日米関係及び国際関係のあり方を再考する

2010.07.03

*最近、21世紀の長期的展望を視野に入れて日米関係についてある雑誌に寄稿する機会がありましたので、ここに載せておきます。民主党政権も自民党政権と同じく展望はないが、私たちが平和憲法に確信を持ち、これに立脚する方向へ日本の舵取りをすれば国際平和に大きく寄与することができるという私の年来の確信を改めて述べたものです(7月3日記)。

1.敗戦及び日本国憲法による可能性と国際権力政治による現実政治支配

 日米関係のあり方を考える場合、私たちはともすれば日米安保条約(1952年締結、1960年改定)を所与の前提として、つまり日米安保体制の存在を受け入れたうえでその先を考える傾向が強いと思われる。しかし、歴史をさかのぼれば、日米安保条約によって日本の平和と安全を確保するという考え方は、日本が独立を回復する1952年までは決して自明なことではなかった。むしろ、世界初の原爆投下を受けて無条件降伏に追い込まれた体験を持ち、侵略戦争によってアジア諸国を含む国際社会に対して重大な加害責任を負った日本は、それまでとはまったく異なる国際環境の下において、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」(日本国憲法前文)、戦争を放棄し、戦力を持たないまったく新しい国家のあり方(憲法第9条)、従来の国家の概念からすれば革命的とすら言える国家としての生き方を目指すことを打ち出したのである。
 「それまでとはまったく異なる国際環境」については若干の説明を必要とするだろう。それは、それまでの国際関係を支配していた権力政治に代わり、「諸国民の公正と信義」つまり脱権力政治を基調とする国際関係の支配を意味する。権力政治の最大の特徴は力(なかんずく軍事力)の支配であり、「平和は力の裏付けがあってのみ確保され、維持され、(失われた場合には)回復される」という、いうならば「力による平和観」に立っている。これに対して日本国憲法が根拠をおく国際関係は、二度にわたる世界大戦と広島及び長崎に対する原爆投下を体験した人類の平和的生存は、諸国民の公正と信義に依拠しており、伝統的な権力政治(その根底にある力による平和観)によっては国際の平和と安定は実現され得ず、国際の平和と安定は「力によらない平和観」に基づいてこそ確保され、維持され、(失われた場合には)回復されるとする確信に存立の根拠を求めている。
また、ルネッサンス、宗教改革、フランス革命などを経て人間存在の固有の尊厳が承認され、第一次及び第二次世界大戦を経て普遍的価値として承認されるにいたって、こと国内生活の次元においては、人間の尊厳(その表れとしての人権・デモクラシー)と親和性を持つ平和観は「力によらない平和観」のみであるということが国際的に広く承認されるに至っている(今や人権・デモクラシーを標榜しないようないかなる政権も国際的に正統性を主張し得ないというのは、正にそれ故である)。
 また、「従来の国家の概念からすれば革命的とすら言える国家としての生き方」についてもやはり若干の説明が必要だろう。17世紀の欧州に起源を持つ国際社会は、主権国家を基本的な成員(メンバー)とし、メンバーである国家の関係を束ねる中央政府を持たない、いわば「政府なき社会」である。このような国際社会は、中央政府を持つ国家において成立する国内社会とは異なるさまざまな特徴を持つ。特に国内社会においては、個々の成員(メンバー)である国民(あるいは市民)は、自らの生命と安全を自ら守る(自救)のではなく、公権力(司法・警察)に暴力装置を集中して、公権力によってその生命と安全を守らせる仕組みを発達させてきた。しかし国際社会においては、国家における公権力に当たるものが存在しないために、個々の成員(メンバー)である国家は、自らの平和と国家としての生存を自らの力によって守る(自救)以外にない状況にとどまってきた(確かに国連憲章においては国連軍に関する規定を設けたが、ほとんど機能するに至っていない)。しかし、日本国憲法は、広島及び長崎の教訓を踏まえ、日本が巻き込まれるような現代戦争は、核戦争の可能性を含め、勝者のあり得ない共滅戦争であるから、もはや「戦争は政治の継続」ではあり得ず、日本の国家としての平和と生存は、自衛のための軍事力によらず、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」確保するというまったく新しい生き方・安全保障観を取ることを明らかにしたのである。
 確かにその後の日本の進路は厳しいものがあった。1947年に日本国憲法が施行されるようになる頃から本格化した米ソ冷戦、中国における内戦での共産党の勝利、朝鮮戦争の勃発などによって日本を取り巻く国際環境は急激に権力政治突出の様相を深め、日本を占領支配していたアメリカは対日政策を激変させた(平和民主国家創出から親米反共国家扶植)。具体的には、日本の再軍備、独立回復と引き替えの日米安保条約押しつけ(事実上の対日軍事支配の継続)、要するに日本国憲法が予定していた力によらない平和観に基づく平和民主国家の建設から日米安保条約を基調にした、力による平和観に基づく親米反共国家としての対米従属路線の推進であった。こうして、戦後日本を支配してきたのはアメリカが圧倒的な主導権を握る権力政治の横行であり、日本国憲法が予定した国家のあり方の革命的な変革の可能性は完全に奪いあげられてしまった。

