広島の「平和」とその含意

2009.05.16

*5月16日に日本中東学会第25回年次大会が広島で開催され、「暴力と平和を考えるーヒロシマの視点から」と題するシンポジウムが行われました。パネリストとして出席した私は、標題の下で以下の冒頭発言を行いましたので、このコラムでも紹介したと思います(5月16日記)。

広島が世界に伝えようとしている「平和」の内容を要約すれば、「ノーモア・ヒロシマ」及び「ノーモア・ヒバクシャ」の二つの訴えに要約できると言えるだろう。「ノーモア・ナガサキ」とあいまって、この三つの訴えは、1955年の第1回原水爆禁止世界大会以来、日本の核兵器廃絶運動が50余年にわたって一貫して訴えてきたものだ。つまり、広島及び長崎の惨禍を二度と繰り返してはならない、被爆者を二度と生み出すようなことがあってはならない、という叫びにも似た訴えである。それを端的にまとめた広島の思想とは、「人類は核(兵器)と共存できない」の一言に集約できると考える。
しかし、これらの三つの訴え及びそれらをまとめた広島の思想が具体的な課題に対して有効な指針を示すものとなっているかというと、必ずしもそうとは言えない実情がある。このような現実を導いた原因は少なくない。
時系列的にふり返った場合、まず戦後保守政治の側に起因する問題としては、原爆体験を重要な思想的源泉とする憲法第9条に対する日本政府のほぼ一貫した敵対姿勢、それと密接に結びつく日本政府の日米安全保障政策と二重基準を極める核政策、それらの裏返しとして自らの対国外・対国内の戦争責任をあくまで認めようとしない頑迷なまでの戦後保守政治の歴史認識、1950年代後半に早くも顕在化した保守層の核兵器廃絶運動からの離脱、1978年以来の「究極的核兵器廃絶」論の忍び込み、米ソ核冷戦終結後における惰性的なアメリカの「核の傘」への執着、そしてオバマ政権における核政策見直し気運に水を差す「拡大抑止」固執の政策などが挙げられる。
また、我々側の問題としては、やはり時系列的に挙げれば、1954年の第五福竜丸事件を契機に澎湃として起こった原水爆禁止署名運動における初動上の問題、1960年代以後における国際情勢(中ソ対立)ともつながる日本国内の運動の分裂、広島・長崎・被爆者の主人公性を尊重しない東京主導型の核兵器廃絶運動のマンネリ化、米ソ冷戦終結という国際情勢の大変化に対する主体的対応ができなかったこと、その結果としての社会党の変質と革新政党としての脱落、1990年代以後に顕著となる広島と長崎の連帯行動の衰えなどを挙げざるを得ない。
また、広島独自の問題もいくつかある。戦前から続く強固な保守的土壌、中央権力に対する迎合的傾向に加え、1998年の当時の文部省のいわゆる是正指導が及ぼした深刻なまでの消極的影響、時を追うに従って強まってきた「平和」観の総体的曖昧化などを挙げなければならない。 我々は、以上の諸問題に真っ向から立ち向かい、これら三つの訴え・広島の思想をできるだけ豊富な内容・含意で肉付けする作業が喫緊の課題として我々に提起されていると考える。考えなければならない課題は多岐にわたるが、時間の関係もあり、ここでは、核兵器廃絶に関わる問題、核兵器廃絶と密接不可分な戦争一般の問題、そして国家権力との主体的関わりのあり方という3点に絞って問題提起をしたい。いずれのテーマも中東とは無縁ではないと考える。

