「いかなる国」問題再考

2010.08.01

1.コラムを読んでくださった方からのコメント

私がこの「コラム」で「日本共産党への辛口提言」(6月13日付)及び「『いかなる国』問題についての今日的視点」(6月20日付)と題して書いた文章に対して、長文のコメントをいただきました。その内容を私ひとり限りに納めておくことはもったいないし、立場の異なるいろいろな方たちにもこの方の認識・問題意識を共有していただきたいので、まず全文(書かれた方の個人的な部分は割愛します)を紹介します。

6月20日と13日のコラムは日本共産党に「いかなる国」問題についての反省と総括がないことが今日の平和・原水禁運動の国民的統一の障害と停滞の原因となっているという趣旨とうけとりました。
「広島滞在の中で『いかなる国』問題は、いまや完全に過去の問題となった部分核停条約と異なり、今日に至るまで深刻な後遺症を原水爆禁止運動の分裂という形で残していることを実感している」、「今なお分裂し、このままではじり貧を免れない(としか私にはおもわれない)日本の原水爆禁止運動の深刻な状況……」と過去の問題とともに現在の運動についての評価がされています。
私は、過去と現在の平和・原水禁運動を考えるとき、60年代初頭に生起したこの問題だけを切り離してみるのでなくもっとその後の経緯や運動の背景をふくめ広い視野にたつことが大切とおもいます。さらに2010年の今日、それ以後、「原水協」「原水禁」などそれぞれの組織がすすめた運動の到達点と運動の現状をどう評価するかをふくめ総括されるべきとおもいます。
「いかなる国」問題は原水禁第8回大会から第9回大会の経過からあきらかなように、分裂の主要な原因ではありませんでした、これは後から「分裂」の原因として作られ云われ始めたものです。「分裂」の原因は「いかなる国」問題、部分核停止条約問題に対する意見の相違ではなく、意見の相違があっても運動の統一を堅持する立場にたつか、自己の主張に固執しそれを通すために統一に背をむけるかにあったとおもいます。
さらに、この時期の運動をみるとき世界大会に参加した団体、個人だけでなく日本をめぐるさまざまな政治勢力の動きもその視野に入れる必要があります。当時の日本の平和・原水禁運動は、「保守」「革新」といわれた日本の政治勢力、米国の占領下から安保闘争後の日本の平和・労働運動や国民への執拗な工作、ソ連の運動への干渉、安保闘争の中で政府が運動に送り込んだ混乱と分裂を策動する勢力の存在など複雑な情勢の中ですすめられました。
1955年の第一回原水禁世界大会はその宣言で「基地反対の闘争は原水爆禁止の運動とともに相たずさえてたたかわねばなりません」としました。しかし、安保条約改定が問題となった時、自民党は運動から手を引きました。広島県はそれまでの財政援助を打ち切りました。それでも広島県では原水禁運動は自治体をふくめてすすめられました。第9回大会世界大会の事務局は広島市の広報室が担当していました。
第8回大会で「いかなる国」問題が生起しました。大会は「いかなる国の核実験反対」の採択を求めて壇上を占拠する一部勢力の妨害を排して意見の相違を超え統一をまもることが決定されました。翌年の第9回大会では直前に締結された「部分核実験停止条約」問題が浮上しました。歴史的な事実にてらし「いかなる国」と部分的核実験停止条約がセットで持ち出されたというのは明確な間違いです。 後で詳細な内容が判明したことですが、この間、ソ連の原水爆禁止運動をふくむ日本の諸団体や運動への強力な干渉がありました。(詳しい内容は、不破哲三著「干渉と内通の記録」にあります) 世界大会についていえば、その運営は日本の政党とともに国際会議であることから各国の主張も少なくない影響をあたえています。
60年の安保闘争から「教訓」を得た米国政府の日本の労働界、言論界などへの広範で執拗な工作とその「成果」は「核密約」などとともにいまだに明らかにされていませんが、それは想像を超えたものでありそれが平和・原水禁運動に少なくない影響を及ぼしていたことは否定できません。その一端は高瀬毅著「ナガサキ・消えたもう一つの『原爆ドーム』」(広島に「原爆ドーム」がある、長崎では市長は当初「浦上天主堂」の遺跡保存を表明していたが訪米とその最中に受けた工作により破棄に転じた経緯を記録)に記されています。
平和公園で開催された第9回世界大会は過激派の学生が会場を占拠し、警察の排除で開催されるという事態もおこりました。開会の最中、総評が分科会会場をキャンセルしたため、多くが野外での分科会となりました。閉会総会を前にして三県連が別の集会をひらきました。ここから「分裂」がはじまりました。
その後、一方の勢力から他方に対し「社会主義国の核実験はきれいだ」と主張すると事実を歪曲した宣伝が執拗にされました。他の所で紹介された高橋昭博さんの「社会主義国の核実験の灰はかぶってもよいとの発言を聞いた」の真偽はわかりませんが、組織的にそうした主張がされたことはなく「分裂」の責任をめぐってのデマ宣伝のたぐいだとおもいます。
