核兵器廃絶に本気で取り組むために

2009.01.15

*1月から4月まで毎日新聞(全国版)の「新聞時評」欄に何回か寄稿することになりました。1月13日付で標記の題で短文が掲載されました。私が寄稿した原文を載せておきたいと思います(1月15日記)。

本紙の元旦からの連載「アメリカよ 新ニッポン論」は、内容的にも時期的にも極めて優れている。とくにドレスデン空爆で米英とドイツが歴史的和解を果たしていることを伝え、それを念頭に置いて米国の核政策の転換の可能性と日本の核政策に関する「旧思考」を指摘した2編の文章(1月3日付)は秀逸だ。文中にあるとおり、和解は「けじめをつけることから始まる」のであって、そのけじめとは、当事国が加害と被害を含めた歴史を直視することだ。そのことを踏まえた上で両文章は、核廃絶に言及しているオバマ新大統領の広島訪問の可能性に、米国の核政策転換のチャンスを期待している。
 しかし、日本にあるオバマ新政権に対する漠然とした期待感には一言しなければならない。東京で行われたシンポジウム(昨年12月18日)で米側の錚々たる登壇者が中国の台頭などに日米がどう対応するかが重要との認識で一致したとの報道(同月19日付琉球新報)が想起されるべきだろう。
米国国内での核兵器廃絶論は、核テロリズムの封じ込め及びそのために廃絶を視野に入れる点に本質がある。広島・長崎に対する原爆投下の真摯な反省、核兵器の反人道性・国際法違反の本質に関する真摯な認識に立つものではない。この反省・認識が備わらない限り、中国などを潜在的脅威と見なす発想が根強い米国は、核軍縮には応じても、核抑止論否定・核兵器廃絶へと根本的な政策転換を期待するのは楽観的にすぎる。
 どうしたら米国が核兵器廃絶という課題に本気で取り組むようにすることができるだろうか。
核兵器廃絶を唱えながら(タテマエ)米国の「核の傘」に入る(ホンネ)という日本政府・戦後政治の矛盾を極める政策(それ自体、米国に対する全面的従属の産物)が、米国が広島・長崎に対する原爆投下責任を直視せず、核固執政策を続ける重大な原因になってきた。佐藤栄作元首相の対中国核攻撃積極的容認発言(昨年12月22日付各紙)は、日本政府のホンネを再確認させたし、それを臆面もなく公開した外務省は、そのホンネに今もってしがみついていることをさらけ出している。
日本が二重基準の核政策を清算し、本気で米国に対して核兵器廃絶を迫る時にはじめて、国際社会は日本を支持するだろう。そのとき米国ははじめて自らの核政策と向き合わざるを得なくなるだろう。
日本の二重基準の核政策を可能にしてきた重大な一因は、主権者である国民が「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」を国民的総意として確立し得なかった曖昧さにある。その曖昧さは、日本という国家の近現代史に関する国民的総括がドイツにおけるようには行われなかったことに原因がある(1月3日付本紙の上掲文章の指摘参照)。
米国の自発的な核政策の転換を望むだけでは事態は変わらない。日本政治自身が米国に政策転換を迫る大変革が必要だ。そのための国民的奮起が求められているのだ。 

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