平和へのねがいと障害児・者の権利―人間の尊厳のために―

2008.05.18

*3月2日に京都で開かれていた学生発達保障セミナーで、表題のタイトルでお話しする機会がありました。主催者が原稿を起こしてくれたので、整理して紹介します(5月18日記)。

【「小頭性骨異形成性原発性小人症」の孫娘・ミク】

皆さん、おはようございます。広島平和研究所の浅井と申します。広島平和研究所と言うと、核廃絶だとか、核に関する研究だとか、そういうところで働いている私が、こういう席に伺ってお話しをするということ自体が、皆さん奇異に思われているのではないかと思います。本当に半年前くらいまでは、自分自身もこのような場所に来てお話しするとは考えてもいなかったわけですが、全障研が出している『みんなのねがい』という雑誌に、去年の4月号から今年の3月号まで小さいコラムを書くことになりまして、それが『ミクと世界と日本と』という題なのですが、こういうコラムを書くことになってから、障害関連の色々な所に呼んでいただくようになりました。
 この『ミクと世界と日本と』という時のミクが私の孫娘です。その孫娘が非常に長い名前の、世界でも数十例しか症例が報告されていない病気、「小頭性骨異形成原発性小人症」と4つの単語から成る病名(これは日本では決まった訳語がなくて、担当のお医者さんが訳してくれたもの)の障害を持っております。アメリカなどでは、この英語名の病気の頭文字を取って「MOPD」と読んでいるらしいのですが、インターネットなどで「MOPD」と検索をかけますと、かなりの数のサイトが出てきます。
それで、この病気のことについてまず申し上げておきたいと思います。最初に「小頭性」ということですが、頭が小さく生まれてくるということがあります。ということは、どうしても脳の発達にも影響を与えますので、知的障害を伴うということになります。今年、ミクの母親、私の娘のノリコというのですが、ノリコが年賀状を書いた時に、ミクのこの一年間の発達を次のように記しました。読みますと、「ミク9歳になりました。春、運動会がんばりました。夏、平仮名が書けるようになりました。秋、20まで数えられました。冬、足し算デビュー」。こういうところを見ていただくと、今のミクがどの程度の発達状況であるか、お分かりいただけるのではないかと思います。ただ、ミクの発達の歩みを見ている私達にとりましては、平仮名などが書けるようになるということも、本当に1年前までは、予想も出来なかったし、20まで数えるということは、とても想像もしていなかった。そしていわんや、足し算に至っては、1+2の段階ですけれども、そういうものにチャレンジできるようになるとは、およそ考えていないわけで、したがって、障害がある子どものゆっくりした歩みであればこそ、人間として確実に発達していっているということを、実感させてもらっています。変な言い方かもしれませんが、健常の子どもの場合はあまりにも発達が早いので、発達するのが当たり前だと思うと思うけれども、こういう知的障害がある子の歩みを見ていると、本当に一つひとつの発達というものがとっても大事なことであるということを身の回りの人間は感じることができるということです。
次に、「骨異形成性」という言葉がありますが、これはどういったことかと言いますと、骨の発達に異常が認められるというものであります。この骨の障害は色々な面に出てきています。例えば、永久歯が4本しかないのです。したがって、今はかろうじて乳歯で食事を採っていますが、いずれ乳歯はなくなるわけで、そういった場合には総入れ歯にしなければならないということになります。それから、指が極端に短い。本当に小さなモミジのような形をしています。それから、腕や脚が短いということもあります。
3番目が「原発性」ということですが、これはよく使われる言葉で、要するに今の医学では原因が不明という場合に原発性という言葉をつけるようであります。従って、今の医療においては、この子の病気を治す道は見つかっていないということです。
そして最後に「小人症」ということでありまして、身体や頭が極端に小さいなど、発育が非常に遅いのが特徴ということになっています。現在9歳を迎えたわけですが、今の身長は、71cmです。ですから、赤ちゃんの1歳児前後の大きさを想像していただければと思います。体重も6キロしかありません。この6キロも、つい最近1カ月くらいで6キロに達したわけで、それに先立つ3年間くらいは、5キロ台で推移してきたのです。脚の骨も弯曲しているということもあるのですが、でも歩くことも、話すことも、一丁前にやります。踏み台や椅子などの補助の道具がありさえすれば、たいていのことは自分でやることができます。いわゆる、日本において一般的に観念される障害という概念に中々入らないのですね。それは身体性の障害でもあるし、知的障害でもあるということで、重度重複障害と呼ばれることもあります。