その後の原水禁運動や世界大会について「社・共、原水協・原水禁の動員合戦」とする報道がされ、現在もそうした構図にもとづく報道姿勢が克服されてはいません。しかし、その後、関係者による真摯な検討と協議がすすめられ、1977年日本共産党・宮本、日本社会党・成田の会談などを経て年内に組織統一することで合意、原水爆禁止統一実行委員会が結成され、14年ぶりの統一大会がひらかれるまでになりました。組織統一はできなかったもの以後、統一実行委員会のもとで世界大会が開催されました。この間、意見の対立や激論もあっても統一実行委員会による世界大会はつづきました。そして、世界的な核軍縮を求める運動の高まりの中、全世界で展開された1982年3月「平和のためのヒロシマ行動」には国内で20万人が参加し、広島では今堀誠二氏などの呼びかけで数万人の集会・行動を成功させました。
ところが1985年の世界大会の直前、総評は国際会議のボイコットを宣言しました。その理由は自分たちの主張が受け入れられないことによるものであったようです。そして、翌年1986年の世界大会から総評と「原水禁」ブロックが脱退しました。その後「原水禁」は政党の消滅、労働戦線の再編などの影響からの変遷があり今日にいたっています。たしかに、今でも一部に「いかなる国」問題が「分裂」の原因であるという主張がありますが、これ歴史的事実から正確ではないと考えます。
こうした事実にてらして「そこにおける分裂は日本の平和運動・労働運動そのものを政党・イデオロギー別に系列化させて今日に至っているのだ」として、その責任が自己正当化の発言をしている日本共産党の姿勢にある、とされていることには同意しかねます。「今日における平和運動の停滞が1963年の原水禁世界大会の社共の分裂に大きな責任があるといっても過言ではない」は、当時の「分裂の責任」についてはともかく、その後の経緯と現状を見れば「平和運動の停滞」とする今日の平和・原水禁運動の到達と現状の認識と一面的評価には違和感をおぼえます。
 現状はどうなっているでしょうか。分裂、政党系列化の一方の責任者とされた「社会党」「総評」はいまや存在しません。それが主導した「原水禁」の運動はいま「連合」の平和運動の一部門の運動としてはあっても日常的な原水爆禁止運動はほとんどなく「世界大会」とは名ばかりの状況です。「政党の系列」についていうなら、日本共産党は政党としては日本原水協には加盟しないという配慮をしています。私の体験から、統一の障害になっているのは、理由抜きの「反共主義」ではないかとおもいます。
かつて平和行進は、国民平和行進(日本原水協など) 市民平和行進(全国生協連など)、原水禁主体と「平和行進」は三つありました。「再分裂」の後にも広島県原水協はその統一をめざし、ある時は生協連のよびかけで、また原水協から生協連を通し申し入れをしましたが原水禁の「日本共産党とは同席せず」の理由で実りませんでした。
今日、原水禁などの「平和行進」はなくなり、生協連の平和行進も全国的なものはなくなり、広島県など一部の県生協連の努力ですすめられているのみです。平和行進が縮小されたことを平和運動の停滞とするなら、政党の系列化の責任ということはできても、日本共産党の責任ということにはできないと考えます。
 一方,日本原水協の行う「世界大会」は世界のNGOにとどまらず、各国政府代表も参加する文字どおり「世界大会」として前進しています。ここでの討議と決定は世界の核兵器廃絶運動に大きな影響を与えるものになっています。私はこの間、世界大会の宣言などの「起草委員会」に参加し国内外の人々との討論を通じてそのことを実感しました。国民平和行進も長年の運動の蓄積により通過する多くの自治体の首長などの賛同をえるなど国民的な広がりをつくりつつあります。
これらの運動や組織に少なくない弱点や克服すべき多くの課題はあるのは事実です。しかし、現在の運動の現状について「このままではじり貧をまぬがれない日本の原水爆禁止運動の深刻な状況」という評価には同意しかねます。
 依然としてメディアは原水協と原水禁の「対立」の報道姿勢を続けており、これが多数の国民の参加を妨げていることはいなめません。平和・原水禁運動の実態を正しく反映するものにはなっていない状況の克服への努力はもちろん必要です。
 被爆国の日本の平和運動が世論を引っ張り、世界の世論を引っ張っていたくため、この間の運動への総括、打開の方途について真剣な検討と必要とはおもいますが、これが日本共産党の「いかなる国」問題への無反省やこの間の活動にあるというのはあまりに短絡すぎます。
 半世紀を超える日本の平和・原水禁運動は、「いかなる国」問題をふくめ、各国・各勢力のせめぎあいのなかで成長と停滞、発展というさまざまな局面を通過し今日があります。それらの総括は広い視野に立ち、総合的に検討されなくてはならないいとおもいます。 「分裂」と「じり貧を免れない」運動の責任を「いかなる国」問題についての日本共産党の態度に求めることは余りに一面的といわなくてはならないとおもいます。

