「核密約」に関する有識者委員会報告書(3月13日掲載)

2010.03

1.有識者委員会報告書の概要と性格

(1)概要

3月9日に「いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会報告書」(以下「報告書」)が公表された。この報告書と同時に、3月5日付の外務省調査チームが作成した「いわゆる「密約」問題に関する調査報告書」(以下「外務省報告書」)も合わせ発表された。前者は全文108頁に及ぶ分厚いものである(後者は23頁)。このほかに、両文献で紹介された外務省の35点の「報告対象文書」とされた外務省の内部文書が外務省の報告書とともに公表されることとされている。
 報告書は、座長の北岡伸一東大教授が「はじめに」、「序論」及び「おわりに」、第一章(密約とは何か)を佐々木卓也立教大学教授、第二章(核搭載艦船の一時寄港)を坂本一哉大阪大学教授、第三章(朝鮮半島有事と事前協議)を春奈幹男名古屋大学教授、第四章(沖縄返還と有事の核の再持ち込み)を河野康子法政大学教授、第五章(沖縄返還と原状回復補償費の肩代わり)及び補章(外交文書の管理と公開について)を波多野澄雄筑波大学教授が、それぞれ執筆した。

(2)密約に関する報告書のからくりを秘めた認定

(イ)密約のからくり

 報告書は、密約として、二国間の「合意あるいは了解であって、国民に知らされておらず、かつ、公表されている合意や了解と異なる重要な内容…を持つもの」である「狭義の密約」と、「明確な文書による合意でなく、暗黙のうちに存在する合意や了解であるが、やはり、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つもの」である「広義の密約」(p.4)とを分ける。このような類分け自体がなぜ必要なのかは理解に苦しむし、その恣意性そのものが、外務省が国民にウソをついてきた本質をカモフラージュし、免罪にしようとする性格を多分に帯びている、という指摘(舟橋喜惠広島大学名誉教授。3月10日付地元中国新聞に掲載された「「国家のウソ」に配慮」という記事-出所が記載されていないが、内容的に見て共同通信配信記事と思われる-も、有識者委員会内部の意見対立を指摘しながら、同趣旨の解説をしている。) に、私は全面的に同感する。この判断が本質を突いていることは、上記中国新聞の「「国家のうそ」に配慮」 で、次のように明確に明らかにされている。

 「密約を全面否定してきた歴代自民党政権と、外務省の体面をあまり損なわない形で、いかに「国家のうそ」に審判を下すか。報告書は「こうした配慮に満ちていた」(外務省幹部)との指摘もある。
 仕掛けは密約について、合意内容を記した文書のある「狭義の密約」と暗黙の合意や了解を指す「広義の密約」に分類した点だ。…例えば、核持ち込みでは日本政府のこれまでの説明について、「不正直」と断罪した一方、「冷戦下における核抑止戦略の実態と日本国民の反核感情を調整することが容易ではなかったという事情を考慮に入れるべきだ」とした。有識者委員会関係者は「広義の密約」を「魔法の言葉だった」と指摘した。」

(ロ)報告書の「密約」認定

以上の点を明確にしたうえで、以下においてはとりあえず報告書の基準に即して、4つのそれぞれについて、報告書がどのような「密約」認定を示したかを摘記しておく。
①搭載艦船の一時寄港に関する密約:「互いに「深追いせず」、問題を曖昧なままにしておく。その結果、核搭載艦船は事前協議なしに日本に寄港するかもしれず、また日本政府はそうなることを表向きに否定するかもしれないが、互いに抗議はしない。そういう暗黙の合意」(報告書p.36。以下同じ)という「広義の密約」があった(p.46)とする。
②朝鮮半島有事と事前協議に関する議事録:「密約の性格を帯びた文書であるとの認識を日本側交渉者及び岸政権が持っていたのは確実」(p.54)。したがって、報告書の分類によれば「狭義の密約」ということになる。ただし、1969年12月21日の佐藤首相の一方的声明(後述)で「事実上失効したと見てよいであろう」(p.55)としている。
③沖縄返還と有事の核の再持ち込み:「佐藤首相は「合意議事録」を自分限りのものと考え、長期的に政府を拘束するものとは考えなかったのではなかろうか。加えて、「合意議事録」の保管方法から見て、佐藤首相はこの文書を私蔵したまま、その後、引き継いだ節は見られない」。また、「(佐藤・ニクソン)共同声明の内容を大きく超える負担を約束したものとはいえず、必ずしも密約とは言えないであろう」(p.79)とする。
④沖縄返還と原状回復補償費の肩代わり:「「日米間の交渉プロセスにおいて、原状回復補償費として米側は自発的支払いを行うものの、その財源を日本側が負担する、という合意が成立していたこと、その財源の400万ドル…を日本側支払総額の3億ドルに追加することについて双方が了解していたこと、…これらの合意や了解は非公表扱いとされ、明確に文書化されているわけでもなく、返還協定や関連取り決めにも明記されていないものであるが、両国政府の財政処理を制約するものとなる」点で「広義の密約」(p.93)であるとする。