【福祉後進国・日本の貧困な福祉政策の実情】

私は、ミクが生まれてからの9年間、ずっと見ていて感じることの一つが、本当にこの日本という国は福祉の後進国であるということであって、障害のある人たち、子ども達に対して厳しい環境の国だということです。世界第2位の経済大国というのに、これほど障害者、障害のある子どもに対して厳しい環境にある国というのは、先進国の中では、アメリカの次くらいではないかと思います。そのアメリカの場合も、例えばミクのような珍しい病気に対しては医学的に対処しようとする動きがあり、したがって、そういった子ども達を何とかしようという社会的な取り組みが行われているといます。医療機関や、そういった所で。しかし、日本においては、一定の行政的な基準にあった障害については対処するけれども、そんな基準を離れてしまったら何の対応もとらない。我が国の仕組みの中では取り残されてしまうということになっています。
娘に聞きますと、ミクは今特別支援学級に通っていまして、毎日の生活を楽しんでおります。問題になっている障害者自立支援法の直撃を受けるという状況にはないということです。これも偶然の要素が重なるわけで、ミクは大きくなれない病気です。発育期の障害児にとっての金銭的に負担の掛かる大きな部分は、例えば補助椅子などの介助の色々な道具、眼鏡をかけている場合は、その眼鏡のサイズが合わなくなるとか、年齢に従ってサイズを変えていかねばならないという風になるわけで、これが、例えば補助椅子だって数十万掛かることもあるわけですね。それが応益負担ということになると、数万円というお金が一気に飛んでいくという状況になるということになります。ところが、ミクの場合は大きくならないものですから、小学校1年に入る時に作った椅子で、おそらく小学校を全部いけるだろうという状況になります。従って、彼女の特殊な病気ゆえに、障害者自立支援法が直撃するということは今のところないのですが、それは小学校、あるいは中学校の段階までのことであって、彼女の場合、本当に背も小さくて身体も小さくて、まともに物が持てない・運べないということもありますから、小・中学校を終えた後、彼女はどういった人生を送るのかということになると、本当に先がまったく読めないということになるわけであります。そのようなことも考えて、私たち、娘はもちろんのこと、私もですが、とにかく母親の身体が利かなくなった時には、ミクと共倒れということが明らかに見えておりますので、何とかそのようなことにならないようなことを、これから一生懸命考え、探さなければいけないなと考えています。

【障害者に偏見を持ち、差別する日本社会】

それから、障害者に対して、日本ほど偏見が大きい国、差別をする国も世界にはそれほど多くないと感じるのです。この点は、特にミクの場合には、毎年の新学期が恐怖の一日になるわけですね。それは何故かというと、学校生活に慣れてくると、学校側もミクの特別な障害について全校の生徒に言い聞かせていますし、子ども達もそういったものだと受け入れてくれるようになっていくわけで、ミクに対して、差別が加えられるということはなくなっていくわけですけれども、ミクのことを新一年生はまたく知らないわけです。そうすると、新一年生、それは幼稚園や保育園で育ってきた子ども達ですけれども、結局いまの日本は、そういった小さい子も含めて、小学校や中学校、高校も含めて、要するに金太郎飴の子ども達を作ることに主眼を入れていて、個性のある子どもを作るということは考えていない。むしろ、個性を削り取る教育をやってきている。そうすると、そういう中で育って、みんなと一緒ということが当たり前という考えを埋め込まれた子ども達が入学式に来て、ミクのような超小型の子どもがいると、寄って集っていろんな言葉を発するわけです。その場面に直面するとミクは、2年生の時から固まってしまったのですが、2年生の時はまだ彼女の頭の発育がそれほどではなかったので大過なくすんだのですが、去年の時は、本当に泣き出してしまって、母親に対して「学校に行くの嫌だ。」ということを訴えるということになってしまった。ですから、今年の4年の時には、またどんなことが起こるのかと、私は戦々恐々としています。
やっぱり、そういうことを通じて感じることは、やはり日本人、日本の社会というものは、何かといえば群れるんですね。群れて自分たちの行動基準を考える、群れから外れると不安になる。逆に言うと、客観的にみると群れから外れた立場にある、例えば障害のある子どもはともすると本当に厳しい立場に置かれるのです。いわゆる健常な子どもたちは、自分たちでは意識しているかどうかも分からないけれども、差別に繋がるような行動が出てくるということであって、本当に障害があろうとなかろうと、同じ人間なんだ、同じ人間として尊い存在なんだという意識がほとんど育っていない。日本はそういう社会であることを痛感するわけですね。しかも、そういう状況を味あわされる障害者が、いったいどういった場合に救われるのかということですけれども、1960年代後半から障害のある人たちの努力、また障害のある人たちを支えようとしている人たちの努力によって、障害のある人たちに対する施策というのは、非常に大きく伸びてきたわけですけれども、それが障害者自立支援法ができたことによって一気に数十年前に逆戻りする可能性が出てきたということです。

