民主党政権の外交・安保政策を問う

2009.10.10

*雑誌『世界』11月号に掲載された文章です。雑誌では「権力政治的国際観からの脱却を」という題名になっていますが、私としては民主党政権の外交・安保政策を検討することに主眼がありましたので、ここでは原題に基づいて紹介します(10月10日記)。

鳩山首相と岡田外相の訪米及び国連を舞台にした活動によって鳩山外交の幕が開けた。国連総会及び安全保障理事会首脳会合での鳩山演説には、核兵器問題を含め注目すべき内容があった。しかし、それに先立つ鳩山首相とオバマ大統領、岡田外相とクリントン国務長官との会談では、首相及び外相とも日米同盟の堅持を積極的に発言するなど、その政策の整合性については疑問を抱かせるものであった。疑問を抱かせる根幹にあるのは、非核三原則を国是としながらアメリカの「核の傘」に依存して日本の安全を維持しようとする長年の自民党(自公)政治が取ってきた政策をどうするかという点に関する民主党政権の曖昧性にある。
国内では、4人の外務省次官経験者が核兵器を積んだ米軍の艦船や航空機の日本立ち寄りを黙認することで合意した「核持ち込み」に関する密約を、外務事務次官ら外務省の中枢官僚が引き継いで管理し、官僚側の判断で一部の首相、外相だけに伝えていたことが5月31日に分かった、とする共同通信記事が翌日(6月1日)付の地方各紙に大きく報じられた。このことをきっかけに各紙の後追い記事も続くなど、常に疑惑がらみだった非核三原則に関する問題が再び表面化している。しかも重大なことは、「北朝鮮脅威」論を口実に、密約の存在を認めるにとどまらず、密約に即した非核三原則の非核二原則化(「持ち込み」そのものを外す)、あるいは二・五原則化(米艦船の寄港・航空機の着陸、無害通航などを「持ち込み」から外して認める)を図ろうという動きが出ていることである。
 しかし、非核三原則の問題の本質は、密約が存在するか否かにあるのではない。なぜ非核三原則が唱えられるようになったかという歴史をふり返るまでもなく、その本質は、広島・長崎に原爆を投下された体験を持つ国民的な反核感情を無視できない一方で、アメリカの「核の傘」を含む日米軍事同盟に寄りかかるという矛盾を覆い隠すために密約を生み出さずにはすまなかった戦後日本の対米一辺倒の外交安保の歪んだあり方そのものにある。
 その歪みを生み出してきた一方の当事者であるアメリカにおいては、「チェンジ」を標榜するオバマ政権が登場した。特にオバマが核兵器のない世界を目指すというプラハ演説(4月5日)を行って以来、長年核兵器廃絶を希求してきた日本内外の言論においては、アメリカが核兵器廃絶に向けて本格的に動き出すのではないかという期待を含めた観測が行われるようになっている。
しかし、オバマ政権のアメリカの核兵器を含めた対外政策は単純なものではない。また、オバマ大統領自身も、自らはっきり公言するように、決してナイーブな考え方の持ち主ではない。アメリカの歴代政権と同じくオバマ政権もまた、国際関係においてはしたたかに権力政治を行い、アメリカの国益を最優先する現実主義の政策を追求しようとしている。ただし、就任以来の言動において確認されるように、オバマ政権が従来のアメリカの歴代政権と異なるのは、問題によっては他者の意見に耳を傾け、それに納得すれば自らの政策を軌道修正する弾力性を持ち合わせていることである。
これまでの日本の保守政治は「国益」を盛んに口にはするものの、その国益の中身とは「アメリカの国益=日本の国益」とする安易さに長年自ら安んじてきた。その日本がアメリカに次ぐ経済大国でもあり続けたがゆえに、アメリカが自らの政策を外国に押しつける厚かましさは対日関係において特に著しい。それを集中的に表現するものが日米軍事同盟である。
いま、日本において「対等な日米関係」を標榜する民主党政権が誕生した。日米首脳会談、外相会談の内容には楽観を許さないものを感じざるを得ないが、民主党政権が歴史的批判に耐えるだけの国際情勢認識を持ち、アメリカをして納得せしめざるを得ない主体的な政策体系を持つのであれば、日米関係に質的な転換をもたらす客観的条件は十分にある。以下においては期待感を込めて、民主党政権が踏まえるべき国際情勢認識及びそのような認識に立った外交安保政策の主要な方向性を提言したい。

