イギリス外相:「「対テロ戦争」は間違いだ」

2009.01.20

*新聞でも報道されましたが、イギリスのミリバンド外相は、1月15日付のガーディアン紙で「「対テロ戦争」は誤りだ」と題する文章を発表しました。その内容を紹介するとともに、私の気づきの点をコメントしておきます(1月20日記)。

1.ミリバンドの見解

7週間前のムンバイでのテロリストの攻撃に、世界に衝撃が走った。今はすべての目が中東に注がれている。そこでは、ハマスのロケットに対するイスラエルの反応、凶暴な軍事キャンペーンがすでに1000人のガザの人々を死なせている。
9.11から7年経って、過激主義とその恐ろしい結果であるテロリストの暴力を防止する我々の努力について根本的に検討する必要があることは明らかだ。9.11以来、「対テロ戦争」という概念が努力の内容を定義してきた。この表現には一定の取り柄はある。つまり、脅威の重大さ、団結の必要性、そして緊急に対応する必要性(必要な場合は力で)をとらえている。しかし根本的には、この概念は誤解を招きやすく、誤っている。問題は、利用可能なすべての手段でテロの行使をその根元で攻撃する必要があるかどうかということではない。我々はそうしなければならない。問うべきは、どのような手段で、ということだ。
「対テロ戦争」という考えは、オサマ・ビン・ラディンとアル・カイダに体現された、統一した超国家的な敵という印象を与えた。現実には、テロリスト・グループたちの動機及び正体はまったく異なっている。ラシュカル・タイバはパキスタンに根を持っていて、自らの大義はカシミールだと言っている。ヘズボラは、ゴラン高原の占領に対する抵抗に立ち上がっていると言っている。イラクのシーア派とスンニ派の反乱グループは、多種多様な要求を持っている。彼らは、IRA、バーダー・マインホフそしてエタといった1970年代の欧州の運動がそうであったように様々だ。(欧州における)すべてがテロリズムに訴えたし、時には互いに支持しあうこともあったが、彼らの大義は統一していなかったし、協力もご都合主義なものだった。今日においてもそうだ。
我々がテロリスト・グループをひとくくりにすればするほど、そして闘いの線引きを穏健派対過激派とか善対悪とかの単純な2元的闘争にしてしまえばするほど、共通性のほとんどないグループを統合しようとする連中の術中にますますはまってしまうことになるのだ。テロリスト・グループに対しては、武器や資金の流れを遮断し、彼らの主張の薄っぺらさを暴き出し、彼らの信奉者を民主的政治へと誘うなど、根本的に取り組む必要がある。
また、「対テロ戦争」というと、正しい対応の仕方は主に軍事的なものだという意味合いがこもっていた。しかし、ペトラウス将軍がイラクで私や他の人に語ったように、連合軍(注:いわゆる多国籍軍)は、反乱及び内乱という問題を軍事的にやっつけて解決することはできない。
このこと(注:単純な2分論)は、ガザにおける軍事行動の支持者と反対者を区別するものだ。ムンバイの攻撃に対する対応に関する議論においても同様な問題が提起されている。責任者は裁判にかけられるべきであり、パキスタン政府は、その領域におけるテロのネットワークを破壊するために緊急かつ効果的な行動を取らなければならない。しかし、今週南アジアの訪問の際、私は、長期的に見てテロリストの脅威に対する最善の解決方法は協力だと主張している。(パキスタンにおける)現在の諸困難は理解しているが、カシミール紛争の解決はこの地域で過激主義者が武器に訴える主張の根拠を否定する(ことになる)し、パキスタン当局がもっと効果的に西部国境の脅威に取り組むことに集中することを可能にするだろう。
我々は、法の支配を曲げるのではなく擁護することによってテロリズムに対処しなければならない。というのは、法の支配こそが民主的社会の土台なのだから。我々は、国の内外で人権及び市民的自由に対するコミットメントを擁護しなければならない。それこそがグアンタナモの教訓であり、オバマ大統領当選者がそこを閉鎖すると約束したことを我々が歓迎するゆえんである。
「対テロ戦争」の訴えは武器を取ることへの訴えであり、単一の共通の敵に対する闘いのための結束を築こうとする試みであった。しかし、諸国民及び諸国家の間の団結の基礎は、我々が誰に対決しているかではなく、我々は誰であるかという思想及び我々が共有する価値に基づくものでなくてはならない。テロリストは、国々を恐れさせ報復的にさせる時、分裂と憎しみの種をまく時、国々に暴力と弾圧で対応することを強いる時に成功する。最善の対応は脅されることを拒否することだ。