【薬害C型肝炎被害者を一律救済する特別措置法】

こういう中で、個別に救われるケースもある。皆さんもご承知のとおり、後で挙げますが原爆小頭症の患者さん等は人数が二十何人ということもある、それから、最近新聞紙上を賑わした薬害C型肝炎感染被害の訴訟当事者についても、厚生省は最高裁の判決が続いたということもあって和解に踏み切ると。それから、やはり同じように原爆症認定集団訴訟についても、政府・与党チームが問題の解決に乗り出したと聞いております。ここにおいて共通するのは何かといいますと、要するに人数が限られている、従って財政的負担についてめどが立てられるということですね。ここにあるのは、原爆小頭症患者・薬害C型肝炎感染患者・原爆症患者、こういう人たちの人間としての尊厳を全うする、回復するために出た施策ではないということです。一言で言ってしまえば、日本の行政あるいは法律の中では、人間の尊厳を基準にして出来ている法律はないということです。ですから、人間の尊厳をまっとうすることが必要であるとされている問題、福祉などはその典型ですけれども、そういう問題に対して国の行政というのは全く別の立場、つまり「お金」という立場ででしか臨んでいないというところに、本当に大きな問題があると思います。こういったことが、まず障害一般に関して、私の孫娘に関わって皆さんに考えて頂きたいことであります。

【きのこ会の活動と国の対応】

その次に、斉藤とも子さんという女優さんですけれども、彼女が大学の修士課程に入って書いた修士論文が基になって、『きのこ雲の下から、明日へ』という本が出ています。これは彼女が、先ほど触れました原爆小頭症の患者たちが集まっている「きのこ会」という会があるんですけれども、そのきのこ会の活動と国の対応について調べて、まとめた修士論文であります。私が皆さんに申し上げたいのは、このきのこ会の活動の中で、いろいろ私達も考えねばならない問題が出ているということで、そのことを材料にして色々と考えてみたいと思います。
きのこ会が最初にできたのは、1965年6月でありますが、これが出来るにあたっては岩波新書の『この世界の片隅で』という新書が出ていまして、その中で初めて原爆小頭症の患者が何人か居るということを発掘したわけです。それまでは原爆小頭症の子ども達を抱える親は自分しか居ないと思い込んでいたわけですから諦めていたわけですけれども、原爆小頭症という障害は被爆した時にお母さんの胎内に2か月、ないし3か月位でいた子に集中して発生したことが医学的に分かっています。ですから、妊娠2・3か月の時に胎内に居た子に発生するという、それが原爆小頭症ということなんです。私がこの原爆小頭症の人たちに非常に関心を持たざるをえなかったのも、先ほど申しましたように、ミクも小頭性という病名が冠せられているということだったからです。きのこ会は、3つの要求を初会合の時から国に対して提起します。つまり、自分たち、あるいは子ども達小頭症の人は原爆の仕業だと認定して下さいということです。原爆症として認定した上は、医療をタダで受けられるようにしてほしいということです。それから要するにその子たちは、いわゆる知恵おくれということなんですけれども、その水準も2歳前後の段階から、せいぜい良くて8・9歳ですから、結局親が亡くなった後の生活はどうなるということです。そこで終身保障を要求するということであります。そして3番目が、こういう小頭症の子どもが生まれたのは原爆が落ちたからだと、だからそういうことが2度と繰り返されないように核廃絶をして欲しいということ。以上3つの要求を出したんです。その年の11月に厚生省に実情を説明しに行っています。その時に厚生省の担当者が何と言ったかと言いますと、「人数も少ないことだし何とかしたい」と言ったというのです。数が限られている。だからそれに対して特別の手当をしたからといって国の財政に大きな影響は及ぼさない。そういう含みを露骨にはっきりさせながら、やりましょうと言ったわけです。そういうことで、2年後から4年後にかけて、その子たちが原爆症に認定されるということになります。そして更に、68年9月には原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律、いわゆる特措法というものが出来まして、認定被爆者に対して特別手当一万円、医療費補助が五千円という、一万五千円が支給されるようになって、それが小頭症の子ども達にも適用がされるということになったわけですね。その後の経緯については、資料を読んで頂くと分るのですが、2006年4月からの原爆小頭症の人たちに対する支給額が、月額47300円になっているということです。

