日朝関係の現状と課題:天動説的国際観と他者感覚の欠如

2010.07.11

*7月10日に立命館コリアセンター主催のシンポジウムがあり、「日朝関係の現状と課題」というテーマのもとでお話ししました。「戦後日本外交は、対朝鮮政策を含め、圧倒的にアメリカの影響下にあり続けてきた。したがって、アメリカの国際観を正確に理解しないと、日朝関係の根本的問題点を認識できないと思う。したがって、私の冒頭発言はアメリカに大きな比重を置いたものになることをご理解願いたい。」という前置きで下記の文章を配ってもらいました。実際には、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)がアメリカの核恫喝政策に如何に脅かされ続けてきたかを歴史的に認識しなければ、朝鮮の核兵器開発追求政策の根源的理解はむずかしいという部分の説明が長くなって、下記の部分には詳しく立ち入る余裕がなくなってしまったのですが、ここでは用意した原稿を再録しておきます(7月11日記)。

1.天動説的国際観と朝鮮
-アメリカ的天動説と日本的天動説によって損なわれている朝鮮半島の平和と安定-

 (1)アメリカの天動説的国際観と朝鮮

私は、国際関係というものを、基本的に主権国家を主要な成員(メンバー)とし、相互の主権尊重、互いの内政不干渉を基本原則として、外交、国際法(伝統的にはさらにバランス・オブ・パワー及びかつては戦争)などの制度の働きによって成り立つ国際社会において営まれる諸関係として捉えている。国際社会という概念自体は、日本国内において日常的に使われているが、国際的にいえば必ずしも自明なものではない。私自身は、国際政治学のマーティン・ワイト、ヘドレー・ブル、ジェームズ・メイヨールなどを筆頭とするイギリス学派に多くを学んだものとして、彼らによって展開されてきたinternational societyとして「国際社会」を理解している。しかし、特にアメリカにおいては、international societyという用語はまず使われない(チャールス・ベイツの『政治理論と国際関係』(Political Theory and International Relations)のような理論的著作におけるinternational societyに対する本格的洞察は数少ない例外だと思う)。そもそも、「民主主義の時代が到来するまえに形成された、諸国家からなる国際社会という概念は、本質的にアメリカの体験になじまないもの」(メイヨール)である。アメリカで支配的な概念はan international systemであるか、the international communityである(両者は明確に異なる概念として観念され、使用される)。オバマ政権においてもinternational societyという捉え方はなく、あるのはan international systemであるかthe international communityであるかのいずれかである。そして結論を早取りすれば、そういう用語の取捨選択は、「アメリカを中心にして世界は動く」的な天動説的国際観の反映そのもの、というのが私の理解である。すなわち、アメリカが主権国家の対等平等を中心内容とするinternational societyという地動説的国際観を我がものにしない限り(国家主権という概念そのものは肯定的に承認するのだが、そういう国家間の対等平等性、したがって内政不干渉原則となると、アメリカは拒否反応を示すことは後述の通りである)、アメリカの朝鮮に対する高圧的な政策が根本的に改まる見込みはなく、したがってアメリカの強い影響下にある日朝関係が正常化する可能性は乏しいということになる。
国際社会つまりinternational societyは17世紀の欧州において誕生し、第一次世界大戦及び第二次世界大戦を経て地球規模に広がって今日に至っている。国際社会が「社会」として成り立っているのは、すでに述べたように、成員(メンバー)である国家が互いの主権を尊重し合い(主権尊重)、互いの内部事項については干渉しない(内政不干渉)、という基本原則が承認されていることに立脚している。他方アメリカは、その独立宣言に由来する自由(価値観)の体現者として、その自由(価値観)獲得の「経験がアメリカだけではなく人類全体のモデル(「丘の上の町」)であるという根深い信条」(メイヨール)にとらわれてきた。そういう信条(天動説的国際観)は、主権尊重、内政不干渉の原則を基本とする国家関係の対等平等を前提とする地動説的国際観とは本質的になじまない(2007年2月に出されたいわゆる第2アーミテージ報告では、内政不干渉を「時代遅れの概念」と断じている)。具体的には、アメリカの国力が弱小である時代には、モンロー主義として、アメリカ大陸を専制腐敗の欧州列強の支配から隔離するという政策を追求したが、第二次世界大戦後においては、世界規模でその価値観を押し広げる政策(具体的には反共反ソ政策)を追求することになった。
