21世紀の世界平和への道を拓く

2009.11.21

*ある雑誌に寄稿した文章です。字数の関係で三分の二ぐらいに縮めなければいけなかったのですが、ここでは原文を載せます。21世紀の国際社会はどういう方向を目指すことが人類的課題になっているのか、その前提として米ソ冷戦が終わってから今日までの約20年間の世界的な混迷をどのように位置づける必要があるのか、21世紀の人類的な課題として緊急に取り組むべき具体的な課題とは何なのか、という三つの重要な問題についてまとめてみました。読んでいただければ幸いです。(11月21日記)

(はじめに)

 私はいま、日本の社会で起こっているさまざまなことをどのように理解したらいいのか、考え込むことがあります。特に人間を人間としてではなく、モノとして扱う雰囲気が当たり前になってしまっているいまの日本社会に対しては、非常にいたたまれないものを感じます。
たとえば、2008年末ごろから大きな社会問題になりました派遣労働者の問題に関して言えば、一連の報道を通じてはじめて知ったのですが、会社側において派遣労働者を担当しているのが、人事担当部門ではなく、資材担当部門であるということを知ったときには、本当に言葉を失いました。
またいまの日本では、特にいわゆる小泉構造改革のもとで進められてきた介護制度、後期高齢者医療制度、障害者支援制度などの市場経済化により、介護を受けている方も、高齢者の方も、障害者の方もとんでもない負担増になり、まともな人間らしい生活もできない状態に追い込まれています。私は、こういうような市場原理の横行の大本にある新自由主義に対して、また、それがあたかも当たり前なのだという風潮がはびこる日本の社会、さらに言えば政治そのものに対して、本当に強い怒りを感じています。
目を国際関係に転じても、私は決して楽観を許さない状況があると感じています。
日本国内では、従来からそうですが、国際社会といっても実質はアメリカ中心でしか物事を見ない傾向が根強いのですが、そのアメリカに登場したオバマ政権に関して、彼がアメリカ初の黒人大統領であるというそれ自体は新鮮な変化、その彼が4月にチェコのプラハで「核兵器のない世界」に言及した演説を行ったことなどを好感して、何か世の中は変わるのではないかという期待感を込めた受け止め方の報道が支配的です。
しかし、オバマ政権の核政策を含む内外政策の全体像を踏まえるとき、本当にオバマ政権のもとで、国際関係に大きな、そして良い方向での変化が起こりつつあるのか、あるいは日米関係においても好ましい変化が起こるのか、ということについては冷静かつ正確な分析と判断が求められていると思うのです。
そういう時に、目の前の個々の現象、マス・メディアの報道にとらわれてしまいますと、やはり「木を見て森を見ず」という例えが当てはまってしまう状況になって、私たちは基本的な方向性を見失うことになる危険があるのではないかと考えるわけであります。つまり、こういうような時であるからこそ、私たちは、21世紀というのはどういう時代なのか、人類にとってこの21世紀はどういう時代であるべきなのか、どういう方向性を可能性として考えることができるのか、そういうしっかりした展望を持ちたい、と思うのであります。