1.国際情勢認識:20世紀を総括し、21世紀の課題を設定する人類的視座を持つこと

 鳩山氏の「私の政治哲学」(『Voice』9月号所掲。以下「論文」)は、氏の持論である「友愛」をキー・ワードとする政治哲学を論じている。つまり、彼の安保外交における具体的な政策は、少なくとも彼自身の意識においては「友愛」の政治哲学に由来する(ちなみに、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙電子版(8月27日付。「以下NYT版」)に掲載された英訳は、タイトルが「日本にとっての新しい道」と変更され、肝心の哲学部分は取り上げられていない)。とするならば、鳩山氏の政治哲学が歴史的批判に耐える国際情勢認識を備えているかどうかについて最小限の評価を加えておく必要があるだろう。
 まず驚かされるのは、鳩山氏の政治哲学がもっぱらクーデンホフ・カレルギーという20世紀前半の人物一人に由来していると見えることだが、それはとりあえず置くとしよう。その著作を鳩山氏の祖父・一郎氏が訳しているときに、フランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」の「博愛」を「友愛」と訳したのであるとされる。
しかし、「友愛」とは必ずしも「博愛」とは同義ではないらしい。鳩山氏の外交安保政策のブレーンとされる寺島実郎氏が『文芸春秋』10月号における文章で、鳩山氏本人と「友愛」を英訳するとしたら何になるか、ブラザーフッドなのかホスピタリティなのかという議論をしたと紹介し、さらに「いけすかないヤツだって受け入れていける度量の広さ」が鳩山外交のひとつの性格になっていくと発言している。これには驚愕を禁じ得なかった。「友愛」という鳩山氏の基本哲学とされるものの定義すら定まらない実情、そしておよそ政治哲学と呼ぶにはふさわしいとは言えない粗野な本質が客観的に告白されていたからである。
もっとも鳩山氏の名誉のためにいえば、9月24日に国連総会演説で彼は、「友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳をも尊重する考え」と定義している。しかし鳩山氏の定義を受け入れるとするならば、「自由」という概念そのものが他者の自由を侵さないという内律を本質としているのだし、要するに彼の定義は「自他の人間の尊厳を尊重する考え」と集約できるわけで、何故に「友愛」という聞き慣れない言葉にこだわるのかは相変わらず判然としない。
 次に、鳩山氏の歴史的視野を踏まえた国際情勢認識はどうか。論文においてその骨格を示しているのは、以下の文章であろう。

 「カレルギーは、「自由」こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。そして、それを保護するものとして私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、更に資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出したことを、彼は深く憂いた。
 「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く。」
 ひたすら平等を追う全体主義も、放恣に堕した資本主義も、結果として人間の尊厳を冒し、本来目的であるはずの人間を手段化してしまう。人間にとって重要でありながら、自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを「友愛」に求めたのである。」