(3)報告書の個々の「密約」認定に対するコメント

「はじめに」では、「全員で議論を重ね、統一をはかってはいるが、必ずしも細部に至るまで全員が一致しているわけではない」(p.3)としている。したがって、上記の4つの「密約」に関する判断が委員会としての統一見解であるとは限らないということが示唆されている。つまり、各執筆者の最終判断は、それぞれの分析に基づいた個人的判断であると解すべき余地がある。報告書のこのような基本姿勢そのものがきわめて無責任だと思われることを、私としては指摘せざるを得ない。
この私の判断を裏づける形となったのが、同じく前記3月10日付中国新聞の記事だった。この記事によれば、「(北岡座長が)他の委員5人に対し、核持ち込みなど4事案について密約か否かを整理した5頁にわたる「座長総括」を送付。これに一部委員が座長の「独断専行」と猛反発した。…総括を委員の統一見解とする案は不調に終わったものの、3密約を認定した座長見解は報告書でも変わらなかった。」という内情があったことが指摘されている。つまり、国連大使なども務めた経歴を持ち、外務省ともきわめて近い関係にある北岡座長が、委員会内部の異論を無視してまで、かなり強引に外務省に配慮した自説を通したことが明らかにされているわけだ。
まず私たちにとってもっとも関心がある核搭載艦船の一時寄港等に関する密約については、「広義の密約」という形で密約に当たることを認めた。「広義の密約」という「魔法の言葉」のくせ者性については、項を改めて論じることとする(2.(2)(イ)及び2.(3)参照)。
朝鮮半島有事と事前協議に関する議事録という「狭義の密約」が事実上失効したという報告書の判断については、その判断の根拠(1969年12月21日の佐藤首相がアメリカで行った声明に根拠を求める。P.55)に強い疑問を覚える。また、執筆者自身、「朝鮮議事録の有効性をめぐっては、日米間で明確な決着が付けられることはなかった」(p.55)と指摘しているわけで、その記述内容から「事実上失効」という判断が下せるのか自体についても疑問が残る。前記中国新聞の記事はこの点については触れていないが、北岡座長の「独断」が割り込んだ結果としての唐突さという可能性がある。
私としては、1990年代後半から2000年代前半にかけての日本国内における周辺事態法を含む有事法制整備及び国民保護計画によって、周辺事態(例えば朝鮮半島有事)から対日攻撃予測事態、さらには対日攻撃事態という連続的な動きに対する米日共同対処体制が構築されたことにより、はじめてこの議事録が日米両政府にとって意味を失うことになったと判断されると思う。推測ではあるが、外務省などもおそらくそう考えているのではないか。
沖縄返還と有事の核の再持ち込みに関する佐藤・ニクソン密約については、特に第二章と第四章との間の不整合性(というより、第二章における論証の結果が、第四章の考察において生かされていない。Pp.59-60参照)に鑑みて、報告書の立場に即したとしても、きわめて説得力に欠ける。また、指摘された上記二つの根拠(佐藤家に私蔵されていたとされることと新たな負担内容を含まないというそれ自体強引な解釈)をもとにして「必ずしも密約とは言えない」という判断が出てくるのかについては、大いに疑問だ。
実は、この点についても前記中国新聞の記事は次のように言及している。

「(第四章執筆の)河野康子教授「密約と認識して書いたつもりだ」
北岡伸一東大教授「国民に追加的負担が生じておらず密約ではない」
議事録は沖縄にある四つの米軍基地を「(核貯蔵のために)いつでも使用できる状態に維持すること」と明記しており、河野氏ら合意認定派の論拠だ。
一方、北岡氏ら合意否定派は「議事録の内容は、首脳会談で出された共同声明を超えるものではない。日本側に新たな負担はなかった」として、広義の意味でも密約に当たらないと主張。最終的には、座長である北岡氏の意見が採用された。」

