オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説

2009.12.12

*12月10日に行われたオバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説に接した日本人の中には、かなりびっくりし、落胆した向きが多いと思われます。演説内容を読んだときにまずそう思いましたし、昨11日には地元メディア3社から取材を受けた際の質問内容からも彼らの当惑ぶりを容易に看取することができました。また12日付の朝日新聞(大阪版)は、この受賞演説の全文を掲載したのですが、6カ所については、わざわざ英文を付した上で訳文を囲みで掲載するという念の入れようでした。しかも、そのいずれの箇所もが、「これまでのオバマのイメージからすると意外だ、おかしい」と人々が感じるであろう発言部分であっただけに、私は思わず吹き出してしまいました。「大朝日」にしてこうなのですから、日頃そういうマスメディアの一方的報道にさらされてきている一般の人々が動揺し、混乱するのは無理もありません。他方、同日付の朝日新聞の外電によれば、アメリカ・共和党からは「すばらしい演説」という高い評価の声が聞こえてきたとか。
 日頃からオバマに対する安易な期待感を戒め、主観的な願望と客観的な評価とを峻別することの重要性を説いてきたつもりの私からしますと、今回のオバマ演説は、オバマ自身がそういう過度の期待感の根拠のなさを明確にしたものとして、少しは日本国内の「オバマ熱」をクール・ダウンする効果もあるのではないかという意味において、有意義だったとすら思っています。
ここでは、オバマの受賞演説をどのように位置づけ、どう評価するべきかについて、私なりの見方を簡単に紹介しておきます(12月12日記)。

1.「力による」平和観を前面に押し出した受賞演説の根本的問題

 まず、多くの人があっけにとられ、強い違和感を覚えたのは、オバマが基本的に戦争(軍事力行使)を正当化する発言を繰り返したことではないでしょうか。そのような発言の根底にあるのは、「われわれが生きている間に暴力的な紛争を根絶することはできないという厳しい真実を知ることからはじめなければならない」という、誰もが否定できない国際関係の現実認識です。その現実認識は誰も否定しないでしょう。しかし、そこからオバマはいきなり、「一国による行動であろうと、複数国の共同行動であろうと、武力行使が必要なだけではなく、道義的に正当化されると国家が考える場合が出てくるだろう」、「私は、自国を守るために就任した国家元首として、…米国民への脅威に対して、手をこまねいていることはできない」と飛躍するのです。そして「世界に邪悪は存在する」というブッシュまがいの発言のあとにアルカイダへの言及が続く(従って、間接的にアフガニスタンへの兵力増派を正当化する)のです。
 確かにオバマは、戦争が「平和を保つうえで役割を持っている」反面、「戦争は人類に悲劇をもたらす」という別の真実があることを認めます。しかし、そのことに対する彼の答えは、「これら一見矛盾する二つの真実…を調和させることだ」ということであり、具体的には、恣意的でない(武力行使を規定する基準を厳守した)自衛戦争及び「人道的な見地からの武力行使」を正当化するのです。
 以上のオバマの主張に決定的に欠落しているのは、国際的なテロ活動を引き起こし、地域的な紛争を招いているより深い原因に対する認識です。アルカイダが国際秩序に反抗する根本的原因は、二重基準を極めるアメリカの対中東政策及び新自由主義に基づく国際経済への貧富の格差拡大にあります。さまざまな地域紛争の原因については簡単な答え探しはむずかしいですが、根底にはやはり絶対的貧困(先進国支配の国際経済システムに起因する)によって人々の人間の尊厳が無視され、放置されていることに根っこがあることは否定しようもないことです。これらの根本的な問題を放置して、もっぱら戦争(武力行使)の正当性を主張しても、まったく説得力はないと言わなければなりません。