1.21世紀は人類の歴史において如何なる使命を担う時代なのか

(1)人権・民主(その根底にある人間の尊厳)を普遍的に実現する時代

まず、21世紀は人類の歴史において如何なる使命を担う時代なのかということについて考えてみたいと思います。私は端的に言って、21世紀は二つの大きな価値観を地球規模で普遍的に実現していくことが求められている時代だ、と認識しています。二つの価値観とは、人権・民主(その根底に座る人間の尊厳)という普遍的価値及び「力によらない」平和観です。まず、人権・民主(人間の尊厳)という普遍的価値から考えてみたいと思います。
21世紀は、人権と民主(デモクラシー)という普遍的価値を文字どおり普遍的に実現する時代であります。そのことは、さらに具体的に次のように言えるでしょう。
現在地球上には60数億の人間が存在しているのですけれども、その誰一人をとっても、他者によっては代えようがない固有の尊厳を持っているということ、そしてごくごく当たり前のことなのですけれども、それがやはりなによりも大切なことであると思います。したがって、どの一人の人間の存在も無意味だということはあり得ない、どの人間もその固有の尊厳を持つ存在として価値があるということ、それをしっかり踏まえるということ、そしてそのことを皆が徹底して、本当に言葉の上だけでなく、個々の人間の中にある認識において徹底することが、やはりこの21世紀が本当に地球上のすべての人間にとって自らの存在の意味を肯定的に確認するために不可欠の前提になるのではないか、と思います。そういう意味で、人権・民主、つまり人間の尊厳を普遍的に実現することが、この21世紀の人類的な課題であるし、方向性であると考えるわけです。
ちなみに、これを日本国憲法に即して言いますと、憲法25条に体現されている生存権ということであることは、直ちにお分かりいただけると思います。
しかし実を言えば、人権・民主、あるいは人間の尊厳が普遍的価値として認められるに至ったのは、決して大昔のことではありません。第二次世界大戦で日本、ドイツ、イタリアという全体主義の国々が最終的に敗北し、人権・民主を標榜する国々が勝利を収め、具体的には国連憲章が制定されることによって初めて普遍的価値として認められるに至ったのです。
このように普遍的価値として認められた人権・民主でありますが、いま申しましたようにその歴史がまだ短いこともあり、いろいろな国々で、あるいは国際的に実現されたか、要するに一人一人の人間の尊厳が本当に実現しているかを見てみますと、それはまったくそうではなくて、むしろ1945年からこの2009年までの人類の歩みを見ると、むしろ逆行する流れをたどってきたのが現実ではなかったのかと思います。
それは考えてみれば、理由のないことではないのでありまして、やはり国によって人権・民主の実現度がばらばらであります。どうして国内的な実現度のばらつきが出てしまうのかというと、やはりいま地球上に存在する国際社会が、本質的にそういうばらつきを生むような形でしか存在していないという客観的な制約があります。それはつまり、国際社会が無政府的な、言葉を換えれば、中央政府のない社会だということによるものです。
「無政府的な社会」と国際社会を形容したのは、イギリスの国際政治学者であるヘッドレー・ブルという人が、彼の代表的な著作で使った表題においてであります。無政府的、つまりアナキカルということですが、それはどういうことかというと、国際社会というのは主要な構成員が主権国家であって、その構成員である主権国家を束ねるような組織(中央政府)がないということです。
そして基本的に、各国が国内的に何をしても、それについて国際的に要求を突きつけたり、改めさせたりすることができない規則(内政不干渉原則)になっています。ですから、そういう点で中央政府を持っている一国の社会などと比べた場合に、国際社会は社会としてまだ非常に未成熟、初歩的な段階にあるという性格を濃厚に持っていると言わなければなりません。
たとえば、1989年に中国の北京で天安門事件が起こったことについては知っている人もいると思います。市民を軍隊の力で弾圧したとして、中国政府を批判する激しい国際世論が起きましたが、それ以上に国際的な圧力で中国の行いを改めさせるということにはなりませんでした。
また、もっと最近の例をとると、2001年の9.11事件を経たアメリカ政府による捕虜虐待のケースがそうであります。アメリカ政府が、ハッキリした証拠もないのに、テロリストの容疑者と勝手に決めつけるイスラム、アラブ系の人たちを、グァンタナモ基地に押し込めて拷問の限りを尽くす、しかも裁判もしないで身柄を拘束する、そういうようなことが行われたことに対して国際的に強い非難が起きましたが、アメリカ政府が居直れば国際社会として何もなすことはできないわけです。
一言付け加えますと、さすがに人権派弁護士として若いころ頑張った過去を持つオバマ大統領は、このグァンタナモ基地の不正や仕組みは廃止すると言っています。しかし、本当に廃止されるかどうかについては、アメリカ国内における認識、自覚がどの程度深まるか、それが政策にどの程度反映されるかによって決まるのであって、国際的な世論によって物事が決まるのではない。それが、残念ながら国際社会の現実である、ということであります。
正確に申しますと、内政不干渉原則が壁になって立ちはだかるのは、特に大国が居直る場合のことであり、小国において人権・民主に対する目に余る激しい弾圧が起こるときには、国際的な力で改めさせるべきだという主張が沸騰し、現実にそういう行動がとられることもあります(いわゆる人道的介入)。しかし、人道的介入の実効性には大きな疑問符がつきますし、より基本的には、国内不干渉原則と人道的介入原則との間には大きな矛盾があり、まだ試行錯誤の段階にあるといわなければなりません。
こういう国際社会の現実におきましては、各国が自分の国の利益(つまり国益)を中心にして動くことが基本的に認められるということになるわけです。特に大国が自国の利益を最優先する政策を押し通すということになりますと、いわゆる権力政治ということになるのです。国際政治は権力政治だといわれるのは、こうした国際社会の未成熟性に起因しています。
自分の国の利益という場合、それが自分の国の国民の利益だというわけでは必ずしもないわけです。たとえば日本でも、自公政治をやってきた人たちは、盛んに国益優先ということを言っていて、そのために人権が制約されることも止むを得ないという。そのことを公然と前面に押し出したのが、平和憲法の日本を戦争する国に引き込むいわゆる有事法制でありましたし、有事法制を前提として国民を戦争に総動員するいわゆる国民保護計画でありました。
要するに、こういうふうに本来、普遍的価値として承認されたはずの人権・民主が、「国益」の前には無残に踏みにじられても、それに対してどうしようもできないという状況が、単に独裁腐敗政権が支配する発展途上国だけではなくて、ブッシュ政権のアメリカ、あるいは、自公政治の日本においても、現実のものとなってきたのが、残念ながら現実であったということであります。
