記憶・体験の継承(沖縄戦と原爆投下)

2008.11.03

*10月31日に京都憲法会議主催の集会でお話ししたのですが、私がお話しした後に、沖縄平和ネットワーク・虹の会というNGOに所属している琉球大学院生の赤嶺玲子さんが「戦争と今、未来をつなぐ沖縄での取り組み」という演題でのお話しをされました。紹介によると、京都憲法会議の皆さんが今春沖縄に旅行した際、赤嶺さんが説明役だったそうで、その時の説得力ある説明に感銘を受けた会議の人たちが、他の人たちにも是非聞いてほしいということで招いたとのことでした。その紹介通りの大変に中身の濃い、そして彼女自身が何度も口にしたように、「自分の言葉で語りたい」を地でいく内容の話で、私も本当に引き込まれて聞きました。そして、その話を聞きながら、「こんなに若い人が、自ら体験したことのない沖縄戦についてどうしてこんなに人の心を打つ話ができるのだろうか」と考え込んでしまっていました。広島では「被爆体験の継承」という問題が危機感を伴いながら語られる現実がありますし、私も「原爆体験の継承」という受け止め方においてこの問題を常に意識していることは以前にこのコラムでも書いたことがあるのですが、赤嶺さんは記憶・体験の継承という壁を明らかに克服していました。その違いはどこから来るのだろうかというのが、赤嶺さんの話を聞きながら私の頭の中にふくらんだのです。この問題は簡単に答えが出てくる類ではないと思いますが、私の現段階での問題意識を整理するために、赤嶺さんの話で私として印象深かった部分(十分にメモをとったわけではないので、あくまで私の印象に残ったことに限りますし、赤嶺さんの趣旨を反映していないとしたら、それはすべて私の責任です)を記すとともに、極めて初歩的な私の考えのとっかかり的なところを書き留めておきたいと思います(11月3日記)。

1.赤嶺さんの話

赤嶺さんは、幼少の時から嘉手納基地の近くに住んでいて、自分の気持ちとしては「基地のことなら知っている」と思っていたそうです。高校生の時、他県の高校生が沖縄を訪れた際に、基地の問題について話を聞きたいという申し込みがあり、それに応じたのですが、彼らの質問に対して何一つ答えられない自分を発見し、これではいけないと自覚したのが、沖縄の基地問題、そして「ひめゆり学徒隊」を体験したおばあ達の聞き取りなどを通じて沖縄戦の学び、記憶・体験の継承活動へと踏み込んでいくきっかけだったとのことでした。具体的には、進学した琉球大学において、沖縄平和ネットワーク、虹の会に所属して学びを深める傍ら、記憶・体験の継承活動を行ってきたということです。
 特におばあ達の話で赤嶺さんにとって印象深かったことは、彼女たち自身、沖縄戦が始まる前、自分たちが学徒動員される前、さらには動員された直後でも、「戦場」をイメージすることができなかった、あるいは、「戦場」についてイメージがあったとしても、そのイメージは極めて美化されたものであったということでした。動員されるまでは、日本の軍隊が海外で侵略戦争をしていても、それは自分たち自身とは縁がないことだという意識があり、「自分たちが戦場に巻き込まれるものだとは考えてもいなかった」し、動員されるときになっても、1、2週間後にはまた元通りの学校生活に戻るだろうと単純に考え、したがって日記、小説、文具(硯をもっていったものもいた!)、櫛などを携行する持ち物としていたものが多かったというのです。しかし、「戦場」はそんな生やさしいものではなかったのでした。酸鼻を極める「戦場」をくぐり抜けてかろうじて生き残ったおばあ達は、「戦場を知らなくて従軍を拒否できなかった自分たちの悲惨な過去を、絶対に若い人たちに再び体験させたくない」という気持ちを込めて赤嶺さん達に語り継いでいるのです。
 赤嶺さんが強い印象を受けたのは、おばあ達が、今の日本は「第二の戦前にある」と語ることでした。1990年以来の日本国内で進行している事態は正に戦争への道であり、おばあ達がそうであったように、赤嶺さん達が知らない間に戦争に巻き込まれつつあるのではないか、という警告です。赤嶺さん達は、戦前と現在の日本を比較する年表を作るのですが、そういう作業を通じて、おばあ達の警告がひしひしとした実感を伴って彼女たちに迫ってくるようになったと言います。そして、「沖縄戦」のような体験を二度と自分たちが経験するようなことには絶対にさせたくないという決意が生まれてきたそうです。「戦場を知らなくて(従軍を)拒否できなかったおばあ達を、今の私たちが繰り返したくない」、「そのこと(戦争)を拒否する自分自身の言葉を持ちたい」という赤嶺さんの発言は本当に迫真力のある実感のこもったものでした。

