韓国のヒロシマ:陝川(ハプチュン)

2008.06.21

私は、6月12日、13日と韓国のヒロシマといわれている陝川(ハプチュン。ハプチョンとも)を訪問する機会がありました。韓国人被爆者等の渡航治療の受け入れ病院となっている広島共立病院(広島では以前はかなりの数の病院が外国人被爆者を受け入れていたそうですが、今では入院も可能な河村病院と通院治療の共立病院の二つだけとのこと)の名誉院長である丸屋博先生が団長となり、同病院の前院長である青木先生が副団長となったハプチュン訪問団に同行させていただいたのです。一人で訪問しても何の収穫もなかったと思いますが、ハプチュン側が全幅の信頼を寄せている丸屋先生たちとご一緒させていただいたおかげで、とても実り多い旅になりました(私は団体旅行は苦手なのですが、今回のハプチュン旅行に関していえば、丸屋先生にお供できなければ経験できようがないものでした)。
広島医療生活協同組合・原爆被害者の会と韓国原爆被害者協会ハプチュン支部(韓国原爆被害者協会は、元々はハプチュンで結成されたのが、その後全国組織となって本部はソウルに置かれており、ハプチュンは支部となったということのようです)との間には「姉妹団体提携に関する協定書」(この協定書のユニークなことは、「両会の友好・親善のための姉妹提携の期間は、会員の高齢化などの現実もあり、どちらかの会又は支部が解散もしくは消滅したときに解消するものとする」と明文の規定をおいていることです。丸屋先生のお人柄がにじみ出ている規定とも思いましたが、しかし次代、次次代に受け継がれていってほしいと思う気持ちになってしまう私などは、この規定の恬淡ぶりには何となく寂しさも味わってしまいました)というものが2001年4月20日に締結されており、相互訪問が行われているそうです。丸屋先生たちにとっては何回目かの訪問ということのようでした。

事前に丸屋先生から、「何もない田舎町ですよ」とブリーフをいただいていましたが、上陸地・釜山(プサン)から大型バスに乗って約3時間で到着したハプチュンについての第一印象は、静かで穏和な町という感じでした。四方が山に囲まれている盆地に位置していることは、どちらの方向を遠望しても山並みが見えてくることでも理解できました。それよりも3時間のバス旅からハプチュンに降り立った瞬間に私の胸中にわき起こった疑問は、どうしてこのような交通手段も限られ、外の世界から隔離されている感すらあるこの内陸の地から何万人もの人が広島に行かなければならなかったのか、ということでした。 原爆投下当時の広島市の人口は約35万人ぐらいだったというのが通説(注:中国新聞社『年表ヒロシマ40年の記録』によれば、1945年8月31日に広島県警察部がまとめた数字として、被爆当日人口を25万人と推定していますが、この数字は朝鮮の人たちを含む数字なのかどうかも分かりません)で、そのうち7人に1人が朝鮮半島出身者だったと考えられていますから、約5万人が朝鮮半島の人だったということになります。そのうち直爆で3万人が死亡(丸屋先生のお話では直爆で亡くなった方が約10万人ぐらいということなので、10人に3人が朝鮮半島出身者だったということになります)、生存者2万人のうち、被爆者として韓国に戻った方が1万5000人、広島を含めて日本に残った方が約5000名ということになります(滞在中にいただいた資料に記載されている数字と一致。ちなみに、この資料によれば、長崎における朝鮮半島出身者の被爆者数は2万人、そのうち直爆による死者数が1万人、生存者が1万人、その中で帰国者が8000人、日本残留が2000人となっています)。
そして、12日夜の食事会及び13日の交流会でのハプチュンの方たちの説明をお聞きすると、原爆投下当時の広島在住の朝鮮半島出身者の約7割がハプチュン出身者だというのです。5万人の7割とすれば3.5万人。ハプチュンが韓国のヒロシマといわれるのも決して誇張でも何でもないことが分かりました。なぜ広島に集中したのかという今ひとつの疑問についていえば、これも食事会及び交流会でのお話しから理解されたことですが、植民地時代に米を強制的に供出させられて食べられなくなった人たちが,血縁・地縁を頼って広島に大挙移住したということでした(同行していた大阪在住経験のある記者から聞いた話では、大阪在住の韓国人・朝鮮人は圧倒的に済州(チェジュ)島出身者が多いそうです。地縁・血縁の深さが窺われます)。13日に伺ったハプチュン原爆被害者福祉会館では、入居者(定員は80名)79人のうちハプチュン出身者が63名、また入居待機者157名中ハプチュンの方が87名と、高い比重を占めています。他の地域在住となっている方たちの中にも、ハプチュンから転出された人が少なくないというお話しもありました。そうそう、ハプチュンの方たちの日本語は完全な広島弁でした。

