日本共産党への辛口提言
-ふたたび埋没することがないように-

2010.06.13

*参議院選挙が近づいてきました。私は、近年機会があるごとに、平和憲法にいかなる立場を取る政党であるか、日米軍事同盟に対してきっぱりした立場を取る政党であるかどうか、国民生活を破壊し尽くしてきた新自由主義路線に真っ向から立ち向かう政党であるかどうか、以上三点を基準にして主権者としての投票行動を決めることを呼びかけてきました。そういう視点からする時、日本共産党が地方選挙のみならず、国政選挙で躍進することが不可欠であると思っています。
そういう立場の私から見る時、最近の共産党のあり方について、「これでは有権者(主権者)の支持を獲得できないのではないか」と思わざるを得ないことが出てきています。敢えて辛口のエールを同党に送る所以です(6月13日記)。

私は、もはや民主党政治には一切の幻想を持っていない。確かに、衆参両院の一年生議員の中には、市民運動出身者をはじめ地域、職場その他の基層レベルと接点を持つ者も多く、憲法意識についても明らかに改憲志向が強い自民党議員とはちがう傾向を示している(2009年8月20日付毎日新聞及び同年9月1日付共同通信が報じた、民主党及び自民党の衆議院総選挙の全候補者あるいは当選者を対象にした憲法意識調査結果による)。また、沖縄選出議員や、広島に近い岩国選出の民主党議員の中には党本部・政権と選出基盤・地元との狭間で苦悩する議員も少なくない。しかし、民主党を牛耳るトップレベルの人々は、「親小沢」か「反小沢」かにかかわりなく、自民党と大同小異、五十歩百歩で、変わり映えがしない。特に平和・安全保障の面では、改憲志向、日米軍事同盟肯定、「核の傘」必要(非核三原則邪魔者扱い)、生活・くらしの面では、大企業優遇、消費税増税、新自由主義路線であり、自民党とほとんど変わるところはない。こと非核三原則に限っていえば、「国是」にこだわらざるを得なかった自民党のような歴史的しがらみを持たない民主党のトップレベルは、虎視眈々と2・5原則化を狙っている点で、自民党より悪質ですらある(たとえば、『月刊現代』2002年8月号所掲の菅直人「救国的自立外交私案」は、非核三原則の2・5原則化を公然と主張している)。
 より根本的にいって、私は小選挙区制によるいわゆる「二大政党政治」には根本的な疑問を持っている。民意が多様化を強める時代・21世紀における代議制デモクラシーのあり方として、比例代表制(少数政党乱立を防ぐための一定の足切り条項は必要かもしれないが)あるいはかつての中選挙区制は小選挙区制よりはるかにデモクラシーの本道を行くものであり、その方向に向けた選挙制度の改革を真剣に考えるべきだと思う。
 そういう大前提を述べた上で、私は、間近に迫っている参議院選挙において、日本政治がこれ以上劣化し、悪化することを防ぐために、日本共産党が躍進することを心から願っている。なんといっても、今日の日本の政党の中で、その政策、主張の中身が日本社会の直面している重要諸課題に対してもっとも本質的な回答を用意している点では共産党がダントツであり、私の頭の中にもっともすっきり入ってくるのは共産党の諸主張である。社民党指導部は、護憲の立場(ただし、日米安保肯定)であり、普天間基地移設問題で筋を通して連立政権と手を切った点を評価するが、日米軍事同盟に対する根本的姿勢はあいまい、参議院選挙では相変わらず当選目当てで民主党との協力を模索するなど、どうも今ひとつ信用できない。社民党支持者の中には良心的な人々が多いだけに、社民党指導部の姿勢が余計に不安視されるのだ。
 私はすでに述べたとおり、今度の参議院選挙での共産党の躍進を心から願ってはいるが、しかし、いまの共産党の取り組みを見ていると、躍進はおろか、現状維持すらむずかしい厳しい状況にあるのではないか、と考えざるを得ない。共産党に必要なことは、やや抽象的な言い方を許してもらうならば、目線(座標軸)の転換、歴史に対する謙虚な姿勢、そして真実にこだわる姿勢を堅持することではないだろうか。せっかく多くの国民及び日本に住む人々の立場に立った良い内容の包括的かつ一貫した政策を持っているのに、なぜ浸透しないのか、という問題に共産党が真剣に目を向けない限り、このままでは「党勢停滞」が続くことになってしまうことを恐れる。以下では、「共産党躍進」のために、具体的事象に即して、共産党自身に考えてほしい問題点の提起を試みる。