そういう現実に対して、しかし、普遍的価値である人権・民主を座標軸として考えるならば、私たちはやはりこの21世紀においてどういう方向を目指すべきなのかということを根本に立ち返って考えなければいけないわけです。
その場合、私は、無政府的な国際社会というありようは、21世紀では、あるいは22世紀を展望しても、基本的には変わらないのではないかと考えます。つまり、国家を束ねるような組織(中央政府)が地上に姿を現すという可能性、条件が生まれる素地は残念ながら見当たらない。ということは逆に言いますと、私たちは国家を束ねる組織がない無政府的な国際社会、社会としては相変わらず未熟な、初歩的な段階にとどまる国際社会を前提として、21世紀を考えていかざるを得ないのではないでしょうか。
そうした時に、国家が主要な構成員である国際社会において、どのようにして人権・民主を実現していくか、また実現していかなくてはならないかということを、私たちは考えるわけですが、そうした場合大きく言って二つの内容があるであろう、と思います。
一つは、各国の国内において人権・民主を実現するという課題であります。そしてもう一つは、人間の尊厳がどの個人にも備わっているということを考えれば、そういう人権・民主の実現度が、人間一人ひとりがどの国に属するかによって程度が変わることがあってはいけないわけです。したがって、いかにしてその国家という壁を克服して人権・民主を普遍的に実現していくのか、すべての人に行き渡るようにするのかという課題も、大きな問題としてあると思います。
各国における人権・民主の実現という課題については、基本的には、各国の人々が、自ら国家権力との対決において、自分たちを解放するという過程において実現していくというのが基本だと思います。また、国際的に人権・民主を普遍的に実現するという課題については、国家という組織、存在のあり方を、どのように変えるかということを視野に収めた取り組みが必要になってくるのではないかと思います。この問題には後でもう一度立ち返ります。
それからもう一つ考えておきたいことは、先ほどから民主という言葉を無造作に使っておりますけれども、この民主(あるいはデモクラシー)という言葉も、非常に豊富かつ複雑な意味、内容を持っているということを認識しなければいけないということです。
日本では、「民主主義とは多数決原理のこと」と、学校で無造作に教えているし、国会議員の多くの人が平然と言い放つのですけれども、これほど皮相的な定義はありません。そもそも民主(デモクラシー)の根幹にある思想は、全員が納得するまで議論を尽くして、そしてその上で物事を決めるということなのです。ただし、現実政治においては、そういうことをやっているとその間に政治が動いてしまう。したがって、ある段階では議論が十分尽くされていなくても前へ進まなくてはいけないから、とりあえずの決定を行う必要性がある。そういう現実の必要性を考慮して導入されたのが多数決原理であって、それは一種の必要悪なわけです。
しかし、多数決で決まった結論が正しいという保証はまったくないわけで、その時に少数説に属する人たちが正しい立場を代表していることが後になって証明される可能性は十分にある。したがって、その後の事態の進展、あるいは運動、さらには再び議論を行うことによって、少数意見が多数意見に変化する可能性を保障しておかなければならない。それが真の民主(デモクラシー)ということなのです。
 民主(デモクラシー)の三要素として、理念、制度、運動という内容がある。これは、政治学者(正確に言えば日本政治思想史研究者)の丸山真男さんがしきりに強調した民主(デモクラシー)の内容についての捉え方なのですが、私も丸山さんの捉え方に深く共鳴するものを感じています。
理念というのは、非常に平たく言えば、「民主」という言葉そのものが表していますように、「民が主人公、主権者である」という、今日ではよほど反動的な考え方の持ち主でもない限り、誰でもが認めることであります。しかし、この理念が普遍的価値として確立したのも、先ほど申しましたように、第二次世界大戦が終わった1945年のことでして、決して古い昔のことではありません。 しかも、言うは易く行うは難い、というのが常でありまして、先ほど申しましたように、世界各国において民主(デモクラシー)が当たり前のこととして受け入れられているというにはほど遠い状況があります。この理念・価値を本当にどのように実現していくかということは非常に難しい課題であります。
つまり民主(デモクラシー)は、理念・価値としては普遍性を確立したけれども、制度としての民主(デモクラシー)と運動としての民主(デモクラシー)との相互作用、相互の働きかけが不断に自覚的に行われることによって、はじめてその理念・価値の内実を充実させていく長期的なプロセスとしてのみ存在することができる、ということであります。丸山眞男さんは、「民主(デモクラシー)は永久革命である」と繰り返し指摘していますが、私も、以上の意味において、まったくそうだと思います。
そのことを具体的に考えるために、ひと言日本の民主(デモクラシー)について触れておきます。いまの日本の議会制民主主義制度の現実を見れば分かりますように、日本の政治経済状況がこれほど大変な状態に陥っているにもかかわらず、二大政党である民主党と自民党は、この議会制民主主義という制度をもっぱら自分たちの権力を取るための手段としてしか考えていない。つまり、国会においていずれが多数を取るかということしか考えていないのです。これは、制度としての議会制民主主義が、人民という主人公を置き去りにして、彼らによって完全に私物化され、あるいは非常に矮小化されているということです。
このような議会制民主主義の形骸化を生んだ元凶は小選挙区制というゆがんだ制仕組みが強引に持ち込まれたことにあることはよく知られています。そういう現実に対して私たち主権者はどう対処することが必要でしょうか。
私たち主権者としては、もちろん現行の制度、仕組みのもとでも民意を高め、国会に私たちの声が反映される努力をしなければならないことは当然です。しかし、より根本的な問題としては、民意がより正確に反映される制度、仕組みが工夫されるように、不断に運動を通じて働きかけていかなければなりません。民主党などを中心に、比例代表制を併立している現行制度を改め、さらに小選挙区制の比重を高めようとする動きがありますが、それはとんでもないことであると言わなければなりません。
要するに、私たちは、今の日本の議会制民主主義の現実に諦めたらおしまいなのであって、この制度の不健全さ、誤りを改めさせるために、運動という面から強力に働きかけていくということが、日本における民主(デモクラシー)を21世紀の時代において前進させるための不可欠な前提である、ということを考えていきたいということであります。

