第9回原水禁世界大会での「いかなる国」問題

2010.08.13

*1963年の第9回原水爆禁止世界大会当時、広島県原水爆禁止協議会(県原水協)事務局次長として大会の経緯をつぶさに体験された北西允広島大学名誉教授(1963年当時は広島大学政経学部教授)から、同教授が執筆し、佐久間澄広島大学教授(県原水協代表委員。共に当時)と伊藤満広島大学教授(県原水協事務局長。やはり共に当時)が「目を通した」と記された「第9回原水爆禁止世界大会の事実経過 広島県原水協への白紙委任から大会直後の常任理事会まで」、同大会で森瀧市郎県原水協代表理事(日本被団協理事長。共に当時)が読み上げた「広島県原水協の提案による基調報告 広島原爆慰霊碑の前で」(全文)、第9回原水爆禁止世界大会日本代表団名による「当面の統一行動強化に関する決議」と「被爆者救護運動の強化に関する決議」(両決議の日付は共に1963年8月7日)、第9回原水爆禁止世界大会名による「国際共同行動のためのアピール」(同じく8月7日付)及び同教授が書かれた論文「原水禁運動の分裂と統一」(『広島法学』第2巻 1978年12月)のコピーをいただく機会がありました。北西教授には改めてインタビューをさせていただくことになっていますが、そのインタビューの機会をできるだけ密度の濃いものにするためにも、以上の資料をもとにお聞きする際の問題意識(特に「いかなる国」問題を中心にして)を整理しておきたいと思い、この文章をまとめる次第です。なお引用部分の強調は、特に断りがない限り、私によるものです(8月13日記)。

1.「第9回原水爆禁止世界大会の事実経過」

この記録は、1963年8月4日午前1時半から8月10日午後10時半までの事実経過を、主に県原水協の視点からまとめたものです。事実関係の主なポイントを整理しますと、おおむね次のとおりとなります。

〇大会開始までの経緯

8月4日夜の日本原水協常任理事会(全国理事会は召集されず)で広島県原水協への世界大会開催の白紙委任を決定、同日深夜から翌5日早朝及び中断をはさんで午後に開催された県常任理事会は最終的にこの白紙委任を受け入れた上、日本原水協の安井理事長、佐野常務理事及び吉田嘉清事務局主任の来席、中国ブロック各県原水協代表と長崎県原水協代表がオブザーバーとして列席のもとで開催され、以下を決定した。
① 大会日程:日程は5~7日、分散会は予定どおり20会場で行うこと
② 外国代表の処遇:オブザーバーではなく正式代表として取り扱う
③ 代表数:議論はもめたが、常任理事会としては、差し当たり10300名という当初の枠を守り、オーバー分の取り扱いについては後刻継続審議とした。ただし結果としては、その後のフォローは行われなかった。
④ 大会基調:すでに7月31日の時点で、県原水協が実質的責任を負わなければならない場合を想定し、県原水協大会準備委員会事務局会議で森瀧及び佐久間両代表委員並びに伊藤事務局長の3名を起草者に選んで基調報告作成作業を進めることが決められていた。8月1日の常任理事会と準備委員会事務局の合同会議に、森瀧代表委員から口頭で同報告に関する中間報告が行われ、イ.部分的核実験停止条約の評価、ロ、「いかなる国」問題、ハ、被爆者救援運動強化、を中心にして活発な議論があったが、集約は行わず、出された意見を参考にして3名の起草者の間で原稿を練ることになった。以上の経緯を経て、5日の大会開会予定時刻を約1時間前に控えて、森瀧代表理事から基調案が口頭で発表されたが、内容的な討議はほとんど行われず、もっぱら提案の形式-日本原水協の基調報告とするか、森瀧代表委員の個人演説にするか-をめぐっての議論に終始し、結局、「広島県原水協の提案による基調報告」に落ち着いた。
⑤ 大会役員の構成:県原水協を中心とし、中央及び中国ブロック中心の地方の原水協委員並びに外国代表を加えて構成する方針を決定