<共産党の目線を通して物事を見るのにとどまるのではなく、国民・人々の目線を通して物事を見ること>

 共産党の志位委員長は、2010年のNPT再検討会議の機会に訪米して核兵器廃絶を促進するための活動を展開し、また、アメリカ国務省の日本担当課長等とも会談し、普天間基地移設問題に関して、在日米軍基地の全面撤去を要求する多くの国民世論を踏まえた明確な党の立場を伝えた。共産党委員長の訪米は初めてであり、国務省に乗り込んで担当者と直接話をするのも初めてだったという。
 私は、共産党が在日米軍基地の完全撤去をアメリカ側にはっきり主張したことは極めて正しいし、100%支持する。しかし、この問題の扱い方(志位委員長の訪米報告)において、共産党は終始共産党の目線で物事を見ており、国民・人々の目線で物事を見たらどう受け止められるか、ということに考えが及んでいないのではないか、という印象を強く感じてならない。また、赤旗の報道によって判断する限り、多くの党員・支持者も同じ目線に縛られているとしか受け止められない。この共産党と国民・人々との間の目線の違いということに共産党及び党員・支持者が気がついて、国民・人々の目線に即した訴え方を我がものにしないと、いわゆる「無党派」を中心として共産党への支持・共感は広がらないし、参議院選挙でも得票を伸ばすことはできないのではないかと思うのだ。
 具体的にいうと、まず、共産党委員長が訪米したこと、アメリカ政府関係者と会談したことは共産党にとっては党の歴史上初めての大事件だろう。しかし、一般的な感覚からいえば、「ああ、そう」「だからどうなの」ぐらいのことでしかないと思う。下手をすると、「今ごろになって初めて訪米なの?」と呆れてしまう向きだっているのではないか。ところが、赤旗を読んでいると、共産党側の「大事件」感覚は一般人にも共有してもらえるという思い込みが働いているように感じられてならない。確かに、共有してもらえるならば共産党に対する期待度向上(参議院選挙での投票行動)に結びつくことはあり得ようが、どう見てもそうではないのだから、ここにすでに共産党と国民・人々の目線の違いが露呈してしまっているのではないか。簡単に言ってしまえば、多くの国民・人々にとっては、志位訪米はそんなに「大事件」ではないのだ。
 さらにいうと、訪米した志位委員長が、鳩山首相を冷遇したオバマ大統領(あるいは岡田外相を手玉に取ったクリントン国務長官)と会見したというようなことだったら、例えオバマ(あるいはクリントン)の発言内容がつれないものであったとしても、その会見自体は、国民・人々の目線からしても「大事件」だっただろうし、共産党に対する期待度は格段に高まり、投票行動に直結するという期待感を共産党が持ったとしても不思議はなかっただろう。しかし、志位委員長を応対したのは国務省のメア日本担当部長(日本の外務省でいえば課長クラス。ちなみに、同人は、日本部長になるまでは在沖縄総領事)でしかなかった。アメリカ政府の「高官」でも何でもないのだ。
率直なことをいえば、私は志位委員長の相手をしたのがメアだと知ったときには、「アメリカは共産党にはずいぶん横柄、失礼だな」と思った。もっとも、2009年に志位委員長がプラハ演説をしたオバマに書簡を送ったときに、アメリカ政府から返書が来たとして共産党は大きく扱ったが、あのときも返書の差出人は課長クラスであり、私は、小なりとはいえ、日本の公党の党首に対してアメリカ政府はずいぶん失礼な対応をするな、と思ったのであり、しかし同時に、アメリカ政府における共産党の位置づけはこの程度のものかと認識した。今回もそういう対応だったのだ。私は、共産党はこのような失礼なアメリカ政府の対応に怒るべきであったと思うのであって、決して大喜びをすることではなかったと思う。オバマ、クリントンは無理だとしても、最低限、日本の外務省でいえばアジア太平洋局長に当たるキャンベル国務次官補が志位委員長の相手をすることを要求し、それを受け入れないならば、会談を拒否する共産党であってほしかった。
以上のことから私が何を言う必要を感じているのかといえば、志位委員長の訪米の「成果」を全面に押し出して共産党に対する国民の支持を広げよう、参議院選挙で躍進しようと共産党は頑張っているが、国民の多くにとってはそれほど目をむくほどのこととは受け止められていないのであって、私としては、共産党の躍進に結びつくとはとても思えない、ということだ。私が、共産党の目線と国民の目線とは大幅にずれていると指摘する所以である。