 「放恣に堕した資本主義」とは、鳩山氏において新自由主義を意味することは理解できるし、私も同感する(NYT版冒頭の文章は、簡潔に「冷戦後の時期において、より一般的にはグローバリゼーションと呼ばれるアメリカ主導の市場原理主義の風に常にさらされ続けてきた。資本主義の原理主義的追求の下で、人々は目的としてではなく手段として扱われている。その結果、人間の尊厳は失われている。」とあり、論文の趣旨を正確に表している。鳩山氏としてはこの要領を得た英訳文に満足するべきであって、「趣旨が歪んで伝えられている」などと言い訳に躍起になるのがおかしい)。しかし、その部分以外の政治哲学に係わる部分の認識は率直に言って理解不能であり、NYT版が省略した理由がうなずける。
鳩山氏は、その「憲法改正試案の中間報告(以下「中間報告」)Ⅱ」第一章(総則)第二条(人間の尊厳及び基本的人権の不可侵)では、「人間の尊厳は最大限尊重されなければならない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことのできない永久の権利であり、日本国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」という提案を行っている。上記国連総会演説における「友愛」の定義でも人間の尊厳がキー・ワードであることに鑑みても、彼が「人間の尊厳」を重視していることは分かる。
私も、人間の尊厳は20世紀の人類が二つの世界大戦という途方もない代価の上に確立した普遍的価値であると認識している。そして21世紀は普遍的価値として確立した人間の尊厳を全世界規模で、そしてすべての人間にあまねく実現することを人類的課題とするべき時代であると認識する。これこそが、21世紀に生きる私たち人類が踏まえるべき歴史的国際情勢認識の基本である。
あげつらう意図は毛頭ないが、「市場原理主義」「イスラム原理主義」「キリスト教原理主義」などとは聞くことがあるが、鳩山氏が自明扱いする「自由原理主義」とか「平等原理主義」などという原理主義がどこに存在するのか。「自由」「平等」の概念を本当に鳩山氏は正確に認識しているのかを疑わざるを得ない。そういう基本概念についての認識の曖昧さの上にのみ、「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」という鳩山氏の「政治哲学」かろうじて成立するのである。
鳩山氏が人間の尊厳を本気で重視するのであれば、「友愛」という言葉を乱発するのは止め、鳩山氏も重視しているそして世界的に今や公認されている普遍的価値である人間の尊厳を、国際情勢認識のあり方を含め、あらゆる物事の是非を判断する座標軸として設定し、そこから21世紀の主要な人類的課題が何であるかを考える発想を持つべきであろう。特に人間の尊厳を国際情勢認識の基本にすえるとき、そこからは「他者を他在において捉える」という他者感覚(丸山眞男)に基づく地動説的国際観(ちなみに、日清・日露戦争以後今日に至る日本を支配しているのは天皇制あるいはアメリカ一辺倒の天動説的国際観である)が導かれるはずである。
人間の尊厳そして他者感覚をあらゆる物事の是非を判断する国際情勢認識の座標軸として設定するときに当然導かれる21世紀の人類的な最重要課題とは三点にまとめることができるだろう。それは、鳩山氏の論文も言及している新自由主義の清算(より本質的にいえば、人間の尊厳を基軸に据える新国際政治経済秩序の創造)に加え、核兵器廃絶(「人類は核兵器と共存できない」というヒロシマ・ナガサキの思想の普遍的実現)及び地球環境保全(人類の持続可能な発展・開発)である。

2.外交安保:権力政治的発想を根本的に払拭し、脱権力政治的発想に立つこと

 明治維新以来の日本は、「力による平和」観の権力政治が支配する国際関係を当然の所与のものとし、がむしゃらに軍事的膨張の道を突き進み、その結果第二次世界大戦で敗北し、挫折した。平和憲法こそは、その歴史的教訓に学んだ新生日本が国際社会の中で生きるべき方向性、つまり「力によらない平和」観の脱権力政治の国際関係のもとで生存を図る決意を示すものであった。
 しかし、米ソ冷戦の深まりとともにアメリカの対日政策が急変し、日本をアジア太平洋地域における反共の砦として復活させる政策が採用された。戦後保守政治は、「力によらない平和」観を根本にすえる平和憲法と根本的に対立する「力による平和」観に基づく日米安保条約を受け入れ、ここに戦後日本の外交安保路線の基本が設定された。
鳩山氏もまた、そういう権力政治の支配する国際社会を当然視する立場に立っていることは、論文の次の文章に示される。

