広島の平和記念式典と核兵器廃絶問題

2010.08.07

*潘基文(パン・ギムン)国連事務総長、アメリカのルース大使らが2010年(被爆65年)の広島の平和記念式典に初めて参列するというので、8月に入る前から、広島の報道関係者は「色めき立ち」、私もさまざまな方面から取材を受けて閉口しました。と言いますのは、日本のマスコミ自身が作り出した、検証もされていない「国際社会はようやく核廃絶を現実の課題として見据え始めた」(8月6日付毎日新聞社説)、「核軍縮・核不拡散の機運はこれまでになく高まっている」(8月6日付朝日新聞社説)というキャッチ・フレーズ式「情勢判断」のもと、記者たちの私に対する質問のアプローチが、国連事務総長やアメリカ大使の平和式典参加はこれまでで初めてのことであり、その事実自身をして「核兵器廃絶機運のさらなる盛り上がり」の促進剤として捉えるという発言を私の口から引き出そうという姿勢がありありだったからです。このように日本のマス・メディアが「浮き足立ってしまっている」原因は、「オバマ大統領が昨年4月のプラハ演説で、核兵器を使用したことがある唯一の国として「行動する道義的責任がある」と明言し、核のない世界を目指すと宣言したのを機に潮流が変わった」(前記毎日社説)と述べているように、オバマのプラハ演説を手放しで礼賛していることにあります。
 しかし、以上の「思い込み」に基づく広島の平和記念式典に対するメディアの報道ぶりについては、真に核兵器の廃絶を目指す私たちの立場からは見逃すことができない重大な問題点が含まれていますので、ここでは、私たちが最低限踏まえておく必要があるポイントを記しておきたいと思います(8月7日記)。

1. 評価に値する点

<2007年以来の核問題に対する国際的関心の低迷からの脱却>

 私は、国連事務総長やアメリカ大使などが平和式典に初めて参加することになった背景には、2007年1月のキッシンジャー以下「4人組」の核テロリズム対策を念頭に置いた核兵器廃絶提言が重要なきっかけとなった、核兵器が現実に使用される危険性に対する国際的な認識の広がりがあったことは間違いないと思います。オバマ大統領自身、「4人組」と会見して彼らの発言の重要性を評価し、自らのプラハ演説につながったことを認めています。国際的にも、各国のかつての核抑止論者を含む錚々たる面々がキッシンジャーたちの見解に賛同する発言を次々と表明したことも、核兵器問題に対する国際的関心を高めることにつながりました。そしてそのことが、パグウオッシュ会議をはじめとする国際軍縮コミュニティや日本国内の核兵器廃絶運動にかかわりを持ち、あるいは関心を持つ人びとの期待感を膨らませてきたことは確かなことです。そのことは、核兵器廃絶運動に新しい視点から関心を高めた人びとによるエネルギーを注入し、核問題に対する国際的な関心を高める結果をもたらすことになりました。

<オバマのプラハ演説>

 オバマのプラハ演説は特に、「核兵器を使用したことがある唯一の国家として行動する責任がある」、「私は、核兵器のない世界の平和と安全を求めるというアメリカのコミットを明確かつ確信を持って述べる」という二つのくだりについて内外で高い評価を受けました。ただしそういう評価の裏では、「行動する道義的責任」の中身が何であるかについて何も述べられていないこと(つまり、オバマ自身は核兵器廃絶に向けて行動すると言ったわけではないこと)は素通りされ、「核兵器のない世界へのコミット」という言葉も、核兵器の先制使用する公然と口にしたブッシュ前政権との比較で新鮮だったに過ぎない、ということは都合よく見過ごされてしまったことを指摘しないわけにはいきません。