<「過ちを改むるに憚ることなかれ」>

 志位委員長の訪米報告を読んでいて、私は大きな違和感を味わわされた箇所があった。次のくだりである。

 「1963年8月、ソ連は、米国、英国と部分的核実験停止条約をむすび、これを「核兵器全面禁止への第一歩」と宣伝し、世界と日本の平和運動におしつけようとしました。わが党は、この条約が地下核実験による核兵器開発を合理化し、米ソを軸とする核兵器独占体制を維持するものとして、強く反対しました。その批判の正しさは、その後の米ソによるとめどもない核軍拡競争によって証明されました。こうした部分的核実験停止条約というあしき部分的措置を核兵器廃絶と対立させて、それをすべてに優先させるキャンペーンのなかで、社会党・総評指導部はそれに引きずられて日本原水協と世界大会から脱落しました。その時に、核兵器廃絶という目標をしっかり立てて、今日にいたる原水爆禁止運動の旗を守ったのが、この時代の先輩たちの闘争でありました。この時のソ連の干渉をはねのけたからこそ、いまの日本共産党があり、日本の原水爆禁止運動があるということを、私は言いたいと思います。」(太線は浅井)

 ハッキリしている歴史的な事実は、当時問題になったのは、志位委員長があげた部分的核実験停止条約の問題に加え、「いかなる国」(いかなる国の核実験にも反対するのか、帝国主義・アメリカの核実験と社会主義・ソ連の核実験とは区別するべきなのか)問題(第三の問題はいわゆる「反党分子」の扱いの問題)があった。私は、5年間以上の広島滞在の中で、「いかなる国」問題は、いまや完全に過去の問題となった部分核停条約問題とは異なり、今日に至るまで深刻な後遺症を日本の原水爆禁止運動の分裂という形で残していることを実感している。そして、この問題に関しては、共産党による全面的な総括が行われたことを承知していない(私は、1960年代から80年代にかけて原水爆禁止運動を共産党において指導した金子満広氏の著作『原水爆禁止運動の原点』に収録されている「原水爆運動-よみがえった原点」で、同氏が「いかなる問題」に関する共産党の立場の“変遷”についての説明をしているのを読んだが、党としての総括があるかどうかについては、寡聞にして承知していない)。部分核停条約問題だけを取り上げて、「その時に、核兵器廃絶という目標をしっかり立てて、今日にいたる原水爆禁止運動の旗を守ったのが、この時代の先輩たちの闘争でありました。この時のソ連の干渉をはねのけたからこそ、いまの日本共産党があり、日本の原水爆禁止運動がある」と述べる志位委員長の発言からは、今なお分裂し、このままではじり貧を免れない(としか私には思われない)日本の原水爆禁止運動の深刻な状況を直視する真摯な姿勢を窺えないことを非常に残念に思う。
しかも、問題は原水爆禁止運動だけにとどまるのではない。正に原水爆禁止運動が戦後日本における平和運動の一大原点であった(もう一つの原点は反基地闘争)だっただけに、そこにおける分裂は日本の平和運動・労働運動そのものを政党・イデオロギー別に系列化させて今日に至っているのだ。広島に関していえば、被爆者組織(県被団協)が党派に即して二分化し、今日なお統一できないままでいる。つまりは、日本の平和運動の今日における沈滞は1963年の原水爆禁止運動における社共分裂に大きな直接的な原因があると言っても過言ではない。日本の平和運動が日本の世論を引っ張り、世界の平和を引っ張る力を発揮することを強く願うだけに、上記の志位委員長の発言は、正直言って理解に苦しむ。そして、このような自己正当化の主張を公然と行う共産党の姿勢は、やはり多くの国民・人々の共感を遠ざける方向に働かざるを得ないことを、私は恐れる。

