障害者自立支援法違憲訴訟についての憂慮すべき動き

2009.12.

12月19日に広島市内で、障害者自立支援法訴訟全国弁護団長の竹下義樹弁護士を講師に招いた「障害者自立支援法訴訟勝利を目指す広島の会」の学習会が開かれたので、代表世話人を務めている私も参加しました。講師の講演が終わった休憩時間に、「広島の会」を実質的に切り盛りしている方からいきなり(私にとってはそういう実感でした)「政府との基本合意文書(案)」及び「要望書(案)」なるものを手渡され、集会終了後に検討会をするので出席するようにと耳打ちされました。
 私は訳の分からないままにその二つの文書を読んでいったのですが、基本合意文書(案)の冒頭に、「今般、本訴訟を提起した目的・意義に照らし、国がその趣旨を理解し、二度と同じ過ちを繰り返さず、今後の障害者福祉施策を、障害のある当事者が社会の対等な一員として安心して暮らすことのできるものとするために最善を尽くすことを約束したため、本訴訟を終結させることとし、次の通り、国と本基本合意に至ったものである。」と書いてあることに愕然としました。
 集会が終わって検討会に入ると、司会の人が、午前中での議論(私は参加しておらず)の結果、この(つまり上記)の基本的方向については了承することになったので、個別の内容について議論に入りたい、という趣旨の発言をし、みんなが黙っていたので、そのまま具体的な話に入ろうとしました。私はたまりかねて、「民主党政権の基盤は極めて安定しておらず、今後数カ月以内に何が起こるか分からないという政治状況を考えたときに、その政府を相手に、相手の約束だけで本訴訟を終結することを約束するというのはどういうことなのか。やっとのことで訴訟を立ち上げることができたことを考えれば、政府側が約束不履行の場合にまた訴訟を立ち上げるということは至難なのではないか。したがって、この基本合意を進めることには本質的に重大な問題があるのではないか」という趣旨の問題提起をしました。
 私の問題提起に対しては、この合意書(案)を推進している中心的人物である(そのことは議論を通じて分かってきました)竹下弁護士が「極めてナンセンスな発言」という私にとっては耳を疑う乱暴な発言を行ったのをはじめ、他の二、三の弁護士も、本件訴訟で勝利を勝ち取ることはそもそも非常にむずかしい、裁判終結までには数年かかる、我々との話し合いに応じる姿勢の現政権との間で話をつけた方が有利だ(仮に民主党政権のあとに他の政権が出てきたときに、我々との話し合いにより好意的である保証はない)などなど、私としてはこれまた耳を疑うような発言が相次ぎ、私としては初めのうちはいちいち反論をしようとしたのですが、そのうち非常にむなしく感じられるようになって沈黙することになってしまいました。要するに弁護士たちは、この基本合意(案)を既定の路線にしており、私の問題提起に真剣に耳を傾ける気持を持ち合わせていないことがはっきりしたからです。
 私が本当にいたたまれない思いをしたのは、ひとしきり弁護士たちが上記の趣旨の一方的な発言をしたあとで、「要は原告(障害者)たちの気持次第だ」と言って、その場にいた3人の原告(広島から二人、岡山から一人)の発言を促したことでした。自分たちの訴訟に臨む消極的な判断を好きなように発言したうえで原告の発言を促すという無神経さ(弁護団に多くを頼らざるを得ない障害者としては、そういう発言に接したら気持ちは委縮することは明らかです。そういう最も初歩的なこともわきまえていないのは他者感覚の欠如以外の何ものでもありません)、「最終的に決めるのは原告である障害者」と言い放ってこの訴訟が人間の尊厳を勝ち取る意味で自分たち自身の問題でもあるということに対する認識がひとかけらも窺われない職業意識丸出しの姿勢(原告・障害者に責任を丸投げする自分勝手さ)に、私としては本当にいたたまれない思いをしました。
 果たせるかな、三人の原告(障害者)の発言は、本当にその場にいることが辛くなるほど、弁護士たちの顔色を窺いながらのことばを選んだものになりました。しかし、それでも一人の方は、「私たちにとって、はっきりした保証が得られるまでは、この訴訟が唯一のよりどころなのです」という趣旨の発言をしました。ところが、その発言に対しては、私の冒頭の発言(いったん終結したら、政府が約束を違えた場合に、再び訴訟を起こすということは至難になる、というもの)をことさらに無視するかのように、「話し合いがうまくいく可能性があるならば、その可能性を選択すべきだ」という、原告の気持ちを抑えつける厚かましい一人の弁護士の発言が返ってきたのでした。
このとき私の頭の中に浮かんできたことは、前にコラムで紹介したことがある放影研のアメリカ対テロ対策計画への協力に関する広島医師界の人々の態度でした。自分たちはどんな「汚い」お金だって受け取りたいというホンネを露骨に明らかにしたうえで、「最終的に決めるのは被爆者自身だ」と言って、被爆者に最終判断を押しつけるあの無神経さと寸分違わぬ他者感覚の欠如と自分勝手さが二重写しに思えたのです。それは、勝ち目の薄い訴訟で頑張る気持はない(合意書で片をつけて面倒な訴訟は終結する)とホンネを明らかにしたうえで、しかし「最終判断は障害者自身だ」という議論の持っていき方にぴったり重なるのです。
議論の中では、「国は、障害者自立支援法廃止までの間、応益負担制度の速やかな廃止のため、第一弾として、次の措置をとることを確認する」として、「障害者自立支援法の応益負担条項である29条、58条、76条等を廃止する。」とあるから、私(浅井)の懸念は根拠がない、という各論的な、しかし、重要な議論も出されました。しかし、その点についてある程度突っ込んだ議論になったとき、その条項の廃止時期はいつなのか、裁判終結との関連の後先、そもそも法律の「廃止」そのものが新たな立法によらなければいけないが、その立法は数年先になるではないか(立法がなされる前に訴訟終結を予諾するのか)などの重大な問題点も浮き彫りになりました。竹下弁護士からは明確な返答はありませんでした。
しかし、結論としては、12月22日の対政府折衝においてこの基本合意書(案)を政府側に提起することについて基本的に了承、ということになってしまいました。