確かにアメリカの主張を待つまでもなく、人間の尊厳、基本的人権、(理念としての)デモクラシーは普遍的価値である。しかしその普遍的価値が地球上ですべての個人によって享有されるためには、各国を束ねる中央政府が存在しない国際社会においては、各個人が属するそれぞれの国家の具体的条件に応じた工夫が必要である。その工夫はそれぞれの国家における主権者である個人の総体(総意)によって決定されるべきものであり、アメリカが自らの「鋳型」を押し付けるべき筋合いのものではない。要するに、価値としては普遍的であるが、各国における現れ方(具現化)はさまざまであることが承認されなければならない。
ところがアメリカは、第二次世界大戦を経て「自由主義陣営」の盟主を自任して以来、自らが解釈する「普遍的価値」を他国に押し付けることにためらいがなくなった。そして米ソ冷戦終結後に登場したクリントン政権は、自らの解釈する「普遍的価値」として人権とともに「市場民主主義」market democracyという概念を持ちだし、アメリカを中心とし、これらの「普遍的」価値を共有する国家からなる「国際(民主国家)共同体」the international community (the community of democratic nations)の概念を前面に押し出すことになった(ちなみに、日本外務省は、international communityを「国際社会」と訳している)。クリントン政権にあっては、例えばロシア、中国は今後「国際共同体」に引き入れられるべき存在として位置づけられた。他方でクリントン政権は、共産主義の脅威に代わる危険要素の一つとして「ならず者国家」rogue statesという範疇を登場させた。「ならず者国家」として名指ししたのがイラン、イラクと並んで朝鮮である。そして、アメリカの言いなりにならない「ならず者国家」に対してはアメリカ一国による場合を含む武力行使の可能性を公言した。1993~4年の朝鮮半島の一触即発の軍事的危機はその一例だった。いずれにせよ、自らが特定の意味を付した価値観を「普遍的」価値として掲げ、これに従うものは共同体の一員として認めるが、これに従わないものは共同体に敵対する「ならず者国家」として排除、軍事力行使の対象とする政策こそ、アメリカ一流の天動説的国際観の具体化そのものである。
この天動説的国際観はブッシュ政権にも引き継がれ、より露骨になった。「市場民主主義」という概念はブッシュ政権に引き継がれなかったが、「国際共同体」the international community及び「ならず者国家」rogue statesという概念はそのまま引き継がれた。ブッシュ政権において「市場民主主義」に代わって持ち出されたのは、「テロリストによる暴力と混乱という共通の危険による結合」である。このように概念の中身が恣意的に変更を加えられることにより、テロリズムに対する闘いにおいては共通の立場に立つロシア、中国は「国際共同体」の一員として包摂される道筋が付けられた。他方9.11を契機として国際テロリズムと強引に結びつけられた「ならず者国家」は軍事的脅威と特定された。イラクによる大量破壊兵器開発をこじつけ理由とする2003年の対イラク戦争はその嚆矢だった。朝鮮も2002年のいわゆるウラン濃縮疑惑などを理由としてブッシュ政権の敵対的政策にさらされた(中国外交による6者協議によってかろうじて事態の最悪化がチェックされた)。
オバマ政権はこれまでのところクリントン及びブッシュ政権と比べれば、天動説的国際観を振りかざすことに自制的ではある。しかし、international societyは決して使わず、an international systemとthe international communityとを意識的に使い分けていることに明らかなように、アメリカを世界の中心におく天動説的国際観に立っていることは間違いない。また、オバマの大統領就任前に核兵器開発の一線を越えた朝鮮に対しては、早々と圧力行使の政策に踏み切った(これは、核兵器開発意図を否定しているイランに対する外交交渉の余地を残すアプローチと比較するとより明らかになる)。以上の点をもう少しくわしく見ておきたい。
オバマがan international systemを如何に認識しているかを理解する格好な発言があるので紹介する。

「すべての国家の主権を尊重しつつ協力を促進するan international systemについてのアメリカの関心について話す。国家主権は国際秩序の土台でなければならない。すべての国家が自らの指導者を選ぶ権利を持つと同じく、国家は、安全な国境及び自らの対外政策に関する権利を持たなければならない。…これらの権利を譲り渡すいかなるシステムも無秩序につながる。だからこそこの原則をすべての国家に適用しなければならない。…しかし、いかなる国家も21世紀の挑戦に独力で対処することはできないし、欲することを世界に押し付けることもできない。アメリカはこのことをいまや理解している…。だからこそアメリカは、特に各国の利害が異なるときは、各国が平和的に自らの利害を追求するan international system-人間の普遍的権利は尊重され、それらの権利に対する侵害が反対されるシステム、すべての国家が明確な権利義務という同一の基準によって拘束されるシステム-を求める。」(2009年7月7日にモスクワで行われたオバマ演説)