つまり、執筆者である河野教授自身は、密約と認識して書いたのに、北岡氏がその認識を勝手に覆したという経緯が浮かび上がる。第四章が内容的にもちぐはぐであるのは実は必ずしも執筆者の責任ではなく、北岡氏の「独断」が割り込んだという背景を理解すれば、「そうだったのか」と納得できる。
沖縄返還に際しての原状回復の肩代わりに関する密約については、400万ドルの合意そのものは「広義の密約」に当たるとしながら、裁判で証言した吉野文六氏がイニシアルした「議論の要約」については、「米側の議会対策という要請に抗しきれず、文書化されていない合意や了解の内容を、日本側が婉曲に確認した文書という意味はあるが、それ以上のものではない」(p.93)という判断を示している。「文書化されていない合意や了解の内容を、日本側が婉曲に確認した文書」とは一体どういうことだろう。そもそも日本語としても自己矛盾そのものであり、意味が通らない。このようなこじつけで読む者の批判に耐えうると考えたのであろうか。そうだとすれば、ずいぶんと私たちを低く見たものである。
いずれにせよ、今回の報告書で4つの密約に係わる議論に決着が付けられたとは到底いえない。またもや前記の中国新聞記事で恐縮だが、「ある委員は「委員会の答えが完全ではなく、別の考えがあっていい。報告書を読んで国民に判断してほしい」と語る」とある。正にそのとおりだ。

2.二つの核密約に関する報告書の批判的検討

 「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」の訴えについて妥協する余地のない、広島・長崎・第五福竜丸に起源を持つ核兵器廃絶を希求する私たちの原則的な立場からいって特に重大な関心を寄せざるを得ないのは、核搭載艦船の一時寄港に関する密約及び沖縄返還と有事の核の再持ち込みに関する佐藤・ニクソン密約の二つに関する報告書の姿勢及び取り扱い方である。

(1)核兵器廃絶堅持の広範な世論の重み

 執筆者によって濃淡はあるが、日本政府・外務省が核密約という「本来あってはならない」(p.46)政策に走った最大の原因が、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」に端的に集約される、核兵器はあってはならないとする広範な世論に、彼らが最大限の注意を払わざるを得なかったことにあることは、「はじめに」における次の記述がそれなりに認識しているとおりである。

 「日本は1945年に広島、長崎の悲劇を経験し、核兵器については強い拒絶反応が国民の間に見られた。それは、1954年3月の第五福竜丸事件によって、さらに強いものとなっていた。いかなる政治家も、この感情には深甚な配慮を払わざるを得なかった。(強調は浅井。以下同じ)
 1955年6月、重光外務大臣は国会において、アリソン駐日大使との間に核兵器を持ちこまないという合意があると述べた。これはまったくの事実無根であって、アリソン大使は7月7日付で強い抗議の書簡を送っている。なぜ重光がそのような虚偽の発言をしたのか、十分明らかではないが、少なくとも、国民の反核意識が強いがゆえに起こった事件だったということはできる。」(p.7)

 この文章における「強い拒絶反応」とか「反核感情」とかいう表現は、広範な世論を否定的に受け止めるニュアンスを感じざるを得ない。こういう世論を厄介者扱いにする基本的視点は、後述するように、報告書の底流を流れている。
 その点を確認したうえでのことであるが、報告書はまた、日本政府はそういう「感情」が反米感情につながっていくことを恐れた(p.10)とも指摘している。アメリカ側では、石橋政権に見られたような対米自主性の傾向を高めることとこの感情とのつながりも恐れた(p.11)。さらに報告書は、日本政府が、野党が核兵器問題に焦点を定めて政府を突き上げていることに対して米側に注意喚起をしたこともある(p.28)ことを指摘している。
報告書はさらに、このような日本政府の広範な世論に対する敏感な姿勢は1970年代においても続いていることを確認している。すなわち、ラロック証言に揺れた外務省では対応策を検討するのだが、折しも田中内閣から三木内閣への政権交代があり、三木内閣は、宮沢外相から「従来どおりの線で対処する」ことをアメリカ政府に連絡し、外務省の狙いが頓挫したというのだ。そのことを確認する宮沢外相の発言が次のように紹介されている。