(2)「力による」平和観の支配を「力によらない」平和観によって置きかえる時代

 この21世紀において人類が実現していかなければいけないもう一つの大きな課題は、「力による」平和観の支配を、「力によらない」平和観の支配によって置き換えるということであります。
私たちの憲法に即して言えば、まさに憲法第9条を活かしきる、国際関係においてあまねく承認される平和観にするという課題に直結しています。つまり、21世紀の人類が実現しなければいけない二つ目の大きな課題は、憲法第9条に体現されている「力によらない」平和観を21世紀の人類の平和観として確立するということであります。
古来からの平和観をめぐる思想の歴史を見ますと、「力による」平和観と、「力によらない」平和観が相対立して、長い間拮抗してきたという歴史があります。
特に17世紀に(具体的には1648年のウェストファリア条約により)、国家を国際社会の主要な構成員とする国際社会が成立した時代以降、先ほども申しましたように、国家を束ねる組織がないものですから、各国が国益を守る、実現するために戦争に訴えることが認められてきました。それがつまり、「力による」平和観が国際政治をずっと支配してきた、ということであります。「戦争は政治の継続」という考え方が支配してきましたが、これこそ「力による」平和観を典型的に代表するものでありました。
しかし、広島と長崎に対する原爆投下によって、戦争の様相は一変しました。
もちろん、アメリカが原爆投下を平然と行うまでには、機械文明の発達を背景とした戦争の残酷化(生物化学兵器という大量破壊兵器の登場)、無差別化(戦闘員と民間人とを区別しない)、無感覚化(思想的コントロール及び遠隔操作が「可能」にした殺戮に対する犯罪意識からの「解放」)の歴史がありました。原爆投下こそ、戦争が行き着いた残酷化、無差別化及び無感覚化の集中的表現であったのです。
国際社会は、核兵器の登場によって、戦争を「政治の単純な継続」と位置づける伝統的思考に安住しているのではもはや済ませられなくなっている次元に突入したことに、まったく無自覚だったというわけではありません。広島と長崎に襲いかかった恐怖は、戦争が今や単に多数の人命を一瞬にして奪い去るだけにとどまらず、社会、いな、文明そのものを根こそぎ消滅させ、人類そのものの意味ある存続を不可能にすることを予見させるものでした。
核兵器の登場により、人類の平和観に根本的な転換が起こったことを客観的かつ歴史的に証明するものこそ、恒久平和の実現を求める点では立脚点を共有する国際連合憲章と日本国憲法における戦争の位置づけ(「力による」平和観に立つか、「力によらない」平和観に立つか)の違いです。
国連憲章が署名されたのは、広島と長崎に原爆が投下される直前の1945年6月でした。憲章は、国際問題の平和的解決を目指しています。しかし、国際問題が紛争化し、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為」(第7章)にまでエスカレートした場合には、軍事行動で対抗すること(「力による」平和観)を予定しています。
戦争放棄の第9条を含む日本国憲法が国会(帝国議会)に提出されたのは、人類が広島と長崎を体験して1年も経たない1946年6月20日のことでした(公布は11月3日)。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」(前文)した憲法の第9条は次のとおりです。

