日米安保体制の問題点と目指すべき日米関係

2010.07.03

*6月19日に東京で日米軍事同盟と民主党政権の下での日米関係のあり方についてお話しする機会がありました。主催者がテープ起こしをしてくださったので、若干手直しをしたものが以下に紹介する文章です(7月3日記)。

1.日米安保体制の問題点

 (1)平和憲法と両立しえない「日米安保条約」

 最初に、日米安保の歴史的背景についてお話ししたいと思います。元々日本国憲法とは両立し得ない存在である日米安保がなし崩し的に形を変え、中身を変質させて、平和憲法を空洞化させてきていること、その背景には日米両政府による一貫した仕掛け、ないしは仕組みが働いてきた、ということがポイントです。
日米安保体制を考えるとき、大きくは三段階に分けて考えることができます。第一段階は、一九五二年〜六〇年の旧日米安保です。旧日米安保は、〈独立〉の代償として、日本国憲法、戦争を完全否定した憲法九条があるにもかかわらず、それとは両立しえない代物であったにもかかわらず、押しつけられました。いいかえると、日米安保を飲まなければ日本は〈独立〉を回復できなかった。私たちは一九五二年を機に、平和憲法と本質的に異質なものを抱え込んだわけです。日本に本物のデモクラシーが機能していたならば、まずは主権者である国民に憲法改正の是非を問い、その承認を得た上で、改正憲法と整合性がある日米安保条約を締結するというプロセスが取られなければなりませんでした。しかし、当時の吉田政権は、とても憲法改正に国民の支持が得られる状況ではなかったために、「解釈改憲」という手段に訴えて憲法に風穴を開け、日米安保を抱え込むという手段に訴えたのです。
 第二段階は、一九六〇年六月一九日に自然成立した改定安保、いわゆる一九六〇年安保です。旧日米安保は、米ソ冷戦の激化を背景に、「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する」、すなわち米軍が日本全土を基地として完全に自由使用できるという内容のものでした。これは岸信介のような右翼的なナショナリストにとっても耐えがたい屈辱的なものだった。ですから少しでも相互対等的な条約にしたいというのが岸信介の考え方でした。岸は、NATO並みの完全に双務的な条約を作るために憲法改正に訴えたかったのですが果たせず、その結果、六〇年安保は「いずれか一方に対する武力攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法条の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」(第五条)という形でアメリカが日本防衛にコミットする、そしてその見返りに、日本は基地を提供することによってアメリカが極東で軍事的な事態に対処できるようにする(第六条)という内容で、苦しい「双務性」を図ったのでした。
 しかし結局、六〇年安保というのはいわば外枠を作ったに過ぎず、日本がアメリカの基地として有事に機能できる体制(有事法制と国民動員計画)を整えないと、つまり「戦争できる国」にならないと、役に立たないわけです。しかし、当然のことながら、戦争を禁じた平和憲法の下では有事体制づくりはできないから、安保は当然動かせない(アメリカは日本を基地として軍事作戦が行えない)。そのことを顕在化させたのが一九九三年から九四年における朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の「核疑惑」といわれるものでありました。朝鮮の核疑惑に対して、アメリカは朝鮮に対する大規模な戦争を仕掛けようとした。このときはカーター元大統領が平壌に飛び、金日成と話をつけて戦争は土壇場で回避された、ということになっています。しかし実際のところ、アメリカとしては、一つは三八度線上に展開する朝鮮の砲火によってソウルが火の海にさらされることは避けられない、二つ目に、それを無視して戦争を始めたとしても、日本にはアメリカの戦争継続を長期にわたって支援する体制ができていないことが判明した。そういうことで、アメリカとしては朝鮮攻撃をあきらめざるをえなかったということです。
しかし、この教訓に学んだアメリカは、日本に対して「戦争できる国になれ」という圧力をかけ始めました。すなわち、一九九四年一一月のいわゆるナイ・イニシアティブを皮切りに、一九九七年の新ガイドライン策定、一九九八年の周辺事態法制定、そして二〇〇一年に米日に登場したブッシュ、小泉両政権の下において、有事法制(二〇〇三年~四年)そして「2+2」(日米安全保障協議委員会:SCC)による三つの合意文書(二〇〇五~六年)による日米軍事同盟の変質強化ということになっていきました。

