「原水禁第9回世界大会を回顧する」(北西允・広島大学名誉教授)

2010.09

*分裂大会に終わった1963年の原水爆禁止世界大会(第9回)の開催と運営に深く関わった体験をお持ちの北西允広島大学名誉教授にお話を伺った。「なるべく過去の資料にも当たったが、記憶が薄れていることもあり、独断と偏見に基づく話しとして聞いてほしい」という前置きで話された主要な内容を紹介する。

1.前史

私は1926年1月3日に、リベラリストではあったが権威主義なところもある父親の次男として生まれた。勉強嫌いであった私に対する父親の態度は厳しく、「人間のくず」とののしられたことも一再ではなかった。そのせいもあってか幼い頃から反抗心が旺盛で、理不尽で規律だらけの軍隊生活を逃れるために、入営延期の特典が最も長かった予科のある医科大学(当時、慈恵医大、日本医大、京都府立医大の3校しかなかった。) の中の京都府立医大に入学した (1943年) 。しかし元々医学に関心があったわけではないので、日本の敗戦後の1948年に親元に帰り九州大学法学部に入学し直した。
九大では今中次麿(後に広島大学政経学部の設立に尽力し、設立とともに広大に移った。) ゼミに所属するとともに学生運動に積極的に参加し、1949年には日本共産党に入党した。入党の動機は、姑息な手段で兵役を逃れた自分に後ろめたい気持ちがあったこと(ただし、日本の対米開戦に直面したときまだ16歳だったが、直ちに「日本は負ける」と友人に断言し、軍国日本に安易に流されなかった自分に誇りももっていた。)、そういう中で戦時中に投獄されても反戦を貫いた徳田球一や志賀義雄等を擁する共産党に尊敬の念を抱いたこと(今の人たちには理解できないかもしれないが、共産党に対してこのような気持ちを抱いたのは自分だけに特殊なことではなく、当時の学生の間では広く共有されていた。戦争に賛成して翼賛政治に参加した過去を持つ社会党は学生の間では信用がなかった。)、これからは、個人的にではなく共産党を中軸とする集団の力で戦争を防がなければならないと考えたことなどである。1950年のストックホルム・アピールの署名運動には積極的に取り組んだ。
1951年に大学を卒業し、レッドパージ後の労働運動再興に微力を尽くそうと宇部興産に入社したが、運動仲間とうまく折り合えず、翌52年、今中教授の勧めもあって旧制九大大学院特別研究生となり、今中教授の最後の弟子として学問の世界に入ることになった。その時期も九大労働組合の書記長や日教組大学部の中執を務めた。マルクス主義に関しては、大学生時代に平易なスターリン、毛沢東の著作から入った(マルクス、とりわけ初期マルクスの著作は学生時代の自分には難解すぎた。)。今中教授が広大に移った後、助手のポストを用意したから来ないかと誘われ、1954年11月に広大助手となったのがこの大学とのかかわりの始めだ。広島には「平和と学問を守る大学人会」(1953年設立)があり、今中教授が理事長、佐久間澄広大教授が事務局長となって広島の大学人を束ね、私も赴任直後に参加して事務を手伝った。翌1955年8月、第1回原水爆禁止世界大会で事務局の一員となり、その後創設された日本原水協と深く関わるようになった。原水禁第9回世界大会までの広島の原水禁・平和運動においては、「大学人会」の構成員が重要な役割を担っていた。