「1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

憲法第9条こそは、広島と長崎に原爆が投下されて戦争の性格が根本的に変質したことを承認し、もはや戦争はあり得ない、あってはならないという認識(「力によらない」平和観)を根底にすえたものなのです。
率直に認めざるを得ないのは、憲法第9条に体現された戦争否定の思想(「力によらない」平和観)が直ちに国際的に受け入れることには繋がらなかったという事実です。また、日本自体も東西冷戦構造の中に組み込まれ、第9条は「力による」平和観を体現する日米安保条約の挑戦にさらされ続けることになりました。
第二次世界大戦後の国際情勢に即して言うならば、1991年にソ連が崩壊するまでは、核の脅威に立脚する東西冷戦構造という「力による」平和観に基づく権力政治が横行しました。また、冷戦後の時代におきましても、1991年の湾岸戦争以来、アメリカが唯一の超大国として世界を事実上支配し、国連憲章が軍事力行使を認めていることを盾にした戦争の正当化に訴えることによって、引き続き「力による」平和観が我が物顔にふるまってきました。
しかし、第二次世界大戦後から現在に至る「力による」平和観が支配した国際関係を振り返るとき、私たちは改めて根本に立ち返って考え直すことが求められているのではないでしょうか。
すなわち、人間の尊厳を普遍的価値と認めるに至った人類社会においては、人間の尊厳を否定することを本質とする「力による」平和観は、果たして許される平和観なのかということを、深刻に問わざるを得ない状況があると思います。もっと端的に言えば、「力によらない」平和観だけが人間の尊厳と両立する平和観であるということは、非常に明らかなわけです。
したがって、21世紀の私たち人類にとっての課題は何かと言いますと、無政府的な国際社会という現実はあるのだけれども、その客観的制約条件を直視しつつ、どのようにして「力によらない」平和観を国際関係の支配原理として実現していくのかということであります。それは極めて困難な課題ではありますけれども、本当に人間の尊厳というものを大切に思う者であるならば、なんとかして実現しなければならない課題、ロマンに満ちた、しかも極めて現実的な課題でもある、と思います。

以上のように私は、21世紀の人類的な課題を二つの点で整理して考えたいと思っております。生意気なことを言うようでありますが、この二つのポイントをしっかりと頭の中に収めてみますと、世の中を整理して見ることができるようになると、私は感じております。