2.若干のコメント

<余りに高い犠牲を払った上での常識の復活>

最初に感じたことは、7年以上の時間の浪費そして何よりも数知れない人命の犠牲の上に、9.11の初めから分かりきっていたことに対する常識的理解がようやく正直に語られることになったな、という思いでした。手前味噌になりますが、テロリズムは犯罪であって戦争の対象ではないこと、様々な「過激主義」(と西側諸国がレッテルを貼るもの)を一緒くたにして扱うことはむちゃくちゃなこじつけであって重大な誤りであること等については、私が9.11直後の2001年の段階ですでにこのコラムでの何篇かの文章で明らかにしたことです(例えば、http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2004/04.html参照)。イラク戦争に批判的なオバマが登場し、グアンタナモも閉鎖する政策を明らかにしたので、ミリバンドとしてもアメリカに遠慮する必要を感じなくなったということでしょうが、そこにはこの7年余の間に犠牲になった人々に対する哀悼の気持ちが一言もないというのはどういう感覚でしょうか。

<問題の根本を回避する人権・民主擁護論>

次にミリバンドの文章を読んでいて深く疑問に感じることは、テロリスト・グループをひとまとめに扱うのは間違っていることを認めながら、なぜ様々な「過激主義」が「テロ」に訴えるのか、という根本原因について考える姿勢が窺えないことです。
例えば私は、パレスチナ・ガザ地区に対するイスラエルの残虐な軍事行動に対して痛憤を感じている一人ですが、詳細かつ正確な情報を収集していないので、このコラムで取り上げることは控えています。しかし、初歩的な知識からしても明らかなことは、パレスチナ問題の根源にあるのは、第二次世界大戦におけるイギリス以下の二重基準の中東政策、なかんずくパレスチナの地にイスラエルの「建国」を認めたことにあることは明らかであり、その根本的な問題(したがって、イギリス及びその後を襲ったアメリカの責任)を問うことなしに、パレスチナ問題についてパレスチナの人々が納得する解決の道筋は見えるはずがない、ということだと思います(それは、アメリカの原爆投下責任を問うことなくして核兵器の廃絶という道筋が見えてくるはずがないことと、根本的に同次元の話でしょう)。ミリバンドがそういう根本問題には口を閉ざしたまま、「法の支配こそが民主的社会の土台」とか「国の内外で人権及び市民的自由に対するコミットメントを擁護しなければならない」とか述べ立てても、ガザの人々が普遍的価値である人権・民主に対する皮肉的な見方を育んでしまうことになる恐れすらあると思います。イスラエルの反人権・反民主の軍事的暴力に訴える行動を厳しく批判することこそが、人権・民主という普遍的価値の普遍的であるゆえんを明らかにすることになるはずです(人権・民主に関連してハマスについてもう一つ述べておかなければならないことは、それが民主的な選挙を通じてガザ地区の統治をする主体に選ばれたという事実を欧米諸国はことさらに無視してかかるという今ひとつの二重基準を犯しているということです)。

<「対テロ戦争」の最終的破産の国際的含意>

思えば、9.11直後からアメリカは、チェチェン問題を抱えるロシア、新疆ウイグル自治区の分離独立問題を抱える中国などと、両国がこれらの問題を「テロリスト」による仕業として対処していたことに乗じて、「対テロ戦争」を共通項にする大国協調路線(国連利用)を追求してきました。イスラエルも、ハマスをテロリストと決めつけることによって、「対テロ戦争」の大義名分をちゃっかり借用してきたのです。「対テロ戦争」そのものが誤った言い方・定義であることが最終的に明らかにされた今、アメリカの「対テロ戦争」に同調しつつ、それぞれの問題に暴力的・軍事的に対処することを正当化してきた国々の政策についても、厳しい問い直しが行われなければならないと思います。
日本の政治も例外ではあり得ません。ブッシュ政権の「対テロ戦争」にいち早く支持を表明し、自衛隊のアフガニスタン・イラク派遣に乗り出した小泉政権以来の自公政治についても、徹底した検証と批判を行わなければならないはずです。まったく奇怪なことは、日本国内では、そういう議論がほとんどまともに取り上げられもしないという事態が存在するということです。そして、オバマ政権がアフガニスタンでの戦争を重視しているからというだけの理由で、麻生政権はあり得るアメリカからの要求にどうしたら応じることができるかという極めて不純な動機のもとで、ソマリア沖での海賊対策を口実にした海上自衛隊の派遣など、さらなる憲法違反の道に踏み込もうとしているのです。この点では主権者である私たちは、大新聞やテレビのキー・ステーションの問題を直視しない、頬被りの姿勢を厳しく批判する目を持つ必要があることを強く指摘したいと思います。

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