天童荒太『悼む人』

2008.12.

私は自ら認める文化に疎い人間です。文学作品も例外ではありません。しかし、天童荒太の『悼む人』にはなぜか気になって仕方ありませんでした。新聞の書評でも各紙で取り上げられた作品であり、また、娘ののりこが彼の作品をすべて読んでいることも私は知っていました。年末に上京する際に読んで、のりこに土産にしようとも考えた私は、アマゾンで取り寄せました。

確かに強烈な読後感を味わいました。天童荒太の取り上げたテーマ自体が私にとっては強烈だったということです。「死者を悼む」ということの意味を、主人公(静人)をめぐっていわば選び抜かれた三人の登場人物の視点から批判的・皮肉的(フリー・ライターの蒔野)、同情的・保護的(母親の巡子)、傍観的・随伴的(静人と悼みの旅に同行する倖世)に発言させることを通じてまず読むものをして考え込ませます。そしてその上で倖世が殺めた夫の亡霊と静人との対話というこれまた凡人の私には想像もつかない設定の中で、静人自身(つまり天童荒太自身)が「悼み」をどういう意味合いにおいて捉えようとしてきたのかについて、自身における「悼み」の意味づけの変遷を含めて、決して一本調子ではないその内容を明らかにするのです。その「悼み」の内容自体が主人公の生々しい反省を通じて深化する過程として提示されているので、読者である私も同時進行的に「死者に対する悼み」の意味を考え込まされていきます。

「見ず知らずの死者を悼む、終わりの見えない旅に出た静人」という主人公の設定は、「悼む」ことをぎりぎりの極限状況において読むものをして考えさせるためにはどうしても必要だった、ということは読了して確かに納得できることでした。私たちは、いや私は日々の生活に取り紛れて、「死者を悼む」ということの意味を深く考えたことがありません。私自身が時折悼むのは両親の死ぐらいです(今のところ)。しかし、私自身のテーマである「人間の尊厳」という視野の中に死者に対する「悼み」という要素が完全に欠落していた(思いもしなかった)ことについて、それで良いのかということを考えさせられるものがありました。天童荒太が何度も指摘するように、一人一人の人間はかけがえのない、他者では絶対に変えられない、命を持っています。その命が何らかの原因で他律的に奪われることの重さを改めて考え込まされるのです。自らの人間としての尊厳を全うするために死を選ぶ(尊厳死)というテーマとの連関性をも、漠然とではありますが改めて考えさせられた、という印象です。

全体のテーマとは直接的には関連がないでしょうが、天童荒太が障害のある人の死についても何度か触れることにも注目する自分がいました。「悼み」というテーマをこれだけ掘り下げる力量を持っている天童荒太ですから、障害を主テーマにした小説を是非書いて欲しいと思いました。

年末にこのような重要な主題について考える機会が得られたことは、新しい年に向けて感謝する気持ちです。また新たな課題を見つけた気持ちがしています。

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