【補償獲得をめぐるきのこ会内部の葛藤から考えること】

問題は、結局原爆小頭症の人たち、彼らを支援する人たちが、どういう戦い方をしたかということなんです。この点について原爆小頭症の人たちの問題に深く関わった3人の方の問題意識といいますか、悩みというものを紹介させて頂きます。最初は、『補償獲得をめぐるきのこ会内部の葛藤から考えること』という秋信利彦さんという方の文章です。この方が『この世界の片隅で』という岩波新書で初めて原爆小頭症の人たちが複数存在しているということを自分の足で発掘し、見出したという非常に重要な仕事をされたのです。その人が、1970年の会報、実はきのこ会には会報が12号まであるのですけれども、その第6号の70年の会報に次のようなことを書いています。「行政の枠から切り捨てられていたときには、冷淡な政府に対する怨みは執念と化したエネルギーとして15000円を引き出した。しかし、それを手にしたとき、行動のエネルギーとしての執念は変質してしまった。」当時、原水爆禁止運動を進めるにあったては色々な方法論が戦わされたわけです。その中で主流的な考え方というのは、原水爆を廃止させる、そしてすべての被曝者が国によって救済されるということを目指して戦うというものでした。したがってきのこ会、原爆小頭症の人たちもそういうみんなと一緒になって戦ってほしいという考え方もあるわけです。しかし、小頭症の人たちのお手伝いをしていたきのこ会の事務局の人たち、秋信さんも入っているわけですけれども、その人たちは、そういう主流的な運動の中に埋没するとどうなるか、ということを考えざるを得ませんでした。きのこ会、小頭症の人たちの救援については、厚生省から良い返事をもらっているわけですから、運動に埋没してしまうと反対に救済の道を閉ざされてしまうというわけなんです。ですから自分たちとしてはむしろ彼ら(厚生省)と条件闘争をして一刻も早く補償を獲得したいのだということになるわけです。その結果、やっぱりみんなで手を繋いで一緒に運動を進めていこうという主流的な考え方の人たちと、このきのこ会とは食い違いが生じるわけです。結局きのこ会はまったく独自の動きを貫いていったということなんです。そういうことがこの秋信さんの悩みとして書いてあるわけです。だから、「原水爆禁止運動の枠の中にいる人が、私たちの運動をさして、ものとり主義とよんだことがある。確かに、相手の土俵にのぼり妥協しながらでも何か具体的に獲得していくという方法をとったものだから、そう呼ばれても致し方ない面もある」という記述になったと思います。しかし、やっぱり他方で、自分たちは小頭症の子ども達を何とかして助けたいという気持ちも非常に強かったということなんです。そうすると、「15000円という確かな手ごたえのうえで、ともかく5年間まとまって活動してきたきのこ会が、さて15000円勝ち取った今、理念的な次元で活動をどう展開していくのかという問題に突き当たってしまっている」ということになるのです。被爆者と一口にいっても本当に様々な人たちがいます。ですから、被爆者といって一括りにすることは、問題を理解する上で邪魔になると思うのですけれども、そういう事例がここに端的に出ているわけです。
次に、大牟田稔という人の文章がありますけれども、被害者の連帯によって運動を進めていくことが必要なのではないかというふうに問題提起しているわけです。これも同じ1970年の段階での文章です。それから、作家・山代巴さんという方ですけれども、この方も非常に注目する考え方を出しています。その考え方は、秋信さんが言ったものとり主義ではやっぱり先がないのではないかという考え方です。つまり、ものとり主義ということになってしまうと、ものを取ってしまったらそこで目標がなくなってしまう。しかし本当に被爆者を救済する、救援するという運動はお金を取ればそれで終わるというものなのだろうか、ということを彼女は問題提起するわけです。それは、「我々が幸せになるためには、そうしたあらゆる宿命から生じる困難を一つ一つ打開し、一歩一歩幸福へ前進していく以外にない。そのためには先ず自分自身の革命からおこなっていかねばならない。きのこ会の補償要求は、戦争責任の追及ですよ。戦争責任を問わずに核兵器の禁止はできないでしょう」という指摘です。つまり、お金さえ獲得すればいいというふうに考えてしまうのでは、被爆者の運動は前には進まない、やっぱり核兵器をやめさせる、戦争責任を追及するというところまで私達の認識を上げないと前に進まないのではないかということを言っているわけです。そこで彼女が言っている自分自身の革命からおこなわなければならないというところが、実は私の人間の尊厳という問題に掛かってきます。したがって、山代巴さんは人間の尊厳という言葉を使うわけではないのですが、やはり私は被爆者の問題を考えて頂く場合にも、人間の尊厳ということを視野に修めないと正確な問題が掴めないということを申し上げたいわけです。
まあそれはともかくとして、その前に大牟田稔さんが書いた文章をもう一度紹介します。これは、彼が1970年9月に書いた文章ですが、結果がどうであったかということを書いているんです。ここでは、自分たちの運動を単に被爆者の運動としてだけ捉えるのではなく、すべての公害等で人権を奪われた人たちと連帯した運動をするべきではないかということをいっているのです。その問題提起がどういう結果を生んだかということに関して、96年8月の『軍縮問題資料』で彼が書いているところを見ると二つの点で重要なんです。一つは、きのこ会内部の広島意識は予想以上に固く、(他の人権侵害に対する運動との連携は)実現しなかったと書いています。結局原爆小頭症の問題は、原爆小頭症の問題として扱いたいという親達がやっぱり他の団体と一緒になって振り回されるようなことはごめんだということで、結局実現しなかったと。広島は広島でいきましょうという考え方が強かったと。私は、実はこの広島意識というのが今の広島の方たちにも非常に強いということを自分でも感じています。本当に水俣病とか、私たちの生活・人権を脅かす事象は日本国中いっぱいあるわけで、そうしたあらゆる人権侵害と共通するという視点で原爆被害を考えることによって、私は広島の戦いも一皮も、二皮も剥けて前進すると思うのです。