2.原水禁第9回世界大会と広島

1963年の原水禁第9回世界大会は、1961年当時から深刻化していた社会党・総評と共産党との厳しい対立が抜き差しならぬ状態にまで陥り、その開催が危ぶまれるにいたっていたが、最終的に、原水爆禁止広島県協議会(以下「県原水協」)への白紙委任が大会前日の8月4日に決定され、県原水協も同日これを受諾してなんとか開催にこぎ着けたという経緯がある。しかし、県原水協の権威ゆえに大会開催が白紙委任されたということではない。
たしかに県原水協は単に「一地方原水協」ではなく、その発言が全国的に傾聴される雰囲気は当時あった。そもそも1955年の最初の世界大会は、1954年に全国で澎湃として起こった原水爆禁止署名運動の一つの区切りとして、広島で世界大会を行おうという広島側の提案もあって実現した。また、最初に杉並で署名活動が提起された段階では、その中心的な思想はヒューマニズムであり、被爆者のことについては触れられてもいなかった。しかるに大会では、原水爆禁止と並んで被爆者援護を運動の「車の両輪」とすることを決定するまでになったわけで、このことも広島側の強いイニシアティヴを抜きにしてはあり得ないことだった。しかし、1956年以後の世界大会の開催において、県原水協が大きな役割を担ったことはなかったし、原水禁運動全体に対する県原水協の影響力も限定されたものだった。
したがって、1963年の世界大会開催が県原水協に白紙委任されたのは、県原水協の重みというよりは、当時の県原水協の圧倒的多数が社会党系やその同調者によって占められており、日本原水協の多数派だった社会党・総評としては、広島県に運営を降ろせば(「広島に落とす」という言葉が使われていた。)大会に対して自分たちの影響力がより強く行使できるという判断から、多数決で押しきった結果だった(浅井注:中国新聞社『年表ヒロシマ 核時代50年の記録』によれば、賛成49、反対7、保留11、棄権3)。もっとも当時の日本原水協の事務局には、吉田嘉清(主任)をはじめ有能な共産党系がかなりいるという複雑な状況があったことは確かであり、世界大会が最後までもめ続け、分裂したのは、そういう複雑な事情を抜きにしては理解できない。
当時の県原水協についていえば、森瀧市郎(広大教授)、佐久間、浜本万三(社会党員、県労会議議長)など6名が代表委員、事務局長が伊藤満(広大教授、社会党の顧問的存在)で、執行部は総じて社会党・総評に同調する人が圧倒的で、共産党系と見なされていたのは、佐久間(共産党のシンパではあったが共産党員ではない。) 、私 (県原水協事務局次長) などごく少数だった。県原水協が世界大会の運営を引き受けるかどうかについても、当然のことながら意見が割れた。私は、原水禁運動は国民運動であって政治運動ではなく、またそういうものとしてコンセンサス方式で運営されてきたし、そういう原則を大切にするべきだという立場だった(共産党からは白紙委任に反対せよという指令が来ていた。) が、日本原水協自体が多数決で白紙委任を決定した状況の下で、県原水協も多数決で受け入れを決めることになった。ちなみに、私はその際唯一人採決に加わらなかったが、佐久間は賛成した(浅井注:同じく『年表ヒロシマ 核時代50年の記録』によれば、賛成13、反対2、保留2とされている。)。広島県原水協が、大会の運営に当たると決めた後、全国各地の地方原水協から「白紙委任を撤回せよ」との要請文が多数寄せられた。それらの文面には、「一県原水協が、世界大会を運営するのは不遜だ」との文言が、異口同音に盛り込まれていた。
県原水協が大会を運営する責任を負う中で、最大の実質的な問題は大会の基調報告の作成だった。県原水協は、すでに7月31日の段階で、大会運営の実質的責任を負わなければならない事態を想定し、県原水協大会準備委員会で基調報告づくりについて討議し、森瀧、佐久間及び伊藤の3人を起草者に選んでいた。ただし、伊藤は事実上作成には加わらず、被爆者で代表委員でもある森瀧及び佐久間が協議しつつ作成に当たった。
私は、作成中の文章を見せてくれと佐久間に求めたことがあるが、自分たちに作成が委ねられたのだから見せられないと拒否されたことを覚えている。佐久間には官僚的でキチッとしたところがあったが、そういうきまじめさが現れた場面だった。二人は、報告の中身について、県原水協常任理事会と大会準備委員会事務局の合同会議に対して口頭で中間報告をし(8月1日)、8月5日の大会開会直前に案文をこれまた口頭でこの合同会議で発表したが議論の時間的ゆとりはなかった。中間報告の際には、報告の内容に関して実質的な議論が行われたが、文書の内容に反映されるにはいたらず、報告は森瀧及び佐久間の合作というべきものとなった。また報告の性格・位置づけについては、日本原水協の基調報告とすべきだという意見と森瀧代表委員の個人演説にすべきだという意見を両極にした議論がたたかわされたが、結局、「広島県原水協の提案による基調報告」という曖昧な形で決着した。
