2010年(被爆65年)を前にして思うこと

2009.12.05

*日本被爆者団体協議会(被団協)が刊行している『被団協新聞』という刊行物があります。その新年号に寄稿しないかとお誘いを受け、下記の文章を寄せました。しかし、私が日頃考えていることをあまりに率直に書いた(特に被団協の組織問題)ため、被団協新聞には掲載されないことになりました(私も納得の上のことですので、誤解のございませんように)。ただ、私としては、4年8ヶ月を過ぎた広島での生活において、下記の2点は本当に重大な問題だと思っていますし、この二つの点についての打開がない限り、広島の核兵器廃絶運動ひいては平和運動そのものが筋の入った、全国に示範力ある運動にはなりきれないのではないか、と考えておりますので、敢えてコラムに紹介し、皆様のご批判、コメントをいただきたいと願った次第です(12月5日記)。

被爆65年を迎える年を、皆様は「百人百想」の思いで受け止められておられると拝察しております。私ごとではありますが、広島で生活住んで5年になろうとしております。広島は、衣食住、山あり、川あり、海ありの恵まれた自然環境、どれをとりましても、日本の中でもトップ・クラスのすばらしい町であると実感しています。極めつけは広島に住む人々の気持ちの暖かさです。特に、広電(バリアだらけの車両が多いことは残念至極ですが)車内でお年寄り、体の不自由な人、小さな子ども連れなどに対する乗客の自然ないたわりが日常的に見られることは、殺伐として余裕のない東京の光景を見慣れた私の目には、いつもほほえましい新鮮な感動を与えていてくれます。私の出身・成長地は愛知県(0歳~18歳)、大学以来の生活基盤は東京(18歳~63歳)ですが、わずか5年弱しか住んでいない広島にもっとも愛着(ふるさとの懐かしいにおい)を覚えるのも、正に以上に述べた広島のすばらしさ故でありましょう。
そして何よりも広島は、人間の尊厳をあらゆる物事の当否の判断基準とする私に、「人類は核兵器と共存できない」というヒロシマの思想を牢固として植え付けてくれました。なぜならば、広島に住む中で、核兵器こそが人間の尊厳をもっとも根源的に奪いあげる絶対悪の兵器であることを私は深く確信を持って学び取ることができたからです。
 しかし、全国・世界への平和の発信地であるべき広島には、私がどうしても納得のいかないことが二つあります。最初の一つは全国的な問題でもあります。もう一つの問題は、広島だけに任せていたらいつまで経っても解決ができないいわゆる「2010年問題」です。
一つは、「お上」(権力・権威)に対して半端でなく弱いということです。「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺があるように、これは広島に限らない日本中のことを承知していますが、それにしても広島は度が過ぎていると思います。広島市が、非核三原則を口先ではいいながら米国の「核の傘」におんぶにだっこの中央政府の「二重基準」を極める核政策を正面から批判したのは、後にも先にも1998年の平和宣言だけです。1955年から1963年まで闘われたいわゆる原爆訴訟を除けば、原爆症認定を国に認めさせる闘いが被爆者の人間としての正当な権利を国に認めさせる訴訟として行われたのはやっと2003年になってからでした。それまではお上への「陳情」が主体でした。米国のオバマ大統領が「核のない世界」を口にしただけで「オバマ熱」にもっとも浮かされてしまうのも広島です。今、日米「核密約」問題を利用して、非核三原則の非核2.5原則化、2原則化を目指す動きが蠢動していますが、広島のお上を気にした異常な沈黙ぶりが私には気になります。
もう一つの問題は、広島特有の、組織がすぐに分裂し、まとまらない傾向です(県会、市会の自民党の分裂が好例)。広島の被爆者運動の分裂も例外ではありません。1963~64年以来の核廃絶運動の分裂に関する歴史的背景は学びましたが、それ以来今日まで被団協が県レベルで分裂しているのは広島だけ(被団協組織が消滅してしまった県は別として)という状況が、いかに日本全体の被爆者の運動、したがって核兵器廃絶運動全体の力を削いできたかは誰の目にも明らかです。被爆65年の2010 年は分裂修復の最後の機会でしょう。
私は、被爆65年そして5月のNPT再検討会議を有意義なものにさせ、核兵器廃絶に向けて前進するための前提条件は、「お上」(国際社会、日本政府)に直言する被団協の活動強化、広島の組織的分裂を年早急に克服する被団協の主体的力量強化にあると思います。

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