【きのこ会、薬害C型肝炎被害者一律救済、原爆小集団訴訟から何を学ぶか】

きのこ会、薬害C型肝炎被害者一律救済、原爆症集団訴訟から何を学ぶかということで一つのまとめをしたいのですけれども、一つは国側の問題、もう一つは私たちの側における問題があると思います。
国側の問題の決め手というのは、とにかくそういう人たちの人数が多いか少ないか、あるいは、今後波及する可能性があるかないか、したがってどこかで波及することが断ち切れるならば、どこかで財政措置を考えざるを得ないかなということです。これが先が読めない場合となりますと、彼らは断固抵抗します。だからここには、先ほどから言いましたとおり人間の命は大切だと、人間は尊厳があるのだから、それを大事にしなければならないという発想はゼロなんです。こういう所が、日本の福祉行政の根本的な誤りだと思うわけです。子どもの権利条約や障害社権利条約を読みますと、その根源にありますのは子どもの尊厳、あるいは障害者の人間としての尊厳をいかにして守るかという思想なんです。ですから、子どもの権利条約や障害社権利条約を日本が受け入れるとするならば、障害者自立支援法をはじめとするすべての福祉立法、あるいは福祉行政が完全な発想の転換を行い抜本的な改正が必要になります。今までは、金や行政的な効率が法律の出発点となっていたわけだけれども、それを人間の尊厳を実現するという考え方に改めなければならないということがご理解いただけると思います。その点は、まず初めに何度強調しても足りないところです。本当に日本の法律には、人間の尊厳を根本においた法律は一つもありません。あるとすれば、日本国憲法と改正前の教育基本法だけです。あとは本当に、お粗末な日本の状況があります。
それから、私たちの側における問題というのは、結局秋信さんや大牟田さん、山代さんなどが問題提起されたことを整理しますと、次のように言えると思います。

【なかま・組織内部における遠慮しない、おっくうがらない切磋琢磨していく姿勢】

一つは仲間、あるいは組織内部における遠慮というものが働いて、それがお互いの鋭い問題提起を阻む状況を作り出すということの問題を、山代さんははっきりと言っています。彼女の場合は、15000円を引き出すということがきのこ会内部の主流の考え方だった時に、おかしいのではないかと思いながら黙っていた。だけど、結局15000円を獲得してしまったら、これから先は何をしていけばいいのかという考えになってしまった。それを見て山代さんは、やっぱりそうでしょう、お金だけの問題ではないでしょう、もっと私たちが考えなければならないことがあるでしょう、そのことを15000円がある時には言わなかった、言えなかった、遠慮していた。だから、結局きのこ会のあり方というものが前に進まなかった。だから私たちは、これからはお互いに遠慮せずに話し合おうよということなんです。このことは、正に障害がある人たち、障害を抱える人たち、あるいはその周りにいる人たちが障害者問題を考える時に、とかくそういう遠慮をしてしまう。だけど、私が後で申し上げます人間の尊厳というものを、障害者であろうと何であろうと、すべての人が持っているのだという確固たる判断と、そのことについてお互いに誤解がないということが確かめられれば、決して相手の人間の尊厳を傷つけるために言うのではないというお互いの安心感があれば、いくらでも何でも言い合える中になれるということです。私たちがとかく陥りがちな、こんなことを言うとマズいかなという気持ちは、なるべく捨てましょうというのが、私が申し上げておきたいことです。