「自分は就任直後、この問題を知り、三木総理とも協議したが結論は現在の政策は到底変更できぬということであった。日本政府が現在の核政策の修正を明かにすれば、日本国民は激しい反応を示し、米艦船の横須賀、佐世保への入港は物理的に阻止され(原子力船「むつ」の例)、米海軍の基地として全く使用できなくなるだろう。」(p.42)

以上から確認できるように、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」に立脚する核兵器廃絶を求める声は、確実に日本政府を窮地に追い詰める力を発揮してきた。そのことは、核兵器廃絶を求める私たちの声と運動エネルギーが決して無力ではなく、否、きわめて強い政治的力を持ってきたことを示すものだ。その点について、私たちはまずしっかりと確信することができるし、自信を持たなければならない。
しかし同時に、核兵器を持ちこもうとするアメリカの圧力(そしてアメリカの核抑止力に依拠しようとする日本政府・外務省のホンネ)もまた強かった。こうして、国民の世論とアメリカの核政策との間の絶対的矛盾を埋めるために日本政府が選択したのが核密約であった。 つまり、核兵器廃絶を求める強い世論がなかったならば、日本政府は唯々諾々とアメリカの核兵器を受け入れていただろう。しかし、世論の強い存在にもかかわらず、日本政府は核密約という形でアメリカの核を受け入れてきた。私は、ここに、私たちの運動の成果とさらに克服していかなければならない課題の双方を確認する必要があると思う。この点を深く考えることによって、私たちの今後の思想と運動に対して手がかりをつかむことができると思う。その点については、さらに別稿において考えることとする。
なお、アメリカ側が日米安保条約の改定を受け入れた背景の一つとして、報告書は、第二次台湾海峡危機(1958年8月)に際して、ダレス国務長官をはじめとしたアメリカ政府が「日本の軍事的重要性のみならず、長期的に安定した日米の政治・安保関係の構築が必要なこと」を認識せしめられたことを指摘していること(p.12)も留意する必要がある。この記述は、核密約に直接かかわるものではないが、日本を軍事的に絶対手放せないアメリカ側が、それ故にこそ日本国民の反核感情を無視することができないことを示唆するものである。
つまり、核密約を擁護する側の論拠の一つは、“日本があらゆる形の「持ち込み」を拒否したら、アメリカは日米安保条約を清算し、在日米軍を撤去してしまうだろう、そうなれば日本の安全は担保できず大変なことになる”というたぐいのものだ。しかし、本当にそうなのか。この点についても別稿においてさらに考える材料にしたい。