「アメリカは今後影響力を低下させていくが、今後二、三〇年は、その軍事的経済的な実力は世界の第一人者のままだろう。また圧倒的な人口規模を有する中国が、軍事力を拡大しつつ、経済超大国化していくことも不可避の趨勢だ。…覇権国家でありつづけようと奮闘するアメリカと、覇権国家たらんと企図する中国の狭間で、日本は、いかにして政治的経済的自立を維持し、国益を守っていくのか。これからの日本の置かれた国際環境は容易ではない。」

脱権力政治の国際関係のもとで平和国家としての生存を図る決意を明らかにした平和憲法の立場が、米ソ冷戦時代という極端なまでの権力政治が支配した国際環境において「現実」的であったかどうかについては様々な議論があり得た(私自身は、例えば1950年に書かれた丸山眞男の「三たび平和について」の「原子力戦争は、もっとも現実的たらんとすれば理想主義的たらざるを得ないという逆説的真理を教えている」をはじめとする基本的命題・論点は時代的制約を超えた新鮮な説得力を持つと考えている)。しかし、いま私たちが問うべきは、米ソ冷戦が終結した21世紀の国際関係の基本的構造が引き続き「力による平和」観の権力政治を支持するか、それとも「力によらない平和」観の脱権力政治を支持するかということでなければならない。
国際関係における権力政治については様々な論じ方があるが、そのもっとも原初的かつ基本的な発想は、なんらかの脅威(自国の生存を脅かす存在)を想定してこれに軍事的に身構えるという点にある。日米軍事同盟はその典型だ。米ソ冷戦時代の日本を含む「西側陣営」においては、それはソ連(あるいは共産主義)とされた。では、米ソ冷戦が終結した21世紀においては何が脅威とされているのか。それは本当に脅威としての実体を持っているのか。日米軍事同盟は今日その正当性を証明できるのか。日本及びアメリカの脅威認識を具体的に検証することで、権力政治的発想が21世紀の国際関係において破産していることを明らかにしたい。

(1)日本の脅威認識:北朝鮮脅威論

米ソ冷戦が終結した1990年代以来、日本においては端的に北朝鮮脅威論が支配してきた。実は、すでに鳩山氏の「論文」においても顔を覗かせていたように、民主党、自民党を問わず、彼らの本音は中国脅威論にあるのだが、中国を公然と脅威呼ばわりをすることに憚りがあるために、朝鮮民主主義人民共和国(以下便宜的に「北朝鮮」)をスケープゴートに仕立て上げているにすぎないのだが、北朝鮮脅威が虚構であることが明らかになれば、少なくともその限りで日本における日米軍事同盟したがって権力政治正当化の立脚点は失われることになるはずだ。中国脅威論の問題は、アメリカの脅威認識を扱う際に論じる。
その虚構性を明らかにする前に、鳩山政権の下で外相を務める岡田克也氏及び拉致担当相・国家公安委員長となった中井洽氏の北朝鮮に関する発言を確認しておこう。自公政治を完璧に継承する、いやそれ以上に北朝鮮に対する敵意むき出しの認識が露呈していることを読みとらないわけにはいかないだろう。そこには、「いけすかないヤツだって受け入れていける度量の広さ」(寺島実郎氏)という「友愛」精神の片鱗も窺われない。

(岡田氏)「北朝鮮は拉致問題の再調査を約束しながら、まったく進んでいない。ミサイルや核の実験をやる中、日本が融和的な態度をとることはあり得ないことだ。国連安全保障理事会決議に基づいて制裁を強化する中で、北朝鮮の政策転換を待つということだ。」(9月18日付朝日新聞。9月23日付毎日新聞によれば、岡田外相は、同月21日のアメリカのクリントン国務長官との会談においても、「核、ミサイル、拉致問題の解決がなければ、日朝国交正常化はない」と表明した)。
(中井氏)「(拉致担当相と国家公安委員長の)兼務という形に、鳩山内閣の意思が表れている。「対話と圧力」ではなく「圧力と圧力」だと考えてきた。従来の政府の制裁は生ぬるい。」(9月23日付毎日新聞)

