辺見庸とダニエル・エルスバーグ:広島への警鐘

2009.08.30

*8月21日付の長崎新聞に載った作家・辺見庸氏の文章と同月24日に中国新聞に載った元国防総省職員で平和運動家のダニエル・エルズバーグ氏の文章に惹かれました。二つの文章ともヒロシマであるべき広島への鋭い批判を内包しているものと、私は受けとめました。全国の皆さんにも、地方紙に載った二人の問題意識を共有していただきたいので、私が注目した箇所を紹介します(8月30日記)。

1.辺見庸「ヒロシマの凄絶と浮薄」

 原爆死没者慰霊碑の石室に刻まれている「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」の文言をじかに見たとき、ぬぐおうとしてもぬぐいきれない違和感に悩んだ。多くの人の心を動かしたという言葉におのれの心を素直にかさねえないわけを、つよくいぶかしんだ。過ち? だれによる、だれにたいする、どのような過ちなのか。それを、だれが、どう、つぐなわなくてはならないのか。主語を消しさることで責任を無限に拡大し、ついに無化してしまうのでなく、日本による侵略・大量殺戮(さつりく)の犯罪をふくめて、ひとつひとつ責任の主体をくどいほど問いつづけ追いつづけて、自他の罪の質と所在をあかす思い労苦を、この国の戦後はなぜ担わなかったのか。…
 ヒロシマは往時よりさらに軽くなった。そうか、そんなものかと世の流れに黙ってそえばよいものを、いっかなそうはできない子どものような自分に、最近は嫌気もさしてきている。「オバマジョリティー」だとか「オバマジョリティー音頭」だとかいわれたときも、ご同慶のいたりとヘラヘラ笑うくらいの度量がなくて、この国の浮薄ないまをどうして生きてゆけようか。いい知れない恥ずかしさにいちいち赤面し怒っていてはとても身がもたない。でも、「the Obamajority」は、とくと調べてみるとよい、昨年の大統領選中に米国の一部ですでにつかわれ廃れた、もともと米国製の安直な造語(浅井注)である。ヒロシマ製ではない。横町の百日紅の前をとおるたびにおもう。まだ花が咲き狂っている。くどいな、と。

(浅井注)インターネットで試しに検索したところ、2008年3月24日にトム・ペリーロ(Tom Perriello)という人物が、「オバマがその大胆なアジェンダを立法化するための強力で進歩的な議会をオバマに与えるために、「オバマジョリティ」キャンペーンである”Swing State Project”を開始した」という記事(同年3月31日付)がヒットしました(http://www.swingstateproject.com/diary/1650/)。

2.エルズバーグ「米国人と原爆認識  投下正当化 危険な考え」

 45年8月に米国民が原子爆弾の存在を知ったとき、極めて偏った肯定的な文脈でしか原爆について考える機会を持たなかったであろう。その文脈とは、原爆がナチスの爆弾を阻止するために開発された米国の民主主義を守るための手段であり、日本本土上陸という高い犠牲を払うことなく戦争を終結させるために必要不可欠な武器であったというものである。この主張こそ、米国民にほぼ普遍的に信じられてきたのである。
 当時を知る多くの米国人は、広島と長崎への原爆投下を、何にもまして感謝の念をもって受け止めている。というのも、そのことで日本上陸という危険にさらされることになっていた自身や、夫、兄弟、父親、祖父たちの命が救われたと信じているからだ。こうした人々にとって、原爆は大量虐殺の道具というより、一種の救世主であり、尊い命の守護者なのである。
 こうして、1日に行われた大量虐殺としては史上第2,第3となる出来事を彼らは正当化している。最大なるものは、その5カ月前の3月9日(日本時間10日)夜間、やはり米陸軍航空隊が行った東京大空襲であり、8万から12万の市民が焼き殺され窒息死した。この事実を多少なりとも知る少数の米国人のほとんどは、やはりこの攻撃も戦時下においては適切であったと考えている。
 大多数の米国人がそうであるように、このような行為を犯罪もしくは不道徳的だと考えないということは、いかなることであれ正当な手段になり得るということだ。実際のところ、私たちは爆弾投下、とくに大量破壊兵器を都市に投下したことで戦争に勝利したのだと信じ、その行為は全く正当であったと信じている世界で唯一の国である。これは、核時代が続いている今日において、極めて危険な考え方である(浅井注)。

(浅井注)私は、8月22日に行われたIPPNWのシンポジウムの冒頭発言で、アメリカをして広島、長崎に対する原爆投下の誤りを認めさせることこそがアメリカ・オバマ政権をして核抑止論と決別し、核兵器廃絶に真剣に取り組むようにするための前提条件であることを指摘しました(http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2009/294.html)が、エルズーバーグの発言は、アメリカ国内でもそのことを認識する識者がいることを示すものです。
残念なことに、当日私がそういう発言をしたことに対し、同じシンポジウムにパネリストとして参加していた広島を代表するジャーナリストが、「広島がアメリカに対してそのような発言をわざわざする必要はない。心あるアメリカの人々が広島を訪れて、平和記念資料館を見学することが大切だ」という趣旨の発言を行いました。彼の発言がシンポジウムの最後の発言だったので、私はさらに反論する機会がなかったのですが、広島(そして長崎)がアメリカの世論に対して原爆投下の誤りを指摘しなければ、いったい誰がアメリカに対してその非を説得力を持って指摘するのか、ということをここで強く指摘しておきたいと思います。 広島がそういう発言をすることは、決してアメリカを非難し、謝らせなければ気が済まないという次元の問題ではないのです。被爆者のなかには、そういう気持ちをもっている方たちがおられるでしょう。しかし、被爆者であるか否かを問わず、アメリカの原爆投下の非を問いただすのは、決して私憤の次元の問題ではありません。
私たち日本人が広島、長崎をいえば、アメリカ人はパール・ハーバーを見ろ、と言い返すことを指摘する人もいます。もちろん、私たちは、真珠湾攻撃について真摯に謝罪しなければなりません。しかし、だからといって、広島、長崎に対する原爆投下が許される、正当化される、ということでは絶対にありません。
アメリカ人をして広島、長崎に対する原爆投下の誤りを認めさせることは、「人類は核兵器と共存できない」という思想を普遍化するための最初の決定的なステップであるのです。そして、そのことについて世界においてもっとも強くアメリカ世論に対して発言するべき強い道義的立場・責任を持っているのは広島と長崎であるということです。広島と長崎が、そして広島、長崎を我がことと認識する日本が「自己規制」して発言を慎むようなことをしたならば、いったいどのようにしてアメリカ世論を覚醒させるすべがあるでしょうか。
なお、エルズーバーグの文章は、東京大空襲と広島、長崎を同列視する暗黙の視点があるように感じます。確かに、無差別空爆という点における同質性(可視的でないが故に罪悪感・犯罪性を意識しないで巨大な人殺しを犯してしまうこと)は否定することができませんし、それは重要なポイントではあるのです。しかし、原爆といわゆる空襲との間には、放射線被害の有無という決定的な違いが存在すること、原爆そして核兵器の他に類を見ない残虐性、反人道製、犯罪性は正にその点にあるということを、エルズーバーグほどの良心的な人間でも意識し得ていないという点に、アメリカにおける核兵器に対する認識の重大な欠陥が存在していることを考えないわけにはいきません。

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