(2)核密約に関する外務省の「論理」:二つの核密約を見る視点

 すでに述べたとおり、報告書は、核搭載艦船の一時寄港等に関する密約に関しては「広義の密約」という判断を示し、沖縄返還と有事の核の再持ち込みに関する佐藤・ニクソン密約に関しては密約とはいえないという判断を示した。このようなる岩家が詭弁でしかないと私が考えることについてはすでに述べたので、ここでは繰り返さない。
私はここではむしろ、報告書に示された事実関係から、外務省が一貫して、事前協議の対象として、寄港等を含む核兵器持ち込み問題を扱うことにこだわり続けてきたことが窺える点について考えておきたい。というのは、その「一貫性」を前提にすると、二つの核密約についての「外務省流の筋の通し方」が浮かび上がってくると考えるからである。そして、そこに着目することにより、私が二つの密約の間にある矛盾として抱いてきた疑問に答える手がかりが与えられるし、今後の私たちの政治に対する働きかけの方向(具体的な運動の進め方)も見えてくると感じるからである。
 この点は、報告書が明確に認識して取り上げているということではない。また、私たちにとっては本質的なポイントではないと考える向きもあるだろう。したがって、関心のない向きには読み飛ばしていただいてもかまわない。とはいえ、かつて外務省に身を置いたものとして、外務省のこだわり(外務省流の思考の配線構造)が見えて来ざるを得ないし、その独特の思考の配線構造を確認しておくことは、外務省的カルチャーを理解する一助としては無意味と言い切れないようにも思う。また、今後、政府・外務省が無視することができない運動の方向性を考えるうえでは、実は非常に重要な意味を持っていると、私自身は考える。
例えば、外務省流の思考の配線構造からすると、「討議の記録」そのものがあらゆる形の「持ち込み」(寄港等をふくむ。)を認めた核密約であると断定する立場からの批判(例えば、3月11日付の『しんぶん赤旗』が掲載した志位和夫・共産党委員長の党見解)は、到底受け入れられないということになるだろう。外務省としては、寄港などについては「討議の記録」において認めたわけではないし、その後今日まで認めたこともかつてないということになる。岡田外相は、その外務省の主張を追認する立場で、「日本は非核三原則を堅持すると明らかにしているし、米国は核については(存在を)否定も肯定もしないという政策だから、考え方の違いは残らざるを得ない」(3月10日付朝日新聞所掲のインタビュー。私自身も視聴した9日夜9時のNHKニュース番組での岡田外相の発言も同趣旨)と発言した。「討議の記録」自体が核密約であることを認めよといくら迫っても、「のれんに腕押し」で、「あなたと私とは見解が違います」の一言で片付けられてしまい、かみ合った議論の発展性を期待できないことになる。
また志位委員長見解は、「核持ち込み密約が成立していないにもかかわらず、米国が核搭載艦を事前協議なしに寄港させていたとすると、米国は条約上の権利をもたないまま、無法な核持ち込みを続けていたということになる。そして日本政府は、そうした無法を「黙認」していたということになる。条約上の権利がないままおこなわれてきた核持ち込みにたいして、政府はいったいどういう態度をとるのか。」と切り込んでいる。しかし、外務省からすれば、岡田外相の上記発言にあるように、日米双方が立場・考え方の相違を認識しつつやり過ごすというところに密約が密約として成立したゆえんがあるわけで、志位委員長見解の前提そのものが「おかしい」し、アメリカを無法呼ばわりする根拠はないということになるだろう。この点においても、双方の議論がかみ合うことを望めないということにならざるを得ない。
私たちが目指すべきことは、アメリカがいかなる形にせよ核兵器を持ち込まないことを確保することであり、そうすることで非核三原則を日本政府に掛け値なしに実行させることではないか。そのためには、「見解の相違」では逃げようがないアプローチが必要だと思う。そのためには、外務省流の論理を咀嚼したうえで、その弱点・急所を突くというアプローチが有益だと思う。ということで、以下においては、外務省独特の論理に即して二つの密約を検証しておきたい。

(イ)核搭載艦船の一時寄港に関する密約に関する外務省の立場・認識

 核搭載艦船の一時寄港に関する「討議の記録」という密約における焦点は事前協議の対象となることが日米間で合意されていた「持ち込み」(introduction。2項A)の意味内容であった。報告書は、この「討議の記録」が作成された1960年段階では、その「意味についての(日米間の)合意があったわけではない」(p.22)と片付けている。報告書が確認しているように、日米間で具体的に問題になったのは、1963年にライシャワー大使を通じてアメリカ政府が日本政府の大平外相にアプローチをしたときであった。アメリカ側は、事前協議の対象となるイントロダクションとは「日本の陸上に置く(placing)」とか「取り付ける(installing)」場合(p.21))であり、「寄港」・「通過」(transit)は含まれないというアメリカ側の解釈を伝えた。
報告書はまた、2項Cの軍用機の「飛来」・軍艦船の「進入」(英語はともにentry。新聞においては、双方を「立ち入り」(朝日新聞)、「進入」(共同)とするもの、それぞれ「飛来」「立ち入り」(赤旗)とするものなど一致していない。) についてもライシャワーが米側の解釈を正当化する材料として持ち出したことを紹介している (p.22) 。しかし、報告書は、外務省がその点について納得しなかったこと、また、報告書としても、entryはtransit以上の意味を含む(introductionに当たる内容を含むことを示唆)ことを指摘して、ライシャワーの主張に無理があると指摘している。この点は、2項Cこそが寄港等を認めた核密約に当たるとする共産党の主張に対する報告書(したがって外務省)の事実上の反駁ともなっている。
新聞報道などでは、ライシャワー大使は、大平外相が米側の説明に納得したと本国政府に伝えたとされているが、報告書では、「この会談の後、外務省内で対応を検討した内部文書は米側の解釈に異論を唱えている」(p.22)としている。つまり、外務省としてアメリカ側の解釈を受け入れたのではないということを報告書はことさらに強調する(ここにも、外務省弁護の報告書の姿勢が浮かび上がっていることはいうまでもあるまい)。
 しかも外務省は、安保条約改定交渉前に準備した内部案(1958年段階)でも、「臨時に日本国内に入る船舶及び航空機」による核兵器の持ち込みにも事前協議が必要とする(p.28)案を温めていたということを、報告書はわざわざ紹介している。つまり、ライシャワー大使の説明に対して外務省が納得するわけはなかったことを読む者に納得させる、いわば伏線にしているわけだ。
 しかし、外務省当局者がアメリカ側の異なる解釈・立場をかなり早い段階(安保条約改定交渉以前)から知っていたこともまた、執筆者としては無視するわけにはいかないことだった(pp.28-38)。そして報告書は、アメリカ側も、自分たちの立場を日本側に赤裸々に突きつければ、国民感情を考慮せざるを得ない日本政府が厳しい立場に追い込まれることを理解していたことを指摘することを忘れない。こうして報告書は、日米双方が意図的に問題点の明確化を回避することになっていった、という構図を浮かび上がらせようとしている。
 外務省報告書にわざわざ紹介された1968年当時の東郷北米局長作成メモは、「本件は日米双方に取りそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我が方も深追いせず今日に至ったものである。差当り、日本周辺における外的情勢、或は国内における核問題の認識に大きな変動ある如き条件が生ずる迄、現在の立場を続ける他なしと思はれる」(p.7。朝日新聞は、全文を掲載した。)と記している。報告書も、次のように述べて、東郷メモに示された認識を確認する。