この報告内容に関して前記合同会議でもっとも注目、議論を呼んだのは、当然のことだが、社共間での最大の争点だった①大会直前(7月25日)に米英ソ3国間でまとまった部分的核実験停止条約(以下「部分核停条約」)をどう評価するか(社会党・総評及び広島市は、核兵器廃絶に向けての前進として積極的に評価したが、共産党は米英ソによる核独占体制を固定化し、核兵器廃絶に障害を設けるものとして反対した。) 、②1961年以来の争点である「いかなる国」問題をどのように扱うか (社会党は、江田三郎派が主導的に唱えた積極的中立主義の立場から、いかなる国の核実験にも反対することを原則として打ち出すことを要求、共産党は社会主義国の核実験は防衛的なものであり、アメリカと同列視するべきではないとして、大会で取り上げること自体に反対) 、の2点であった。森瀧は高潔な人格者だったが、報告の実質的・理論的な部分については、理論家でもあった佐久間が主導的な役割を果たしたのではないか、と思う。ただし報告の内容自体に即していえば、部分核停条約については肯定的に評価し、いかなる国の核実験にも反対する立場で書かれている点で、結果的に社会党寄りのものになっていたことは否めない。
部分核停条約の評価に関しては、私は共産党の見解が正しかったと今でも考えている。これに対して「いかなる国」問題に関しては、私は、かつて「(県)原水協には、原水協の中央や社・共両党とはちがった次元から、『いかなる国』問題にアプローチするという共通の認識があった。しかし、このちがった次元が、具体的になにを意味するかは、ほとんど煮つめられなかった。」と書いたことがある(『広島法学』1978年12月)。森瀧報告では、「人々は、特に広島・長崎・ビキニの原爆体験をもつ日本国民は、“原爆はもうごめんだ”という怒りと憂いとから、どこの国のどんな核実験にも核武装にも絶対に反対だと叫ばないでは居られなかったのであります」と表現している。
この文章表現はおそらく佐久間の知恵だったのだろう。「いかなる国」とはいわずに「どこの国」とした点、及び「叫ばないでは居られなかった」と過去形の表現にしている点に、社共いずれの立場にも組みしない広島独自の立場をにじみ出させようとする苦心の跡を読みとることができると思う。報告を聞いたときは、「いかなる国」問題を原則問題化し、排除の論理に使った社会党・総評の立場と比べればよりマシだし、表現としてもよく考えたな、という印象で受け止めた。しかし、「叫ばないでは居られなかった」というのは、そういう事実があったと言っているに過ぎず、社共とはちがった広島独自の「次元」ということの思想的な中身については何も語っていないという批判は確かに免れないだろう。
今の時点で考えても、県原水協独自の「次元」ということの中身について、私自身の答えがあるわけではない。ましてや当時の私には、被爆者でもない自分が原水爆禁止運動で指導者的な役割を担ってはいけない、指導者にはなるまいという自戒心が働いていた。そして、基調報告という重要な文書については、被爆体験がない人間が書いてはいけない、被爆体験をもつ人こそが書くべきだという意識もあった。もっと言えば、私はすでに述べたように戦争中は兵役逃れをするというずるがしこい過ごし方をしており、いわば楽をしていたわけだ。また、1954年に広島に移り住んでから多くの被爆者に接することによって、被爆者に対する畏れの気持ちが生まれていた。まとめていうならば、懺悔の気持ちがあった。確かに、このような考え方・気持ちにとどまっている限り、被爆者がいなくなるときは必ず来るわけで、その時に誰がどういう思想を表すのかという当然の質問に対する答えが出ようがないのだが。
ちなみに、森瀧は爆心からかなり離れた江波で被爆し、ガラス片で片眼を失明したが、佐久間は、直爆死しても不思議ではない距離の、東千田町の広島文理大学(広大の前身)のキャンパス南側の壁に面した通りを歩いていた時に被爆したと聞いている。ところが、彼が通っていたところの壁の部分だけが倒れずに残る(ほかの部分は倒壊したそうだ。) という偶然に守られ、強烈な熱線、爆風、放射線を直接浴びることなく、かすり傷も負わなくて済んだということで、本人自身が「悪運が強い」と述懐していたことを記憶している。

