障害者権利条約で日本を変えよう

2009.02.14

*日本知的障害者福祉協会の機関誌『support』1月号に寄稿した文章です(2月14日記)。

《主張》障害者権利条約は、これまでの日本で支配的だった「障害」「障害者」についての理解・受け止め方の根本からの見直しを迫るものであり、そのことを通じて日本のあり方そのものについても変えずにはすまない内容を持っています。条約を全面的に受け入れることにより、この国のあり方を根本から変えていきましょう。

1.「障害」とは何でしょうか

(1)「障害」とは「個性」のこと

障害者権利条約(以下「条約」)を日本が批准し、その内容を日本国内で忠実かつ完璧に実現するということはどういう意味を持つでしょうか。経済学者の金子勝教授が「我々にとって、障害者であってもそれが個性である、多様な個性のうちの一つであると思えるかどうかが問われています。そこまで行かないと、本当の意味での豊かな社会、多様で自由で平等な社会にならない」(ちくま新書『閉塞経済』)と書いています。ご本人がどういう意味で書かれたかは伺っていないので分かりませんが、客観的にはとても重要な指摘だと思います。
 私自身、障害を持って生まれた10歳になる孫娘がいます。彼女を得たことにより、そして常に身近に接するようになって、私は自分という人間がとても変わった、しかも間違いなく良い方向に変わったという実感を得るようになりました。それというのも、世界でも極めて稀な障害を持つ彼女は、その分とてもすばらしい個性の持ち主であると言えますし、彼女と接することを通じてはじめて、私はとてもたくさんのことを学び、感じることができるようになったからです。彼女の障害を一方的に「障害」と決めつけるのではなく、一つの個性と受け止めることが社会全体の認識として当たり前となるのであれば、彼女は自分の障害について思い悩む必要はなく、のびのびとその個性を生かした一生を送ることができるようになるでしょう。

(2)「障害」という日本語の言葉は極めて不適切な表現

「障害」という言葉自体についても、気になると違和感を覚えることがしばしばあります。私が理解する英語では「disability」(その意味は、「病気や機能的な不具合などで何事かをすることができないこと」ということになるでしょうか)、中国語では「残疾」(その意味は、「やまいが残っている状態」ということになるでしょう)です。これらの言葉は、客観的な状態を表しており、そのことについて相手側の人の何らかの特定なあるいは差別的な見方・判断が込められてはいないことが分かります。
日本語の「障害」についてはどうでしょうか。「障」について漢和辞典を調べますと、「まともに進行を止めてじゃまをする」とか、「正面からあたってさえぎる」という説明があります。「害」について見てみますと、動詞としては「生長をとめる。また。じゃまをする」とか、名詞として使う時には「じゃま。さまたげ。わざわい」などの説明になっています。いずれの言葉からも消極的な意味合いというか、英語や中国語の場合には含まれていない否定的な意味が込められていることが分かります。気になると違和感を覚えることがしばしばであるといいましたが、やはり「障害」という言葉自体が否定的、消極的な価値判断を伴った用語であることは間違いないのではないでしょうか。ですから、日本語として「障害者」というと、何となく邪魔になる存在というイメージを伴うことになってしまいます。

