日本共産党への辛口提言-2-

2010.07.19

*参議院選挙での日本共産党の結果は、この「コラム」における「日本共産党への辛口提言-ふたたび埋没することがないように-」でかなり厳しい結果を見込んでいた私の予想をも大幅に上回る、正に惨憺たるものに終わってしまったといわざるを得ないと思います。不幸中の幸いとも言うべきことは、7月12日付で出された共産党中央委員会常任幹部委員会の声明が、「議席と得票に結びつけられなかったことは、私たちの力不足であり、おわびいたします」と、今回の結果が自らの「力不足」に原因するものであることを明確に認めたことだと思います。また、「私たちは、今回の選挙結果を重く受け止めています。…今回の選挙戦について、政治論戦、組織活動などあらゆる面で、どこにただすべき問題があるか、前進のために何が必要かについて、党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意です」という決意を示していること、特に、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け」と、党外の意見にも耳を傾ける姿勢を表明したことには、「災いを転じて福となす」という決意が窺われて、私としては日本の民主政治の将来に対してまだ希望をつなぐことができると思った次第です。選挙結果を踏まえて、さらなる辛口提言を行いたいと思います。私は、前にも書きましたように、共産党の政策理念、基本方向はおおむね正しいと思っているものであり、問題はむしろ「言っていることは正しいのに、なぜ国民の支持を拡大できない(今回は大幅に削減してしまった)のか」という点にあると思いますので、以下においては、私の限られた見聞に基づいて三つの具体的な問題点(と私が考えるもの)を指摘しておきます。前に書いたものと内容的に重複する部分もありますが、その点はお許し下さい(7月19日記)。

<「国民が主人公」を有言実行すること>

私が常々耳障りで仕方がないことの一つに、共産党の幹部のしゃべり方ということがあります。小さなことではないかと思われるかもしれませんが、私には極めて原則的な問題が含まれていると思われるのです。それは、往々にして説教調であり、国民・人びとの目線に立って、一緒に考え、話し合い、相手の気持ち、考え、意見を謙虚に聞いて双方向の話し合いを心がけるという姿勢のなさです。ですから、志位さんがしゃべっても、小池さんがしゃべっても、なんか「生徒が先生に説教されている」ような気持にさせられてしまうのです。もちろん全員がそうであると言っているわけではありません。かつての上田耕一郎さん、今の幹部で言うなら市田忠義さんなどは、見ていても安心感があるし、話し方に聞き手への敬意を常に感じることができます。
それとの関連で、7月18日の『赤旗』に、志位委員長が次のように挨拶したことが載っていたのが非常に気になりました。

「われわれは科学の党であり、正確な綱領をもっていることへの確信は揺るぎないものがあります。…そうした科学の党の精神に立って、何ものも恐れず、自己分析性を発揮して、真理を探究していくという精神で臨めば、必ず前途への方途が見えてくると私は確信しています。総括をほんとうに生きた力あるものとするためには、現場で苦労された支持者や後援会員、党員のみなさん、さらには広い無党派の方々の気持ちを、私たちがどれだけくみあげて、総括に生かすことができるかにかかっています。」