2.自民党政治の破産と日米関係の方向性の模索

 戦後の日本政治の大半を牛耳り、親米反共路線を推進した自民党政治もまったく無為無策であったというわけではない。岸信介政権が強行した1960年の日米安保条約改定は、党内の右翼的ナショナリズムを代表する勢力による、自主憲法制定及び対米自主平等性回復を目標とした政策的試みであった(結果的には憲法改正には踏み込むことはできず、対米自主権の回復も極めて限られた内容にとどまらざるを得なかった。むしろ、アメリカによる核持ち込みについて譲歩するなど、今日まで続くいわゆる核密約問題を生み出した)。また、1990年の湾岸危機以後今日に続く日米軍事同盟の一連の流れは、アメリカ側の要因(国際経済力の相対的衰え、増大する財政的困難、米ソ冷戦終結を受けた世界的軍事覇権)と日本側の要因(湾岸危機以後の軍事的国際貢献論の増大、北朝鮮脅威論・中国脅威論を利用した国内世論誘導、小泉・ブッシュ政治のもとで推進された日米軍事同盟の変質強化、以上三つの流れを受けて勢いづいた保守攻勢)とが相まって、今や日本列島全体がアメリカ発の戦争体制に動員される仕組みにまで作り替えられるに至っている。
 自民党の戦後政治支配は、皮肉なことに「自民党をぶっつぶす」と呼号して政権を取り、6年近くにわたって政権を担った小泉「改革」政治の破綻(そして確かに小泉「改革」が推し進めた伝統的な自民党支持基盤の破壊)によって崩壊した。そこで本質的に問われているのは、1980年以来の自民党政治が推進してきた新自由主義路線が国民経済・生活に持ち込んだ破壊的影響(契約社員問題に代表される労働問題、高齢者医療制度・介護保険制度・障害者自立支援法などに代表される社会保障問題、さまざまな形で噴出している農漁林問題等々)、「安全保障は国家の専管事項」という名目のもとに進めてきた日米軍事同盟の変質強化(その具体的現れの一端が普天間基地移設問題、岩国基地への艦載機移設問題に代表されるいわゆる在日米軍基地移設問題であり、核密約問題であらわになった横須賀、佐世保などに対する核搭載艦船の寄港・立ち寄り)という二大矛盾である。
 注目しなければならない事実は、新自由主義路線そのものがもともとアメリカ(及びイギリス)発の新自由主義に基づく世界経済の一体化路線(いわゆるグローバリゼーション)であるということであり、要するに上記二大矛盾の根幹にあるのはアメリカであるということである。つまり、今日の私たちに問われていることは、一つは、経済を新自由主義を推進するアメリカの手に委ねたままでよいのか、という問題であり、今ひとつは、日本の平和と安全をアメリカが圧倒的に支配する日米軍事同盟に委ねてよいのか、という問題である。  それでは、自民党に代わって政権を取った民主党を中心とする連立政権(以下、民主党政権)は、この二つの問題に対して私たちが納得できる回答を用意していると言えるであろうか。そもそも「政権交代」さえすれば、これらの問題が解決するというような簡単な問題であろうか。私は、こういう視点から民主党政権の政策を観察してきたが、今やはっきり答えを示すことができる。つまり、民主党政権によっては、経済問題も、安全保障問題も、根本的に解決されることはあり得ないであろう。私がそのように判断する理由は以下の通りである。
第一、民主党政権の安全保障政策は自民党政権のそれを忠実に継承するものであり、変更を窺わせる材料はゼロだということである。鳩山政権が発足した直後に岡田外相は、いわゆる核密約についての事実関係を究明することを命じて多くの国民の支持を集めた。しかし、その結果が公表されたあとの鳩山政権の核問題に関する対応は、自民党政治を踏襲するのみならず、事態によっては将来の政権が非核三原則を見直すことがありうることを積極的に予断することに踏み込むなど、自民党政権時代以上に反動的な姿勢を明らかにしている。 民主党政権が日米同盟に固執する何よりもの証拠は、改定日米安保条約50年に際して日米安全保障協議会(「2+2」)が公表した日米関係閣僚による共同発表(1月19日)である。そこでは、「日米同盟は、過去半世紀にわたり、日米両国の安全と繁栄の基盤として機能してきており、閣僚は、日米同盟が引き続き21世紀の諸課題に有効に対応するよう万全を期して取り組む決意である。」と記しており、過去半世紀における日米同盟を全面的に評価する(つまり、自民党政治を全面的に肯定する)とともに、21世紀においてもこれを堅持する姿勢を明確に確認している。
 民主党政権成立以来の普天間基地移設問題をめぐる迷走ぶりにおいても民主党政権の対米追随姿勢が際立っているが、普天間基地移設先候補に取りざたされる地方自治体が例外なく強烈な拒否の姿勢を明確に表明していることは、当事者の主体的認識如何にかかわらず、「そもそも在日米軍基地が必要なのか」という根本的な疑問の客観的な反映である。そこには、日米同盟を当然視し、その枠組みの中でしか物事を考えられない民主党政権と、在日米軍ひいては日米軍事同盟が日本の平和と安全に本当に不可欠なのか、攻撃性・侵略性を高める日米軍事同盟はむしろ日本ひいては国際の平和と安全に資さないのではないかについて疑問を抱きはじめた民意との間の重大な齟齬が生まれていることは明らかである。在日米軍移設問題において問われるべきは、日米軍事同盟の根幹をなす日米安保体制を21世紀においても維持するべきかどうかについての国民的な議論を尽くすことであろう。
 第二、国民が自民党から民主党への政権交代を選択した最大の理由の一つは、「コンクリートから人へ」を掲げた民主党に対する人々の期待にあったことは間違いないところであろう。ここでも民主党政権は当初、鳴り物入りで行ったいわゆる事業仕分けというパフォーマンスで高い国民的関心を獲得することに成功した。しかし、その結果はどうであったかというと、もっともメスを入れなければならない二つの領域(防衛関係と大企業関係)は聖域として温存し、したがってその内容は自民党政権時代の新自由主義路線をより露骨に推進するものとしての本質を際立たせるものとなった(事業仕分け人として選任されたものの多くが新自由主義路線の信奉者、推進者であったこともよく知られている)。
 確かに障害者自立支援法の抜本的見直しを約束するという注目すべき動きがないわけではない。しかし、総じて見れば民主党政権が公約に掲げたマニフェストはおしなべて看板倒れであり、鳩山首相及び小沢幹事長の自民党政治家に負けず劣らずの金権体質と合わせ、鳩山政権及び民主党自体の支持率の一貫した低下傾向は、多くの国民が民主党政権に見切りをつけつつあることの端的な表れと見るほかない。