食事会の際には、ハプチュンに平和公園を作る計画があるということをお聞きしました。しかもかなり具体的なもので、すでに韓国議会で与野党議員22名の提案により、公園を作るための特別法の案が提出されたとのこと(事業費は400億ウオン)。残念ながら審議未了で廃案になったので、これからふたたび法案提出から始めなければならないとのことでした。いただいた資料によって理解できたのですが、チェジュ市のチェジュ平和公園も、居昌(ゴチャン)郡のゴチャン良民虐殺追慕公園のいずれについても、それぞれ2001年1月と1996年1月に議会で特別法が制定され、国費の支出(前者が592億ウオン、後者が205億ウオン)によって公園が造成されています。ハプチュンの人たちも、これらの前例にならって特別法による国費によって平和公園を作ろうとしているのだと思われます。そして、このお話をされる際、また、いただいた資料にもありましたように、広島と長崎における平和公園や原爆資料館が念頭にあることも明らかでした。
私はお話を伺っていろいろなことを考えないではいられませんでした。ハプチュン出身の被爆者は、まさに二重の犠牲者です。日本の植民地支配の犠牲者であると同時に、原爆投下の犠牲者だからです。しかし、日本政府は、ハプチュン原爆被害者福祉会館の建設・運営に充当した40億円のODA支出以外はまったく知らぬ存ぜぬを押し通しているのです(福祉会館では、新たに30人を受け入れるための建物を増設する予定なのですが、それは全額韓国政府の支出でまかなわれるとのこと)。在外被爆者に対する日本の冷たい仕打ちは、ハプチュンの被爆者に対してもまったく例外ではありません(交流会でもそういう日本政府の冷たい仕打ちに対してハッキリ抗議・不満の気持ちが表明されました)。そういう背景を理解するとき、ハプチュンの人たちが日本政府はもちろんのこと、決して住みやすい環境ではあり得なかったであろう広島・長崎に対しても怒りの感情を持ったとしても当然のことだろうと思います。ところがこの人たちは、広島、長崎にならった平和公園を作りたいと言っているのです。それだけでも私には大きな衝撃でした。
しかもハプチュンの人たちは、その公園の造成費用について日本側の負担を求めることを当然の前提にするという発想もまったくないのです。確かにチェジュとゴチャンの前例が国費によっているということが彼らの発想の前提にあるという事情はあるでしょう。しかし、この2例に関していえば(チェジュ島で起こった1948年の4・3事件については漠然とは聞いていますが、正直言って、ゴチャンのケースについて私はまったく無知です。ネットで検索したところ、朝鮮戦争の時代に、北のパルチザンを助けたとしてゴチャンの村民1500人が韓国軍によって銃殺された事件のことらしい)、韓国国内の事件にかかわるものですから、韓国政府が費用を負担するのは当然といえば当然でしょうが、ハプチュンに関していえば、明らかに日本の植民地支配と原爆投下がもたらしたものであるという点で、私たちとは無関係ではあり得ません。こういう計画が進行しているということを知らないのであればどうしようもありませんが、いったん知った以上、是非お願いしてでも、何らかの形で平和公園造成に協力させてもらうようにしなくてはならないと思いました。この旅行に加わった記者も私とまったく同じ考えだということで、彼が記事にした後、私たちに何ができるか、何をするべきかについて真剣に取り組んでいきたいと考えています。

前回光州(グアンジュ)を訪問したときに痛感したのは、日本のもっとも近い隣国の言葉をまったく解さないことのいたたまれないもどかしさでした。今回もまたその思いを新たにしました。これまで何度か勉強しようとしてはあえなく断念してしまってきたわけですが、もはや韓国・朝鮮は私にとって鬼門ではなくなった(外務省勤務時代に何度となく訪れる機会があったのに、その都度何か他の仕事が入ってしまい、ついに訪れることがなかったし、アジア局勤務の後は是非在韓国大使館勤務をと希望したのですが、結局ロンドンということになってしまい、私は何となく「韓国は鬼門」というあきらめの気持ちが先立つようになってしまっていたのです)わけですから、何とか片言だけでも、あるいはハングル文字を読むだけでもできるようになりたいと思います(もっとも「どうせだめだろう」という弱気の虫がうごめいていますが)。
ハプチュン訪問を終えてから、私は東京で学会出席の仕事が入っていたので、皆さんとお別れし、タクシー(まさに神風タクシーで生きた心地がしなかった)でプサンに戻り、一泊してから東京に向かいました。わずかな時間のプサン滞在でしたが、ホテルの近くの繁華街を散策して、韓国第二の大都市・プサンの活気に触れることができました(ハプチュンでも朝市を見学しましたが、プサンでも露天の店が我が物顔で軒を並べていました)。また、ホテルの人に尋ねて近くの韓国料理の店に入り、カルビタン(とても美味でした)、冷麺を楽しむことができました。店は結構賑わっており、韓国語が飛び交う雰囲気を楽しむこともできました。ああ、やっぱり韓国語を覚えたいです。

(追記)高敞(コチャン)と書きましたが、在日韓国人の方から虐殺があったのは居昌(ゴチャン)であるとのご指摘を頂きました。感謝の気持ちを込めて訂正いたします(6月21日)。

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