確かに北朝鮮を脅威にでっち上げる材料は多い。伝統的なアジア蔑視感情(その素地には、明治以来の官製の歴史認識に染められた国民感情があることは否定できない)を増幅し、膨張させる「事件」が1990年代以後相次いだ。1993~4年の第一次核疑惑、1998年のテポドン発射、一連の不審船事件、そして岡田外相の言及したいわゆる拉致問題、ミサイルや核の実験だ。ここではごく簡単に本年4月5日に北朝鮮が行った人工衛星打ち上げ問題を取り上げて、北朝鮮脅威の虚構性を明らかにする。
4月5日の北朝鮮の人工衛星打ち上げ用のロケット発射に関して、事態深刻化の筋書きを設定したのは、同じ日にプラハ演説を行ったオバマ大統領だった。北朝鮮は事前に宇宙条約に加盟し、ICAOなどの国際機関にも所定の手続きを踏んで、宇宙条約が「宇宙空間の探査及び利用は、…全人類に認められる活動分野である。…宇宙空間は、すべての国がいかなる種類の差別もなく、平等の基礎に立ち、かつ、国際法に従って、自由に探査し及び利用することができる…。」(第1条)としてすべての国に認めた、国際法上の当然の権利の行使としてロケットを打ち上げた。
ところがオバマは、「北朝鮮は、長距離ミサイルに使用できるロケットを実験することにより、規則を破った。この挑発に対しては行動を起こす必要がある。」と決めつけた。そして4月13日付で安保理議長声明が発出され、北朝鮮の「安保理決議1718(これ以上の核実験及び弾道ミサイル打ち上げをしないことを要求)に違反した打ち上げを非難し」、「再発射をしないことを要求」した。国際法がすべての国家に認めている宇宙の平和利用に関する権利をも否定されて激高した北朝鮮は、5月25日に第2回核実験を強行することになった。「国連安保理が…当初からわれわれの平和的衛星の打ち上げを問題視しなかったなら、2度目の核実験のようなわれわれの強硬対応も誘発しなかったであろう」(国連駐在北朝鮮常任代表が9月3日付で安保理議長に送った書簡)と北朝鮮側が表明しているように、オバマ発言を受けた安保理による北朝鮮を脅威と決めつける誤った強圧的対応がなかったならば、北朝鮮脅威をあおる日本国内のフィーバーは演出されなかっただろう。
要するに、日本国内の北朝鮮脅威論は、「何をしでかすか分からない北朝鮮」を脅威に仕立て上げることによって成り立っている。しかし、それは、「日本=善玉、北朝鮮=悪玉」の典型的な天動説である。私たちに求められるのは、他者感覚を駆使し、北朝鮮(金正日)の目線に映る北朝鮮を取り巻く国際環境が如何なるものであることを冷静に理解し、その実像に見合った対北朝鮮認識に立脚することでなければならないはずだ。
一言で言えば、北朝鮮(金正日)が認識する国際環境及び自己規定とは、猛々しい肉食獣に取り囲まれて退路をふさがれたハリネズミ、ということだろう。宇宙条約(というより国際法)上すべての国家に認められている権利も北朝鮮に限っては否定されるようでは、世界は正に弱肉強食が支配する無法社会と認識せざるを得ないわけで、ハリネズミとしては身を逆立てる(ミサイル実験や核実験の強行)以外に我が身を救う手立てはないという絶望的心境に追い込まれるのも無理はない。このような北朝鮮が日本に襲いかかるがごとき事態はあり得ない。北朝鮮脅威論は虚構であり、虚構に立脚する権力政治的思考の破産は明らかと言わなければならない。