(2)第三段階に入った日米軍事同盟

 この有事法制(日本の国内法)と2+2諸合意(日米両政府間の政策文書)による日米安保条約の実質的改定(つまり、条約より下にあるはずの日本の国内法及び法律よりさらに下にある日米間の政策文書で上位法である条約の中身をかえてしまい、それを通じてさらに憲法の空洞化を進めること)による日米軍事同盟の変質強化というのは、本来いかなる法治国家でもありえないことです。日本を戦争が可能な国にする、あるいはアメリカの戦争に日本が共同戦線をとるというような体制づくりは、本来、憲法を改正し、六〇年安保条約を改定しなければできないことです。しかし、そのような挙に訴えたら、日本国内はそれこそ蜂の巣をつつく騒ぎになる。そこで出てきたのが日本の国内法と日米間の政策文書で「実を取る」という違憲そのものの行動でした。憲法違反が明確な有事法制などが強行されてしまった背景には、一九六〇年当時とは異なる国民世論の保守化現象や、積み重ねられた「解釈改憲」によって平和憲法の空洞化が進んでしまったという事情が働いていました。
そういう大変なことをやってのけたことを自ら認めているのが、「ブッシュ・小泉共同声明 新世紀の日米同盟」(二〇〇六年六月二九日)という文書です。これは小泉首相が辞任直前にアメリカを訪問したときに出来たものです。ここには「日米の安全保障協力は、弾道ミサイル防衛協力や日本における有事法制の整備によって、深化してきた」、「日米同盟を将来に向けて変革する画期的な諸合意が行われたことを歓迎した」とあります。つまり、本来なら憲法改正、日米安保改定を経て実現すべき軍事同盟の変質強化を、もっぱら日本国内の有事法制の整備によって実現したと勝ち誇っているのです。
 これは本来ありえないことです。この点については国内でほとんど議論がないので繰り返しますが、条約の内容を、国内法によって変えてしまうということです。憲法は条約、国内法より上に立つものです。憲法は、条約が国内法の上に立つと定めています。ですから条約の中身をその下位法である国内法によって変えてしまうということは許されない。それが行われてしまったということです。私のような外務省に居た者、それも条約局で過ごした者は、国内法で条約の中身を変えてしまうことは憲法違反であって絶対に考えてもいけないと、それはもう口をすっぱくして教えられました。それを、小泉政権の下で、外務省は率先してやったわけです。
 この有事法制の中身ですが、武力攻撃事態対処法、国民保護法、そして武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律、通称、対米軍事支援法、この三つがとくに重要な法律です。これらにおいて何が定められたか。かいつまんで説明しますと、たとえば、この武力攻撃事態対処法には、「アメリカ合衆国の軍隊が実施する行動が円滑かつ効果的に行われるために実施する物品、施設又は役務の提供」とあります。つまりこれによって、アメリカがこの施設が必要だ、あの港を使用したい、この物品が欲しい、この役務を提供しろと言ってきた場合には、政府の判断で、私たちの意志如何にかかわらず、差し出すということになります。一九五二年の旧安保が日本全土を基地にできるとし、それが六〇年の改定条約によって、日本政府が提供するところに限ってアメリカが利用することができるように限定されたわけですが、この武力攻撃事態対処法によって、日本は自らアメリカに対して、アメリカが必要だとする施設はすべて提供することになった。また、有事の際には全土基地提供方式に戻るということです。
 それをさらに具体化しているのが対米軍事支援法で、第一五条(土地の使用等)というところを見ますと、「合衆国軍隊の用に供するため土地又は家屋……を緊急に必要とする場合、当該土地等を使用することができる」とあります。私たちがいやだと言っても、使うときは使うという根拠がもう出来ています。それからもう一つあげますと、民間の港湾、空港について、二〇〇五年一〇月二九日の2+2「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書で、日本がアメリカに提供することを明記しています。この文書は当時「中間報告」と言いくるめられたものです。
「中間報告」とは、まだ地元の合意がとれていない日米両政府間の仮の合意という意味合いで言われました。つまり、これを最終的なものにするには、地元の合意を得なければならない。だからこれはまだ最終のものではない、ということで「中間報告」と言っていました。しかしその後明らかになったことは、日米両政府間ではこの「中間報告」が最終合意文書だったということです。日本政府が地元とどう協議するかは日本政府の内部の問題であって、アメリカの関与するところではない。この合意文書に盛り込まれた日本政府の約束、例えば辺野古や岩国について地元をどう説得するかという問題はもっぱら日本の国内問題で、アメリカとしては日本政府の手並み拝見、ということなのです。その状態が今でも続いているわけです。