この発言で注意するべき点は主に二つある。一つは、オバマは、クリントン及びブッシュと異なり、国家主権が国際秩序の土台、国家の国境に対する権利、国家の外交権を明言するなど、アメリカの意思を他国に一方的に押し付けることについてはより自制的であることが窺われることだ。しかし第二に、「すべての国家が明確な権利義務という同一の基準によって拘束されるシステム」という考え方に重大な落とし穴が潜んでいる。国際社会においては、一般の社会と同じく「合意は拘束する」原則が適用される。しかし、オバマのいう国際システムにおいては、合意の有無にかかわらず適用されるべき義務が内包されているのだ(イランの核開発問題とのかかわりでは、IAEAが作ったがイランは受け入れていない「厳格な査察」(追加議定書)の適用をオバマはイランに迫っており、それをイランが受け入れる場合にのみイランが原子力平和利用の権利を持つとする。このような押しつけは国際法無視であり、オバマの主張には明らかに無理がある)。ここには、すべての成員(メンバー)の対等平等を基礎に成立する「国際社会」という概念を受け入れた場合のアメリカの不都合から、国際関係を機械的な(アメリカにとって都合の良いように操作できる)「システム」として捉えることへのこだわりが透けて見えるし、オバマも本質的に天動説的国際観から自由でないことが理解される。
なお、the international communityに関しては、イラン及び中国との関係で、「我々は、イランが、政治的及び経済的にthe community of nationsで正当な地位を占めることを希望する」(2009年4月5日のプラハ演説)、「私は、中国がthe community of nationsの強力で、繁栄し及び成功した成員(メンバー)となる未来を確信している」(2009年7月27日のオバマの米中関係に関する演説)などの言及があることに留意したい。つまり、オバマにおいてthe community of nationsは実在するものとして認識されており、イランも中国もそのcommunityには属していない存在、しかし今後の振る舞い(アメリカのメガネにかなうこと)如何によっては一員として認められる可能性がある存在として認識されている(ただし、イラン制裁の安保理決議1929が採択された2010年6月9日に、オバマは、「これらの制裁は、中東における核軍備競争は誰の利益にもならず、(イランが)世界的不拡散体制に挑戦することについて責任を負わされるというthe international communityの一致した見解を示している」と述べ、communityの中にロシア及び中国を含めている)。
朝鮮はどのように遇されてきたか。オバマがプラハ演説を行った直前に、朝鮮は人工衛星打ち上げのロケットを発射した(2009年4月5日)。朝鮮としては、宇宙条約をはじめとする国際法上の権利に則って行った「後ろ指を指されるいわれのない」行動だった。ところがオバマは、プラハ演説で、明らかにアメリカ一流の天動説的国際観に立って、次のように朝鮮を一方的に断罪した。

「ルールに基づいて行動する国家の権利を否定するいかなるアプローチも成功しない。…しかし、我々は幻想を持つわけにはいかない。ルールを破る国家はある。したがって我々は、いかなる国家がルールを破るときにも、それらの国家が報いに直面することを確保する枠組みが必要だ。
正に今朝、この脅威に立ち向かう新しい、より厳格なアプローチが必要であることを思い起こされた。北朝鮮は、長距離ミサイルに使用可能なロケットを発射することにより、またもやルールを破った。この挑発に対して行動する必要がある。今日午後の安保理においてだけではなく、これらの兵器の拡散を防止する我々の決意においてもだ。
ルールは拘束力がなければならない。違反は処罰しなければならない。言葉には中身がなければならない。世界は、これらの兵器の拡散を防止するために共に立ち上がらなければならない。いまこそ強力な国際的対応の時だ。北朝鮮は、安全と尊敬への道は脅迫と違法な兵器を通じては絶対に実現しないことを知らなければならない。すべての国々がより強力でグローバルな制度を作るべく一緒になるべきだ。そうすることにより、肩を組んで、北朝鮮に進路を変えるように圧力をかけるべきだ。」