(2)アメリカの脅威認識:核拡散、核テロリズム及び戦略環境の予見困難性

 オバマ政権の下におけるアメリカが如何なる脅威認識に立って権力政治を展開するかについては、2010年の早い時期に発表される見込みの「4年ごとの国防見直し」(QDR)の発表を待たなければならない。ここではQDRに大きい影響を与えると見られているアメリカ議会が設立した超党派の委員会が5月に発表した報告(委員長を務めたペリーの名を取って「ペリー報告」)に示された脅威認識を検討する。
 ペリー報告は、「三つの深刻な挑戦」として、核拡散、核テロリズム及び「戦略環境の予見困難性」を挙げる。核テロリズムに関しては、ブッシュ政権時代と異なり、軍事的解決の困難を認め、核兵器及び核分裂性物質の国際的管理体制を強化することがキメ手だという判断であり、基本的に軍事的対応が必要な脅威という扱いではないので、ここでの考察の対象から外す。
 核拡散とは、「アメリカに反対する好戦国(イラン、北朝鮮など)」が「隣国を威圧するため、またはアメリカもしくは国際的有志連合がこれらの国々(つまり隣国)を保護することを阻止するために核の脅威を使うことができると信じるようになっている」ことによってもたらされるとされる。
 この認識における要注目点は三つある。一つは、日本における北朝鮮脅威論とはまったく異質だということだ。日本では「北朝鮮が攻めてきたらどうする」式の荒唐無稽の議論が幅を利かせているが、アメリカはさすがにハリネズミとしての北朝鮮の実態を踏まえている。
第二点は、世界の正義を独占しているという思い込みの激しいアメリカ(=「善玉」)流の天動説的発想なのだが、イラン、北朝鮮などを「アメリカに反対する好戦国」(=「悪玉」)と決めつけていることだ。そこには、アメリカの言いなりにならない国家は許しておけないとする権力政治特有の力ずくの姿勢が浮き彫りである。
第三点は、そこから、「現在の挑戦に対処できないならば、自前の核抑止力が必要だと結論づける国が更に現れるという転換点に直面しかねない」という、明らかに日本などにおける核武装論などを念頭に置いた危機感が表明されていることだ。そこからペリー報告は、アメリカによる同盟国への拡大核抑止の重要性を強調している。この点が、冒頭に述べた日本国内における非核三原則見直しの主張と接点を持つことになる。
 問題は「戦略環境の予見困難性」だ。そこでは、「ロシア及び中国の将来における国際的役割には深刻な不確実性がある。両国は、「責任ある利害関係者」として台頭するのか。それとも秩序に対する挑戦者としてなのか」という警戒感の表明がある。ここまで露骨な対露・中警戒感の表明は、クリントン、ブッシュ両政権時代においてすらなかった。ペリー報告は権力政治の発想に立ち戻っているのである。米ソ冷戦の終結という歴史的転機を見透し得ない唯一の超大国・アメリカの深刻なまでの矛盾が露呈している。  実は日米軍事同盟の変質強化を推進するアメリカの念頭にある大きな一つは、台頭する中国を如何に軍事的に封じ込めるかということである。ここにおいて、日本国内に底流として存在する中国脅威論との接点が存在する。
 しかし、いまだ開発途上であり、経済建設を国家の中心課題と設定する中国が平和な国際環境を欲していることは、アメリカを含め、国際的な常識である。その中国を身構えさせるのは、アメリカが台湾をいつまでも自己の影響下に置く政策を放棄しないがゆえにほかならない。自らの政策の不当性を棚上げにして、「戦略環境の予見困難性」と称して中国を脅威扱いにして止まない発想こそが問題であることは明らかだろう。そのアメリカとの日米軍事同盟に汲々とする日本も同罪であることはいうまでもない。

