2010年NPT再検討会議

2010.06.05

*5月3日に開催された2010年のNPT再検討会議は、最終文書の採択をめぐって難航が予想されていたにもかかわらず、議長が最終日前日に提出した案文について、5月28日の最終日にコンセンサスですんなり最終文書として採択されて「あっけなく」(私の偽りのない第一印象)終了した。この最終文書の内容に関しては、さまざまな立場からの多様な評価が行われている。もちろん、その冷静な位置づけは、最終文書の内容が今後果たして実行に移されるかどうか、あるいはどの程度実行されるかなどを待って行われるべきものであることは言うまでもない。しかし、いかなる評価を行う場合にも、最低限の出発点として共有するべき認識上のポイントはあると思われる。そういう観点から、また、実に多様な「評価」が行われていることへの危惧感から、私なりの問題提起を行っておきたい(6月5日記)。

1. 評価の前提:できる限り主観性を排する必要性

 そもそも今回の再検討会議に際しては、2009年4月のオバマ大統領のプラハ演説で一気に醸し出された対オバマ期待(つまり、アメリカの大統領が「核のない世界」を口にしたため、核兵器廃絶が一気に現実味を帯びたと捉え、その発言をしたオバマの指導力に期待する気持ち)に基づき、会議が核兵器廃絶に向けての前進を実現することを期待する向きが、広島を含む日本国内及び世界のいわゆる軍縮コミュニティの間で高まっていった。しかし、私は、このような主観的期待には、大きくいって二つの問題点があると思ってきた。
 一つは、対オバマ期待(より厳密に言えば、プラハ演説への評価)の問題である。私も、後世に核兵器が実現された暁に、その時点で人々が歴史をふり返ったときに、オバマのプラハ演説が起点になったと評価する可能性を認めるのにやぶさかではない。しかし、そのことと、オバマのプラハ演説が現実の核兵器廃絶を促進する実質的内容を持っているかどうかという問題とを混同してはならないと考える。プラハ演説でオバマが述べたのは、「核のない世界を目指す」が、「私の生きている間にはおそらく核兵器の廃絶はないだろう」ということであり、「核兵器が存在する限り、アメリカは核兵器庫を維持する」ということだった。そして、その後のオバマ政権が政策として力を入れたことは核兵器の拡散防止を中心とした核軍備管理努力であって、核兵器廃絶ではない。したがって、対オバマ当初期待値を基準にして最終文書の内容が「満足のいくもの」だったとか、「不十分、不満足なものに終わった」だったとかという形で評価する向きが多いが、率直に言って、それらは客観的評価の名に値しないものと言わなければならない。厳しく言えば、根拠のない対オバマ期待の延長線上で今回のNPT会議に本来望むべくもない「成果」を期待し、それが実現したかどうかで会議の成功不成功を論じるのは、そもそも出発点の発想が間違っているということである。
 もう一つの問題点は、NPTそのものの本質にかかわる。NPTは、元々が核兵器保有国を5カ国以上にしないことを狙いとした核保有国の主導でできたものだ。本質的に不平等条約なのである。しかし、「原子力の平和利用」の権利をすべての国々に承認し、また、核兵器国の核軍縮努力義務を盛り込むことによって、非核兵器国の不満をなだめ、いわば三本柱(核不拡散、原子力平和利用、核軍縮)の危ういバランスの上に条約が成立した。その無期限延長も、非核兵器国が核兵器国に核軍縮努力を念押しした上ではじめて可能になったという経緯はあるが、NPT自体は核不拡散を目的とした条約であるという本質は何ら変わっていない。そして、今回の再検討会議に向けたアメリカ以下の核兵器国の核不拡散を主題として運営するという基本的姿勢も変わっていなかった。そういう意味で、今回の会議に過分な主観的期待を寄せること自体がNPTの本質を無視した(あるいは忘れた)、やはり客観的評価の名に値しないものであると言わなければならない。