オバマ政権登場以来の米朝関係の動きは詳述する時間がないが、巷間伝えられているような、米朝関係の緊張・悪化はすべて朝鮮が仕掛けて起こる、という理解は当たっていないというのが私の判断である。米朝関係の悪化は、優れてアメリカの天動説的国際観に起因しており、米朝関係を好転に向かわせるためには、アメリカがその自己中心の国際観を改め、国際社会として国際関係を見る地動説的国際観を我がものにし、朝鮮を対等平等な存在として位置づけることから始めなければならない。そのための国際的な枠組みは、アメリカも加わった6者協議という形ですでに用意されている。6者協議における問題解決を通じて、アメリカに天動説的国際観がもはや通用しないことを認識させることが不可欠である。

(2)日本の天動説的国際観と日朝関係

アメリカは天動説的国際観であることを見てきたが、日本もまた天動説的国際観によって縛られているし、そのことが日朝関係に暗い影を落とし続けてきたことが理解されなければならない。
 アメリカの天動説的国際観と日本のそれとを比較した場合の最大の違いは、アメリカの場合は曲がりなりにも普遍的価値という、人間個人または人間社会の思想・行動の当否を判断する客観基準-モノサシ-が存在する(したがって、その普遍的価値に照らして自らの独善的な天動説的国際観を修正する余地がある)のに対し、日本の場合は、普遍的価値という概念そのものが元々なく、そこにあるのは赤裸々な「権力・権威信仰」であり、国際関係に関してごくおおざっぱに類分けすれば、華夷秩序(~徳川時代。中心は中国)、脱亜入欧から大東亜共栄圏(戦前。中心は天皇)、パックス・アメリカ-ナ(戦後~現在。中心はアメリカ)に代表されるように、横の関係ともいうべき国際社会に対して、縦の関係ともいうべき権力支配の構図が日本人にとって慣れ親しんだものだった(したがって日本の場合は、普遍的価値の存在を我がものにしない限り、自らの思想・行動の当否を判断する客観基準-モノサシ-ががなく、天動説的国際観をただすことはむずかしい)。
 たしかに明治維新及び第二次世界大戦敗戦は、日本人の天動説的国際観を根本的に改める絶好の機会を提供した。特に、第二次世界大戦後には日本国内にも人権・デモクラシーという普遍的価値が本格的に「持ちこまれた」(平和憲法制定)から、日本人が真摯に歴史の教訓を学び取り、国家の主権尊重、内政不干渉の原則を根本にする国際社会という国際観を我がものにしていたならば、その後の日朝関係の歩みは大きく変わっていたことと思われる。
 しかし、天皇中心からアメリカ中心にだけ座標軸をずらすことによって根本的に無傷のまま維持された戦後日本の天動説的国際観の下で、アジア(特に朝鮮)蔑視は伏流し、日本と朝鮮半島の関係は不幸な歴史をたどらざるを得なかったし、特に日朝関係は、日本側が諸悪の責任は朝鮮にある(日本側には非はない)とする立場に頑固に固執しているがゆえに、今日に至るも解決の糸口すら見いだせていない。
 だが1990年の三党合意(日本の自民党と社会党及び朝鮮の労働党の間で結ばれた合意)を見ても、あるいは2002年の平壌宣言を見ても明らかなとおり、日朝間の最大の懸案は日本による朝鮮に対する植民地支配の清算及び償いである(その中には、戦時中における強制連行やいわゆる従軍慰安婦の問題が含まれなければならない)。日本が朝鮮に対して犯した侵略・植民地支配を謙虚に受け止め、真摯に反省し、心から謝罪し、誠意をもって償わなければ、日本人が天動説的国際観から地上説的国際観に切り替わることはできず、真に対等平等な日朝関係の基盤は生まれようがないのだ。
 ちなみに、自民党政権の時もそうだったが、民主党政権になっても、対朝鮮政策が好ましい方向に変化する兆しは皆無である。むしろ管首相は、G8サミットにおいて先頭に立って朝鮮を難詰する役割を演じ、不可解な点が多々ある「天安」事件においても李明博政権を全面的に支持した。朝鮮(及び中国)ににらみを利かす日米軍事同盟に関しても、小泉・ブッシュ時代に強行された有事法制・「2+2」合意に基づく日米軍事同盟のさらなる再編・変質・強化路線に邁進する構えだ。