3.第9回世界大会その後

第9回世界大会で原水禁運動は分裂したわけだが、質問に応えて四つほど後日談を話しておきたい。
大会では社共の動員合戦が行われ、社会党・総評側が少数になることを見越して分裂に走った。薄暮の慰霊碑前で開会総会が行われている最中、席を発つものが続出した。社会党・総評の現地指導部が県原水協に通告することなく大会不参加を決定し、口伝えに翼下の大会参加者に知らせたからである。この挙に一時伊藤は激昂し、三宅登常任委員(共産党員・県労会議副議長)に対し「意見は対立しているが、これからも一緒にやっていこう」と述懐したという。しかし、開会総会後の県原水協常任委員会で、伊藤は「こういう事態になった以上、大会運営を日本原水協に返上するべきだ」と提案し了承された。その後は、社会党・総評系役員抜きの日本原水協が運営を引き継ぐことになるが、,熊倉啓安(共産系・日本平和委員会事務局長)が「一番苦労した広島県原水協が大会決議案を起草するのが至当」と提案し、結局、私が「当面の統一行動強化に関する決議案」を書くことになった。その際、私は「まだ統一は保たれていることを前提に作ってみよう」と述べ素案を書きつづった。(その素案は私の手元にはない。内藤知周(元共産党中国地方委員)は、それを読んで「地獄への道は善意で敷き詰められている」と批評した。)だが、私の素案は大幅に書き換えられて7日の閉会総会に提案され承認された。
大会終了直後に、閉会総会を欠席した森瀧及び伊藤は、独自の判断で記者会見を行い、①終始統一を希(こいねが)ってきたが、事実上、一党派が主導権を握る大会になってしまった、②基調報告の精神が婉曲にではあるがまったく骨抜きにされてしまった、③県原水協の責任者として、組織の解体を避けるため、「いかなる国の核実験にも反対し、部分核停条約を高く評価する」という基調報告の線に沿って運動を立て直す決意をした、という趣旨の声明を発表した。そして8月10日、県原水協常任理事会は、7日の森瀧・伊藤声明の追認を多数決で決めた。これに反対した私たちは、翌1964年6月7日、「原水禁運動の伝統を守り発展させる」ということで広島県原水協再建大会を行い、会長に鈴木直吉(広大名誉教授)、理事長に佐久間、事務局長に三宅、そして事務局次長に私を選んだ。こうして広島県には県原水協という同じ名前を名乗る二つの組織が存在するという事態になった。
もう一つは、「平和と学問を守る大学人会」のその後だ。元々会の構成員は、社会党員・シンパと共産党員・シンパを多数含んでいたこともあり、社共対立の直撃を受けて、会は大会終了後に活動停止の状態に追い込まれた。一度だけ再建の動きがあって私もそれなりに努力したのだが、結局立ち消えとなってしまった。こうして、広島の大学人は地元における原水禁運動を始めとする平和運動に対して、かつての影響力、発言力を失ったまま今日にいたっているのは極めて残念だし、遺憾なことだ。 私自身に関していえば、1964年の県原水協再建にはかかわったものの、原水禁国民会議を分裂主義者で存在理由がないと罵った共産党の方針に強い違和感を覚えるようになって、組織の活動に対して積極的にかかわらなくなった。その結果、共産党から要求されたのに応じる形で、1965年に県原水協役員を退き、離党した。ただし、1977年から85年にかけて統一世界大会が行われた際には、庄野直美(広島女学院大学教授)とともに現地・広島で世界大会準備委の共同議長を務めた。その際、私が共同議長を務めることに共産党側からも社会党からも反対はなかった。
最後に、2004年の参議院選挙において、広島県選挙区で岡本三夫広島修道大学教授の擁立に動いたことに関しては、「ヒロシマを代弁する国会議員がいないのはおかしい」という気持ちから出たことだった。私の読みでは、社民党、新社会党に加え、共産党の推薦が得られれば勝算なきにしもあらずということだった。共産党は東京・狛江市市長選挙などで新社会党と共闘したこともあり、私としては、ブリッジ共闘(社民・新社両党と共産党がそれぞれ岡本候補と選挙協定を結ぶ方式)は可能だと考えたのだが、広島県においては、同和問題をめぐって共産、新社両党は不倶戴天の関係にあり、結局、共産党の支持は取り付けられず(共産党は独自候補を擁立)、私の意図は実現することがなく終わってしまった。

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