2.コメントを踏まえた私の若干の見解

この方は冒頭で、「日本共産党に「いかなる国」問題についての反省と総括がないことが今日の平和・原水禁運動の国民的統一の障害と停滞の原因となっているという趣旨とうけとりました」と私の二つの文章の目的を理解されています。また、私が「今なお分裂し、このままではじり貧を免れない(としか私にはおもわれない)日本の原水爆禁止運動の深刻な状況……」と原水禁運動の現状を評価したことについて、「60年代初頭に生起したこの問題だけを切り離してみるのでなくもっとその後の経緯や運動の背景をふくめ広い視野にたつことが大切とおもいます」と指摘され、そういう広い視野からのコメントを書いてくださっています。
私の文章の目的に関するこの方のご理解については、当たっている点と必ずしも正確ではないと思われる点とがありますので、そのことについて私の正確な意図を記させていただきます。
当たっているのは、私が「日本共産党に「いかなる国」問題についての反省と総括がない」と理解している、ということです。この方のコメントを注意して読んだつもりですが、私が6月20日付のコラムで指摘した金子満広氏の文章にかかわる部分については、私の認識を改めさせていただけるだけの新しい事実関係の指摘はありませんでした。つまり、1973年7月の宮本委員長の発言以外に、「いかなる国」問題に関して共産党による総括があったのかどうか(その点こそが私のもっとも承知したい点です)について、この方は何も触れておられないのです。したがって私としては、「共産党には反省と総括がないのではないか」という判断を今のところはまだ維持せざるを得ないということになります。この点について正確な認識を持ちたいので、御存知の方からさらなるコメントをいただきたいと願っています。 コメントをいただいた内容について必ずしも正確ではないと思われる点とは、私はたしかに共産党の反省と総括がないことが「平和・原水禁運動の国民的統一の障害と停滞」の重要な一因となっていると思っていますが、しかし、この方が理解されておられると思われるような、共産党の反省と総括がないことだけが「唯一の原因」と思っているわけではないということです。つまり、共産党が「障害と停滞」のすべての責任を負うべきだと考えているわけではありません。この方が正確にご指摘のとおり、原水禁運動の分裂と停滞の責任は、分裂と停滞をもたらしたすべての関係者が等しく負っていることを、私は認識しているつもりです。
  しかし私にとって非常に残念に思われることは、こうした分裂の原因についての総括と反省がいずれの側においても行われないままに、その当時を知る人達が歴史の舞台からいなくなるにつれて、正確な事実関係を踏まえた上での総括を行うこと自体が困難になりつつあり、その結果、分裂と対立を生んだ感情的なしこりだけが深く沈殿し、そのことが運動の再統一の可能性を閉ざしてしまっているかのように思われることです。その点について、私は皆さんの注意を喚起したかったのです。
これは、決して私の思いこみではありません。私は、広島の過去を知る人達からお話を伺い、記録にとどめるささやかな作業を続けてきましたが、広島県被団協が二つに分裂した歴史的事実関係すら今や知る人はなく、本来一つであるべき事実関係が対立する双方において異なる内容で伝承されているという状況に遭遇したことがあるのです。
しかし、原水禁運動(その一部としての広島県被団協)の分裂と対立をこれ以上放置したら、つまり、日本の運動が一つの声にまとまることができないのであれば、どうして日本国内の核兵器廃絶の世論を高めることができるでしょうか。日本国内のエネルギーを高めて、日本政府にダブル・スタンダードの核政策を変更させることも実現できないようならば、どうやって世界の核兵器廃絶の世論をリードすることができるでしょうか。
私の認識が間違っているかも知れませんが、この方も指摘されているように、原水協と対立する原水禁を結成する背後にあった社会党と総評は今はなく、社会党の後身である社民党の力量には昔日の面影はありませんし、総評を吸収した連合は原水禁の活動に対して真剣にエネルギーを注入しているとはとても見えません。核禁会議の背後にあった民社党も今や存在していません。ですから総括と反省をする主体的な条件すら原水禁と核禁会議にはないということではないでしょうか。そうであるとすると、当時から組織的に今日につながっている原水協及び共産党に主体的に取り組んでもらうしかないのではないか、と私のような当時の状況を承知していないものは考えざるを得ないのです。