〇大会の推移

 開会総会は8月5日午後8時に約2万人の参加で、伊藤事務局長の開会宣言で開始。森瀧代表委員から基調報告発表。その頃、総評、社会党が、大会不参加の態度を決定したという情報がもたらされ、また、県労会議が分散会場を大量に解約したというニュースが伝えられた。総会自体は、午後10時過ぎに日程を終了。
 5日深夜から6日午前にかけて事態収拾策が協議されたが、明確な収拾策が見いだせないまま、午後1時から自主的に分散会が行われた。また、午後7時半から10時にかけては被爆者懇談会が開催された。午後9時からの会議では、安井理事長が、畑中政春、熊倉啓安、田沼肇各日本原水協担当常任理事、石井金一郎日本原水協専門委員、安部一成山口県県原水協理事長、森瀧、佐久間、伊藤、北西に決議案起草を依頼。「当面の統一行動強化に関する決議案」は佐久間、熊倉、北西、「被爆者救援運動の強化に関する決議案」は石井、田沼、「国際共同行動のためのアピール」は安井、森瀧、畑中及び外国側数名が参加。
8月7日午前から昼過ぎにかけて全国代表者の会議、次いで全国ブロック代表の会議が開かれて決議の最終案がまとめられたのち、午後1時20分から県立体育館に11000名の代表が参加して閉会総会が行われ、午後4時に閉会した。
 午後4時半、森瀧代表委員及び伊藤事務局長は、独自の判断で、イ.終始統一をこいねがってきたにかかわらず、事実上、一党派が主導権を握る大会になってしまった、ロ.森瀧機長報告の精神が婉曲にではあるがまったく骨抜きにされてしまった(浅井注:森瀧報告については後述2.参照)、ハ.県原水協の責任者として、組織の解体を避けるため、基調報告の線に沿って運動を立て直す決意をした、との声明を記者団に発表。

〇大会後の動き

 8月10日に県原水協常任理事会が行われ、伊藤事務局長から森瀧・伊藤声明の写しを配布、県及び市民に対してこの趣旨に沿って一刻も早く声明書を出したいと提案。議論は紛糾したが、最後に伊藤事務局長が「一部に反対はあるが、基調報告に基づいて今後運動を進めることを県・市民に声明する」と集約して散会、記者会見に臨んだ。

2.森瀧市郎「広島県原水協による基調報告」(要旨)