 「互いに「深追いせず」、問題を曖昧なままにしておく。その結果、核搭載艦船は事前協議なしに日本に寄港するかもしれず、また日本政府はそうなることを表向き否定するかもしれないが、互いに抗議はしない。そういう暗黙の合意が安保改定時にできあがりつつあったと見てよいだろう。」(p.36)

 実は、東郷メモの上述の太字部分は、私たちにとってもきわめて重要な指摘を含んでいる。つまり、「外的情勢」、「国内における核問題の認識」に変化が生じるまでは現状維持ということは、この二つの要素に変化が起こるときにはこの密約を変更することができるチャンスだという認識を示しているということだ。
「外的情勢」の変化とは、今日でいえば例えば「北朝鮮脅威」「中国脅威」になろう。「国内の核問題の認識」の変化とは、いうまでもなく私たちの核兵器廃絶を目指す立場が弱まることを意味している。東郷メモに示された認識は、今日もなお外務省をふくむ核抑止肯定論者によって共有されていると見るべきだ。逆にいえば、ここに、私たちの思想及び運動のあり方に対する重要な示唆が客観的に含まれていると、私は考える。ここではその指摘にとどめ、詳細は別項で改めて考えることとしたい。

(ロ)沖縄返還と有事の核の再持ち込みに関する佐藤・ニクソン密約

 実は、核問題に関する事前協議の扱いという点で、二つの密約の間には矛盾があるように見える。少なくとも、アメリカ政府の立場には一貫性が欠けるように見える。すなわち、1960年の「討議の記録」で「持ち込み」には寄港、立ち寄りなどは含まれないという解釈を強硬に押していたアメリカ政府が、佐藤・ニクソン核密約では、「沖縄を通過させる権利」を含む沖縄への再持ち込みについて、わざわざ日本政府の「好意的な回答」を求めている点がきわめて理解に苦しむのである。つまり、1960年の密約があたかも存在しないかのような要求をしているように見えるのだ。これでは、1963年のライシャワーの大平外相に対する説得は何だったのか、という疑問が生まれる。
 しかし、報告書を読むとき、外務省流の思考の配線構造を前提にすれば、その一見矛盾に見える事柄が解けるように思われる。この密約の橋渡し役を演じたのは周知のとおり若泉敬であった。報告書を読むと、彼がキッシンジャーに提起した案文が官邸経由の外務省筋からということが分かる(特にp.69及びp.72参照。ただし、執筆者がその点を認識して書いているというわけではなく、私の読み込みであることを断っておく。)。
外務省は3つの案文を用意していたのだが、第2案と第3案には事前協議制度への言及がある(p.69)。若泉案は、これをもとに5案を作り、キッシンジャーに示したが、そのうち3つの案は事前協議制度を残していた(p.72)。これに対してアメリカ側の提案は、「緊急時に際し、事前通告によって核兵器を再び持ち込むこと(re-entry)及び通過(transit)させる権利」とあったが、若泉の主張で、「事前通告」の部分を「事前協議」に変更して通った(p.72)経緯を、報告書は明らかにしているのだ。
つまり、この時の核密約の内容の元々の出所は外務省であり、アメリカ政府ではなかったということだ。アメリカ国務省がこの密約づくりに関与していたかどうかは報告書からは不明であるが、もし国務省が関与していたならば、「沖縄を通過させる権利」は1960年の密約で担保済みという助言をしてもおかしくなかったはずであり、佐藤・ニクソン密約に「沖縄を通過させる権利」を入れることには「待った」をかけたはずだと思われる。
 ただし、私の以上の理解にも疑問が残る。というのは、外務省報告書では、「若泉氏が準備したとされる「合意議事録」については、当時外務省として何ら了知していなかったことがうかがわれる。」(p.14)と明記しているからである。したがってとりあえずの結論としては、佐藤・ニクソン核密約についてはなお多くの不明さが残っている、ということを確認しておく必要があるだろう。

