核兵器廃絶か核廃絶か

2008.05.24

*ある雑誌に寄稿を頼まれて書いたものです(5月24日記)。

私は、様々な集会に伺って核廃絶についてお話しすることがある。そんなとき、「核廃絶」というのは誤りだ、「核兵器廃絶」と正確に表現するべきだ、と指摘されることが何度かある。そういう指摘をされる方にとっては、核(原子力)の平和利用を曖昧にする「核廃絶」という表現は科学的に厳密ではない、ということらしい。

私は自然科学には全くの門外漢であるので、大きな口はきけないし、素人目で見ても、医学や農業などにおいて、平和目的のための核利用があることは確かだと思う。しかし、核(原子力)の平和利用として圧倒的比重を占めるのは核(原子力)エネルギー、すなわち原子力発電だろう。

そもそも、原子力の平和利用を言いだしたのはアメリカのアイゼンハワー大統領(1953年12月に国連総会で行った”Atoms for Peace”の演説)である。アメリカは、大量破壊兵器であり、放射線によるその残虐性が生物化学兵器をはるかにしのぐ核兵器の所有・開発政策を正当化するために、日本占領中は報道管制を敷いて、徹底的に広島、長崎を封じ込んだ。そしてもう一つの手段として、核(原子力)エネルギーの平和利用神話を強力に売り込んだのである。

原子力の平和利用神話が上記アイゼンハワー演説に先立って日本の人々の中に早くから深々と根を張ったことは、例えば1951年に出版された長田新編『原爆の子』において、「原子力の平和産業への応用は、平和的な意味における所謂「原子力時代」を実現して、人類文化の一段と飛躍的な発展をもたらすことは疑う余地がない」(34頁)と記されていることに明らかだ。8月6日の広島歴代市長の平和宣言においても、原子力の平和利用に対する手放しの肯定的言及が度々あったことも秘密ではない(変化が起こったのはチェルノブイリ事故以後のこと)。

かく言う私も、広島に来るまでは、核(原子力)エネルギーの平和利用神話に思考停止であったことを告白しないわけにはいかない。しかし、むしろ『原爆の子』、平和宣言などを読む中で、強烈な違和感を覚えだしたし、その違和感がこの神話への強烈な疑問へとつながった。

ふたたび素人目に明らかなように、原子力発電に伴う放射性廃棄物の安全かつ確実な最終的処理の技術の確立はまず不可能だろう。そして昨年の柏崎原発事故が如実に示したように、安全な立地など、かくも地殻変動を活発に繰り返す地球上のどの地にもあり得ないだろう(四川大地震では核関連企業が深刻な被害を受けたとの報道もある)。

確かに地球温暖化対策の一環として「クリーン・エネルギー」としての原子力発電に対する注目が高まっている。しかし、原子力発電にかかわる上記の問題に加え、その発電の必然的な副産物であるプルトニウムは、核兵器に直結する危険性を秘めている。20世紀が核時代であったとしても、21世紀は脱核時代にすべきだ。人類が目指すべきは、核兵器廃絶ではなく核廃絶そのものだと思う。

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