(3)日米軍事同盟の侵略的本質

 この「中間報告」に、「日本は、日本の有事法制に基づく支援を含め、米軍の活動に対して、事態の進展に応じて切れ目のない支援を提供するための適切な措置をとる」とあります。「事態の進展に応じた切れ目のない支援のための適切な措置」とはなにか。これはようするに、日本に対する攻撃がいきなり起こるわけではない。朝鮮半島や台湾海峡で有事(戦争)が起こる。これが「周辺事態」とされます。戦争がエスカレートしてくると日本にいる米軍に対しても反撃が及んでくるだろう。するとそれが日本にとっては「武力攻撃事態」、あるいはその手前の「武力攻撃予測事態」ということになる。これがよく自民党や民主党の指導部が言う、「北朝鮮が攻めてきたらどうする」、「中国が攻めてきたらどうする」ということの内容です。つまり、周辺事態から武力攻撃予測事態さらには武力攻撃事態への「事態の進展」は継続して発展するわけです。それに対処する米軍の軍事行動に対しては、日本としては「切れ目のない支援」の措置を取る必要がある、というのが以上の文章の意味することです。
しかし今お話ししたように、そもそもいきなり朝鮮や中国が理由もなく日本に攻め込んでくるわけがないのです。どうして朝鮮が日本に牙を剥くのか、中国が日本に牙を剥くか。それは、アメリカが朝鮮を攻撃するから、アメリカが台湾海峡で中国と戦争を始めるから、ですね。その場合に日米軍事同盟によって日本がアメリカに協力する、つまり日本はアメリカと一緒になって朝鮮、中国に戦争を仕掛ける立場に立つ、ということになる。
 ところがこの有事法制は、そういう出発点、つまりアメリカが朝鮮、中国に対して戦争を仕掛けるというところを故意に隠して、あたかもいきなり日本が「攻撃される」(実は、朝鮮、中国の反撃の矛先が日本にも向けられるということ)というところから始まっているわけで、そこに一大ペテンがある。私たちは、アメリカに、朝鮮に対する戦争を起こすな、中国に対する戦争を起こすなと言うべきです。そういうことに日本の基地は使わせない、と条約上の権利として拒否することができるのです。そうすれば有事にはなりえない。ところが自民党政権も民主党政権も、「北朝鮮脅威」や「中国脅威」を言いつのって、対米軍事協力にのめり込もうとしているわけです。
 この「中間報告」について付け加えたいのは、「切れ目のない支援」という箇所の下に、「一般及び自衛隊の飛行場及び港湾の詳細な調査を実施し、二国間演習プログラムを強化する」とある点です。今、みなさんも御存知のように日本の各地の港湾、横須賀だけではなく横浜港、東京港にも米国艦船が寄港しています。全国各地の民間港湾をアメリカの艦船が「友好訪問」しています。「友好」とは名ばかりで、ようするに「この港は米軍基地にできるかどうか」を調べているわけです。いま、核密約の存在が明らかになり、横須賀そして佐世保にアメリカの核兵器の持ち込みがあったという重大な事実を、岡田外務大臣も認め、二つの市に出向き自ら謝罪しております。しかし、有事、準有事になれば、日本のあらゆる港がアメリカ艦船の基地にさせられる可能性がありますから、どの港にも核兵器が持ちこまれるということです。我々は基地の問題だけに目が向きがちですけれども、港湾を持っているというだけで、何時なんどき核兵器が持ち込まれるか分からない状況になっています。その点もよく知っておいていただきたいと思います。