(3)「核密約」の存在を国民としてどう見るべきか、という視点からの判断

 報告書を読む限り、4つある密約のうち、現在もなお「密約」としての意味を問われるべきは核搭載艦船の一時寄港に関する密約だけということになる。そういう報告書の「事実関係に関する判断」自体が問題を含むことについてはすでに述べたので、それ以上は繰り返さない。
 しかし、核搭載艦船の一時寄港に関する密約に関しては、報告書に示された判断にきわめて重大な問題があると考えざるを得ない。各紙も取り上げている箇所なのだが、報告書は、次のように述べる。

 「この「密約」問題に関する日本政府の説明は、嘘をふくむ不正直な説明に終始した。民主主義の原則、国民外交の推進という観点から見て、本来あってはならない態度である。
 ただその態度についての責任と反省は、冷戦下における核抑止戦略の実態と日本国民の反核感情との間を調整することが容易ではなかったという事情を考慮に入れて論じられるべきだろう。」(p.46)

 つまり、本来ならば許されてはならないことだが、「核抑止戦略の実態」と「日本国民の反核感情」との間の「調整」としてやむを得なかった、と言わんばかりであるということだ。さらに言えば、核抑止戦略という日本政府の選択を当然の前提として、広範な世論(前述の通り、それは「厄介者」として捉えているニュアンスが強い。) の手前そうせざるを得なかったのだ、という弁護論と言わざるを得ないだろう。
 報告書では、次のような認識表明もある。

 「政府は冷戦終焉から10年という国際情勢の変化を踏まえ、米国政府とも相談のうえで、思い切って国民に経緯を説明し、核政策全般について再検討すべきはする。そういう政治決断を行っても、あるいはそのための準備を始めてもよかったのではないかと思う。」(pp.44-45)

 この記述自体は中立的だと捉える向きもあるかもしれない。しかし、その後に続いた上記引用個所とあわせて読むとき、国民に「大人になれ。反核感情はいい加減にしたら?」という含意を読みとるのは私だけではないと思う。
 また、私たちの核兵器廃絶を訴える主張を揶揄するかの如き、次のような認識表明もある。

 「なお、核の問題については、次の点も考慮に入れる必要があるだろう。すなわち、1960年に核兵器というとき、それは大量殺傷兵器としての核兵器を意味していた。しかし、50年代後半から戦術兵器としての核兵器も発展し、60年代に入ると敵潜水艦を破壊するための核ミサイル、核魚雷などが開発され、導入された。これらは、日本人が広島・長崎で想起する無辜の市民に対する大量無差別の殺傷兵器とはかなり趣を異にする。」(pp.7-8)

 戦術核兵器や対潜核ミサイルなら問題ないかのごとくいう「戦術」核兵器を矮小化する認識のお粗末さには驚くが、私たちが広島、長崎に対する原爆投下時についての核認識にとどまっているのは時代遅れといわんばかりの居直りとしか受け止められない姿勢には、怒りを通り越して呆れるほどである。それはともかく、このような点にも、核兵器を肯定的に描き出そうとする魂胆が透けて見えると思うのは、これまた私だけではあるまい。
 このように、報告書は、明言はしないが、明らかに核抑止戦略を肯定し、非核三原則の出発点になった「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」の思想を否定する立場に立っていることは明らかだ。私たちは、この世論を誘導しようとする報告書の立場を批判しなければならないと思う。そのことは直ちに、私たちの今後の思想、運動のあり方に係わってくる。この点についても、稿を改めて論じたい。