2. 評価基準:いくつかのメルクマール

 私自身は、最終文書及びその内容(全体の構成は、第一部の条約の運用に関するレビューの部分と、第二部の結論及び64項目のアクションを盛り込んだ勧告-1.核軍縮、2.核不拡散、3.原子力平和利用、4.中東-の部分からなる)自体に即して、積極的に評価すべき点及び考慮するべき問題点として、以下のいくつかのポイントを指摘しておきたいと考える。
第一、最終文書が作成されたこと自体の意義。私は、核問題に関して、28ページに及ぶ詳細な国際的な文書がコンセンサスという形で(つまり反対する国家なしということで)作成されたこと自体が非常に重要な意味があると評価する。しかも、今日の国際社会が直面する核問題にかかわる問題点がかなり網羅的に整理され、しかも事の大小はともかくとして、勧告として64項目に及ぶアクションが掲げられたということははじめてであり、そのこと自体を評価する価値がある。
確かに、原案段階の内容と比較すれば、核兵器国の抵抗によって核兵器廃絶に向けた行程表を盛り込むに至らなかったなどの問題が指摘されるが、そのような内容を核兵器国がすんなりと受け入れることを期待することは、すでに述べたNPTの本質的性格からいって無理があり、かつ、非現実的であっただろう。きつい表現でいえば、「無い物ねだり」によって、これだけの内容を盛り込んだ最終文書の採択という成果を無視することはバランスを失すると思う(下記の第五参照)。
第二、非同盟諸国の主張が色濃く反映された内容であること。私が最終文書を通読して素直にそして久しぶりに実感したことは、非同盟諸国の存在感の重みということだった。1995年の会議を彷彿させられた。実は、今回の会議が始まるまでは、私は、非同盟諸国(及び新アジェンダ連合諸国)の動きを寡聞にして承知しておらず、したがって、会議はアメリカなどの大国主導で進められてしまうだろうと予想していた。そういう私の先入観が働いたために、「良い方向で予想が裏切られた」という印象を受けたことは認めなければならないが、最終文書は、IAEAによる査察に関する加盟国の追加議定書受け入れ問題に関する温和な内容のとりまとめ(第一部第18,19,25項目)、イスラエル(及びアメリカ)によるイランの核施設への武装攻撃を念頭に置いた懸念表明(同第76項)、イスラエルの核兵器保有を縛ることになる中東非核地帯設立の重要性(同第105項。最終報告書の第二部ではNPTの三本柱と並んで中東が独立項目として掲げられている!)、インド、パキスタンに対する非核兵器国としてのNPT加盟要求(同第108項)、インド、イスラエル及びパキスタンに対するNPT及び査察協定(付属議定書を含む)への遅滞なき無条件の加盟慫慂(同第115項)、1995年会議で採択された中東決議の普遍性及び実施に関する進展が見られないことに対する懸念表明(同第117項)、IAEA脱退の権利に関する国家主権及びNPT上の権利を多くの国家が確認したこと(同第119項)、脱退問題に関するアメリカなどの主張を高圧的でない記述に押さえ込んだこと(同第120,121項)、イランに対する批判的言辞がないこと(イランとしては以上の諸成果は十分に満足のいくものであったと思われる)など、重要な点で非同盟諸国の主張を尊重する内容になっている。この点は、とかく「国際社会=アメリカ」という受け止め方が支配的な日本国内では見失われがちなポイントとして、特に強調しておきたい。正に「多極化を強める国際社会」という一般的形容が当てはまる最終文書だということだ。
第三、「核のない世界」をビジョンとして掲げるアメリカが最終文書の作成を妨げることが政治的に困難だったこと。第二の点の裏返しでもあるわけだが、私はある意味、アメリカは以上のような内容の最終文書をよく受け入れたな、という実感を味わった。会議が始まるまでは、アメリカがイラン及び朝鮮を狙い撃ちにするだろう、イスラエルに対する中東諸国の攻勢に対してアメリカは強く抵抗するだろう、IAEAの査察権限の強化を試みるだろう、脱退国に対する制裁強化(伝統的な国際法では考えられないことだ!)を試みるかもしれない等々、核拡散防止を狙いとした動きに出てくることが予想されていた。最終文書は、朝鮮の核兵器開発・実験については厳しく批判した(これはNPTの核不拡散を狙いとする本質から言っても、十分想定の範囲内。第一部第9,109項及び最終文書の末尾)が、それ以外ではアメリカにとってきわめて不本意な内容であることは想像に難くない。
したがってむしろ、アメリカがどうしてこのような内容の最終文書を受け入れたかを考える必要があるわけだ。考えられる大きな理由としては、「核のない世界」をビジョンにせよ言ってしまったオバマのアメリカとしては、「アメリカの反対によって最終文書不採択、したがってNPT失敗(つまり、オバマの「核のない世界」というビジョンは見せかけだけのものという評価が不可避)という結末を迎えることは避けざるを得なかった、ということが考えられる。その一つの傍証として、オバマ大統領は最終文書採択直後の28日に声明を発表して、最終文書が中東非核地帯に関する言及を行ったことに関し、「イスラエルだけに焦点を当てる動きには強く反対する」としてイスラエル擁護の姿勢を表明し、中東非核地帯構想を進める前に「包括的で持続可能な中東和平」の実現などが不可欠だと指摘した、と報じられている。ブッシュ政権だったならば、この一事だけでも決裂騒ぎは不可避だっただろうが、オバマ政権としては、独自の声明を出すことで「お茶を濁す」矛の収め方を考えることを強いられたことが明らかだろう。