(3)条約ではどういう意味合いでとらえているでしょうか

それでは、条約では、「障害」ということをどういう意味としてとらえているでしょうか。この点について国連のウェブサイト(http://www.un.org/disabilities/)では、パワー・ポイントを使ってなるべく分かりやすいように説明していますので、それを参考にしながら見てみます。すなわち、「障害とは何か?」という項目の下で、次のように三つのことを書いています。
第一、条約は、障害についてハッキリとした定義はしていないということです。それはなぜかといいますと、
第二、条約の前文で書いているように、「障害(disability)」とは「変化しつつある意味内容を持っている」言葉ですし、「いろいろな機能的な不具合を持っている人の間の交わりによって起こるもの」あるいは「他の人と対等平等に、社会生活に全面的かつ効果的に参加することを妨げる、人によって作り出されるまたは客観的に存在する壁」であって、ガチガチの定義をすることになじまない多様な内容を持っているからなのです。つまり、どの社会のどういう環境の中にいるかによっても意味内容が変化するので、厳密な定義をしようとする方が無理なのです。
第三、したがって条約の第一条では、「障害のある人に含まれるのは、長い期間にわたって身体的、精神的、知的又は知覚的に機能的な不具合があって、そのために様々な壁との相互の作用において他の人々と平等の基礎の上に社会に全面的にそして効果的に参加することが妨げられている人たち」という書き方をしています。
また、別のページでは、「様々な壁との相互の作用」という点について、次のようにも説明しています。そこでは明快に、「障害(disability)は、インクルーシブではない(注:「排他的である」といっても良いと思います)社会と個人との間の相互の作用の結果として生まれる」と指摘しています。そのことの意味を具体的に理解できるように、二つの例が挙げられています。「車いすを使っている人が雇用されることが難しいのは、車いすのせいではありません。アクセスすることを妨げるバスや階段のような環境面の壁があるためです。」「すごい近視の人は、矯正用のめがねがないとしたら日常の仕事をこなすことができません。その同じ人は、ちゃんとしためがねをかけることで、どんな仕事も問題なくこなすことができます。」
パワー・ポイントでは以上の説明ですが、国連のウェブサイトの他のページを見てみますと、障害(disability)というのは、医学的な状態としてとらえるのではなく、上に述べたように、機能的な不具合がある人たちに対する他の人々の態度とか不都合な環境といった壁との間の相互の作用によって起こるものとしてとらえることが重要である、と強調していることは、とても大切なポイントであると思います。 つまり、日本社会では「障害者」を何か医学的に問題を抱えている人たちとして固定的にとらえる考え方が支配的ですが、それは間違いなのです。人々の態度あるいは環境によってもたらされる壁を取りのぞけば、機能的な不具合がある人たちは社会に生き生きした一員として参加できるし、全面的に様々な権利を享有することができることになるのです。

(4)とりあえずのまとめ

条約でいう「障害(disability)」の意味を正確に理解すれば、日本語の「障害」という言葉が誤解や偏見を極めて生みやすい不適切な表現であることは分かると思います。ただし、以下におきましては、条約で示されているような意味内容を表すものとして便宜的に「障害」「障害者」という言葉を使うことにします。

2.人間の尊厳を基軸に据えた日本社会を作るために条約を活かす

(1)群れる日本社会

日本社会について私が常々痛感するもっとも深刻な病的とも言える現象は、「赤信号みんなで渡れば怖くない」に集中的に表現される、いわゆる「群れる」意識・下意識の働きです。そこでは、一人ひとりの人間の、他の誰によっても変わりが利かないその人固有の尊厳というようなことははなから問題にされず、ひたすら群れの中での人間関係が支配します。その群れの中にいることに慣れきった私たち日本人は、群れることによって安心し、群れから離れるととたんにどうやって身を律すればいいのかも分からなくなってしまうのです。逆に、群れの中で目障りな存在は力尽くで押さえつけようとしますし、ひどい時には群れから追い出し、さらには抹殺することだってあります。日本社会で長い間、障害者が社会的に排除されてきた歴史があるのはそのためです。
日本国憲法は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第97条)とする規定を設けています。この規定こそ、基本的人権及びその根底にある人間の尊厳という考え方が、人類の長い歴史を通じて国家権力との闘いにおいて勝ち取られてきた普遍的な価値であることを確認するものであり、1947年を期して日本が人権民主国家として生まれ変わることを表明するものです。しかし、現実の日本社会は、戦前と思想的、人的、組織的に連続する保守政治の支配の下で、真の人権民主国家からはほど遠い道を歩んできたというほかありません。群れる日本社会は今日なお健在ですし、むしろ近年ではますますその傾向を強めているぐらいです。