3.報告書に関する鳩山政権の対応の欺瞞性

 報告書を公表した9日、鳩山首相は、非核三原則を「これまでどおり堅持する。変える必要はない」と言明した(3月10日付神奈川新聞)。岡田外相はさらに踏み込んで、「“核艦船寄港は核の持ち込みにあたる”との政府の考えは変えない」とし、非核三原則を「鳩山政権は見直さない」(同日付神奈川新聞。以下同じ。岡田外相の記者会見での発言をもっとも詳しく紹介したのは、私が見た新聞の中では神奈川新聞だった。) と明確に述べた。歴代政権のうそを確認させられた私たちは、日本政府の今回の明確な約束を決して忘れないし、二度とうそでごまかされることを絶対に許さない。
しかし、核密約によって裏切られた私たちははもはや、二人の口約束を軽々に信じて、さらに沈黙を決め込むわけにはいかない。次の岡田外相の発言をはっきりと確認しないわけにはいかない。
すなわち、岡田外相は、非核三原則厳守を言うと同時に、一時寄港が核持ち込みにあたるかどうかに関して「日米で解釈が異なることが明確になった。核の持ち込みがなかったとは言い切ることができない」ことを認めておきながら、「密約解明は日米安全保障体制の運用に影響を及ぼさない」、アメリカの核兵器の持ち込みについて確認も否定もしない(いわゆるNCND)政策については「米国の判断として理解している」、「私は核の抑止力を肯定している」ことを公然と口にした。これらの発言は、非核三原則堅持の前述の首相及び自身の約束とは絶対に相容れないものである。
この絶対的矛盾を取り繕おうとする岡田外相の唯一の根拠は、「米国が核政策を変更した1991年以降、持ちこみはないと考える。いまそれが具体的に問題になることはない。持ち込みが将来あるとは考えていない」ことに尽きる。しかし、国際情勢または米国の政策が変化する場合にはどうなるかという当然の質問・疑問に対しては口を濁して答えない。そもそも、「鳩山政権は見直さない」と言うが、すでに世論支持率が急激に低下しつつあり、基盤が動揺を深めている同政権がいつまで続くかは予断を許さない状況だ。
 すでに、かつての外務省高官(柳井俊二元駐米大使、東郷和彦元条約局長)などは公然と2・5原則化を主張している(3月10日付朝日新聞)。また、朝日、毎日、読売の3月10日付の社説も、強弱の差こそあれ、異口同音に核抑止肯定の立場からの論陣を張っている(ちなみに、主要紙のこのような立場に対し、私が読んでいる神奈川新聞、中国新聞、長崎新聞の社説・論説は、非核三原則堅持を明確に訴えている。)。また、核密約暴露の口火を切った共同通信の太田昌克編集委員は明確な非核化を主張する立場からの論評記事を書いているが、朝日新聞の「密約と安保(中) 核寄港の矛盾議論のとき」は、次のように公然と核抑止肯定・非核三原則見直しの立場を打ち出している。

 「非核三原則を掲げる日本と、核の配備状況を肯定も否定もしない「NCND政策」を取る米国の立場の矛盾は残されたままだ。日本政府が調査を受けて非核三原則を厳格に適用し、米側に非核証明などを求めれば、ニュージーランドのように、日米安保条約が効力を失いかねない。
 冷戦下だったとは言え、大きな安全保障上の懸念がなかったニュージーランドに対し、日本は軍拡路線を取る中国や核開発を進める北朝鮮などに向き合う。米国の核の傘への依存度はまったく異なる。(中略)
 (すでに紹介した岡田氏の立場を述べたうえで)だが、問題を先送りにしたに過ぎない。中国などが核軍拡を進めれば、米政府が方針を変え、艦船に戦術核を再配備する可能性は皆無ではない。戦略核を積んだ米原潜が日本に緊急避難する可能性もある。違いを放置するだけではこれまでと変わらない。調査の公表で、国民の関心は高まっている。あるべき同盟の姿を議論する好機だ。」(3月11日付)

 岡田外相の発言の問題点に関する判断は、私のそれとまったく同じだ。しかし、「外的情勢」の変化及び「国民感情の変化」を理由に、東郷メモが示唆した非核三原則見直しの好機が到来している、とする判断は、私の考えとは真逆だ。反動攻勢がこれから格段に強まる予兆がこの記事には赤裸々に示されている。危うし、日本。私たちがこの危機に正面から立ち向かう、絶対に後に引かない決意とエネルギーが今こそ求められている。

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