2.目指すべき日米関係

 (1)オバマ政権の軍事政策

 では、なぜアメリカは日本をこのような「戦争する国」にすることに熱心なのでしょうか。そのことを理解するためには、アメリカの軍事戦略を知ることが必要だろうと思います。とくに二〇〇九年にオバマ政権が発足し、その年の四月の「核のない世界」を目指すとしたプラハ演説などによって、なにか彼にかんして平和をめざす大統領が誕生したというような美しき誤解、オバマ神話とでもいうべきものが、日本国内ではとくに蔓延しているように思います。特にブッシュは非常に好戦的な人物だったことの反動もあり、オバマになってアメリカが少しは変わるかもしれないという期待があるわけです。人権派だから、マイノリティだからと、オバマに期待できる要素は、数えればいくつかはあります。私も、アメリカの内政に関しては、オバマ民主党政権がブッシュ共和党政権に比べれば、社会的弱者に対してより目配りした政策を行う可能性はあると思っています。
 しかし、対外政策特に軍事政策についてはどうでしょうか。プラハ演説でオバマは、「核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意」があると言いました。「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」と。しかし続けて、「私の生きている間には核兵器はなくならないだろう」とも言っている。行動する道義的責任があるとは言いましたけれども、核兵器のない世界を実現するために行動する、と言ったわけではないのです。最近では、「私の政権では核兵器はなくならない」とも言っている。ようするに、「核兵器のない世界を目指す」というのはビジョンであって、政策ではないのです。そして「核兵器が存在する限り、アメリカは…安全かつ効果的な核兵器を維持する」と言っています。要するに、オバマ政権も核抑止力堅持の政策なのです。
 さらに、オバマは二〇〇九年一二月一二日、ノーベル平和賞を受賞したその受賞演説で「世界に邪悪は存在する」として、戦争を公然と肯定しました。そしてオバマ政権は、今年の二月に「四年毎の国防見直し(QDR)」報告を発表しております。ここでは「危機を顧みない指導者は、ミサイルで危害を加える能力を誇示することによって勝負をかけることができるならば、アメリカと対決できる、と結論を下すかもしれない」と述べています。「危機を顧みない指導者」とはイランや朝鮮のことを言っているのですね。抑止力の問題はここでは論じる余裕がありませんが、アメリカの圧倒的な核・通常戦力をまえにして、どうしてイランや朝鮮の指導者が戦争を仕掛けるという自殺的行動を取るでしょうか。一九四一年の東条英機が対米開戦を決意したときには、アメリカの軍事力によって日本全土が壊滅させられるということまでを考慮に入れる必要はまだありませんでした。彼としては、持久戦に持ちこんで、少しでも有利な条件で停戦に持ちこむということだったのです。しかし、今のアフマディネジャドにしても金正日にしても、アメリカに戦争を仕掛けたら、次の瞬間にはアメリカの圧倒的な核・非核戦力でイラン、朝鮮全土が灰になってしまうことを知り尽くしていますから、そんな馬鹿なことをするわけがありません。これが一九四一年と二〇一〇年との軍事的な違いなのです。
このQDRはまた、「中国のミサイルは、地域におけるアメリカ及び同盟国の軍事施設にも到達できる」と言っています。たしかに中国の中長距離ミサイルは、日本さらにはアメリカ本土に到達する能力を持っています。しかし、能力があることと攻撃を仕掛ける意思があるかどうかということはまったく別問題です。中国は軍事力の現代化に力を入れています。しかし、それはアメリカが台湾問題で中国との戦争シナリオを考えるから身構えているのです。中国沿海部の経済発展はめざましいですが、内陸部や農村部の発展はまだまだこれからの課題で、中国としては、アメリカと戦争して、せっかく三〇年間でようやく緒に就いた経済的発展をフイにする余裕がないことは明らかです。
 このように、オバマ政権もそれまでの政権と同じく、アメリカは正義であり、アメリカが行う戦争は正しい、非はイラン、朝鮮、中国にあるという一方的な主張で通している。自らの戦争肯定政策こそが、世界の平和と安定を損なう最大の原因であるということが分かっていない。こういう自分を中心にして世界は回っているという考え方を、私は天動説的国際観と名付けています。アメリカは、オバマ政権になっても相変わらずこの国際観に基づいて軍事政策を行っているのです。
それからもう一つ、オバマ政権は「核態勢報告」(NPR)という文書を四月に出しました。そして、民主党政権のもとでいわゆる「核密約」の存在が明らかにされました。そこまではいいとして、その後に岡田外相がどういう発言をしているかご存じでしょうか。彼は、「鳩山政権は非核三原則を守ります」とは言いました。しかし続けて、「国民の安全が危機的状況になってもあくまで(非核三)原則を守るのか、例外をつくるのか、鳩山政権として将来を縛ることはできない」、「一時的寄港を認めないと日本の安全を守れないという事態がもし発生したとすれば、そのときの政権が政権の命運をかけて決断し、国民のみなさんに説明するということだと思う」と発言したのです(三月一七日の衆議院外務委員会)。佐世保港への核兵器持ち込みが明らかになって佐世保市に謝罪に行った彼は、そこでも同じ発言をして、佐世保の人たちの怒りを買ったことが長崎新聞に報道されていました。私たちが問わなければならないのは、なぜ岡田外相がそういうことをあけすけに言うのか、ということです。それは正に、オバマ政権になってもアメリカは日本への核兵器持ち込みの可能性を明らかにしていることと関係があると、私は判断しています。
すなわちNPRには、「東アジア及び中東では、アメリカは二国間同盟…や前方軍事展開及び安全保障を通じて拡大抑止を維持してきた。冷戦が終結したとき、アメリカは、太平洋地域から前方展開の核兵器を撤去した(海軍艦船及び一般目的の潜水艦からの核兵器撤去を含む。)その時以来、東アジアにおける危機時に関しては、中央の戦略軍事力及び核システムの再配備能力に依拠してきた」という記述があります。また、「アメリカは、冷戦終結以来、非戦略的(即ち戦術的)核兵器を大幅に削減した。今日、欧州に限定された数の前方展開核兵器及び、世界範囲の同盟国及び友好国に対する拡大抑止を支援するために海外配備向けとして少数の核兵器を米国内に貯蔵している」という記述もあるのです。
これらはようするに、いつでも核兵器を日本に持ち込むと言っているということです。ということは、アメリカの核政策と核兵器の持ち込みを禁じている非核三原則とは両立しないのです。ですから、岡田外相は、将来的に核兵器の持ち込みを認めるべく、非核三原則の見直しを強くにおわせているというわけです。ですから、日米軍事同盟、安保関係に関しては、私は自民党政権も民主党政権も同じ穴のムジナと言うしかないと思っています。