2. 重大な問題点

 いずれにせよ、以上の注目点を除けば、私たちは当面する核情勢に対して厳しい認識を持つことが求められていることを確認する必要があります。

<核兵器廃絶の国際的な機運は本当に存在するのか?>

 日本の最近のメディア報道では、今や「核廃絶の機運はこれまでになく高まっている」という常套句が何のためらいもなく口にされますが、本当にそのような「機運」は存在するといえるのか、というのが私の最初の疑問です。1.で「評価に値する点」としてあげた2点に関しても、これまでのコラムで取り上げているように、重大な留保が必要です。2007年来の核兵器廃絶論はあくまでも核テロリズム対策を考える中で打ち出されているものであり、核兵器の残虐性、反人道性、反国際法性故にその廃絶を目指す私たちの人類的立場とは出発点がまるきり違います(現に2010年4月の核保安サミットでは、3年間かけて世界中に散在する核物質を厳重な管理下に置く国際的仕組みを作ることにしており、その仕組みがオバマ政権の狙い通りに作り上げられるならば、「核テロリズム対策としての核兵器廃絶論」は所期の目的を遂げることになりますから、伝統的核抑止論が彼らの間で再び頭をもたげる可能性は十分にあるのです)。
 もちろん、出発点が異なるとは言っても、核兵器廃絶を明確な目標として中心にすえるという点で根本的一致があるならば、私たちはその目標の一致点で協力の可能性を積極的に模索するべきだという主張にも説得力はあります。しかし、プラハ演説以来今日に至るまでのオバマ政権の核政策を吟味すれば(過去のコラム参照)、オバマ政権の核政策の力点は、①核テロリズムの押さえ込み(その具体化は、すでに述べたように4月に開かれた核保安サミット)、②核拡散防止(イラン、朝鮮などに対する対策。2010年NPT再検討会議に対するアメリカ側の当初の目的はこの点にありました。ただし、これもコラムで述べましたように、アメリカの狙いはほとんど実現しませんでした)、③非核兵器国の信頼をつなぎ止めるための米ロ核軍縮交渉の促進(新START。ただし、そこで合意された削減量は、アメリカの軍事専門家の間ですら、まったく不十分なものという極めて厳しい評価に直面しています)、④将来的ライバル(中国、再台頭するロシア)への備えを怠らないこと、⑤拡散防止の一環としての日本その他に対する拡大核抑止力政策(「核の傘」)の強調にあることははっきりしており、核兵器廃絶に向けてのステップはまったく含まれていないのです。ロシア、フランスなどは核兵器に対する固執の姿勢を崩していませんし、イスラエル、インド、パキスタンなども同様です。そういう意味では、核兵器廃絶の機運が国際的に「高まっている」兆候はまったくないのが現実です。
 私がこの点を強調する必要を感じるのは、「国際的に核兵器廃絶の機運が存在している」という根拠のない誤った判断に引きずられる結果、「オバマに任せておけば安心」という依存心理や、「私たちはそういう国際的な動きに連帯していけばいい(その代表が昨年来の広島市が打ち出した「オバマジョリティ・キャンペーン」)という他力本願の心理を生み出し、核兵器廃絶の流れを主体的に作り出してきた私たちの主体的な運動の重要性に関する認識が損なわれる恐れが大きいからです。その傾向は、本年のNPT再検討会議に対する日本国内の根拠のない期待感の強まりという形で現れています。国連事務総長やアメリカ大使の平和式典への参加に対する注目の高さもそういう他力本願の今ひとつの表れと言えるでしょう。
 2007年来の核兵器廃絶に対する国際的関心の高まり自体、もとを正せば、日本をはじめとする核兵器廃絶を目指す国際世論の粘り強い動きを抜きにしてはあり得なかったことです。核兵器の反人道性、反国際法性を根底にすえた反核世論をさらに強めることによってこそ、核兵器廃絶の可能性を引き寄せることができるのであって、核テロリズム対策、核拡散防止を主眼としたアメリカ主導の政策に対しては、私たちは引き続き厳しい眼を向けていくことこそが必要なのです。

<日本は本気で核兵器廃絶に取り組もうとしているか>

 私は、本年のNPT再検討会議が最終文書を生み出したことを高く評価しています(コラム参照)。この最終文書が可能になったのは、アメリカ以下の核兵器国の抵抗にもかかわらず、非同盟諸国や「市民社会」の核兵器廃絶を目指す強い国際世論が力を発揮したことに最大の原因があります。しかし、「唯一の被爆国」を都合の良い時にだけ持ち出す日本政府は、相変わらずアメリカの意向を忖度することにのみ終始して、重要な役割を発揮することはありませんでした。
 それだけではありません。菅首相は、広島での挨拶の中で核兵器廃絶運動の先頭に立つ道義的責任がある(この言葉自体、オバマのプラハ演説の二番煎じですが)とは口にしたものの、そのあとの広島での記者会見では「アメリカの核抑止力は必要」と公言する始末でした。この問題について外務省で記者に見解を問われた岡田外相も「米国の核の傘なくして日本国民の安全を確保するのは極めて困難。(政府に「核の傘」からの離脱を求めた平和宣言とは)見解が異なる」と述べているのです(8月7日付中国新聞報道)。それだけではありません。民主党政権が非核三原則そのものを邪魔者扱いしていることは、このコラムでも何度も指摘してきたとおりのことです。