私自身、長い間、独学なのですが、弁証法的に物事を考える癖がついていますし、弁証法には経験的に確信を持っています。しかし、上記志位委員長の発言のように「科学の党」である共産党と言い切り、「何ものも恐れず、自己分析性を発揮して、真理を探究していくという精神で臨めば、必ず前途への方途が見えてくる」と言われると、要するに、「共産党こそが真理を代表するんだ」という従来の立場にはいささかの変わりもないと感じとるしかないのです。これがよく共産党について言われる「独善的な党」というイメージにつながることは改めて言うまでもないでしょう。しかし、そうだとすると、12日付声明の「政治論戦、組織活動などあらゆる面で、どこにただすべき問題があるか、前進のために何が必要かについて、党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意です」(太字は浅井)という発言はどうなってしまったのか、と疑問を感じてしまいます。その関連では、「広い無党派の方々の気持ちを、私たちがどれだけくみあげて、総括に生かすことができるかにかかっています」という発言にもどうしても引っかかります。「くみ上げる」という発想からは「学ぶ」という謙虚さが感じられません。
率直な物言いを許してもらいますが、共産党の指導部の人たちには、中国共産党における伝統である「人民の中へ、そして人民の中から」「人民に学ぶ」「人民のために服務する」などに表される、中国語で言う「群衆路線」(中国語の「群衆」は日本語では「大衆」と訳されるのが一般的ですが、「群衆路線」はもっと本質的な意味であって、乱暴な言い方をするならば、物事の真理性を追求する認識的な方法論でもあり、また、中国共産党の政策立案、遂行、検証全般にわたる運動論でもあります)の要素がどうも欠けている気がします。 これは、両党の歴史の違いから来るものだとも思います。中国共産党は正に人民大衆と共に闘う中で成長し、政権党になったという歴史があるのに対し、日本共産党の場合は、戦前はごく一部の党員の国民から孤立させられた闘いの歴史しかなく、しかも権力による「アカ」意識の扶植によって人民大衆から隔離せしめられてきた歴史の後遺症が戦後も克服されておらず、逆に日本共産党のスタイルからはどうしてもエリート意識(選良意識)が抜けないということではないでしょうか。ですから、中国には西欧的デモクラシーとは違うけれども、中国的民主ともいうべきものが育っています(中国を「社会主義の独裁の国」という受けとめ方が日本では一般的ですが、私はそういう見方には同意できません)。それに対して日本では、せっかく憲法で制度としてのデモクラシーが据え付けられたのに、理念としてのデモクラシーはまったく根を下ろしていません。歯に衣を着せぬ言い方を許してもらうと、日本共産党の民主集中制も、「群衆路線」が欠けているので、どうしても国民、人びとの目から見ると、上意下達のシステムに映ってしまっていると思います。
長くなりましたが、中心的問題は要するに、共産党にとって「国民が主人公」とはどういう意味で認識されているのか、ということです。私には、共産党の幹部の多くの人からは、私が重視する「他者感覚」を感じることができないのです。「国民が主人公」だと言っても、要するに、今の共産党にとっては、国民は働きかけの対象であって、共産党が無限の学びの材料をくみ取る源泉である尊敬するべき「他者」として認識されていないのではないでしょうか。
ついでに触れておきたいことがあります。日中両共産党の間の理論交流が行われていることは、私が前から共産党の関係者に提案していたことで、定期的に行われていることを歓迎しています。一つだけ気になるのは、日本共産党側がもっぱらしゃべり、中国共産党側はもっぱら聞き手に回っているような印象を受けることです。歴史的条件や経済的発展段階が違うから中国側が学ぶことが多く、不破さんが語ったことだけが国内的に紹介される、ということになっているのかもしれませんが、私の中国との接触の経験から言うと、中国の経験から日本が学ぶべきことは非常に多いと思います。ここでも、共産党の幹部の人たちが、日本国民に接するように、中国共産党に対して「教えを垂れる」という感覚で接しているのではないか、という懸念をぬぐえません。「他者感覚」をもって謙虚に接することの重要性を指摘しておきたいと思います。