18年前人類史上最初の核兵器使用で起こった広島・長崎の言語を絶する恐るべき惨禍は、おのづから広島・長崎を絶対に繰返してはならぬという叫びとなり、やがてそれはノー・モア・ヒロシマという表現となって、またたくまに人類の合言葉となり、いろいろの形の原爆反対の行動となりました。たとえば占領下の広島では、文学者たちが弾圧に屈せず、詩や作品で原爆の惨禍を伝えたり、良心的で勇気ある市民が、集会して原爆反対の意志をたかめたりしていました。
 しかしそれが本当に全国民的全人類的運動として飛躍的にもりあがったのは、言うまでもなくビキニ水爆実験による「死の灰」のおそろしさからでした。死の灰の恐怖と共に、私たちは熱核兵器の恐るべき発達により人類そのものの生存が脅かされてくるようになったことを、おののくばかりに実感しはじめました。この頃からノー・モア・ヒロシマの叫びは、核実験反対の運動と核戦争準備反対の運動として急速に高まって来ました。
 くりかえし競って行われる核実験は、とめどもない核兵器の発達を痛感させ、あれほどの惨禍をもたらした広島の原爆も「赤ちゃん爆弾」と呼ばれるに至る程に超大型の原水爆が製造され実験されるようになりますと、誰しも人類破滅の脅威を感ずるようになりました。人類そのものが生死の運命を共にする一つの運命共同体となってしまったことが実感される時代に突入してしまいました。
 このような危機的状況の中で人々は、特に広島・長崎・ビキニの被爆体験をもつ日本国民は、“原爆はもうごめんだ”という怒りと憂いとから、どこの国のどんな核実験にも核武装にも絶対に反対だと叫ばないでは居られなかったのであります。かくして日本のみならず全世界に地下水のようにびまんする原水爆反対の叫びが、全国民的全人類的運動の基盤となって、広く深い原水爆禁止運動がつづけられ、何としても核武装を阻み核戦争を防ごうとする諸行動が展開されてきたのであります。
 同時に私達は、左様な核実験や核武装を推し進める国々のそれぞれの政治的軍事的な背景や目的に就いて、冷静で鋭い目を向け国民大衆と共に真実を深く究明し、核戦争の危険の根源を見窮める理性的目をも開いて行ったのであります。
 このように私達の運動の謂わば感情的要素と理性的要素とは、両々相まって進められ、しかもうまず屈せず進められた結果は、遂に部分的とは言え最近米英ソ三国の核実験停止条約の成立となって現われたのであります。私たちの願いと運動とは決して無駄ではなかったのであります。
 今回の核停条約の成立は少くとも「死の灰」による大気は地球の汚染を著しく減少し得るに至ったという点では十分高く評価されなければなりません。しかしこの部分的核停条約によって地下実験を残したままの段階にとどまるならば核兵器の強力化を阻止することにはあまりの期待がかけられず、この部分的核停条約を一つの突破口として更に全面的な実験禁止条約を全ての核保有国の間で締結させてこそ、はじめて今回の核停条約は核兵器禁止への第一歩となりうるでありましょう。
 しかしながら私達の禁止運動の立場から見れば、この度の核停条約は運動の一つの成果として十分に評価すべきだと思います。何となれば世界民衆が手をつなぎ声を合せて、平和への要求を高くかかげて国際世論をたゆみなく起して行けば、国際政治をも平和の方向に向け得るものだと言う貴重な人類的経験をもつことが出来たからであります。
 私達はこの経験によって、私たちが思想・信条・党派・社会体制の相違を越えて、人類の生命と幸福を守るという崇高なヒューマニズムに立つ、全国民的・全人類的運動として、一切の核兵器の製造・貯蔵・実験・使用・拡散を凡て否定する立場をとり、原水爆なき世界をめざして進めてきた原水爆禁止運動が人類の運命に大きな貢献を尽し得るものであることを更めて確信し得るに至ったのであります。  私たちはこの確信に立って、今後どのように私たちの運動を展開すべきでありましょうか。
 先にも言った如く部分的とは言え核実験停止条約の獲得は運動に一つのエポックを劃するものであります。私たちは運動のこの新段階に立って、部分的核停条約成立を第一歩として、すみやかに全面的な核停条約をかちとり、国際緊張の緩和と平和共存への志向の下に、国際的世論を劃期的に高めて、原水爆やその運搬手段の全面的な禁止を含む前面完全軍縮の達成に向って、世界民衆の国際的連帯の下に全人類的運動を展開しなければなりません。(中略)  今全世界の人々が共通に願っていることは核戦争で人類が滅亡してはならない、ということであります。アメリカの著名な心理学者エーリッヒ・フロムは、最近MAY MAN PREVAIL?(人類は生き残れるか)という題目の書物を出していますが、私たちは、強い決意と確信とを以て、「人類は生き残らなければならない」と答えます。これは人類の至上命法であります。この至上命法の下では、全人類が、あらゆる立場の相違を超えて統一し団結して闘うことができます。
 ことに、私たちの日本の原水禁運動では、今ほど統一と団結を必要とするときはありません。…大会が混乱と分裂を招いたならば誰が喜ぶでありましょうか。

なお、「当面の統一行動強化に関する決議」における「いかなる国」問題と部分核停条約に関する言及部分は次のとおりでした。森瀧報告とは明らかにニュアンス、というより認識、の違いがあることが容易に読み取れるものです。「国際共同行動のためのアピール」では、この二つの問題に関する言及はありませんでした。

 三たび被爆の体験をもつ日本国民の大多数は「原水爆はもうごめんだ」「核戦争はごめんだ」と感じ、すべての核兵器を禁止することをのぞんでいます。この国民感情は大いに尊重されるべきであると考えます。しかし、それを「いかなる国の核実験、核兵器にも反対する」というかたちで運動の原則とすべきだという主張に関しては賛否の意見がするどく対立しています。

