読者の「広島の平和記念式典と核兵器廃絶問題」への感想と私の思い

2010.08.11

*私が「コラム」で書いた「広島の平和記念式典と核兵器廃絶問題」に対して、「余りにも悲観的で悲壮感に満ちた文章」「すべての現象をこけおろす」ものというコメントを寄せてくださった方がおられました。私の見方に対しては、こういうご批判は十分にありうると思います。
しかし、私は例えば、ニューヨークで開かれたNPT再検討会議の最終文書(その内容はアメリカ外交の大敗北といっても良い内容のものでした)の採択に関して、これは、広範な核兵器廃絶の世論(市民社会)と非同盟諸国の力が合わさったからこそ、核兵器国の反対を押し切り、可能になったものという評価をしていますように、内外の世論の重要性と意義を最大限に重視しているつもりですし、決してすべてに対して「悲観的で悲壮感に満ちた」見方ばかりをしているわけではないことをまず確認しておきたいと思います。同時に私は、市民社会、非同盟諸国そして被爆国・日本が本気で力を合わせれば、核兵器廃絶に向けての巨大なエネルギーを引き起こすことが可能になることを指摘し、したがって、国家としての日本の動き如何(アメリカの核政策ときっぱり縁を切るか、それとも引き続きアメリカの「核の傘」に頼る政策を続けるのか)が核兵器廃絶に向けてのカギであること、その日本の政治の方向を決めるのは私たち主権者の決断次第であることを機会あるごとに明らかにしてきていることも改めて強調させていただきます。
私としては、今回コメントを寄せてくださった方の文章をまず紹介したいと思います。その上で、8月6日及び9日の民主党政権の代表者の発言内容を改めて確認し、それを踏まえて、この方が示されたご認識の内容を検討することで、私がなぜ厳しい批判を明らかにする必要があったかをより明確にしたいと思います(8月11日記)。

1.読者の方のご批判の文章

私は、今年の平和記念式典に参加し平和宣言を聞き、またそのあとの広島国際会議場での潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の講演を聴き「核のない世界」に向け新たな歴史が始まったと大変感動をしました。65年の永い年月が経過しやっと私たち被爆地ヒロシマの声が、国連まで届き核兵器廃絶の課題が世界の緊急の目標になったと感じました。
しかし浅井先生のコラムを読むと相変わらず辛口の論調で核兵器廃絶に対して余りにも悲観的で悲壮感に満ちた文章を書いておられます。先生の核兵器廃絶の「思い」は私たちより何倍も強いと思いますが、だからといってすべての現象をこけおろすのはいかがなものでしょう。「平和宣言」に「強い違和感」「やりきれない違和感」を覚えるとか、オバマ大統領のプラハ演説への批判など独自の持論を展開されています。世界が核廃絶に向かって動き出したとなぜ見ることが出来ないのでしょうか。それを報道しているメディアに対しても鋭い矛先を向けておられます。
 被爆65年がたった今年、初めてアメリカの大使が式典に参加し、国連事務総長も初めてヒロシマを訪れ核廃絶の緊急性をヒロシマの地から全世界に発信しました。このことを浅井先生は、なぜ評価されないのか私にはまったくわかりません。歴史的な第一歩が始まったのではないのでしょうか
 世界の核兵器廃絶にむけたさまざまな動きに対して、前進面をきちんと評価する視点が大事だと感じます。批判ばかりしていたのでは、正論かもしれませんが誰も支持してもらえないのではないでしょうか。唯我独尊ではいけないと思います。先生の核廃絶の思いや熱心さはよく存じておりますが、是非運動の前進面にも光を当てたコラムをよろしくお願いします。(強調は浅井)

2.8月6日及び9日における民主党政権首脳の発言

菅首相、仙石官房長官、岡田外相は、広島及び長崎の式典に関し、特に非核三原則及び核抑止の問題について発言しています。岡田外相の発言に関しては、外務省のサイトで詳しい内容が紹介されていますのでそのまま紹介しますが、管首相及び仙石官房長官のそれに関しては、官邸のサイトをチェックしましたが見つけることができませんでしたので、読売新聞、時事通信及び共同通信の記事を紹介します。

〇岡田外相(8月6日)