2.沖縄戦と原爆投下

このように語った赤嶺さんは、繰り返しますが、記憶・体験の継承という壁を明らかにクリアしています。この壁に立ちふさがれて苦しんでいる(と私には思われる)広島にとって学ぶ貴重なヒントが赤嶺さんの話の中に込められているように思います。今の私は、とりあえず(という言い方は極めて不適切なのですが)次の諸点に思い当たります。

<日常性から非日常性への経時的移行>

沖縄戦は1945年3月26日に始まり、組織的な戦闘は6月23日に終了したわけですが、沖縄戦が始まるまでは戦時下とはいえ、ひめゆり学徒隊(私も詳しいことは知りませんが、http://toshibos-museum.com/okinawa_himeyuri.htmで、彼女たちがたどった概略を知ることができました)のおばあ達が述懐するようにそれなりの日常生活があったし、彼女たちはよもや自分たちが本格的な戦争に巻き込まれることを想像すらしない現実があったわけです。その彼女たちは、自分たちが戦争のただ中に放り込まれるとは想像もしない状況から、兵隊さん達のために献身するという純真さで従軍する状況に時間的に連続する形で移行し、そして米軍の上陸を迎えて戦争という非日常性へとこれまた連続的に移行していくのです。このような経時的な体験が彼女たちをして戦争という極限的非日常性に対する思考を深める契機となったであろうことは想像に難くありません。
 私はこの3年半の間、原爆投下までの広島においても、戦時下とはいえそれなりの日常的生活の営みがあったことを記す文献に出会っています。沖縄との決定的な違いは、その日常性が8月6日に突然断ち切られたということではないか、と赤嶺さんの話を聞きながらハッと思い当たる気持ちがしました。日常性から非日常性への突然かつ徹底的な移行、これが広島における原爆投下にかかわる記憶・体験の継承を難しくしているのではないかと感じたのです。

<非日常性の継時的深化と死の恐怖への連続的直面>

上記のウェブサイトによると、1945年2月からは陸軍病院での実地訓練、3月には正式配属という過程をたどり、3月26日以後の凄まじい艦砲射撃と4月1日の米軍上陸から6月18日の解散命令までは戦火のただ中に巻き込まれるわけです。しかも、「動員からこの日までの90日間、犠牲者は21名だったのに対し、『解散命令』後のわずか5~6日で約200名(注:サイトによれば、ひめゆり学徒隊が222名中123人の死者を出したとあります)の乙女たちが犠牲となった」とあるように、6月23日の本格的戦闘の終了までの5~6日間、結果的に生き残ることができた彼女たちは、文字通り死の恐怖に連続的に直面するという想像を絶する時間を過ごしたことになります。
この状況は、8月6日に突然極限的破滅に遭遇した広島の状況とは明らかな違いがあると感じます。それが非日常性の継時的深化と死の恐怖への連続的直面ということです。広島の場合は、すべてが突然かつ瞬時的に襲ってきました。継時性と瞬時性、この違いもまた広島における原爆投下にかかわる記憶・体験の継承を難しくしているのではないかと、赤嶺さんの話を聞きながら感じたことです。

<敗戦後の戦争基地化>

さらに沖縄の場合、敗戦後も米軍の直接支配におかれる長い運命が待ち受けていました。日本が独立を回復した1952年以後も沖縄は切り捨てられる状況が1972年まで続くわけですし、「本土復帰」後も過酷な基地押しつけが続けられて今日に至っています。おばあ達は否応なしに戦争の記憶・体験を全面的かつ包括的に再生産することを強いられてきたということです。そうだからこそ、今日の日本が直面している状況を「第二の戦前」と捉える明確な視点が出てくるのでしょう。
 その沖縄と比べる場合、本土の一部である広島は、原爆投下にかかわる被爆体験の継承という課題に自己限定してきたという問題があるように感じられてなりません。そのことは、原爆投下に直接責任を負うべき昭和天皇が1947年に広島を訪れた際、熱狂的な歓迎を受けたことに端的に表れています。日本の侵略戦争全体の中で原爆投下を位置付けるという視点が多くの人の中で欠落しているからだとしか考えられません。その今日的な表れは、米軍再編の一環としての岩国基地再編問題に対する総体としての広島の無関心ですし、呉の大和ミュージアムに対する関心の欠落ということにも表れていると思います。
 なお私の個人的な思いなのですが、原爆投下に関しては、8月6日は当然のこととして、その後今日まで続く放射線による後障害(それは死の恐怖と直結している)についても視野に収めることがその記憶・体験の継承にとって重要な意味があるのではないかと感じています。沖縄の戦争基地化という時間的要素を内包するのが放射線による後障害ではないでしょうか。

以上でとりあえずあげた三つのポイント(まだまだ他にもポイントがあるのかも知れませんが)についてどう対処するべきなのか、私としての答えがあるわけではありません。私自身にとってもこれからの宿題だと受け止めています。このコラムを訪れてくださる方たちと問題意識を共有したいという気持ちで書いたと理解していただければ幸いです。

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