<広島は本気で核兵器廃絶に取り組もうとしているか>

 今年の平和宣言は、今の市長になってからは初めて、「非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱」に言及しました。そのこと自体を高く評価する声もあります。しかし私は、非常に率直な感想として、いくつかの点で強い違和感を覚えました。
 第一に、昨年の平和宣言は「オバマジョリティ」を公然と唱え、広島の独自の役割の重要性よりも、核抑止政策に固執するアメリカの大統領との連帯に核兵器廃絶への道筋を求めるという、極めて重大な認識を表明していたのです。今回の平和宣言でも、「オバマ大統領率いる米国連邦政府…も(核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いたの(に)は)大きな役割を与えました」という認識を示しています。これは明らかに最終文書採択を指していると思いますが、私がすでにこのコラムで指摘しているように、最終文書はむしろアメリカ政府にとっては受け入れられない内容のものであり、アメリカ政府としてはその反対で文書が採択されない場合のマイナスの大きさを考えて渋々「積極的には反対しなかっただけ」なのです。平和宣言の表明した認識は明らかにこうした事実関係を無視したものです。ここにもアメリカを美化する抜きがたい心情が露呈していると言わなければならないでしょう。
このように、アメリカ(政府)に対して根拠のない期待を寄せる平和宣言が、対米政策の根本的転換を抜きにしてはあり得ない非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱を唱えても、私にはどこまで真剣な気持が込められているのか、まったく確信と信頼を持つことができません。もし本当に真剣な気持で言っているとしたならば、菅首相が広島での記者会見で自分自身の式典での言葉を翻す核抑止肯定の発言を行ったことに対して、直ちに抗議の発言を行うべきですし、「市長の平和宣言とは見解が異なる」と公言した岡田外相の発言に対しても最大限の抗議を表明すべきではないでしょうか。さすがに広島の核兵器廃絶にかかわる運動関係者は直ちに抗議しました(8月7日付しんぶん『赤旗』)が、私は寡聞にして、広島市がそういう抗議を行ったとは今のところ聞いていません。
第三に、平和宣言が次のように述べていることにも、私はやりきれない違和感を覚えました。

「今こそ、日本国政府の出番です。「核兵器廃絶に向けて先頭に立」つために、まずは、非核三原則法制化と「核の傘」からの離脱、そして「黒い雨降雨地域」の拡大、並びに高齢化した世界すべての被爆者に肌理(きめ)細かく易しい援護策を実現すべきです。」

私が耳を疑わずにはいられなかったのは、核兵器廃絶の先頭に立つための日本政府の施策として、非核三原則法制化及び「核の傘」離脱という政治原則の問題と、「黒い雨降雨地域の拡大」、「高齢被爆者への援護策」という被爆者に対する政策とをいとも簡単に並列するその感覚に対してでした。
もちろん、核兵器廃絶と被爆者援護とは、日本の原水爆禁止運動における「車の両輪」です。しかし、「まずは」と切り出す上記平和宣言の文章からは、このような「車の両輪」としての位置づけという重みを感じることはできません。平和宣言は、本当に核にかかわる問題についてどこまで真剣に取り組む意志と決意を表明したのだろうか、と思わずにはいられませんでした。被爆60年の2005年4月に広島に来て、広島での生活が最後の年度になった2010年8月にこのような平和宣言を聴くということは、何ともやりきれないことです。
 このように見てくる時、私は、今の広島が「ノーモア・ヒロシマ」の立場にしっかりと立っているとは到底言えないことを指摘しないわけにはいきません。「原点を踏まえ、かつ、世界中に響き渡るメッセージを発することができるヒロシマになってくれ」、これが来年3月には広島を去る私のやむにやまれぬ気持です。

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