【朝日新聞 高橋記者】今日の式典で、秋葉広島市長が米国の核の傘からの離脱ということを求められましたが、これに対する外相の見解をお願いします。
【大臣】広島市長としての秋葉さんの思いはよくわかります。ただ、日本の安全と現状を見たときに、特に核を持っている国が近くに北朝鮮、ロシア、中国とある中で、米国の核の傘なくして、日本国民の安全を確保することは、私(大臣)は極めて困難だと思っていますので、そこは見解が異なると思っていま す。
【フリーランス 岩上氏】核の抑止力、あるいは米国がさし出している核の傘というものが存在しているということが、全て前提になって議論がずっと進められてきているように思うのですが、果たして本当に核の傘というものは存在するのかという疑いがあります。例えばモーゲンソーというような方、またその他米国の国際政治学者、様々な方々が、もし核戦争となり得るような事態が起きた時、果たして米国本土が攻撃されるリスクを犯してまで、同盟国のために核の反撃を行うだろうかということに疑義を呈しております。こうした声がある中で、本当に米国の核の傘というものが、有効に機能し得るのであろうか、根本的な疑問ではありますが、改めて大臣のご見解をお聞かせ頂きたいと思います。
【大臣】決定的な答えはありません。しかし、それは同盟の中身による訳で、日本が核攻撃を受けた時に核で報復するという構えがあってこそ、日本に対する核攻撃が抑止されていることは間違いありません。そのことを論理的に証明しろと、100%証明しろと言われても、それはできないかもしれませんが、私 (大臣)はそのことを信じて疑っておりません。今仰った議論は、最終的に論理的に証明することはできませんので、(議論)すること自身が何をも生み出さないというように思います。問われるのは同盟の質だというように思います。
【フリーランス 岩上氏】今、同盟の質次第であるということを仰られましたが、では、どのような質を持った日米同盟であれば、よりその核抑止が担保できるのか、その質の内容についてお聞かせ頂きたいと思います。
【大臣】端的に言えば、日本が核攻撃を受けた時に米国が核で報復するだろうというように核攻撃をしようとする国が思うかどうかという問題だと思います。
【朝日新聞 高橋記者】岡田大臣がこの問題に大変熱心に取り組まれていることは大変承知しているのですけれども、やはり最後には米国の拡大抑止に依存しながら、核軍縮を唱えていくことの矛盾というものが、どうしても問われると思うのですけれども、ここについて大臣はどういうご見解をお持ちなのかお願いいたします。
【大臣】核の傘と核軍縮ということは、それは矛盾いたしません。核軍縮というのは、核を持っている国全体に対して軍縮を求めていくわけですから、そのことと核によって守られているということが矛盾しているというのは私(大臣)は論理的によく分からない議論だなと思っております。

〇菅直人首相(仙石官房長官)

菅首相は6日午前、広島市内のホテルで記者会見し、同市の秋葉忠利市長が平和宣言で「核の傘」からの離脱を求めたことについて、「国際社会では核戦力を含む大規模な軍事力が存在し、大量破壊兵器の拡散という現実もある。不透明・不確実な要素が存在する中では、核抑止力はわが国にとって引き続き必要だ」と述べ、否定的な考えを示した。
 11月の来日が予定されるオバマ米大統領の広島、長崎両市への訪問については、「大統領自身が『訪問は非常に意義深い』と発言されている。私も実現すれば大変意義深いと思う」と訪問への期待を示した。仙谷官房長官は6日午前の記者会見で、「大統領が来られる時にどのくらいの日程を取ることができるのか。(訪問を求める)広島市の要望も含め、話し合いをしなければいけない」と語った。
 仙谷氏は秋葉市長が非核三原則の法制化を求めたことについては、「原則を堅持する方針に変わりはない。わが国の重要な政策として内外に十分周知徹底されており、改めて法制化する必要はない」と述べた。
(2010年8月6日11時49分 読売新聞)

菅直人首相は9日午後、長崎市内で記者会見し、被爆地などが求めている非核三原則の法制化について「政権担当して2カ月なので、私なりに検討したい。検討した中で判断したい」と述べた。
  首相は6日の広島市での記者会見では、非核三原則について「私の内閣でも堅持する方針に変わりはない」と述べるにとどめ、法制化については態度を明確にしていなかった。9日の発言は、三原則の法制化検討に前向きな考えを示したとも受け取れるが、仙谷由人官房長官は既に「改めて法制化する必要はない」と否定している。
 また、政権交代直前の昨年8月、当時の鳩山由紀夫民主党代表が長崎市で被爆者団体の要請を受け、「法制化の検討」を表明したが、党内の慎重論に配慮し、「堅持」に修正した経緯がある。
(2010年8月9日 13時52分 時事通信)

