高暮ダム碑前祭

2008.09.15

昨日(9月14日)、念願だった高暮ダムの碑前祭に参加することができました。広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)の李実根会長に、2年ぐらい前から、お願いしていたのですが、昨年は他の用事が入っていて参加できなかったのが、今年はかなり前の段階から9月14日であることを教えていただき、しっかりと予定に入れていたものです。

高暮ダムは、広島県県北(現在の庄原市高野町)に位置しています。三次からでも小一時間ぐらい車で走ってたどり着くという山深い人里から離れたところに位置していることを実感しました。1940年に発電用のダムを建設するということで、強制連行されてきた約2000人の朝鮮人労働者が過酷な労働条件の下で働かされたのです。ダムのセメントの中には、生き埋め(高いところからセメントを落として、それを地底にいる朝鮮人労働者が空気が入らないように固める仕事をしているのですが、その真上にセメントが落とされて生き埋めになって死ぬ労働者が出たことが、近くに住んでいた住民によって目撃されていたということです)になった人もおり、また逃げ出した労働者ににぎりめしや草履を与え、逃げ道を教えた人たちの証言も残っています。

以上のことは、戦後いち早く語り継がれて現地の人々の間では知るところになっていたのですが、1950年代に県北でも活動していた李実根さんは、このような山あいに当時なお300人ほどの朝鮮人が暮らしていたことを不思議に思い、気にかけていたそうです。ダム自体は戦後(1948年)になって完成したのですが、多くの朝鮮人労働者がその完成に携わり、そのまま残っていたことが後になって分かったということでした(李実根さんが当時尋ねたときには、彼らは口を濁して真相を話さなかったらしい)。結局300人ぐらいの朝鮮人は、1959年に始まった帰還事業の中で北朝鮮に渡ったそうです(ほとんどの人は慶尚南道出身だったそうですが、北朝鮮への道を選んだとのこと)。1980年代になって李実根さんが現地の人たちと一緒になって真相を発掘し、北朝鮮産の石で1995年に慰霊碑を建設(募金で500万円を集めた。碑には、被爆者教師の会の中心だった石田明氏や作家の山代巴さんの名前も刻まれていました)、それ以来碑前祭を行って今日に至っているとのことでした。毎年行われているので、本来なら第14回目ということになるのですが、一度だけ大雨で中止になったことがあるとかで、今年は第13回目の碑前祭でした。

私の知る限り(李実根さんも同じ認識)では、朝鮮人強制連行の被害者を現地の日本人が積極的に慰霊する取り組みは、高暮ダムと京都府舞鶴市での浮島丸慰霊の取り組み(http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2005/115.html参照)以外にありません。舞鶴での取り組みと高暮ダムに関する取り組みとの違いは、舞鶴の場合は舞鶴住民の自主的取り組みであるのに対して、高暮ダムの場合は、現地の日本人と一緒に広島在住の在日朝鮮人の人たちも積極的にかかわっているということでしょう。しかし、両者に共通しているのは、現地の日本人の人たちが強い問題意識を持ってかかわっているということです。高暮ダムの場合、李実根さんの取り組みに、当時高野町町長だった田中五郎氏(現在は庄原市市議会議員)などが積極的に協力し、中国電力と交渉して今碑が建っている土地を同社から譲渡させることに尽力したそうです。田中氏はその後も碑前祭にずっとかかわっており、碑前祭が行われる前には周りの土地の除草などを行っています。今回も参加しておられ、私も挨拶することができました(ちなみに中国電力は、強制連行の痕跡を消すことに努めてきたとのことで、今は、物資をロープで運搬するために組み立てられたコンクリートの3本組の柱が一つだけ木々の間にひっそりと残っているだけになっています。ただし正確を期して言いますと、会社側が1948年に建てた碑もダムのそばに立てられており、そこには主語がないままのお詫びとも付かぬ言葉が刻まれていました)。

両者のもう一つの違いを強いて挙げるとすれば、高暮ダムの場合は、県外も含めた高校生平和学習ゼミナールの生徒たち(今回も岩国高校の生徒が3人参加していました)が数多く参加しているということです。これは、このゼミナールに中心的にかかわってきた澤野重雄先生(今年の3月まで安田女子高校の教師)の影響もあると思います。今回も数人の教師とともに10人以上の生徒が参加しているのは嬉しい光景でした。私は、請われるままに即興で皆さんにお話しをしたのですが、特に若い世代にしっかりした歴史認識を持ってほしいこと、日本国憲法の意義はそういう歴史認識を持って始めて本物になるという趣旨のことを話しました。朝総聯の女性同盟の人たちが「良かった」と言葉をかけてくださったのには素直に嬉しかったです。

今回の碑前祭はとても遺憾な出来事を背景にして行われました。8月30日に発見されたのですが、碑に黄色のペンキが塗りたくられていたのです。しかも、「歴史のねつ造」などの文言が残っており、明らかに確信犯の犯行でした。碑前祭を前に一所懸命元の姿に戻そうと現地の人たちは努力したのですが、細かい字の彫られたところは、碑の両側に色濃く黄色のペンキの跡が残っており、とても痛ましいものでした。

それにしても、現地までの長い道のりと、山あい深く分け入っていく車の中で、こんなところまで強制連行されてきた朝鮮人たちの気持ちはいかばかりであったことだろうと何度も思わざるを得ませんでした。しかも、李実根さんによれば、脱走するといけないので、彼らは目隠しをされてトラックで運ばれて来たとか。それでも脱走を試み、失敗して連れ戻された人たちはとんでもない拷問にあったということでした。軍国主義・日本の歴史的罪過は本当に言葉では言い表すことができません。しかも、そういう史実を覆い隠し、あるいは否定する人たちが再び猖獗を極め、憲法を改悪して歴史を逆戻りさせようとしているのです。何としてでもその動きを食い止めなければ、と決意を新たにして夕闇が深くなった頃広島市内に戻ってきました。

そうそう、往路と帰路の車中では、李実根さんのお話しをじっくり伺うことができたのも大変な収穫でした。

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