(2)日本に対する軍事的脅威は存在するか

 そこでみなさんにも考えていただきたいことは、日本を守るためには日米安保が不可欠だ、という議論があるわけですが、本当にそうなのかということです。さきほど上映されたDVD(「どうするアンポ」小林アツシ監督作品)の中でも、「脅威がなかったら軍事同盟など必要ない」という議論をする方もおられました。しかし、日本の国内では、「北朝鮮の脅威があるじゃないか」、あるいは「中国の脅威があるじゃないか」という議論が声高に叫ばれる現実があります。私も、朝鮮や中国の軍事的脅威というものが実在するのであれば、それはそれなりに考えねばならないと思うのですが、私は先ほどすでに述べましたように、「北朝鮮脅威」などというものは虚構・作り話であると確信を持っておりますし、「中国脅威論」もアメリカにひきずられた、根拠のないものであると断言できます。
 申し上げておきたいのは、朝鮮がむやみに日本に攻めてくるという戦争シナリオは、アメリカも持っていないということです。あれだけあらゆる戦争のシナリオを考えて対策を考えておかなければ気が済まない戦争狂のアメリカですら、朝鮮が仕掛けて始まる戦争は想定していない。同じように中国が日本にいきなり仕掛けて始まる戦争シナリオもアメリカにはありません。くりかえしになりますが、アメリカが朝鮮、中国にちょっかいをかけなければ、アジア・太平洋で戦争は起こらないのです。それをしっかり知っておいていただきたいと思います。
 朝鮮に関してもう一つ念押ししておきたいのは、朝鮮が戦争を仕掛ける国かどうかということと、拉致問題や不審船問題などを通じて醸し出された、朝鮮は何をしでかすか分からない国というイメージとは、はっきりと区別して考えなければいけないということです。何か不愉快な、あるいは私たちを不安にさせる出来事は起こるかもしれない。しかし、日本に対して戦争を仕掛けたら、次の瞬間には朝鮮は灰になるのですから、戦争を仕掛けるということは絶対にありえない。金正日にとって唯一の財産は朝鮮民主主義人民共和国という国しかない。国が滅びてしまったら何のための戦争かということになります。私たちは、私たちの側が絶対的に善であり、悪いのは相手国だと考えるのが常であります。私にいわせれば、アメリカも相当な天動説ですが、日本も負けず劣らずの天動説です。しかし、国家は大小、強弱、貧富の差にかかわらず、国際関係においては対等平等であります。ですから私たちは、国際関係を考える場合には、地動説に立たなければいけない。相手の立場から見たら国際関係はどういうふうに見えるか。朝鮮から見れば、この国際社会は弱肉強食の世界であり、朝鮮は正に、アメリカ、日本、韓国という猛獣によっていつ何時かみ殺されてしまうか分からないハリネズミなのです。ハリネズミがどうしてライオンや虎や狼に襲いかかるというのでしょうか。