【個々の問題を、全体の状況の中で正確に位置づける視点を養う】

それからもう一つは、自分が身近に接している、自分が扱っている障害は、障害の中の一部であるということ、もっと言えば人権を侵害する問題の一部であるという位置づけの仕方をした上で、私はこの部分を担当しているのだという、そういう大きな問題把握の視点というものを私たちは持つべきであるということです。つまり、先ほど申し上げたように障害者の権利擁護は、他の人権侵害の被害者たちと連帯することによって、ますます確固とした思想的、政策的な説得力を強めることができるということですね。逆にいえば、障害と福祉という視点にだけ自分を限定することは、極めて危険であるということを皆さんにも考えて頂きたいと思うわけです。
そしてもう一つは、国家に恩恵をお願いする、ものとり主義や物乞い主義というものは全く誤った考え方であって、障害者あるいは身体に障害を受けた人たちは人間の尊厳を全うするときに不便が生じるわけですから、その不便を取り除くということは、国の当然の責任なんです。すべての人間には自分の尊厳を全うする権利がある、そしてその権利を全うするために行政というものがあって、それをお手伝いするということは当然のことなんです。それが日本では、支配的な国を「お上」と見て、お上にお願いするというへりくだった考え方になってしまうけれども、私たちは何とかしてそういう間違った考え方を振り払う必要があるということを考えて欲しいと思います。

【二つの条約をフルに生かすことで障害児・者の人間の尊厳・人権を勝ち取る】

こういうことを考える上できわめて重要なのが2つの条約です。先ほども少し触れましたけれども、子どもの権利条約と障害者権利条約は、人間の尊厳というものを根底に置いているということが、色々な条文の中から分ります。そして、この2つの条約は対称性が非常に強い。要するに、扱っている事項が大幅に重複しているのです。したがって、特に障害のある子どもの権利を考える場合には、子どもの権利条約を見るだけでは不完全です。障害者権利条約は障害のある子どもにも適用されるわけですから、この2つの条約を併せ読むことによって初めて、障害のある子どもの権利を十全に保全するための手がかりを得ることが出来ます。このように相互補完性を注目したい両条約ですけれども、両条約の第4条では、締約国が何をしなければいけないのか、この条約を批准した日本が何をしなければいけないのかということが書いてあります。子どもの権利条約では短い一般的な規定です。しかし、障害者権利条約を見ると、例えば1のbを見て頂くと分るように、『障害のある人に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し、又は廃止するためのすべての適切な措置をとること』と書いてあります。こういうことを文字通り読むと、障害者自立支援法というものは即刻廃止だということが理解できます。そういうふうに、子どもの権利条約では、日本政府が何をしなければいけないかが細かく書いていないわけですが、障害者権利条約の第4条を読むと、この条約の交渉に当たっては、世界の障害者団体、NGOやNPOが参加していましたので、非常に障害者の視点からの規定がきめ細かく入っているわけです。ですから、この条約を全面的に実施することによって私が冒頭に申し上げました、福祉や障害に対して冷たい日本の現状を根本から改める武器にすることができるということを理解して頂きたいと思います。
それから、子どもの権利条約のなかで障害のある子どもの権利について扱っている部分というのは第23条の部分だけであって、全体としては必ずしも障害のある子どもに着目した条約になっていない。それに対し、障害者権利条約というものは障害のある人に着目した条約ですから、例えばインクルージョンやモビリティーというような、障害者にとって非常に重要な権利についてはっきりと書いてありますが、そういう権利に関する規定は子どもの権利条約にはありません。それから、アクセシビリティというのは、子どもの権利条約では適切な情報へのアクセスということについては書いてあるけれども、あらゆる物に対してアクセスする権利ということにはなっていないわけです。ですから、そういう意味で2つの条約は常にあわせて一つという受け止め方で見て欲しいと思います。