菅直人首相は9日午後、長崎市内で記者会見し、非核三原則の法制化に関して「私なりに検討していきたい」と述べた。ただ、日本政府内には「将来にわたって縛ってしまうのがいいのか」(岡田外相)などと慎重論が強く、実現は見通せない。6日に広島市で「核抑止力はわが国にとって必要」と発言したことについては「北朝鮮の核開発が続いているので、残念ながら一切頼らないという状況には至っていない」と指摘。
(8月9日(月)14時1分 共同通信)

3.私が平和宣言などに厳しい見方をあえて明らかにした理由

(1)私の見方にコメントを寄せてくださった方の認識内容の再検討

 この方は、今年の広島の平和宣言、国連事務総長の初参加(長崎へは9日当日前の訪問)、同じくアメリカ大使の初参加(ただし広島のみ)などの具体的事例をもって、「65年の永い年月が経過しやっと私たち被爆地ヒロシマの声が、国連まで届き核兵器廃絶の課題が世界の緊急の目標になったと感じました」と位置づけられ、「世界が核廃絶に向かって動き出した」「歴史的な第一歩が始まった」と評価されています。率直に言って、私はそういう評価は、大きくいって、二つの意味で大きな危険と誤りがあると思います。
 一つは、内外の核兵器廃絶の世論と運動に関する認識のあり方です。冒頭に述べましたように、私は、核兵器廃絶を可能にする最大の力の源は内外の世論にあると思っています。オバマがプラハで「核兵器のない世界」へのビジョンを明らかにしたということ自体、もちろんオバマ個人の資質という問題は考慮に入れる必要はありますが、本質的かつ根源的には、広島・長崎・ビキニを起点とする1950年代からの核兵器廃絶を目指す内外世論の粘り強い運動を抜きにしてはありえなかったことでしょう。また、そういう内外世論に押されてなされたオバマのプラハ演説を前提にしてこそ、アメリカの大使が広島に来ることを拒否できない環境作りが客観的に行われたのです(アメリカが不本意なNPT再検討会議最終文書の受け入れを余儀なくされたのも同じ理由からです)。要するに、オバマのプラハ演説も、国連事務総長の参加も、アメリカ大使の参加も、核兵器廃絶を希求する内外世論の蓄積された力が働いた結果として起こったものであるということです。
これらの事実は運動の結果として起こったものとして位置づけるべきなのであって、これらの事実が核兵器廃絶への新たなステップになるということを自動的に保証するものではありません。これらの事実が起こったことを私たちの力の確認として評価することは私も大賛成ですし、そのとおりですが、これらの事実そのものが核兵器廃絶を促すというふうに評価するのは誤りだし、それは他力本願の危険性に陥ることでもあります。私たちがさらに形相を変えて核兵器廃絶の世論を高めることに全力を傾けてこそ、オバマをしてますます真剣に核兵器廃絶に向き合うことを強いることになるのです。オバマはいわば、核兵器廃絶の世論という右手の力と核兵器固執勢力という左手の力の間での綱引きの対象になっている「やじろべい」なのです。この力関係を認識しないことは核兵器問題の本質を見ないことと同じです。私が批判の対象にしているのはこうした力関係を認識しない他力本願性であることをよくご理解願いたいと思います。
ちなみに私が、「オバマジョリティ」という発想に根本的に批判的なのは、この発想に典型的な他力本願性を感じざるを得ないからです。私たちの立場で言うのであるとすれば、「オバマジョリティ」ではなく、「ヒロシマジョリティ」であるべきだったでしょう。また、「広島の声が国連まで届き」「世界が核廃絶に向かって動き出した」「歴史的な第一歩が始まった」と認識されるこの方の発想にも、私はやはり同じような他力本願性が潜んでいると感じないわけにはいきません。日本のマスコミに私が批判の目を向けるのも、朝日、毎日を含めて日米安保肯定であり、対米核抑止依存に賛成する「現実肯定」の他力本願の立場に立っているからにほかなりません(例えば10日付の朝日新聞社説は、「すぐに「核の傘」から離脱することは現実には困難である。その意味では首相の言う通りだ。」とはっきり言っています)。
 もう一つは、国連事務総長やアメリカ大使の参加、さらには取りざたされる将来におけるオバマの広島・長崎訪問の可能性という事実に関する位置づけの問題です。私たちが目標としているのは言うまでもなく核兵器廃絶です。したがってこれらの事実にかかわる問題は、こういう「事実」が核兵器廃絶に結びつくのかどうかということなのです。結びつくものならば積極的に評価するべきですし、結びつかないものであれば積極的に評価するのは誤りです。
まず国連事務総長の言動に関して言えば、私たち日本人の間には根強い「国連信仰」(この点については説明が必要ですが、論点が離れるので省略します)があり、国連事務総長が核兵器廃絶に積極的な発言をすれば、それだけで核兵器廃絶に向けて前進がある、と認識しがちです。しかし、現実の国際政治における国連及び国連事務総長の影響力というのは極めて限られています。また、潘基文事務総長が核兵器廃絶を強調するようになったのは、キッシンジャー、シュルツ、ペリー、ナンのいわゆる「四人組」が2007年及び2008年に核兵器廃絶の主張を発表して国際的な反響を呼んでからのこと(具体的には、2008年10月のシンポジウムにおける「国連、そして核兵器のない世界における安全保障」と題する演説)であることも考慮に入れる必要があります。私は決して潘基文氏の言動を無視するわけではありませんが、国連事務総長というだけで過大に評価する日本国内の無批判な風潮にはついて行けないものを感じないわけにはいきません。少なくとも、潘基文事務総長の一挙手一投足が核兵器廃絶に直結するようなものではないことは認識してかかる必要があるということです。
アメリカ大使の平和式典への初参加(そして参加はするけれども、献花も発言もしないという身の処し方)に関して言えば、すでに述べたように、オバマのプラハ演説を受けたアメリカ政府(「やじろべい」のオバマ政権)としては、もはや式典を無視するわけにはいかないが、国内の核固執勢力の批判にも引き続き応対できるようにしなければならない、という矛盾の間の苦渋の決断ということであり、核兵器廃絶を促進するというような考慮に基づくものではありませんでした。同じことは将来のオバマの広島(及び長崎)訪問に関しても当てはまることは否定のしようがないでしょう。オバマが広島に来さえすれば核兵器廃絶への大きな一歩が刻印されるというような評価は、現在のアメリカ国内の事情を直視する限り、核兵器廃絶を願う者の主観的な思い込みに過ぎないのです。核兵器廃絶と結びつくことが確保される場合にのみ(オバマが核兵器廃絶へ踏み出す決意を込めて決断する場合にのみ)、オバマの広島(及び長崎)訪問は歴史的な意味を持つのです。