(3)民主党政権と日米軍事同盟

 民主党は、岡田外相にしても北沢防衛相にしても、鳩山首相(当時)にしても、政権を執る前から「北朝鮮は脅威だ」と盛んに言い募っていました。政権与党になってもまったく変わっていない。もう一つの最近目立ってきた現象として、ことさらに中国の脅威性を喧伝するようになってきています。明らかに彼らは、「中国脅威論」、「北朝鮮脅威論」さえぶち上げれば、国民は自分たちについてくると読んでいるのです。残念ながらそうした脅威論を否定する者ははるかに少数ですから、それを梃子にして、小泉自民党・ブッシュ共和党両政権の下でつくられた、有事法制と2+2の諸合意を民主党政権も、オバマ民主党政権と一緒になってしっかりと守っていく、ということになっているわけです。今年一月一九日の「改定安保五〇年に際しての『2+2』共同声明」、これは自民党政権の対米政策を三党連立政権の下でもそっくりそのまま踏襲するという内容です。
 そしてさらに駄目押しが行われました。鳩山首相が辞める直前の五月二八日に「2+2」共同声明を出しました。そこでは普天間基地機能の辺野古への移転についても明記しています。そして菅首相は、これはもう変更しないと所信表明で公言しました。ですから今後は、「沖縄」対「民主党政権」の最終決戦という局面に突入していくということになると思います。
 しかし私たちとしては、「沖縄」対「民主党政権」の対決の構図にとどまらせておくのではいけない。日本におけるあらゆる米軍基地の問題の矛盾の集約点として辺野古問題を考えなければなりません。たしかにいまの日本における世論状況は複雑かつ曖昧です。つまり、憲法九条も大事だけれども日米安保も重要、九条は変えるべきではないけれども日米安保はあった方がいい、という人がむしろ多数派である状況があります。これは、冒頭に述べたことから確認していただけると思いますが、本来ありえない考え方です。憲法九条の立場に立つ限り、日米安保という軍事同盟を肯定するということはありえない。にもかかわらず、六〇%以上の国民が憲法九条も日米安保も必要という状況があります。ところが、沖縄の米軍基地機能を地元に移すという話が持ち上がれば、どこの地域でも猛烈な反対の声が上がっています。少し考えれば、これもおかしいことです。本当に日米軍事同盟が日本の安全を守ってくれていると考えるのであれば、そのための負担を分担することに納得しなければおかしいわけで、自分のところに米軍基地を受け入れることに応じるべきはずです。しかし、日米安保賛成の人でも、米軍基地は自分のところには絶対来てほしくないという。
こういう一件矛盾した動きを分析すると、多くの日本人の「日米安保賛成」は実のところ、日米安保を「おまじない」としか受け止めていないということではないでしょうか。なぜ私のところに基地が来るのは絶対困ると思うのか。それはつまり、日本に基地はいらないということでしょう。ということは、日米軍事同盟、日米安保は要らないということではないでしょうか。日本人は物事を突きつめて考えるのが苦手なので、感情の次元で流してしまうことが多いのですが、米軍基地願い下げ論の根っこを掘り下げていくと、日米軍事同盟・日米安保不要論に行き当たるということではないかと思います。そういうマグマを掘り起こしていくことが私たちの課題ではないかと思います。

