イラン再論(ロジャー・コーエン)

2009.03.03

*この「コラム」(「オバマ政権に対する政策提起のIHT紙所掲文章(1)」)でロジャー・コーエンの「テヘランでハメネイを読む」を紹介しましたが、彼はその後イランに住む25000人のユダヤ教徒の状況を描いた「イランのユダヤ人が語ること」と題する文章もIHT紙(2月22日付)に発表しました。この文章では、コーエン自身がユダヤ人であることを明らかにしつつ、イランのユダヤ人が比較的平穏に暮らしている、イランにおけるユダヤ人の境遇はアラブの国々に住んでいたユダヤ人より恵まれている、イランのユダヤ人に対する敵意は時に彼らに対するでっち上げの非難に向かうことがある、イランの「気が狂った宗教指導者」の漫画に夢中な人たちはその漫画(に描かれた宗教指導者)と妥協することを1938年のミュンヘン(浅井注:英仏がナチスに対して行った宥和政策のこと)の再演と見なす、といったことでした。コーエンは、3月2日付の同紙において、「イラン、ユダヤ人及びドイツ」と題する文章を発表し、前回の彼の文章に対して激しい批判や中傷が寄せられていることを紹介しながら、特にイランをナチスと同一視する傾向を批判した最後の点に対してアメリカのユダヤ人から激しい怒りに満ちた反応があったことを紹介しつつ、そういう反応を示すこと自体がコーエンの指摘の正しさを示すものだと述べ、再びアメリカにおけるイランに対する偏見を正そうとする主張を展開しています。おそらくコーエンの狙いは、イラン政策のあり方を模索するオバマ政権に対して、イランに対して冷静な認識を持つことを慫慂することにあると思われます。そういう意味で注目するに値する文章であると思いますので、その内容(要旨)を紹介します(3月3日記)。

はっきりしておこう。イランイスラム共和国は第三帝国の再来ではない。全体主義国家でもない。ミュンヘンはヒトラーのズデーテン併合を許した。イランは2世紀以上も拡張戦争をしたことがない。
 全体主義の政権は、個人の国家に対する全面的服従を要求し、すべての制度が服従させられる一つの党のみを認める。イランは、時に過酷な抑圧装置を持った自由でない社会であるが、全体主義の上記の基準からは極めて遠い。自由さらには民主(デモクラシー)さえもがかなり存在している。宗教指導者は、狂っているどころか、順応性があることを証明している。
 イランの人口のほとんどは30歳以下であり、インターネットとつながった世代だ。衛星テレビへのアクセスは広がっているし、BBCのペルシャ語サービスは大流行している。政権に反対の学生アブドゥラ・モメニは、「インターネットは我々にとってとても重要だ、まさに無限の重要性を持っている」と私に話した。イラン人は、キューバ人や北朝鮮人のように(インターネットから)切り離されていないのだ。
 もし、「時刻通りの汽車」式のファシスト的効率を(イランについても)考えるのであれば、テヘランの新しい遠距離通信用タワーが建つのに20年かかったということを考えてみよう。ブシェール原子力発電所にいたってはたった30年間続いているだけのプロジェクトだ。仮に慰めとなるならの冗談だが、中東の核のアルマゲドンになる可能性よりペルシャのチェルノブイリになる可能性の方がはるかに大きい。
 イランで呼吸する空気は人を窒息させるようなものではない。その街路はほこりっぽく生活はがさつだが、活発に息づき、変化しつつある、高度に教育された社会なのだ。これが、イランのユダヤ人が住んでいるイランなのだ。生活は回教徒に比べて困難であるが、彼らが全体主義の地獄に住んでいると考えることは自分を慰めるナンセンスでしかない。
 テヘランにおいてイスラムと民主(デモクラシー)との間で痛々しく闘われてきた妥協の数々は、根本的な重要性を持ったことなのだ。これらの妥協の数々は、狂信的な権力という考え方が偽りであることを明らかにしている。それらは、ユダヤ人の生活について説明するものだ。…イランを今日のテロと同一視することは単純すぎる。ハマスとヘズボラは、圧倒的な軍事力を使うことに急なイスラエルに抵抗していると広く見られている広範な政治運動に進化している。イランに関する漫画を放り投げることが不可欠であるように、ハマスとヘズボラについてもう一度考えてみることが不可欠である。
 私がこの主題に戻っているのは、イランにおけるユダヤ人問題の背景に重要な問題が横たわっているからだ。その問題とは、一次元的なレンズを通して一つの国家を固定的に見て、悪しきものとするアメリカの性癖であり、そのことが時に最悪の結果の連鎖を生むということだ。

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