(2)一人ひとりの人間の固有の尊厳を承認することに基礎を置く条約

それに対して条約は、条約を通じて支配する全般的な原則として8項目を挙げます(第3条)。その冒頭には、「固有の尊厳を尊重すること、自分自身で選択を行う自由を含む個としての自律、及び人としての独立」を掲げています。まさに群れる日本社会を根本から変えずにはおかないという極めて重要な原則が条約の根底に座っているのです。
この大原則から出てくるのは、「差別しないこと」、「社会に全面的かつ有効に参加し、一員になること(inclusion)」、「違いを尊重すること、人間の多様性と人間らしさを構成するものとして様々な障害がある人たちを受け入れること」、「機会の平等性」、「アクセスできること」、「男女の間の平等」、「障害がある子どもたちの発達する能力を尊重すること、そういう子どもたちが自らのアイデンティティを保つことを尊重すること」という諸原則です。パワー・ポイントの解説では、とくに障害がある人たちに関して重要となる「参加とインクルージョン」、「差別しないこと」そして「アクセスできること」についてはさらに独立のページを設けて説明を加えています。
ちなみに冒頭で述べました障害を個性としてとらえる見方は、決して金子教授や私の独断でも何でもないことは、「人間の多様性と人間らしさを構成するものとして様々な障害がある人たちを受け入れること」、「障害がある子どもたちの発達する能力を尊重すること、そういう子どもたちが自らのアイデンティティを保つことを尊重すること」という原則を見るだけでも明らかなはずです。障害を個性として受け止めるまなざしが日本社会全部を覆うようになれば、群れる日本は跡形もなく消えるはずです。

(3)条約の諸原則・条文を忠実に活かす国内法整備を

以上に述べましたように、日本国憲法は、人間の尊厳を根底に置く人権民主国家に日本が生まれ変わるためのもっとも基本的な法的根拠を提供しています。しかし、民法、刑法をはじめとする日本の法律の多くは明治時代にさかのぼるもので、憲法の精神・原則に明らかに合致しない部分は改廃されたとはいえ、条約が高く掲げているような一人ひとりの「固有の尊厳を尊重する」原則を根底に据えた法律と言えるにはほど遠い実情があります。条約を批准するに当たっては、日本国憲法と条約を根底に据えて、単に障害関係の法律だけではなく、ありとあらゆる法律が人間の尊厳を尊重する考え方に立脚しているかどうかを総点検し、憲法と条約に合致するように改めるだけの腰を据えた取り組みが求められています。  とくに医療、介護、福祉、障害の分野では、人間の尊厳に立脚する憲法の精神を踏まえ、70年代初めまでは各種の社会保障制度が整備され、拡充されるという流れがありました。ところが、市場万能の新自由主義の考え方の世界的な強まりを背景にして、1983年に老人保健法の実施で老人医療無料化が廃止されたのを皮切りに、医療の窓口負担がなし崩し的に拡大され、1990年代後半から始められた社会保障制度「改革」のもと、2000年には介護保険法が実施されて老齢者の度重なる負担増が押しつけられる (その極めつけが2008年の後期高齢者医療制度の導入) こととなりました。そして2006年には障害者自立支援法が実施されて、障害者にまで過酷な負担が押しつけられることになったのです。これらの法律は、疾病や障害を自己責任と見なし、サービスを受けることについて自己負担するのは当然とする応益負担原則を根底に据えており、人間の尊厳を何よりも重んじる憲法と条約とは真っ向から対立するものです。 私たちは、応益負担原則の全面的廃止を目指さなければなりません。また、障害者に関する日本のあり方そのものを根底から変えさせなければなりません。そのためにも、政府が狙っている条約の批准を名前だけのものとする方針を絶対に許さず、条約批准の大前提としてまずは障害者自立支援法の廃止を勝ち取りましょう。そして、それを突破口にして、人間の尊厳の尊重を基本とする憲法と条約を体する国内法の全般的な整備が行われることを目指す粘り強い国民的な運動を展開するしっかりした決意を持ちましょう。

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