第四、今後の核兵器廃絶運動の方向性が示されたこと。最終文書は、「市民社会」が核兵器廃絶のために果たしてきた役割を評価した(第一部第82項)。主権国家によるNPT再検討会議で「市民社会」の役割を評価するということは流産に終わった2005年は言うに及ばず、2000年の会議でもなかったことで、画期的なことと言えるだろう。第二の点と合わせてみれば、核兵器廃絶に向けて非同盟諸国(を先頭とする非核兵器国)と市民社会とが今後大きな役割を果たすという方向性を示すものである。
しかし、ここで強調するべきことがある。それは、被爆国・日本の位置づけである。非同盟諸国と市民社会の努力によって今回の最終文書は可能になった。ということは、もしも、日本政府が本気で核兵器廃絶に向けた取組を行っていたならば、2010年の会議はさらに実り多いものになっていた可能性が大きかった、ということではないだろうか。私たちは、今回の会議に対する民主党政権の不誠実を極める対応を批判する。しかし、それだけでとどまっていたのではならない。非同盟諸国、市民社会及び日本が三本柱となって核兵器廃絶を進めるようにするために、私たちは日本のホンネとタテマエを使い分ける核政策を根本的に変えさせなければならないし、そうすることによって確かな展望が開かれるということに確信を持つことができるはずだ。
第五、核兵器国が核軍縮に向けた具体的な進展を加速させることを約束し、最終報告に特記された7項目の事項に関し、2014年のNPT再検討会議準備委員会への報告を「要請」したこと(アクション5)。2015年のNPT再検討会議では、NPT第6条の「完全な実施」に向けた「次なる諸措置」を考えるとした。この点に関しては、当初は期限を区切った行程表の提案があったわけで、それと比較すると大幅な後退、と批判されるわけである。しかし、1.で述べたように、対オバマ期待の幻想性及びNPTの本質からいって、核兵器国がこのような具体的な行程表に応じることを当然視する方がおかしいわけで、むしろ、2015年会議に向けて非核兵器国及び市民社会が核兵器国に行動を迫る時限的な手がかりを得たことははじめてであり(2000年再検討会議ではなかった)、そういう前進の面をしっかりつかみ取ることが必要だと考える。また、軍縮会議に核軍縮を扱う付属機関を直ちに設立することに全国家が合意した(アクション6)ことも一歩前進だろう。求められるのは、これらを手がかりにして、非同盟諸国、市民社会そして日本が2014年、2015年に向けた核兵器廃絶への取組を具体的に強めていくことでなければなるまい。
第六、教育の重要性がはじめて盛り込まれたこと。核兵器廃絶を目指す上で、教育が果たす重要性は改めていうまでもないことであるが、今回の最終文書は教育の重要性をはじめて指摘した。その記述は、「会議は、核兵器のない世界を実現するため、(NPT)条約の諸目標を推進するための有益かつ効果的な手段として、軍縮及び不拡散に関する教育の重要性を強調する。」(第一部第97項)というもので、NPT条約そのものを無条件に肯定的に捉えていること、教育の内容として軍縮のみならず不拡散をも列記していることにおいて、重大な問題を含んでいる。その点を留保した上で、教育という要素の重要性を確認したこと自体については一定の評価を行うことができるだろう。
第七、原子力平和利用に関する旧態然たる認識。NPTの建前としては、すでに述べたとおり、非核兵器国に対して原子力の平和利用を認めることによってその非核兵器国としての地位を守るという譲歩を引き出す事で成立しているわけで、原子力平和利用を「善玉」として捉える前提は動かないことは、その当否はあくまで別として理解はできる。しかし、原子力平和利用の太宗を占める原子力発電(支配的な形態は、低濃縮ウランによる軽水炉型)は不可避的に核兵器の原料となるプルトニウムを生み出すわけで、要するに核拡散の大本が野放しのままであるという重大な問題がある。また、原子力発電に伴う放射性廃棄物の処分については、放射能の半減期の長さを考えれば、よほどの革命的な発見・発明がない限り、半永久的に解決できないだろう。この二つの問題を直視するとき、原子力の平和利用という考え方自体が成り立つのかという問題を正面から取り上げる必要が高まっていると考える(原子力発電が世界中に拡散してからでは遅い)。今回の最終文書がこの問題については無言であることは、非常に重大な問題点であることを指摘せざるを得ない。
 第八、日本政府の問題。多くの指摘があるように、普天間問題に振り回されていた鳩山首相がNPT再検討会議に出席できなかったことは、当否は別として、情状酌量の余地はあるとしても、南アフリカなどを外遊する暇のあった岡田外相の同会議欠席(無視)は、核密約問題を契機に非核三原則の修正の可能性を繰り返し公言する岡田外相(及び外務省)の本性を余すところなく露呈するものだった。核抑止力肯定、拡大核抑止力必要、したがって日本への核持ち込みありうべし、とする立場からは、本気で核兵器廃絶に向けて努力する政策が生まれようはずがない。私たちが認識する必要があることは、まったくその気がない政権の不誠実さを難詰していささかの溜飲を下げて良しとする(それは自己欺瞞に過ぎない)のではなく、そういう政権を野放しにしておいたら、いつまでたっても被爆国・日本としての責任ある政策を打ち出すことはできないということであり、核兵器廃絶を担うべき三本柱(非同盟諸国、市民社会及び日本)の一角としての役割を担うだけの主体性を持ち得ないということである。日本政治は根本的な転換を必要としている。そのことは、核兵器廃絶問題においても正しく当てはまる。私たち主権者が、民主党政権の現実の行動に対して持つべき認識はこういうものでなければなるまい。

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