第一、核兵器廃絶に関わる問題である。
広島・長崎の訴えは、本来、無条件・即時の核兵器廃絶である。それは、優れて憲法第9条の平和主義と軌を一にするものである。しかしながら、戦後の日本が独立を回復するにあたり、平和憲法とは根本的に両立し得ない日米安保条約の受け入れを条件とされ、また米ソ核冷戦の進行に伴い、アメリカの核の傘に入る政策を選択したことにより、広島・長崎の訴えが国民的に共有されるにはほど遠い条件が早くも1950年代に形成されてしまった。 しかも、1950年代後半から始まった高度成長政策と国民の間に広がった「中流意識」を根拠にして、既成事実に対する屈服という国民的弱点もしたたかに国家権力によって利用された。1971年に非核三原則が「国策」とされたが、1978年には同原則と対米核抑止力依存政策をブリッジするものとして「究極的核廃絶」論が唱えられることになった。また、1993~4年の朝鮮半島の核危機を契機として、アメリカの対日軍事要求はエスカレートし、特にブッシュ・小泉の下で日本全土の米軍基地化、日米軍事一体化、世界規模の有事対応を特徴とする日米軍事同盟の変質強化が、主に2004年の日本の有事法制整備及び2005年以後の都道府県・市町村レベルの国民「保護」計画整備によって完成した。こうして、私が広島に赴任した2005年(被爆60周年)には、広島は、長崎(及び沖縄)とともに、日本列島における「平和」の「孤島」として孤立させられる状況にまでなっていた。
2005年以後も広島における事態はますます悪化の度を深めている。国が進める核・安保政策は、国民的な意識の曖昧化の進行と相まって、もともと極めて保守的な広島の世論状況に深刻な影を落としている。具体例をいくつか挙げれば、核攻撃事態を前提とする国民保護計画の受け入れ(県は2006年3月31日、市は2008年3月17日)、いわゆる「拉致問題」に対するはばかりから朝鮮半島の非核化問題に対する明確な立場表明を控える雰囲気がある。
そういう広島の姿勢は、4月5日のオバマ大統領のプラハ演説に対する手放しの歓迎という、それ自体主体性の欠落以外の何ものでもない現象を生み出している。確かに、「核兵器を使った唯一の国家としての道義的責任」に言及したのはオバマがアメリカで初めての大統領であることを考えれば、それなりの意味はあり、一定の評価に値する。しかし、同じ演説でオバマが、「自分の生きている間に核兵器がなくなることはないだろう」と述べ、「核兵器がある限り核抑止力を維持する」とも述べていることに広島が目をふさぐことは、その冷静な判断力をゆがめる以外の何ものでもないだろう。目をふさぐことはオバマ頼みの他力本願しか生み出さない。また、アメリカ大統領が「道義的責任」を口にしたことは、原爆投下を「あってはならない誤り」と認めることとは同義ではないし、「人類は核兵器と共存できない」という広島の思想との隔たりはいまだ極めて大きいと言わざるを得ない。我々が今全力を尽くしてなすべきことは、オバマをしてさらに核兵器廃絶に本気でコミットさせることであり、そのためにはまず広島の思想を被爆国としての日本の基本的立場として確立させ、世界なかんずくアメリカに向かってこの思想を確固として表明するように仕向けることでなければならない。
ちなみに、以上に述べたことは中東における核兵器問題とも決して無縁ではないと考える。核兵器問題に関わる日本の立ち位置の不明確化は、事実上の核兵器保有国であるイスラエルに対して日本政府が曖昧な政策をとることを許している。それだけではない。イラン問題に関しても、日本は明確な立場・政策を示すことができないという事態を招いている。私は、昨年、日本赴任後の最初の国内訪問地として広島を訪れたイラン大使と意見交換する機会があった。彼が力説したのは、イランとしては原子力の平和利用だけを目的としていること、日本に学ぼうとしているということであった。日本の立ち位置が明確であれば、イラン問題の解決に関して国際的に有力な役割を担うことが可能であるはずである。

第二、核兵器については曲がりなりにも口にするが、戦争一般に対して明確な意思表示をしない、避けるという問題である。具体的には、憲法第9条に対する、曖昧を極める広島を含む国民的姿勢という問題がある。
この問題は早くから存在し、国民の間の「戦争と平和」という根本問題に対する健全な問題意識を育むことを妨げてきた。それは1980年代末までは何よりも、平和憲法と日米安保体制との間の矛盾という根本問題について国民的討議が尽くされることなく、逆に政府サイドがなし崩し的に行ってきた解釈改憲という既成事実の積み重ねが奏功するという形を通じて行われてきた。これに対して革新サイドからは、平和憲法を体した健全な平和観及びそれに基づく安全保障政策が対置されず、「自社対決」の枠組みに消極的に安住するという安易な選択しか提供されることがなかった。
1990年代に入ってからは、米ソ冷戦の終結とアメリカの一極支配という表面的事態に国民の主体的問題意識が追いつかないという状況の下で、政府・自民党が繰り出した「軍事的国際貢献論」、「(アメリカ支配下の)国連中心主義」、「普通の国家論」が浸透した。この流れにあらがうものに対しては「一国平和主義」の汚名がかぶせられ、社会党の変質と保守政治の中への埋没という状況と相まって、すでに述べたような日米一体型の日本の軍事国家への変質過程が進行した。広島は、そういう全国的な流れにもっぱら押し流されるままであった。
私が広島に赴任してきた2005年以後においても、事態はますます悪化の一途をたどっている。小は呉の大和ミュージアムから、大は岩国基地、世界各地の紛争、日米安保条約・日米軍事同盟、有事法制・憲法9条等に対して、広島は口を閉ざして立場表明を控え、ひたすら「ノーモア・ヒロシマ」の訴えを口にするだけに終始していると言わざるを得ない。
「戦争と平和」という根本的問題に対して我々が明確な認識を持つことを妨げられてきたことは、複雑を極める中東問題に対して、我々が原則的アプローチを取ることをむずかしくしているのではあるまいか。特に軍事・安全保障において全面的にアメリカに追随する日本のあり方に対する批判力を育むことなくしては、日本と同じくアメリカの軍事的庇護の下にあるイスラエルが諸矛盾の中心に座る中東における「戦争と平和」の問題に対して我々が説得力ある議論をするだけの主体的条件を持ち得ないのではあるまいか。