2.他者感覚の欠如と朝鮮

実は、国際観における天動説は他者感覚の欠如に由来するものである。「他者感覚」とは、丸山眞男によれば、「他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目」ということだ。丸山の思想を解説した石田雄は、「他者を内在的に理解することは困難だが、困難だからこそ理解しようとする努力が必要だ、しかし努力したから理解できたと思うわけにはいかない。このようにして「他者感覚」は永遠の・無限の課題とならざるを得ない」という。
 私自身、外交実務を経て他国を他国として、しかも他国の内側から理解することなしにその他国理解はあり得ないし、その他国と日本との関係を生産的に営むことはできない、という認識を我がものにした。それは対人関係においても成り立つわけで、正に丸山のいう「他者感覚」を私は外交実務の場の中で知らぬ間に身につけていたのだと思う。
 しかし、他者感覚がないと(他者を他者として承認し、尊重する意識がないと)容易に天動説的国際観に染まってしまう。その典型は、アメリカが自らの核政策を正当化し、そのミサイル防衛を正当化する際に使っている次のような主張だ。

「アメリカ人にとって、大量破壊兵器、特に暴力的極端主義者が目指す核兵器及び他の国々への拡散による危険ほど大きな脅威はない。そうであるからこそ、我々は、諸国家の権利及び義務に基礎をおく包括的不拡散及び核の安全保障のアジェンダを追求している。我々は、自らの核兵器庫と核兵器への依存を削減しつつ、我が抑止力の信頼性と有効性を確保している。我々は、不拡散の基礎としてNPTを強化しつつ、NPTを通じて、イランや北朝鮮などの国々が国際義務に違反することに対して責任を負わせる。」(2010年5月「国家安全保障戦略」)

 ここには、アメリカの核戦力こそが世界の平和と安定に対する最大の脅威であり、そのアメリカから威嚇されるがゆえに身構えざるを得ないイラン及び朝鮮の切羽詰まった立場に対する恐ろしいほどの無関心と無理解がある。アメリカが他者感覚に基づく地動説的国際観を我がものにしない限り、事態の打開への道筋は生まれるべくもないだろう。
 他者感覚の欠如は、自分の発想を他者も共有するに違いない、という醜悪な形にまで発展する。

「北朝鮮及びイランの弾道ミサイル能力に対するアメリカの防衛誓約は、それらが脅威であるという同盟国や友好国によって共有されているアメリカの認識に基づくものだ。北朝鮮とイランは、国際規範を軽蔑し、the international communityに逆らって不法な兵器計画を推進し、その行動と声明において極めて挑発的である。…抑止は強力な道具であり、アメリカは、これらの新しい挑戦に対して抑止を強化してきた。しかし、強力な攻撃的対応という脅迫による抑止は、政治軍事的危機時にはこれらの国々に対しては有効でない可能性がある。リスクを冒す(risk-taking)指導者は、ミサイルでより大きな危害を加える力を証明するに十分なほどに敷居を高くすることができるならば、対決においてアメリカと渡り合えると結論づけるかもしれない。それ故に、アメリカのミサイル防衛は地域的抑止を強化するのに不可欠なのだ。」(2010年2月「弾道ミサイル防衛見直し報告(BMDR)」)

イラン及び朝鮮に対しては先制核攻撃の選択肢を残そうとするオバマ政権であるがゆえに、イラン及び朝鮮の指導者も機会さえあれば軍事手段に訴えようとするだろう、と考えてしまうのだ。しかし、アメリカの圧倒的な核・通常戦力をまえにして、イランや朝鮮の指導者が「リスクを冒す」としたら、次の瞬間にはアメリカの圧倒的な戦力によって国家は灰燼に帰するのである。仮に金正日がアメリカの指導者並みに好戦的であるとしても、彼我の軍事力の圧倒的優劣という現実のまえに、「いかなるリスク」を取ることがあり得るのか。結論は赤子でも明らか、といわなければならない。
日本における「北朝鮮脅威論」(「中国脅威論」も大同小異)も、「北の核ミサイルが飛んできたらどうする?」(「中国は軍事費を増やしているから脅威だ。外洋型海軍に変わりつつあるから脅威だ」)というたぐいの議論であり、「北朝鮮(中国)は何をしでかすか分からない」という発想に立っている点で、根本的にアメリカの見方と同工異曲である。私たちが考えなければならないのは、朝鮮(中国)という他者自身の立場に自らをおいて、朝鮮(中国)から見た世界はどう映っているかについてできる限り想像力を働かせることである。アメリカ及びアメリカに全土を基地として提供して全面協力する日本、そして朝鮮の場合にはさらに韓国も加わって襲いかかろうとしている。それが実態なのだ。
私たちは、他者感覚を我がものにすることによって、アメリカに盲従する姿勢を根本的に改めることの重要性に始めて気づくことができるだろう。そうしてはじめて、朝鮮半島の平和と安定を実現する道筋を展望することができるし、日朝関係の正常化に向けて大きく歩み出すことができるはずである。

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