【人間の尊厳とは】

次に、私は人間の尊厳ということを繰り返し言ってきたわけですが、また、人間の尊厳ということを皆さんも口にするとは思いますが、「人間の尊厳って一体ナニ?」と言われた時に、意外と「うーん」というふうになるのではないでしょうか。それは何故かというと、結局この人間の尊厳という考え方が、西欧起源の考え方であって、日本の伝統的な思想の中にその根っこがないということなんです。ですから、この言葉を聞いても何か他人事、自分の腹に収まらないという感じがするということです。実は、私が最近読んだ本で『国家と個人』という本があります。田中浩さんという方が書かれた本で、岩波書店から出ています。1章から5章までをじっくりと読み込んで頂くと、なぜ日本において人間の尊厳というものが、私たち自身の感覚に入ってこないのか、他方、欧米では人間の尊厳というものが生活の一部になっているくらいに、生まれた時から人間の尊厳に囲まれているのはなぜなのかということを理解できると思います。なぜそうなのかというと、400年以上にもわたる歴史を経て人間の尊厳というものが欧米世界に根付いているということが分る、それを読み取ることができます。とても易しく書いてある、よくもこれほど難しい哲学的なことを、こんだけ易しく書いて下さったなと感心します。ぜひとも読んでください。

【人間の尊厳を我がものにする上での、他者感覚の大切さ】

欧州やアメリカにおいては、子どもが生まれおちた時から、人間の尊厳というものがヒタヒタと漂っているわけです。そういう中で育ちますから、人間の尊厳というものが常に自分の思考回路の中に入っている。しかし私たち日本人社会では、悲しいかなそういうことになっていない。むしろ群れることが特徴で、皆の中にいると安心感がある。その裏返しとして、自分たちと一緒でないものに対しては色眼鏡で見る、あるいは差別する、もっと言えば排除するということが当たり前になっている。要するに、金太郎あめの中で育っている、金太郎あめが良いことだとして育っている。だから他者、自分と違う存在についての意識がなかなか持てないわけです。一緒でなかったら排除してしまうということになってしまう。障害のある人たちに対する仕打ちというものも、まずそこからあるものでしょう。私がこの本を読んだのはつい最近ですけれども、私は私流に人間の尊厳というものを自分自身の血にしたいし、肌にしたいと思い、どういうふうな思考経路をとれば、この人間の尊厳というものを自分のものに出来るかを考えたわけです。そこにおけるキーワードは2つあります。一つは他者感覚。これは日本政治思想史の丸山眞男という学者が言いだした言葉です。もう一つは、個の意識ということで、自分自身を個の存在として考えるということが2つめのキーワードになるわけです。
 この他者感覚というものは、「他者を他者としてそっくり理解し、認識しようとする意識の働き」ということです。これを具体的に言うと「自分があの人の立場にあったら、自分はどのように思い、行動するだろう」という考え方では、他者感覚を備えたことにはなりません。なぜならば、その時は自分の頭を他者の体に持っていくわけですから、他人の形をとった自分であるわけです。ですから、それでは全然他者にはなっていないわけです。そうではなくて、「自分があの人であったならば、あの人としての自分はどのように思い、行動するのだろう」と考えるようになるとき、はじめて他者感覚を備えたことになる。だから、あの人になりきるというわけです。だから、あの人の感情、思考方法、思想、あの人をあの人たらしめるに至った家庭環境、対人関係、歴史、文化等々をできるだけ理解する中で、あの人になりきることによって他者感覚を我がものにすることができるということです。ですから、障害者に接する時に「障害があるから、かわいそうだな、気の毒だな、だから何かしてあげよう」という発想は全然他者感覚ではないわけです。自分が障害者であったなら、障害者としての自分は、どういうことを考えるだろう、どういうことに不便を感じ、どういうことについて他の人をして何をして欲しいだろうかというふうにならないと、他者感覚ということにはならないわけです。もちろん、完全に相手になりきるということは不可能です。ではあるけれども、常日頃、誰と接する場合にでも、相手になりきる訓練をすることによって他者感覚というものを限りなく自分のものにすることができる。そこが一つの大きなポイントです。人間は社会の中で生きています。人との関係の中で生きていますから、他人と接する時に「相手だったらどう考えるか」ということを考える。話をしていて相手と合わないなと、どうもこいつは気に食わないなということがある。だけれども、気に食わないからさようならではなく、なぜ俺は気に食わないと思ってしまうのだろう、なぜ彼は俺をして気に食わないなと思わせてしまう発言をするのだろうか、彼の思考回路は何だというところまで理解していけば、そこで腑に落ちるところが見つかる可能性があるわけです。