3.原点回帰によってのみ切り開かれる21世紀の日米関係

「政権交代」というマスコミをも巻き込んだ政治的熱に浮かされて半年余の時間を浪費した国民が、今や正面から問われなければならないことは、21世紀における国際環境の中で、私たち主権者が日本という国家をどのように舵取りしていくのか、国際社会の中での日本の進路をどのように設定するのかという根本問題である。最近の世論調査の動向を見ると、「みんなの党」に対する支持率が高まるなど、多くの国民が相変わらず根本問題に正面から向き合うのを避け、弥縫策に望みをつないで糊塗しようとする傾向を窺わざるを得ないが、私としては、韓国、台湾、タイ、フィリピンなど近隣アジア諸地域で力強く民意を表明するデモクラシーの流れを、日本社会もいい加減本気で我がものにするべき時が来ているのではないかということを問題提起したい。
 そもそも、20世紀から21世紀にかけての国際社会を特徴づけるもっとも重要な要素とは何だろうか。一つは、広島、長崎への投下で始まった、人類の意味ある生存をいつ何時脅かすとも限らない核兵器の出現である。第二は、地球上のあらゆる地域を相互に分かちがたく結びつけた相互依存の深まり(アメリカ発のグローバリゼーションと国際的な相互依存の深まりを同一視する向きもあるが、私は、政策的産物である前者と歴史的客観的発展である後者とは峻別するべきものと考える)である。そして第三は、人類の意味ある生存を危殆に瀕せしめる、そして一国単位の対応では解決することができず、全地球的対応が求められる地球環境保全という人類的課題の登場である。
 このような国際環境の巨大かつ本質的な変化を考えるとき、私たちは、20世紀までの国際社会を支配した権力政治及び力による平和観にもはやとどまっていることは許されないことを痛感しなければならない。そして、21世紀の国際環境が私たちにまったく新しい平和観に立つことを求めていることを認識しなければならないのだと考える。そこで私は読者に、改めてこの文章の冒頭の部分に立ち返ることを促したい。
 確かに日本国憲法が前提とした国際環境は1947年当時には存在しなかったかもしれない。しかし、21世紀初頭の今日、「それまでとはまったく異なる国際環境」が現れていることは誰もが否定し得ないことではないだろうか。国際的相互依存の深まりのもとにおいて、もはや権力政治及び力による平和観は地球上の問題解決に資するどころか、むしろ問題の深刻化を生み出すのみであることは、1990年代以後のアメリカの軍事行動が端的に証明している。日米軍事同盟も例外ではあり得ない。また、新自由主義は経済における力による平和観の表れとして、私たちが主体的に克服することが求められていることも付言しておきたい。要するに、人類の意味ある生存を確保するためには、人間の尊厳と親和性のある力によらない平和観を、一国単位ではなく世界単位で実現することが求められている。
そのことは同時にまた、日本の国際社会とのかかわり方に対しても大きな方向性を示している。「従来の国家の概念からすれば革命的とすら言える国家としての生き方」が今こそ日本に求められているのである。米ソ冷戦が国際関係を支配する国際環境に代わり、核兵器の脅威、国際的相互依存の深まり、地球環境の破壊的影響が圧倒的な重みを持つ21世紀以後の国際環境においては、日本国憲法を持つ日本は、力によらない平和観に立脚した国家のあり方・生き様を国際社会に対して率先垂範するべき立場にあることを最後に指摘しておきたい。

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