(4)めざすべき日米関係

 最後に「めざすべき日米関係」について、簡単にお話ししたいと思います。これは皆さんには釈迦に説法ですけれども、私たちは日本国憲法という大変素晴らしい成果物を持っている。私たちが日米安保体制、あるいは日米軍事同盟に代わる国際関係のあり方をゼロからつくり直し、提起し直すとしたら大変な作業です。しかし私たちは幸いなことに、日本国憲法前文と憲法九条という確かな手がかりを持っています。しかもこれは、一九四七年につくられたものとはとても思えない、二一世紀さらにはその先を見通した内容です。正にこれからの国際社会の進路を指し示している。本当に素晴らしい内容です。私たちにとって答えは用意されており、私たちにとっての課題はこれを如何にして生かしていくかということだけなのです。日本がその気になれば、主権者である私たちがその決断さえすれば、日米関係のあり方を根本から変えることができる。そのことによって世界に平和をもたらすことができる。私はそう考えています。
ただ、そういうふうに私たちが主権者としての意識をしっかり持つうえで克服すべき課題として二つの問題があります。ひとつは国家観の問題です。つまり、国家をどういうものとして私たちの中において位置づけるのか。国家といったとたんに、こいつは右翼じゃないかというような短絡的な議論がでるのですけれども、私は、外務省というところで実務をやってきたこともあるのかもしれませんけれども、国家観のない安全保障論とか、国家観のない平和論とかいうものは本当に馴染めません。今まで私たちがなぜ国家というものを毛嫌いしてきたかというと、国家が私たちを支配し、指図してきたからです。それは「国家を個人の上に置く」国家なのです。しかし私のいう国家は、「個人を国家の上に置く」国家です。私たちは国家の主人公ですから、いかに日本という国をして国際社会に関わらしめるかという発想を持つべきだと思います。そして日本国憲法、これはすぐれて日本国という国の基本法であり、その国がどうあるべきかという中身を固めたものですから、国家なくして憲法はないわけです。ですから、国家というものをいかに自らの問題として考えるか、ということが大事であると思います。
 もうひとつは、平和観の問題です。これは、私たちの運動のあり方にたいしての問いでもあります。私たちは平和憲法に基づいて戦争のない世界をめざす、日本は軍事力を持たない、そうした価値観をつちかってきました。しかし、「北朝鮮が攻めてきたらどうするか」といわれると、とたんに受け身になってしまうわけです。しかしそれは、私たちがつきつめて平和というものを考えてこなかった証ではないでしょうか。九条があったから日本は平和であったとか、九条があったから私たち日本人は人を殺さなかったし殺されなかった……そういった平和観に、私は心から違和感を覚えます。米軍基地が密集する沖縄の人々、日本から出撃したアメリカ軍によって爆撃を受けたベトナムの人々、アフガニスタンやイラクの人々にいわせれば、何という手前勝手な理屈だということです。アメリカに基地を使わせておいて自分(本土の人間あるいは日本人)の手はきれいだと、そんなきれい事が成り立つかということです。これはほんの一つの例ですけれども、私たちはしっかりした情勢分析に基づいた地べたに足を据えたたくましい平和観を鍛えなければならない。どのような議論にも筋道を通して対抗できる平和観を自らのものにしなければ駄目だということです。
 それから、菅首相の安保・外交観はかなり危険だということを、最後にはっきりと申し上げておきたいと思います。菅首相は2002年に「究極的自立外交試案」という文章を書いております。そこで非核三原則を変えるべしと明言している。やはり私たちはそういうところも見過ごさず、彼が今後どのような外交安保論をしてくるのかということを見極めなければならないと思います。ただ私は、菅、小沢、前原、こういった民主党のトップの人々と、一年生議員、草の根の平和運動との接点をもつ議員たちとの間では、安保観や平和意識はかなり違うと今の段階では感じています。私の地元に近い岩国の民主党選出の議員なども、民主党トップと地元の板挟みになって非常に苦しんでいる状況がある。沖縄の民主党選出の議員も、いざとなったら民主党を抜ける覚悟だ、と公言する状況があります。民主党を一枚岩というふうに考えない。草の根の民主党議員にたいしてはきちんと、「俺たちは厳しく見ているぞ。指導部に対してハッキリもの申せ」と言っていく。それが必要ではないかということも申し上げたいと思います。
 いろいろ争点はありますけれども、おそらく民主党は、この参議院選挙で、基地問題については焦点隠しを狙うのではないかと思います。けれども私は、この問題がこれからの日本の行く末を決める最重要な問題であり、投票のさいの判断基準に是非していただきたいと思います。

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