【他者感覚の視点から見た、北朝鮮問題】

これは何も、人間関係だけではありません。国家関係だって同じです。例えば、金正日はわけのわからない男だ、なにをしでかすかわからないと皆さんは思うでしょう。しかし、金正日の立場に立ったら世界がどう見えるのか、と考えるわけです。そうすると、アメリカという化け物、日本という狼、韓国という狼に取り囲まれて、いつ潰されるか分からない野ネズミです、金正日の国は。絶対に敵わないわけでしょう。その彼がどうして日本に戦争をしかけるとんでもない発想が出てくるわけがあるだろうか。日本に戦争を仕掛けた次の瞬間には、アメリカの核兵器が北朝鮮を灰にしてしまうわけです。そういうことは分かりきっている。広島・長崎を経験した人類は皆分かっている。特に政治の指導者たちは分かっている。そんなことをするはずがないのです。それも他者感覚です。私たちが金正日になって物事を見れば、世の中は全然変わって見えてくるんです。そうすると、今の日本における北朝鮮に対してのパッシング、北朝鮮脅威論というものが、いかにおかしなものであるかということが分かるわけです。

【他者感覚を通して、自らを「個」として客観的に見つめるということ】

他者感覚を我がものとすると、その一つのメリットとして自分自身をも他者感覚で見ることが出来るようになります。つまり、自分という存在は何なのかということ、自分を客観的に見ることが出来るわけです。そうすると、例えば「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と思っている自分は、いかにもおかしい。間違っているのに、皆がやるのだから目立たないように従おうというのはおかしい。やっぱり間違っているものは、99人が正しいと言っても、私は間違っていると言おうということになるでしょう。そういうふうに、自分自身を個として確立することができるようになるわけです。他者に巻き込まれない、個としての自分を据えることが出来るようになるわけです。そうするとしめたもので、もう他者感覚も身につけた、個という感覚も身につけた。そうした場合、次の必要条件なんですけれども、皆さん、一人ひとりが自分をかけがえのない大切な存在として、自分自身を思っていないといけません。自分なんて存在する必要もないという気持ちで自分を見つめていると、人間の尊厳はどうにもならない。しかし、私は個々の皆さんが自分自身をかけがえのない存在であるという意識を持っているという前提で話をさせてもらいますが、つまり世界には60数億の人間がいるにも関わらず、この60数億の誰を取っても自分に代わることはできないという意味において、一人一人はとっても大事な存在であるということです。そして、そうした上で自分はとっても大切な存在、他に代えられない存在ということ。それが他者感覚を使備えれば、相手も自分と同じように、かけがえのない存在であるという意識を自然に身に付けることができるわけです。これが全部の人間について当てはまる、全部の人間に行きわたるという時に、それがあらゆる人間は尊厳を持っているということに繋がっていくと理解することが出来るわけです。

【人間の尊厳という普遍的価値をわがものにするためには、不断の努力と学習を】

実は私も、他者感覚というのは意識としては持っていましたけれども、他者感覚という言葉で表すということについては、20年くらい前に丸山眞男さんの本を読んではじめて自分のものにしましたし、その後色々と頭を悩ませ、皆さんに簡単にお話ししたような思考回路を経て、人間の尊厳というものを自分なりに消化するに至ったという経緯があります。欧州の政治思想・人権思想というものが必ずしも思想的な背景としてない私たちが、人間の尊厳という外来の普遍的な価値を自らのものにするには、私たちなりのアプローチの仕方があるということです。そうすることによって、自分たちのものにすることが出来るということです。面白いことに丸山眞男さん自身も他者感覚があるからといって、人権意識、人間の尊厳に直結するわけではないということを言っているわけです。日本という極めて群れる社会では、人間の尊厳を自分のものにするには、かなりの苦労が必要だということをお話ししたいのです。
 最後に、私が皆さんにお願いしたいのは、人間の尊厳というものを皆さんも口にはされると思いますが、人間の尊厳というものが何かということを、自分なりにつき詰めて考えて頂きたいし、そういうものをつき詰めて考えて、自分なりに「あー、わかった」となった時には、私は、皆さんは自信を持って色々な問題についての判断力、確かな判断力を持つことになると思います。私は、人間の尊厳という普遍的な価値を根底に置くことにより、あらゆる問題が正しいか間違っているか、善であるのか悪であるのかということを判断することが出来るという確信があります。それくらいに、人間の尊厳ということを皆さんの生活においても、根底に置くような方になって頂きたいと思います。

RSS