 私たちは、…以下の具体的なしかも緊急の目標をかかげて行動を発展させなければなりません。
二、米英ソ三国の部分的核実験停止条約が成立した。私たちは警戒心をゆるめずに、核兵器の全面的な禁止を要求する運動をさらに力強く促進し、すべての国による全面的な核実験停止条約の締結、全面的な核兵器禁止条約の締結へ発展させる。

3.「原水禁運動の分裂と統一」

北西教授は、この文章について、1977年「5月19日に、原水協及び原水禁両組織の代表者の間で合意をみたいわゆる「5・19合意書」を手がかりに、統一への問題点を運動史的に明らかにしようというひとつの試み」と位置づけられています。具体的には、北西教授は、「5・19合意書」における政策上の一致点が「核兵器絶対否定」に求められており、この言葉は、「原水協の唱える「核兵器完全禁止」と、原水禁が主張する「各絶対否定」という目標ないし理念の妥協的定式」であると指摘された上で、「この定式が統一の基礎となりうるか」と問題を設定されました。そして、この問題を考察するためには、「分裂の要因になった政策上の対立をふりかえり、その後、原水協、原水禁両組織の論点が、どう変化したかをあとづけてみる必要がある」として、分裂時の争点を整理され、その上でその後の争点の変化を検討されています。ちなみにこの論文では、「政策上の問題」と「組織上の問題」とが取り上げられていますが、ここでは私にとっての主要な関心対象である前者(政策上の問題)、その中でも「いかなる国」問題にかかわる部分、に限定して取り上げることをあらかじめお断りしておきます。
 北西教授はまず、1963年の第9回世界大会で運動を分裂に導いた決定的な争点は、一つは「いかなる国の核実験にも反対する」ことを運動の「基本原則」とするかどうか、もう一つはこの年(1963年)に米英ソ三国間で締結された部分核停条約をどう評価するか、の2点であったことを確認しておられます。
ただし、1963年段階においても両者を同じ比重で取り上げられている北西教授の紹介の仕方には異論が出るところかもしれません。すでに私が「いかなる国」問題をこのコラムで取り上げ、その内容にご批判をくださった方が指摘されたように、1963年の第9回世界大会で主要な争点になったのはその年に起こった部分核停条約の評価の問題であり、「いかなる国」問題は1961年以来の問題の継続であったことは事実です。すでに紹介した上記2.の森瀧報告を見ても、「いかなる国」問題への言及は過去形であるのに対し、部分核停条約の評価に関しては大きなスペースが割かれていることを見ても、この方のご指摘は事実関係として重く受け止める必要があると、私は改めて確認しています。
しかし第9回世界大会当時も「いかなる国」問題がなお重要な未解決の問題として尾を引きずっていたことは、上記1.の「事実経過」に鑑みても否定できないところだとも思います。また例えば、高橋昭博氏『ヒロシマ、ひとりからの出発』(特に88ページ~110ページ)を読んでも、「いかなる国」問題は1963年当時も引き続き重大な争点であり続けていたし、高橋氏が特に「いかなる国」問題に関する共産党の「独善性」を厳しく批判していることは到底無視できないことだと思います。
「いかなる国」問題に関しては、認識論としての性格のほかに、政策、運動、政争など多面的な性格があることは北西教授のご指摘どおりですが、ここでは私の関心である認識論にかかわる北西教授の指摘部分にだけ集中します。北西教授によれば、社会党・総評側は、「核兵器の出現によって、戦争の性格は根本的に変った、階級の論理、体制の論理は、原水禁運動では通用しない、核兵器対人類の論理が、階級の論理にとってかわられねばならない…という理論を武器に、『いかなる国の核実験にも反対する』ことを『運動の原則』とすべきだ、と強硬に主張し、この原則については、反対はもとより態度の留保も認めない、と共産党側に迫った。『いかなる国』は、『踏み絵』として用いられようとした」とされます。それに対して「原水禁運動を反帝国主義の方向にリードしてきた共産党は、もっぱら体制の論理に依って、帝国主義国の核実験と社会主義国の核実験を同列視することは誤りであると応酬し、とりわけ、『平和の敵』、アメリカ帝国主義に運動の鋒先をむける必要性を力説した」と、北西教授は指摘しておられます。
社共間のこのような認識面の対立に関しては特に目新しい内容の指摘ということはないのですが、私はむしろ、第9回世界大会を主催することになった広島県原水協がこの問題に関してどのような認識を持っていたかに関する北西教授の指摘に、今までモヤモヤと頭の中に渦巻いていた霧が一気に晴れるような新鮮な視点を与えられました。そう、「コロンブスの卵」的な発見があったのです。
北西教授はまず、「この時期、運動の統一を維持するために奮闘した地方原水協や宗平協(浅井注:宗教者平和協議会)などの加盟組織にも、両党の対立を止揚するに足る明確な論理がそなわっていたわけではない。」と指摘されます。そして、次の重要な指摘が続いていたのです。