私は、まだ事態はこれから動くという問題なので、このコラムで問題提起するのは控えるべきではないか、とも思いました。しかし、少なくとも以下の諸点を考えるとき、私は、竹下弁護士たちの動きに対しては読者の皆さんにも考えていただく必要があると結論した次第です。
① なによりも、この裁判の本質は、障害者の人間としての尊厳を奪った障害者自立支援法の違憲性、反尊厳性を改めさせることにあるものであり、その意味は一人障害者だけの問題ではなく日本社会のあり方自身を問い直す問題であり、弁護団を含めた私たち一人一人の人間の尊厳に対するコミットメント、日本社会の一員としての行動基準が問われている問題であるということ
② 原告(障害者)の強い気持としては、安易な妥協を行うことには強い抵抗感があることは明らかであり、弁護団の「現実」的考慮で原告の気持ちを抑えつけることは許されないこと(「最終的に決めるのは原告であり、弁護士はそれに従うほかない」という言い訳は、最初に自分たちのホンネを露骨に明らかにしたあとのもので、原告たちの委縮した気持ちを解くものとはなり得ないこと)
③ そういう人間の尊厳の根本にかかわる問題を、政治的妥協の取引材料にするという発想自体が、人間の尊厳に対する冒涜に繋がること(原爆症認定集団訴訟の粘り強さのみが人間の尊厳に対する忠実さの証であること)
④ 民主党政権(連立政権)が弁護団との話し合い・交渉に応じたのは、苦しい道のりを経てやっと原告70人が全国的(14都道県)規模で立ち上がり、全国集会を重ねるなどの結束力を高め、国民的に考えさせる政治的エネルギーを蓄積してきたからこそであり、今回の弁護団の政府との安易な話し合いによる解決の模索は、その結束力、エネルギーを致命的に弱める結果をもたらす危険性が極めて大きいこと
⑤ 竹下弁護士なども認めるように、民主党政権の政権的安定性はなお極めて流動的であり、また、2010年の参議院選挙の結果如何によっては政治情勢が大きく変わる可能性があり、この基本合意を仮に達成しても、その後の政府(国)が約束を守る保証はなんらなく、したがって約束履行の確実な保証なし(「最善の努力を尽くすことを約束」するのみ)に、「本訴訟を終結させる」ということを軽々に約束するべきではないこと(まして、こちら側から提案するなどというのは論外であること)
⑥ 基本合意内容の前掲「応益負担条項」の廃止という点については疑問点が多々あり、それらの点について明確な、かつ、原告も了解しうる内容が確定しない限り、本件基本合意について政府側と交渉を進めるべきではないこと
⑦ 基本合意には、障害者が働く場所になっている作業所党の福祉施設にかかわる問題は一切言及がなく、それらはすべて要望書において扱われていること

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