<「臭いものにはふた」を止めること>

 私は長年にわたって『赤旗』を購読してきたし、その内容は、近年ますます節操のなさを強めている朝日、毎日と比較して、信用できるものだと評価してきた。しかし、最近の報道姿勢には首をかしげることが多い。特に、国際情勢なかんずくイラン関係、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)関係の報道については率直に言って不満である。
 イランについて言えば、2010年のNPT再検討会議の最終文書に明らかなように、イランの原子力平和利用の権利に関する主張は多くの非核兵器国の理解と支持を集めたし、イランを追いつめようとしていたアメリカの主張はことごとく退けられた。ところがアメリカは、国連安保理で中国、ロシアほかの支持を頼んでイラン制裁の決議を強硬成立させた。ここで明らかになったことは、大国が協調する時は、安保理が国際世論に逆行する行動を取ることがあるということだった。そのことを明らかにすることは、「国連信仰」の雰囲気が強い日本においては特に重要なことだったと思われる。しかし、赤旗においてはそういう視点を提供する内容の記事がまったくない。むしろ、イランに非があるかの如き印象を与える内容の報道に終始してきたと、私は判断する。
 朝鮮については、3月に起きた韓国の哨戒艦「天安(チョナム)」の沈没事件に関する赤旗の報道には深く失望させられている。赤旗の報道内容は、ほとんどマスコミ大手のそれと大同小異(この文章を書いている6月13日現在では、わずかに、ロシアの調査団が韓国の発表した報告書に否定的な判断を下したという時事電を報じた程度)だ。韓国国内では、この事件を朝鮮の仕業と断定して統一地方選に臨んだ与党・ハンナラ党が大敗したことに明らかなように、韓国政府(及びその後ろにいるオバマ政権)に対して重大な疑問が巻き起こっているというのに、なぜ赤旗は素通りしているのだろうか。
 以上はごく最近の二つの事例を紹介したに過ぎないが、「真実を報道する赤旗」という評判を自らおとしめるようなことは是非とも避けてほしい。

 私は、日本における民主政治の健全な発展のためには、共産党が躍進することが不可欠だと思っている。とくに、改憲志向、日米軍事同盟の変質強化を軸にして、民主党及び自民党が「政界再編」に走る危険性が高まっているなか、そういう動きを許さないためには、多くの国民が共産党に保守政治に対する批判票を投じることが極めて重要だと考えている。しかし、そういう国民の批判票の受け皿となり得るためには、共産党が自分の目線に閉じこもり、正当性を独占しようとし、都合の悪いことには口をつぐむというようなことがあったのでは「百年河清を待つ」ということに終わってしまうことを私は懸念する。共産党の関係者が虚心坦懐にこの文章を読むことを願っている。

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