「日本原水協にかわって、第9回世界大会の運営をひきうけざるをえなかった広島県原水協の場合もそうである。同原水協には、原水協の中央や社・共両党とはちがった次元から『いかなる国』問題にアプローチするという共通の認識があった。しかし、このちがった次元が、具体的になにを意味するかは、ほとんど煮つめられなかった。第9回世界大会に提案された広島県原水協の基調報告は、学者の代表委員の手になったものであるが、それは、問題の箇所を、『どこの国のどんな核実験にも核武装にも絶対に反対だと叫ばないでは居られなかったのであります』と表現している。そこでは、『いかなる国』という言葉は、意識的に避けられ、表現形式も過去形をとっていた。それに、この基調報告には、それを承認しないものを排除するなどという発想はなかった。この立場は、積極中立主義ではなく、広島の被爆体験をよりどころとしていた。しかし、当時の状況のなかでは、この基調報告は、社会党、総評側に組するものとうけとられた。」(強調は原文のまま)

「いかなる国」問題に対する認識のあり方について、積極中立主義の社会党、反帝国主義の共産党に対して、「ほとんど煮つめられなかった」ものの「広島の被爆体験」をよりどころにした広島県原水協の第三の立場が模索されていたという北西教授の指摘こそが、私にとって「コロンブスの卵」でした。私にとって特に重要であると思われたことは、当時の広島県原水協の中枢にあった大学人が社共両党とはちがった次元の認識を目指す必要性を明確に認識していながら、集中的にそのあり方を詰めることなく、「広島の被爆体験」に解を求めたということでした。
改めていうまでもなく、原体験は認識の源ではあっても、認識そのものではありません。「広島の被爆体験」(余談ですが、私自身は、「被爆体験」という捉え方はどうしても非被爆者の認識の及び得ない、普遍化に対する客観的限界を設定してしまうものであり、それ故にこそ宇品で被爆し、2日後には市内を「見学」して入市被爆もした丸山眞男は「原爆体験」という捉え方をしていたのではないか、そしてこの捉え方の方が被爆者及び非被爆者双方共同の作業による普遍性に近づく可能性をより強く含んでいるのではないか、と思っています)にとりあえずの解を求めるという一種の安易性でその場を乗り切り、ましてや、ドロドロした政党間の対立に巻き込まれないようにとの配慮から表現形式という些末な次元でエネルギーを消費せざるを得なかったとすれば、被爆体験に基づいて普遍的な認識を抽出し、基調報告で明確に打ち出すことは求むべくもなかったということでしょう。
しかし、北西教授の以上のご指摘は、私にとっての中心的な課題の一つであるヒロシマ(原爆体験)の思想化という作業を進めていく上で、本当に「アッ」と叫ぶような、これ以上ない示唆を提供してくれるものでした。北西教授からのご教示を受けた後の私の考えの一端は、「いかなる国」問題にかかわるいくつかの「コラム」の文章に断片的に顔を出しています。ずいぶん長くなってしまいましたので、今回はこのあたりでとりあえず切り上げることにします。

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