2.なぜ戦争肯定の受賞演説なのか

 調べたわけではないのですが、ノーベル平和賞受賞演説において戦争肯定の演説を正面切って行うのは、あまり例がないことではないでしょうか。しかし、オバマの場合には、そうするべき理由が少なくとも2点あったと思います。
 一つは、オバマはアメリカの伝統的かつ主流の権力政治的国際観をまともに継承しているということです。そのことは、演説の端々からも窺えることです。逆にいえば、オバマがかりにそういう伝統的かつ主流の国際観に対する異端者であったならば、アメリカの大統領になる可能性はなかっただろうということでもあります。個人の自由を守るためという大義名分に基づいて銃社会を成り立たせているアメリカはまた、国際関係においては「必要ならば一国で行動する権利を留保する」(オバマ)という赤裸々な「力による」平和観を当然視する国でもあるということです。オバマは、そういうアメリカの正統的な代表であるのです。
 もう一つのより直接的な理由は、オバマが12月1日にアフガニスタンへの3万人の兵力増派を決定した直後であるということです。オバマの増派決定に対するアメリカ世論の目は厳しいものがあると伝えられています。増派発表後に世論調査を行ったCNNが12月4日に公表した結果によれば、オバマ支持率が48%なのに対し、不支持率はついに支持率を上回り、50%に上ったということです。もちろん増派決定だけに対する反応ではないでしょうが、オバマとしては受賞演説をするに際して国内世論の反応を考慮せざるを得ない状況にあったことは容易に想像されます。仮に、「外向き」の演説内容に終始したら、アフガニスタンへの対応との矛盾を鋭く問われることは必定だからです。オバマが演説のほぼ冒頭において、「私の受賞に関する最も深い問題は、私が二つの戦争のただ中にある国の軍最高司令官だという事実だ」と言及したのは、そういう意味で当然だったと言えるでしょう。
 彼としては、ノーベル平和賞受賞に寄せた欧州世論や、核兵器廃絶に寄せる日本をはじめとする国際世論の期待に応えるよりも、国内世論に対して自らの「戦争観」を明確に述べることによって自分への支持をつなぎ止めることの方をより重視したと思われます。

3.オバマ政権のアメリカに対して私たちがとるべき立場

 確かに黒人(マイノリティ)として、また、人権派弁護士として、オバマがアメリカ国内における人権・民主(デモクラシー)に高い関心を持っていることは間違いないでしょう。受賞演説の後半では、「我々が求める平和の本質」に言及し、「平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ」と述べています。このことは、人間の尊厳こそをあらゆる物事の判断基準にしなければならないという私自身の基本認識と共鳴し合う内容を持っています。また、「正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ」という発言は、日本国憲法の前文と重なる内容ですらあります。
 このような発言に注目するとき、私たちはやはりオバマ政権のアメリカに対するアプローチのあり方をよく考える必要があると思います。私がよく用いる喩えは「オバマは弥次郎兵衛だ」というものです。つまり、オバマという弥次郎兵衛の右手を核固執論者や権力政治派(「力による」平和観)が引っ張っている。オバマの左手を引っ張っているのは核兵器廃絶論者や脱権力政治派(「力によらない」平和観)である。どちらの力が強いかで、オバマはそちらの方に傾くことになる。いまは、両者の力が拮抗していて、オバマは立場を決めかねているが、右手を引っ張っている勢力が優勢になりつつある危険な状態にある。
 以上のように情勢を認識する場合、私たちがとるべき立場は非常に明確になります。つまり、いまの広島をはじめとする日本国内を覆っている「オバマ頼み」の他力本願ではダメであるということです。そうではなく、オバマが核兵器廃絶、脱権力政治、人権・民主(デモクラシー)に目の色を変えるようになるよう、私たちが「力による」平和観の勢力を圧倒する力を作り出さなければならない、ということです。
 今回のオバマの受賞演説は、安易な「オバマ頼み」には何らの根拠もないということを私たちにハッキリ認識させる効果があったという意味で、私はむしろよかったと思っています。核兵器廃絶にもっともっと本気で取り組みましょう。非核三原則を絶対に変えさせないと不退転の決意を固め、行動に移しましょう。核同盟である日米軍事同盟を終了させなければなりません。「力による」平和観の集中的表現である日米安保を解消し、「力によらない」平和観の平和憲法をいまこそ21世紀の日本と国際社会の指針としてもり立てていきましょう。そういう課題に取り組むことにより、日米関係を真に平和で友好的なものに変えていきましょう。これらのことは、私たち主権者がその気になれば(多数派になれば)、明日にでも実現できることです。そういう日本に対しては、オバマの弥次郎兵衛は大きく引きつけられることでしょう。

RSS