2.国民的監視を強めて鳩山・民主党政権の政策を正そう

(1)20世紀の総括

それでは、20世紀、特に第二次世界大戦後の20世紀の後半約50年をどのように総括するべきでしょうか。もっとも東西冷戦の時期については、21世紀の課題を考える上ではとりあえず捨象してもよいと考えますので、ここではさら限定して脱冷戦後の1991年からの10年間に加え、その延長としてあったと位置づけるべき今日までのあわせて19年間をどのように総括するのかという問題意識に限定させていただきます。そして、その総括の上に立って21世紀の具体的な課題はどういうものがあるのかという問題をお話しさせていただきたいと思います。
最初に、脱冷戦後の19年間の総括ということですけれども、ここでは私は1991年の東西冷戦の終結があまりにも突然に、誰もの予想をはるかに超えるかたちで突発的に実現してしまったために、私たちはその人類史的意味をどのように受け止めるのか、東西冷戦が終結した後の国際社会をどのような秩序で再構成するのかということを考える理性的用意がなかった。あまりにも不意打ちを食らったために思考が追いつかなかった、ということではないかと思います。つまり、新しい国際的現実に向き合う主体的な用意がどこにもなかった、ということであります。
その結果、どういうことが起こったかと言いますと、非常に短絡的な受け止め方が横行してしまいました。つまり、「ソ連の崩壊=社会主義の破産=資本主義の勝利=資本主義を代表するアメリカの勝利」、こういう定式化が何の証明もなく行われてしまった。それが今日もなお続いているということです。
しかし、以上の単純な定式は本当に証明された定理と言えるのでしょうか。
まず、「ソ連の崩壊=社会主義の破産」という定式について考えてみましょう。確かにソ連という国家は、ソ連邦の空中分解という劇的な形で崩壊しました。しかし、ソ連が存在していた当時から、ソ連式の社会主義の様々な問題点(ソ連型社会主義が本当に社会主義といえるかという根本問題を含む。)については、ソ連の内外において多くの議論があったことは周知の事実です。
私は、マルクスについては本格的に学んだことがないので、ほとんど知りません。しかし、共産主義、社会主義の根本にある思想は、利潤(したがって市場)を中心にすえて人間関係を支配することを本質とする資本主義を止揚し、私の理解に基づいて言えば、人間の尊厳を最大限に実現することに資する経済制度のあり方を提起することにあったと理解しています。
つまり、固有の尊厳を持つ人間の間に不平等はあり得ない、あってはならない、それが私は共産主義、社会主義の根底に流れている思想だと思います。そして、人間の尊厳という普遍的価値を承認する者である限り、それを実現する経済的条件を作り出すことを目指す共産主義、社会主義そのものを否定するということはあり得ない、ということを強く感じているわけであります。
この点で、少し論争的になるかもしれませんけれども、日本における格差の問題と中国における格差の問題との違いについて、私なりの理解をお話ししたいと思います。私は、両者の間には決定的な違いがあると思います。
日本における格差問題の本質は、これまで自らを中間層と位置づけていた人々を含め、実に多くの人々を絶対的貧困へ追いやっています。そしてごく少数の人々が巨万の富を掌中に収めるということになっています。
他方、中国における格差問題というのは、貧困線以下の人たちがさらなる生活苦に追い込まれていくということではない。内陸部、農村部を中心にした貧困線以下にある人々の生活条件を少しずつでも引き上げていく。貧困線を脱する人々を政策的に増やしていく。同時に、都市、沿海部の条件の豊かな地域では、人々が積極的に豊かさを求めることを奨励する。これも国家全体の将来を考えれば必要である、という認識に立っているのです。
両者の間における決定的な違いというのは、貧困をどう位置づけるのかということです。そこにおいて、貧困に陥ったのは自己責任だから落ちるとこまで落ちろ、と放置するのが日本です。それに対して中国では、人間としての存在を全うできるようにするための物質的な条件作りのために、政治ができる限りの努力を行わなければならないという思想が多くの政策を貫いています。
これは、皆さんが新聞報道などから想像する中国像とはかなり違うかもしれませんが、社会主義を標榜する中国が目指しているのは確実にそうであります。現実に、中国における貧困層は確実に減ってきています。
お話がわき道にそれていると思われるかもしれません。要するに私が申し上げたいことは、「ソ連の崩壊=社会主義の破産」という定式が正しいと思い込む人にとって、社会主義・中国の現実をどう説明するのかという問題が直ちに生じる、ということを申し上げたいということです。
もう一つ具体的な例で考えておきたいと思います。私たちは、アメリカの見方でゆがめられた報道にしか接する機会がないので、社会主義制度を堅持するキューバに対しても非常に貧しい、間違った国というイメージがあります。けれども、近年、そのキューバを模範とする国々が中南米で続々と現れているのです。その理由は何かと言いますと、キューバにおいては、貧困をなくす、社会的公正を実現するということを、非常に大きな国家的課題として、実践してきているからです。