<現場を尊重し、東京が仕切るのを止めるべきでは>

具体的な例として私がずっと気になってきたのは、毎年開催される原水禁世界大会のことです。大会はもっぱら東京(中央)が実質を仕切り、広島(そしておそらく長崎も)はロジスティックスに専心する、というスタイルが定着しているように見受けられます。これはどう考えてもおかしなことです。東京(中央)が広島(及び長崎)と相談しながら内容を詰め、準備を進めるということは聞いたこともありません。黙々と東京の指令に従って動くことに慣れきった広島側のメンタリティにも重大な問題がありますが、聞くところによれば、広島側の下請け能力は、関係者の老齢化の進行、組織力の弱体化などもあって、数年先には下請け作業をすることもできなくなることが真剣に心配される状況になっています。しかし、東京側の官僚主義傾向は著しく、広島側の問題点を真剣に受け止め、考える雰囲気もないようです。極端な言い方をすれば、こんなやり方を続けていたら、原水禁運動は数年先にはのたれ死にを待つのみでしょう。
以上は一つの例ですが、私は、原水禁運動は、日本における平和運動の一つの重要なエネルギー源であると認識するだけに、東京がすべてを仕切るマンネリ化した現状に対しては、日本の平和運動の展望のない将来の姿とダブって映ってしまうのです。広島にいるこの5年間、原水禁運動に関して共産党がマンネリを打破するべく真剣に取り組んでいる姿を、私は寡聞にして承知していません。
マンネリといえば、2010年NPT再検討会議に向けた共産党と広島の取り組みも、まったくマンネリ化し、行事主義に堕してしまっていました。戦後の原水禁運動の重要な担い手の一つが広島であり、共産党であっただけに、場当たり的な対応ですますことは、両者にとってあり得ないことだったと思うのです。NPTの本質的問題点に関しては、私が外務省で働いていた当時、共産党が極めて正鵠を射た分析と批判を行っていることを今も鮮明に記憶しています。今回の再検討会議に際しては、共産党としてはそういう過去の蓄積を正確に踏まえ、その上での党としての方針を打ち出すべきでした。しかし、志位委員長の訪米報告を読むと、訪米前にはしっかりした具体的な予定も入っていないまま出発したという俄には信じがたいようなことを志位さん自身が言っています。また、広島の取り組みにおいても、NPTの本質的問題点を正確に踏まえた上での取り組みのあり方を考えるべきだったと思います。広島では、署名運動がとにかく重視され、何のためにニューヨークに行くのか、そもそも今回の再検討会議はどういう性格のもので、それにどういう立場からどういう方向性を追求するのか、という基本的なことは、私にはまったく見えてきませんでした。
このほかにも、日本平和運動において重要な地位、役割を占めるべき共産党と広島が憂うべき劣化、退行現象を深めている状況を私は目撃しています。そういう劣化、退行現象が歯止めなく進行するのは、東京(中央)における現場無視の官僚主義的作風の横行が大きな原因になっていることは間違いないと思います。要するに、ここでも中央と現場との双方向の意思疎通が欠落しているのではないでしょうか。それは、すでに述べた「国民が主人公」の形骸化ということにつながっていると思います。

<若いフレッシュなエネルギーはどうなっているのか>

今に始まったことではありませんし、共産党だけの問題でもありませんが、いろいろな集会に伺っても、とにかく私ぐらいの年配者が圧倒的に多く、若いフレッシュな人びとの参加が少ないのです。確かに戦後の文部(文科)行政は「大成功」を収めており、個性ある子どもたちではなく金太郎飴、鋳型にはめられた子どもたちを大量生産しています。もともと集団志向が強く、権力・権威に対して従順に仕立て上げられてきた私たちに対してさらに一貫して権力・権威志向の戦後文部(文科)行政が押しつけられてきたわけですから、日本の子どもたちは本当にかわいそうな状況の中に押し込まれてしまっています。広島には子どもたちを主役に押し上げようとする取り組みもないことはありませんが、本当に良心的な人たちの献身的努力によってかろうじて支えられている状況で、共産党の影・形はありません。
なんとかしてこの閉塞状況を打破しないことには将来に対する展望は開けません。その点について共産党が無為無策であるとまではいいませんが、たとえば、子どもたちを教える立場にある広島の教師たちがおかれた状況は、1998年のいわゆる「是正指導」以来、かなり絶望的であるのに、共産党が真正面からこの問題に立ち向かっているという姿は私にはまったく見えてきません。おそらく広島の状況は全国の縮図なのではないでしょうか。
日本の平和運動の活力を取り戻すためには、とにかく若い力を呼び込むことが不可欠です。しかし、そういう努力が精力的に行われているとはどうしても見えてきません。この問題は、教育全般を視野に入れた根本的な取り組みが求められるだけに簡単ではありませんが、共産党が本気で統制回復さらには飛躍を考えるのであれば、絶対に避けて通ることは許されない問題の一つだと思います。

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