関しては、私は残念ながら何らの期待も寄せることができないし、今後もよほどのことが起こらない限り、多くは望めないと考えるほかありません。少なくとも、民主党自身の自浄力に期待する余地はないと思います。
 これは、必ずしも民主党政権に限っての問題ではなく、優れて日本政治全体について当てはまる根の深い問題だと思います。その原因はさまざまなことが考えられますが、一つだけあげるとすれば、保守政党間の政権交代を目的として持ちこまれた「二大政党政治」(及びそのための制度的保証としての小選挙区制による政治家の「小粒化」)をあげないわけにはいかないと思います。二大政党政治や小選挙区制についてはさまざまな論点がありますが、日本における実際によって明らかなことは、民主(デモクラシー)がしっかり根を下ろしていない政治土壌においては、二大政党政治及び小選挙区制は政治のさらなる劣化をもたらすだけである、という恐るべき事実です。 日本外交いや日本政治を生命力あらしめるためには、根本に立ち返って、日本の民主(デモクラシー)が真に生き生きと機能することから取り組むことが不可欠です。そのためには、一にも二にも、主権者である私たちの猛烈な政治的覚醒が現実のものとなることが大前提になります。しかし、民主(デモクラシー)の悩ましい真実は、主権者の政治的覚醒は外からの働きかけ(もちろんそういう問題意識を持つ者は倦まずたゆまず働きかけをする責任があることは言うまでもありませんが。)によってではなく、主権者自身の自覚を待つ以外にないということです。
「非政治的市民の政治的行動」(丸山眞男)のみが民主(デモクラシー)の生命力の源泉であることを肝に銘じる主権者としての国民(すなわち市民)が多数派を占めるときにのみ、日本政治は根本的に面目を改めるのでしょう。確かに状況は厳しいといわざるを得ません。しかし、今日のような状況が未来永劫に続くはずもありません。とにかく、今の政治は改めなければ日本の将来はないと問題意識を持つものはすべからく、諦めることなく、国民的な政治的覚醒が起こるよう倦まずたゆまず働きかけを続けるふてぶてしさを持つことが肝要だと、私自身は思い極めています。

<対米・対中関係のあり方>

 質問の対米・対中関係のあり方に即していえば、改定日米安保条約が締結された1960年当時と現在の2010年とにおける国際環境の巨大な変化を考えることなくして、いかなる議論もまったく無意味です。そして、永田町(国会・官邸)・霞ヶ関(官僚機構)・丸の内(財界)に限らず、日本の大手メディアも含め、こういう基本的視野を踏まえた議論がほとんど(まったく、といっても過言ではないでしょう。)ないのが現実です。
巨大な変化の一つが中国です。1960年当時の中国と2010年の中国とでは、およそ同日に論じる何らの共通点もないぐらいです。この一つだけをとっても、「共産・中国」の封じ込めを大きな眼目とした日米(安保)関係の根本的見直しは不可欠と言わなければならないはずです。ところが、「価値観を共有する」日米は「価値観を同じくしない」中国に対しては毅然と対応する必要がある、という強調点のすり替えによって、50年を経た日米関係をそのまま踏襲しようとする政治的硬直がアメリカと日本を相変わらず覆ったままです。この主張には、最低限二つの本質的問題があります。
一つは、アメリカと日本が「価値観を共有する」という主張にはまったく根拠がないということです。すでに述べたように、日本における人権・民主(デモクラシー)は相変わらず日本の政治土壌に根づくに至っていません。また、人権・民主(デモクラシー)は確かに普遍的価値ですが、アメリカが独占的解釈権を持っているわけではありません。普遍的価値である人権・民主(デモクラシー)は多様な現れ方をする、ということが認められなければならないのです。私がこのコラムで「中国的民主」に注目することを書いたのは、そういう認識からでした。ましてや、人権・民主(デモクラシー)について真に我がものにするにも至っていない日本が、アメリカと一緒になって中国を難詰するなどということは、全く「身の程を知らぬにも程がある」という批判は免れないでしょう。
今ひとつは、1960年当時から2010年の現在に至るまで、アメリカそして日本が国際関係を力(軍事力)という要素を通じてのみ捉えるという立場(「力による平和観」)に相変わらず性懲りもなく固執しているということです。しかし、国際的相互依存の進行、環境問題をはじめとする地球規模の諸問題の深刻化、そして中国とのかかわりでいえば、対中戦争は核戦争に直結すること等を考えれば明らかなとおり、もはやその立場が通用する余地はあり得ません。「力による平和観」に代わる「力によらない平和観」に立脚してのみ、21世紀における中国との関係を建設的に構想することができるのです。
力によらない平和観を体現するのは、いうまでもなく日本国憲法です。力による平和観を体現した日米軍事同盟に固執するのではなく、力によらない平和観を体現した日本国憲法に立脚した外交を展開してのみ、日本は対米・対中関係に対して真に建設的な役割を担い、発揮することができるでしょう。
具体的には、対米関係に関しては、力(軍事力)に固執するアメリカを下支えしている日米安保条約を終了させる(条約に基づいて1年の予告で終了させる)ことによって日米関係のあり方の根本的転換をアメリカに迫ることです。そういう転換によって普天間基地移転問題をはじめとする在日米軍基地問題も当然に解決・解消します。日米安保関係の終了は、米中日間に横たわるいわゆる台湾問題を根本的に解消します。なぜならば、日本の基地提供なくして、アメリカが台湾問題に関して軍事干渉する力は持ち得ないからです。
そのことは、対中関係そのものにまったく新しい地平を切り開くことにつながります。なぜならば、日本がアメリカと一緒になって「台湾の領土的帰属は未決」という虚構にしがみついていることが日中関係の平和と安定を妨げる大きな要因となっているのですから。また、日中関係の今ひとつの障害を構成してきたのはいわゆる歴史認識の問題ですが、日本国憲法(加害戦争の反省にたっている。)に立脚する日本となることそのものが中国側にある根深い対日不信感を解消することにつながります。台湾問題及び歴史認識の両問題が解決・解消するとき、日中関係は21世紀にふさわしい形・内容で発展することを展望できることになります。

<まとめ>

そういうことを可能にするためにも、まずは日本政治を大本から変えなければなりません。日本の政治を主権者である国民がしっかり我がものとすること、それなくしては何ごとも始まらないのです。私たちにとって幸いなことは、私たちは「ゼロからの出発」を強いられているわけではない、ということです。即ち、日本国憲法という確かなよすががあって、私たちに必要なことは、戦後保守政治によって長い間座敷牢に入れられてほこりまみれだった日本国憲法を座敷牢から引き出し、ほこりを払ってあるべき地位に据え直す、ということだけです。それによって、日本における人権・民主(デモクラシー)も日本の土壌に定着する確固とした条件が据えられることにもなるでしょう。
「普天間でぎくしゃくした日米関係をどうする?」、「尖閣で緊張した日中関係をどう打開する?」などと目先の事象ばかりに振り回された視点からは、問題の解決が導かれるはずはあり得ません。日本政治を「政局」という超短期的視点でしか捉えることができないジャーナリズムに多くを期待する方が無理というものですが、日米関係、日中関係は正に超短期的視点から脱却してのみ、正確な報道姿勢を生み出すことができるということを指摘したいと思います。

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