以上は二つの例にしかすぎません。しかし、私たちが1990年代以来信じ込まされてきた、社会主義はソ連崩壊とともに破産したという理解は根本から考え直さなければならない、ということについてはご理解いただけたのではないかと思います。
では、「社会主義の崩壊=資本主義の勝利」という定式は正しいのでしょうか。
ソ連の崩壊が社会主義の破産であって、したがって資本主義の勝利であるというような定式化がはびこった結果として何が起こったかと言いますと、1980年代に始まったアメリカのレーガン、イギリスのサッチャー、日本の中曽根によって推進された新自由主義、市場至上主義の経済政策が、我が物顔にこの世を謳歌することになったということです。
その資本主義の無軌道的な、極限的な自己主張が行き着く先は、2008年のアメリカの経済破産によって引き起こされた世界経済危機です。そして、例えば、アメリカに追随し続けてきたイギリスのブラウン首相すらが「もう新自由主義は終わりだ」と公言せざるを得ない状況になっています。したがって、「社会主義の破産=資本主義の勝利」という定式も、まったく事実ではないということが、いまや証明されているということであります。
それでは、「資本主義の勝利=アメリカの勝利」という定式についてはどうでしょうか。
この定式が現実にどういう事態をもたらしたかと言いますと、要するに、クリントン政権からブッシュ政権に繋がるアメリカの一国主義でありますし、経済におけるアメリカ式金融資本主義による世界経済への大混乱要因の持ち込みということでした。この二つがともに大破産を遂げたことも、2008年までに明らかになっていることであります。
したがいまして、ソ連の崩壊した当時に、安易に定式化された「ソ連の崩壊=社会主義の破産=資本主義の勝利=アメリカの勝利」という定式は、客観的に明々白々な事実でもって完膚なく打ちのめされたということだと思います。
このように、20世紀最後の10年と21世紀最初の8年というこの18年間は、アメリカが一国主義を追求することによって、脱冷戦が持つ歴史的、人類史的意味を本格的に問い直すという絶好の機会が浪費されてしまいました。
もちろん、この18年間の国際社会におきまいて、21世紀を展望する上での希望の芽がまったくなかったというわけではありません。 国際経済関係におきましては、その間にいわゆるブラジル、ロシア、インド、中国など、ブリックス(BRICs)と言われていますけれど、こういう国々が台頭してきました。あるいは中南米諸国において自立化への歩み、脱アメリカへの歩みが非常に顕著になってきました。また、アフリカにおいても経済発展が初めて具体的に見えるようになってきました。特に世界的に、ようやく新自由主義を根本から見直すという自覚的努力が始まっていることは附け加えておきたいと思います。
以上の20世紀の総括という課題の枠組みのもとで、日本自身はどういう状況にあるかということについてひと言触れておきたいと思います。
私はここでも丸山真男さんの表現に倣って申し上げるのですが、日本の現在は、ある意味で第三の開国のチャンスを迎えていると捉えることもできるのではないか、と思います。
第一の開国のチャンスは明治維新を指しますし、第二の開国のチャンスというのは敗戦した1945年を指しています。そのどちらの場合も、本来の主権者となるべきであった私たちが、そのチャンスを活かしきることができず、その時々の権力によって政治を支配されてしまいました。
1945年の第二の開国のチャンスにおきましては、私たちは平和憲法という成果を手に入れました。その憲法の成立の経緯についてはいろいろな議論はありますが、結論的に言えば、やはり私たち自身が血を流して闘い取ったものではないから有難味が少ない。国民的な受けとめ方としては、あればあるに超したことはないけれども、権力が取り上げてしまったら「ああそういうものか」と言って諦めてしまう、そういうものとしての位置づけしかなかったのではないか、と思うのです。
そのことは、韓国の民主化と日本の民主化の状況を比べてみれば、一目瞭然です。韓国の場合は、軍事独裁政権から民主化を勝ち取る闘いを、韓国の人たち自身がやったということによって、やはり韓国における民主は本物になっていると思います。しかし、日本はどうかと言えば、権力が議会制民主主義という制度を自分たちに都合のいい権力操作の手段にしてしまっても、私たちはぶつぶつは言うかもしれないけれども、それに対して敢然と立ち上がることは国民的規模では起こらない、ということになってしまっています。
私は、いまの日本は、チャンスという意味で言えば、明治維新、あるいは1945年にも匹敵する、私たちが本当の意味でこの国の主人公になる、この国を動かすことにしていく決定的な第三の開国の時期ではないか、と思います。私たちは今まで、保守政治によって彼らの都合いいように操られてきたわけですけれども、それをはねのける、そして私たちの主体的な力量をつけて、日本に民主を根付かせるチャンスを迎えているのではないか、と思います。