(終わりに)日本の国際的役割:真の国際平和へのリーダーシップ

 最後に、21世紀における日本の国際的役割について民主党政権に若干の提言をしておきたい。
 21世紀の人類的な最重要課題として私は既に、新自由主義の清算(積極的には、人間の尊厳を基軸に据える新国際政治経済秩序の創造)、核兵器廃絶(「人類は核兵器と共存できない」というヒロシマ・ナガサキの思想の普遍的実現)及び地球環境保全(持続可能な発展・開発)の三つを挙げた。この三つの課題に日本が率先して国際的な役割を果たすことこそ、民主党政権が追求することでなければならないと確信する。この点で、鳩山首相が国連総会演説で述べた「日本が架け橋となって挑むべき五つの挑戦」の中身が以上の三つの課題とほぼ重なることを歓迎したい。
新自由主義の清算の必要性については鳩山氏の論文においても強調されている(総会演説では「世界的な経済危機への対処」という表現になっているが)。また、地球環境保全についても、鳩山首相は9月22日に国連気候変動サミットにおいて、2020年までに1990年比25%の温室効果ガス削減の中期目標を国際公約として表明した。すべての主要排出国の参加を前提にしているなど気がかりな点はあるが、その積極的取り組みを待とう。
 問題は核兵器廃絶である。岡田外相は、就任早々の9月16日に、核兵器持ち込みなどに関する日米間の密約の調査を外務省事務当局に命令した。そのこと自体は重要なステップだが、鳩山首相及び岡田外相のこれまでの発言などに徴すると安易な楽観は許されないという懸念がぬぐえない。
 例えば鳩山氏は次のように述べた(7月16日付朝日新聞大阪版)。

 「非核三原則が堅持されていくなかで現実的対応がなされてきているという側面がある。北朝鮮の問題も含め、必要性があるからこそ、その方向で考えるべきだと思う…」(7月14日)
 「北朝鮮の脅威と、米国の拡大核抑止力をどう見つめていくか、という議論はあるべきだ」(7月15日)

 また岡田氏は、2008年8月9日に長崎で東北アジア非核兵器地帯条約(案)を発表したが、その第3条2(c)に次の規定を置いている。

 「近隣核兵器国は、核爆発装置を搭載する船舶または航空機を、(東北アジア)地帯内国家に寄港、着陸若しくは、領空通過させようとする場合、又は無害通航若しくは通過通行権に含まれない方法によって地帯内国家の領海を一時通過させようとする場合には、当該地域内国家に許可を得るため、事前に協議を行う。協議の結果許可するか否かは、当該地域内国家の主権的権利に基づく判断に委ねられる。」

 確かに南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)第5条2、東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約)第7条、アフリカ非核兵器地帯条約(ベリンダバ条約)第4条2及び中央アジア非核兵器地帯条約第4条にも類似の規定はある(ただし、これらの条約では「締約国がその主権行使として寄港などを認めるかどうか決定する自由を持つ」という規定ぶりで、アメリカの事前協議を前提にする岡田氏案は日米安保の事前協議条項が念頭にありそうだ)。岡田氏は、先例に則っただけ、というかもしれない。しかし、非核三原則は寄港、着陸、領空通過、無害通航を含めて「持ち込み」に当たるから認めないという厳しい内容であることにこそ、原爆体験を踏まえた日本にとっての重要な意味がある。
 日米間の核密約の要諦は正にここにある。非核三原則とアメリカの「核の傘」は根本的に両立しないからこそ核密約が生まれた。いま民主党政権に問われているのは、「人類は核兵器と共存できない」というヒロシマ・ナガサキの思想を文字通り被爆国・日本の思想として確立し、アメリカの「核の傘」と決別するか否か、つまり、核兵器廃絶に向けて国際的なリーダーシップをとるという決断をするか否かということである。鳩山首相は、安保理首脳会合の演説で、「私は今日、日本が非核三原則を堅持することを改めて誓います」と述べたが、そこで言われる「非核三原則」とは何かが厳しく問われなければならない。

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