(2)なぜ民主党政権は相も変わらず核に固執するのか

 もし、この方が指摘されるように、「65年の永い年月が経過し、やっと私たち被爆地ヒロシマの声が国連まで届き、核兵器廃絶の課題が世界の緊急の目標になった」と位置づけられる状況が現実にあるならば、そして「世界が核廃絶に向かって動き出した」「歴史的な第一歩が始まった」という認識が歴史的な現実を反映しているのであるならば、菅首相、岡田外相、仙石官房長官の発言は時代錯誤も甚だしい、荒唐無稽なものというべきでしょう。また、「世論に敏感である」はずの朝日、毎日をはじめとする大手マスメディアの報道姿勢も極めて理解しがたいものであるということになります。
 しかし、「国際社会では核戦力を含む大規模な軍事力が存在し、大量破壊兵器の拡散という現実もある。不透明・不確実な要素が存在する中では、核抑止力はわが国にとって引き続き必要だ」という菅首相の発言は、広島及び長崎では強い違和感(一部には反感)をもって迎えられましたが、日本国中で怒りが沸騰するという現象は起こりませんでした。これは、一体どう理解したらいいのでしょうか。  岡田外相に至ってはさらなる問題発言をしました。
まず、米国の核の傘からの離脱に関する「広島市長としての秋葉さんの思いはよくわかります。ただ、日本の安全と現状を見たときに、特に核を持っている国が近くに北朝鮮、ロシア、中国とある中で、米国の核の傘なくして、日本国民の安全を確保することは、私(大臣)は極めて困難だと思っていますので、そこは見解が異なると思っています」と言ってのけています。「核の傘」からの離脱を主張した平和宣言を広島市長の個人の「思い」と片付け、「日本国民の安全を確保する」ことを第一義とする自分(岡田)の見解を対置させて「核の傘」を肯定する岡田外相の認識からは、核兵器廃絶を真摯に願う内外世論への謙虚さの片鱗も窺えません。そして、大手メディアと言えば、このような重大発言もほんのベタ記事扱いでした。
岡田外相はさらに、「日本が核攻撃を受けた時に核で報復するという構えがあってこそ、日本に対する核攻撃が抑止されていることは間違いありません」、「日本が核攻撃を受けた時に米国が核で報復するだろうというように核攻撃をしようとする国が思うかどうかという問題だと思います」と、あけすけに日本に対する核攻撃事態を想定し、それに対して核兵器で反撃すると言っているのです。私の承知する限りでは、岡田外相のこのような激越な発言をした政治家は自民党にも少ないのではないでしょうか。しかも大手メディアは注目もしていません。これもどう理解したらよいのでしょうか。
それは、岡田外相(そして菅首相、仙石長官)が、自分たちの立場がアメリカ・オバマ政権の核政策と軌を一にしていることに確信を持っているからにほかなりません。非核三原則の法制化を退けるのも、アメリカによる核持ち込みがあり得るということが前提になっています。それは、決して私の妄想ではありません。