第三、国家・国家権力と真っ向から対決することを避けてはならないという問題である。
かつての碑文(「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」)論争における国家不在の議論に象徴的に示されるように、国家不在の抽象論は、日本の他の地域におけると同様、広島をも支配している。国家論なしの核兵器廃絶論、戦争反対の主張はしょせん説得力を持たない。
敗戦・日本における国家を論ずることそのものを至難にしたのは、日本を単独占領したアメリカが昭和天皇の戦争責任の追及を早々に不問に付す決定を行ったことだった。このことは、アメリカに加え、イギリス、フランス及びソ連が占領体制に加わったドイツの場合との決定的な違いを生んだ。そのことは、アメリカとの密接な協力の下に各地を行幸した昭和天皇に対する国民的崇拝感情の固定化作用と相まって、日本の戦争責任を問い詰める国民的契機を失わせ、ひいては敗戦した日本という国家そのもののあり方を問い直す作業を国民的課題として設定することを妨げた。戦前の政治を人的、思想的、組織的に継承した戦後保守政治は、自らの反動的国家観を温存したまま、親米反共の装いで復活した。侵略戦争の辛酸をなめた国民は、その辛酸を課した戦前国家への拒否感、こりごり感は強烈であったが、ドイツにおけるように、人権・民主を基調とする新生国家への明確かつ健全な認識を育むことは妨げられた。
ソ連崩壊、米ソ冷戦の終結の直後に起こったのが湾岸危機・戦争だった。このとき日本ははじめて大国・日本として如何に国際社会に関わるのかという課題に正面から直面した。このとき、我々の側に平和憲法が体現する明確な国家観の備えがあったのであれば、「軍事的国際貢献論」、「国連中心主義」、「普通の国家論」などを繰り出した保守政治に対抗することは可能だったと思われる。しかし、国家論の用意がない我々は、旧態然とした国家観を温存し、このときになって再びその国家観を持ち出して我々に選択を迫った保守政治の攻勢に対して抗するすべを持たなかった。
いま我々にとって必要なことは、日本国憲法が体する国家観を再確認し、保守政治が押しつけようとしている国家観に対置させることである。私流の表現によるならば、保守政治が体する国家観とは「国家を個人の上に置く」国家であり、日本国憲法が体する国家観とは「個人を国家の上に置く」国家である。
今ひとつ我々が行う必要がある確認作業は、日本が厳然とした大国として国際社会の中で存在するという事実の再確認である。国際関係において、大国という存在は中小国の担い得ない機能・役割を担う客観的責任がある。確かに伝統的に大国は軍事大国として国際関係に君臨してきた。しかし、平和憲法を持つ大国・日本はまったく新しい大国のあり方、国際社会とのかかわり方を身をもって実践することができるし、そうしなければならない。そのように行動する大国・日本は、アメリカさらには台頭する中国に対し、国際関係における身の処し方、21世紀国際社会のあり方に関して有力な代替軸を示す巨大な可能性を持っている。以上の二つの確認作業を経る我々は、平和大国・日本という国家のあり方に関して自信を持つことができ、戦後保守政治に対して引導を渡す主体力を我がものにすることができると確信する。
我々が明確な国家観を確立し得ない限り、中東を含む国際問題について説得力ある議論を展開する主体的条件を持つこともできないのではないかと考える。国家を論ずる明確な問題意識を持つことこそ、中東問題を含む国際問題を論じうるための前提ではないかという問題提起を行っておきたい。

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