そう考える私が共産党の志位委員長の発言に違和感を覚えざるを得なかったのは、「この時のソ連の干渉をはねのけたからこそ、いまの日本共産党があり、日本の原水爆禁止運動がある」という時の「日本の(今日の)原水禁運動」の実態とは何なのかということでした。志位委員長が「日本の原水禁運動」の現状を肯定的に捉えているであろうことは文脈から明らかですし、この方もご指摘されているように、原水禁世界大会への参加国が近年増えていることは私も注目しています(推測ですが、この現象はニューヨークでのNPT再検討会議最終文書における市民社会の役割に対する高い評価と関係があるだろうと思います)。しかし、仮に原水協主導の原水禁運動が国民的支持を得ているという意味で言われているとすると、それは実態とかなり距離があるのではないかと私は思います。もし原水協を中心とする運動が高い国民的支持を得ているとするならば、たとえば広島県及び長崎県での参議院通常選挙での共産党の得票数及び得票率が他の都道府県と比較してもかなり低いという事実をどう説明するのでしょうか。しかも、今回の得票数及び得票率が特別低かったわけではなく、両県での共産党支持率はずっと低い状況が続いているのです。この方のコメントには、こういう点での私の疑問を解消する内容は残念ながら見当たりませんでした。
私は、あくまで日本の核兵器廃絶運動を含む平和運動の発展を願う立場から、ささやかな問題提起をしているつもりであり、決して日本共産党を「批判のために批判している」つもりではありません。そういう立場から、この方のコメントにあるほかの点についても、いくつかさらに指摘しておきたいと思います。
まず、原水禁運動が分裂した原因は「いかなる国」問題だけではなく、部分核停条約問題やいわゆる反党分子の問題もあったことは、私も書いたことですし、この方が仰るとおりであり、私にはその点の誤解はありません。ただし、この方が強調される「「分裂」の原因は「いかなる国」問題、部分核停止条約問題に対する意見の相違ではなく、意見の相違があっても運動の統一を堅持する立場にたつか、自己の主張に固執しそれを通すために統一に背をむけるかにあったとおもいます」とのこの方のご指摘については、確かに金子満広氏の本を読む限り、共産党が一貫してそういう立場を取っていたことは事実として認識できますが、私がお話を伺った分裂当時の関係者や原水禁関係の方の理解と立場は異なっているように思えます。そして、こういうようなことを含めて、当時の関係者及び運動を継承した人びとの間で忌憚のない意見交換を通じて認識の共有を図る必要があるのではないか、というのが私の偽りのない気持です。
この方はまた、「一方の勢力から他方に対し「社会主義国の核実験はきれいだ」と主張すると事実を歪曲した宣伝が執拗にされました。他の所で紹介された高橋昭博さんの「社会主義国の核実験の灰はかぶってもよいとの発言を聞いた」の真偽はわかりませんが、組織的にそうした主張がされたことはなく「分裂」の責任をめぐってのデマ宣伝のたぐいだとおもいます。」とされています。私が懸念することは、この方は「デマ宣伝のたぐい」ということで片付けられておられますが、共産党の当時の責任者がこういう発言をしたという認識はかなり広範に共有されており、「デマ」ということをはっきりさせる努力はなされてきた形跡がないことです。この問題は「いかなる国」問題にもかかわる点ですし、共産党、原水協に対する広島市民の根深い不信感の大きな原因の一つとなっていることは間違いがないので、デマであるならデマであるという説得力ある解明をされることが必要なのではないでしょうか。
また、「私の体験から、統一の障害になっているのは、理由抜きの「反共主義」ではないかとおもいます」ということもこの方は指摘しておられますが、すでに紹介した志位委員長の発言に私ですら違和感を感じたのですから、原水協、共産党と対立関係にあるさまざまな組織、関係者からすれば、この方が「理由抜きの反共主義」ですべてを片付けてしまうことは、それこそ「共産党の独善主義」という常套的批判を招く原因になっているのではないでしょうか。
この方が指摘し、提起されたすべての論点に対していちいち私の理解を述べることは必要でもないし、生産的であるとも思えません。私の素直な気持ちは、今回の参議院選挙の結果を踏まえ、共産党が党内外の方の意見に率直に耳を傾けて徹底した総括を行う決意を表明していることに大賛成だし、そういう内外の意見の一つとして私が日頃考えていることを申し上げて参考に供したい、ということに尽きるのです。私のこのような意見表明は目障りであり、けしからんと共産党が判断するのであれば、私としては、「それは非常に残念ですが、仕方ありませんね」と引き下がるほかありません。

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