(2)21世紀の人類的課題

では最後に、21世紀の人類的課題とはどういうものがあるかということを簡単に考えておきたいと思います。
結論から言えば、すでに申し上げた二つの点、つまり、一つは人権・民主(デモクラシー)あるいは人間の尊厳を地球上であまねく普遍化していくということであり、そして今ひとつは、「力によらない」平和観を具体的に実現していくということです。それをさらに具体的に考えるとどういうことになるかということであります。
以下におきましては、この二つの点に直接かかわる人類的課題に限ってお話しすることにします。このほかにも、この二つにまたがる人類的課題として地球環境の保全という問題があるのですが、私の能力の及ばない問題であるという単純な理由から、ここでは取り上げないことをお断りさせていただきます。

① 人間の尊厳に基づく新国際政治経済秩序

私はまず、東西冷戦でもない、アメリカの一国主義でもない、新しい国際政治経済秩序をつくるということがこれからの最大の人類的課題ではないか、と思います。
その基本的出発点は何かといいますと、人間の尊厳という普遍的価値を根本にすえた秩序の創出の必要性に関する国際的コンセンサスを形成することではないかと考えます。そのコンセンサスを形成していく上でのカギは、個々の国家の営む役割、機能を変化させていくことが大きなポイントになるだろうと思います。
つまり、無政府的な国際社会が続くことを前提として受け入れつつ、個々の国家の役割、機能をどのように制限的なものにしていくか、という問題であります。たとえば、国際社会において国家が営む機能をいわば地方自治的な機能に変化させていくというようなことを検討しなければいけないし、その具体化に向けて歩みを進めていかなければいけないということでありましょう。
そのように国家の役割、機能を変化させていくというときに、なかなかそういうことに従わないのは大国でありますから、そういう大国を抑え込む、コントロールする仕組みをつくっていくことが大きな実際的な課題になると思います。特に、アメリカの圧倒的な軍事力を含め、諸国家の軍事力をなんらかの形で国際的に束ねる仕組みというものを作っていかなければならない、ということが難題として浮かび上がってくるでありましょう。
もう一つは、先ほど申しましたように、各国における人権・民主を、その国々の内政に物理的、軍事的に干渉するということによらないで実現する仕組みも考えていく必要が出てくるであろう、と思います。
この二つの課題は言うは易く行うは難いとは思うのですが、じつは、日本がその気になれば(ということは、私たちが日本という国家の真の主権者として行動することになれば)、国際的に実現することに非常に大きな役割を果たす可能性を持っているということを是非強調しておきたい、と思います。
つまり、日本が本当に平和憲法を実践する国家に生まれ変わり、以上の二つの国際的な課題に率先して取り組む国家として国際的に立ち現れる場合、その日本は世界の押しも押されぬ大国ですから、その示範力は大変なものがあるということなのです。日本が人間の尊厳を大切にする国家に生まれ変わる、第9条に基づく「力によらない」平和観を徹底して実践する基礎に立って、国際的にこの二つの問題について発言し、提案するということになれば、国際社会として絶対に無視できないことになるのです。
さらに簡潔に言えば、権力政治のアメリカに対する脱権力政治の対抗軸を、日本が身を以て実践しつつ国際社会に提示するということです。私は、日本がその気になれば、一見難しそうに見えるそれらの課題を、国際的に実現していく大きな推進力を提供することができるようになるだろうと思います。

② 核兵器の廃絶

次に、新しい国際秩序に関して具体的に問題になるのは、戦争と平和の問題であります。
私自身は戦争のない世界を将来的に展望したいと思いますが、21世紀という時代に限定して考えるならば、まずは核兵器の廃絶を目指すことが実現可能な課題であると考えます。と申しますのは、世界のあらゆる紛争要因がなくなるための前提ともいえる構造的暴力が21世紀中にすべて解決し、解消すると考えるのは非現実的だと思わざるを得ないからであります。
核兵器廃絶という問題に関しては、オバマ大統領も「核兵器廃絶」を目指すことを公に明らかにし、そのことも一つの理由となってノーベル平和賞を授与されることになったわけですけれども、私は、実は、核兵器廃絶のカギを握るのものとして、被爆地である広島と長崎を含む日本が果たす役割が決定的に大きいと思います。
「人類は核兵器と共存できない」という思想こそ、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」の訴えの中心であります。核兵器こそが人間の尊厳を奪う最も残酷な兵器なのであり、だから無条件で廃棄すべきなのだということについて、アメリカの認識を正さなければなりません。
その前提になるのは、広島、長崎に原爆を落としたことは、どんな理由をもってしても正当化できない誤りであったことをアメリカが公式に認めることが不可欠です。誤りであったことを認めないところにのみ、核兵器を保有し、その使用を正当化する核政策が成立しているのですから、まずその誤った立脚点をアメリカ自身が反省し、改めなければ物事は前に進まないのです。そのことが実現しなければ、真の意味での核兵器廃絶にはつながらないということです。日本は、アメリカにその非を改めさせることに全力を傾ける必要があります。
そのためには、日本国内における曖昧さを正すことが先決条件となります。「曖昧」というのは、言うまでもなく、非核三原則を口先では言いながら、アメリカの「核の傘」に入る政策を追求する戦後政治の矛盾のことです。私たち主権者が日本政府の矛盾を極める政策に正面から異議を唱え、改めさせ、核問題に関する国民的な曖昧さを自ら正すことに目の色を変えて取り組まない限り、いくら国際的に核兵器の廃絶を唱えても、その声が国際社会に重く響くことはないのではないでしょうか。

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