映画『山桜』を観て

2008.07

先週上京したとき、11日の午後にぽっかり時間が空いていたので、どうしようかと思いました。一度も行ったことがない靖国神社の遊就館を訪れようかなと一瞬は思ったのですが、やはり気が重く、ネットで検索してみたら、藤沢周平原作を映画化した、『夕凪の街 桜の国』に主演した田中麗奈がやはり主演している『山桜』が八王子から近い調布の映画館で上映していることを知って、「これだ」と思って観に行ったのでした。藤沢周平作品については、山田洋次監督の三部作などでとても味わい深かったので、この作品についても興味を感じたし、田中麗奈についても、『夕凪…』での瞳の強いまなざしに個性を感じてとても気になる俳優となっています(テレビでの娯楽に徹した『猟奇的な彼女』も楽しませてもらいました)。

私はとにかく自ら認める芸術的・美的な感性を欠く人間ですので、映画の中でも明らかにアクセントが置かれていた田中麗奈の強いまなざしには何度もハッとさせられる思いをしましたし、主人公・野江の心の移ろいはきめ細かに描かれていたとは思いましたのでそれなりに満足して映画館を出ましたが、山田洋次監督作品の時のような深さは感じないままに終わってしまった、というのが素直な感想です。せっかくの藤沢周平の故郷・庄内の景色も色彩的にはいまいちの印象が否めませんでした。

むしろ、主人公を慕う手塚弥一郎が、豪農と一緒になって貧農を苦しめて藩政を攪乱する諏訪平右衛門を一人で刺殺するのですが、そのことが肯定的に描かれていることが次第に気になり始めました。これでは、テロあるいは2・26事件の肯定ではないかという思いでした。藤沢周平は、本当にこのようなストーリーを描いたのか、という疑問がふくらみました。

そこで、サイトでこの映画の公式サイトを訪れてみました。そこでは、藤沢周平の長女の方(遠藤展子さん)が感想を寄せ、「出来あがった映画は、まるで父の小説を読んでいるような錯覚を覚える映画でした」と書いておられました。

私の疑問はますます強まるばかりだったので、原作に当たってみました。確かに手塚は諏訪を刺殺していました。しかし、この短い作品の中での刺殺の部分の扱いは、映画におけるような重みを占めるものではなかったというのが私の読後感です。もっと正確に私の印象を言いますと、映画ではこの刺殺という要素を不相応に大きく扱いすぎていたと思えるのです。藤沢周平は、どう見てもテロとしての刺殺を肯定的に描くという意識はなく、むしろ極めて控えめに(野江とのかかわりにおいて必要最小限に)扱っていたと思います。そういう点に着目する限り、映画『山桜』は原作の与える味わいを忠実に再現するものではなかった、と思います。

いま読んでいる丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波新書)における丸山の次の言葉「歴史的なちがいや異質文化の理解というのが歴史意識になり、いにしえの時代を理解するには、その時代の言語体系、ディスクールを知らなければだめだ、いまのディスクールをその時代に投影したらわからなくなっちゃうぞ」という箇所が私のこだわりを解説する手がかりになると思います(ただし、逆の意味で読み替えをする必要があります)。つまり、「刺殺」という行為が江戸時代に持っていた意味を踏まえずに、機械的に今日的状況において再現すると、まったく異質なメッセージ性を持ってしまうということです。藤沢周平は、「歴史的なちがい」ということに対する明確な歴史意識を持っており、「その時代の…ディスクール(注:言説)」をしっかり踏まえているからこそ、今日的にはテロと見なされるべき「刺殺」に対する当時的状況を踏まえた上での注意深い控えめな扱い方をしていたと思います。しかし、映画『山桜』脚本、監督はそのような歴史意識、ディスクールについてはっきりした認識を持っていなかったために、テロ肯定に通じてしまう描き方をしてしまったのではないでしょうか。

RSS