2010年2月に発表されたオバマ政権の「4年毎の国防見直し」(QDR)には次の一節があります。

「アメリカ、同盟国及び友好国に対する攻撃を抑止するため、我々は安全、確実かつ効果的な核兵器庫を維持する。(中略)同盟国及び友好国に対するアメリカの誓約を強化するため、我が前方プレゼンス、従来型能力(ミサイル防衛を含む。) 及び核抑止を拡大する誓約を結合する、新しく、周到で地域的な抑止の仕組みを、これら諸国と緊密に協議する。」

同年4月に発表された「核態勢報告」(NPR)には、次のくだりがあります。

「東アジア及び中東では、米国は二国間同盟…や前方軍事展開及び安全保障を通じて拡大抑止を維持してきた。冷戦が終結したとき、米国は、太平洋地域から前方展開の核兵器を撤去した(海軍艦船及び一般目的の潜水艦からの核兵器撤去を含む。)その時以来、東アジアにおける危機時に関しては、中央の戦略軍事力及び核システムの再配備能力に依拠してきた。」
「米国は、冷戦終結以来非戦略的(即ち戦術的)核兵器を大幅に削減した。今日、欧州に限定された数の前方展開核兵器及び、世界範囲の同盟国及び友好国に対する拡大抑止を支援するために海外配備向けとして少数の核兵器を米国内に貯蔵している。」

要するに、オバマ政権のアメリカはいつでも核兵器を日本を含む同盟国に持ちこむ政策を維持していることを公にしているのです。だからこそ、民主党政権は、自民党政権と同様、「核の傘」に固執するし、核兵器の持ち込みを不可能にする非核三原則の法制化を退けるのです。オバマ政権が核兵器廃絶などを考えておらず、核堅持政策を根本的に変更する意志がないからこそ、菅首相、岡田外相などの発言があるということです。そういうことを知りながら黙りを決め込む日本の大手メディアも罪は大きい、と言わなければならない理由はここにあります。
さらにいうならば、ヒロシマ、ナガサキの声は日本の政治を動かすにはいまだほど遠いレベル・段階にあるということです。日本の政治を動かすにはほど遠いヒロシマ、ナガサキの声がどうして世界の政治を動かすことができるというのでしょうか。核兵器廃絶を現実のものとするためには、まずは日本の政治を変えさせなければ物事は始まらないのです。

 以上のような背景を踏まえると、私としては今回の広島の平和宣言を歓迎する気持ちにはなり得ません。国連事務総長やアメリカ大使の平和式典への参加を歓迎する雰囲気に対して警鐘を鳴らさざるを得ないのも、同じ理由からです。私は、長期的(歴史的)には楽観主義者です。しかし、短期的(現実的)にはたしかに悲観論に傾く気持ちがあります。それは、「現実」に対して弱い日本人の傾向が簡単に改まるとは考えにくいからです。歴史を自らの手で切り開く体験を私たち日本人はまだ我がものにしたことがないからです。
しかし、それで諦めたら、何ごとも権力の思いのままになってしまいます。デモクラシーほど手間暇がかかるものはありません。しかし、その手間暇を片時とも惜しんだら最後、デモクラシーはその瞬間に息絶えてしまうでしょう。しかも、デモクラシーの理念は不断の運動(働き)を前提にしてのみ内容が充実していくプロセスとしての性格を持つものであり、「永久革命」(丸山眞男)という性格を持たざるを得ません。だから私は、とにかく日本的「現実」に対して警鐘を鳴らし続けることを自分の役割と考えています。「非政治的市民の政治的役割」(丸山眞男)として、この「コラム」を書いているつもりです。

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