チベット問題についての視点

2008.04.14

*昨日(4月13日)、広島市西区の中学校区すべてに「9条の会」を結成しようという動きのなか(決して行動的な人間といえない私も、進んで呼びかけ人になりました)、西区の中学校区(全部で5つ)のトリとして観音中学校区「9条の会」の結成が行われ、お訪ねしてお話しをしました。その後の質疑のなかで、チベット問題を取り上げた方がいました。質問の趣旨は、その方が9条の街頭宣伝活動をしていた際、「中国のチベット問題があるのに、9条を宣伝するとはけしからん」ということだったとか。中国の軍事的脅威を口実にして9条改憲を、ということでしたら耳新しいことではありませんが、チベット問題までが改憲派の人たちによって利用されているということには、一瞬ではありましたが絶句でした。しかし少し考えれば、「何でもかんでも中国の悪口を言いつのって中国に対する不信感を助長して、中国脅威論に結びつける」手口として、かつての文化大革命、天安門事件を利用した対中国不信感植え付けの手口と同じです。つまり、古い手口がまだまだ生き残っているということ。その質問に答える時間は限られていましたが、チベット問題についての視点を整理しておく必要を感じましたので、このコラムで取り上げておこうと思った次第です。

1.チベット人居住地域での騒動の原因をどう見るか

私が読む日本の新聞では、3月28日の朝日新聞の「チベット騒乱 二つの不満」が比較的まとまった解説記事を書いています。つまり、今回のチベット人の行動は、「チベット青年会議」の昨年8月のダライサラでの年次総会(47カ国の代表200人あまりが参加)が出発点であり、その総会で「デモやハンストだけではない。反抗のレベルを高め、北京五輪前に何らかの行動を起こす」という「暴力的な方法をとる方向に」傾いたとされています(香港誌『亜州週刊』からの引用とのこと)。「チベット青年会議」に関しては、3月19日付の神奈川新聞(おそらく共同通信の配信記事だと思われる)と3月30日付の中国新聞(時事通信の配信記事と明記)にも説明があります。3月22-23日付のインタナショナル・ヘラルド・トリビュン紙(IHT)も、現地(ダラムサラ)からの報道として彼らの動きを報道しています。これらをまとめてみますと、青年会議は「ダライ・ラマの亡命政府とは関係のない組織で約3万人が参加し、世界40カ国以上に出先があり、チベットの完全独立を要求して近年は活動を活発化、会議には中国チベット自治区からもメンバーが参加」(神奈川新聞)、ドルジー副会長は「『高度な自治』要求や非暴力主義を掲げるダライ・ラマとは意見が異なり、この点ははっきりと伝えてある」(中国新聞)とあります。IHTの報道でも青年チベット人たちが自治ではなく独立を要求していると指摘しています。これらの報道から窺えるのは、ダライ・ラマの威令がもはや青年チベット人の急進派の間では行き渡っていない、という可能性です(以上の報道が正確であるとすれば、中国政府が今回の一連の動きは「ダライ・ラマ集団」によるものと決めつけていることは的確とはいえないでしょう。ただし、ダライ・ラマは、非暴力の行動は認めるといい、青年会議主導の行動を止める力を持っていないことを自ら認めないために、中国政府の批判を招く結果になっているのだと思われます。
上記チベット青年会議は、明らかに北京オリンピックの聖火リレーという人目に付く機会に世界中で騒ぎを起こすことを狙っていたことが読み取れますが、彼らだけの力には明らかに限りがあると思われます。世界規模での対中国抗議行動を可能にしたのは、ワシントンに本拠を置くThe International Campaign for Tibet(ICT)を筆頭にした親チベットの欧米の組織であるいう指摘があります(出所:3月24日付のIHTに掲載された、自らかつてthe Free Tibet Campaign in Londonという組織で責任者を務めたことがあると述べているPatrick French署名でダライ・ラマについて‘He's no politisian’というタイトルで酷評したコラム)。つまり、インターネット時代は、ひとりアル・カイダたちによって利用されているだけではなく、今回の聖火ランナーの行進を妨げる上でも、チベット独立派によって思う存分利用されていることが分かるのです。

ただし、フレンチのコラムの趣旨は、ダライ・ラマのアメリカの威光に頼るアプローチが全く非生産的だったと批判するのはもちろんとして、欧米の親チベット派のグループの活動も何の結果をも生まなかったと批判し、「チベットの独立を目指す闘いは、ダライ・ラマが亡命した49年前に失われたのであり、ダライ・ラマ及びチベット人を助けたいと願う人びとの目標は、中国という国家と現実的に交渉することであるべきで、海外から支援された現在の抗議活動は、さらなる不幸をもたらすだけだ」という冷静な対応を促すことにある点は、彼自身がかつて親チベット活動に身を置いていただけに、注目するべきでしょう。

2.国際的な人権問題に対する視点のあり方

私が、チベット問題のような外国で起こる人権問題に関して、私たちがどのような視点を持って臨むのかという点に関して、質問者の方に答えたのは次のようなことです。
第一にはっきり確認しておく必要があることは、人間の尊厳、人権・民主という普遍的価値に対する確信について動揺・妥協することがあってはならない、ということです。この点についてはこのコラムでも縷々述べたことがありますので、改めて詳説する必要はないでしょう。
第二に、同時に国際関係にともすれば迂闊になりがちな私たちが忘れてはならない重要なことは、国際社会という社会は今日なお未成熟な段階にあるという認識を持つ必要がある、ということです。つまり、国内社会のようには人権・民主の基準に基づくルールで規律する仕組みが確立されるにはほど遠い段階にある国際社会では、人権・民主をストレートに当てはめるような仕組みはまだ初歩的にもできあがっていないということです。国際民主主義という場合にも、国家関係の民主化ということが今日なお基本的に要求されるのであり、個人の人権を普遍的に擁護するための仕組み・ルールはできていません。国際的に個人の人権を守ると称して「人道的介入」が主張されることもありますが、確立した国際的ルールとして認められるには至っていないのが、国際社会における厳然たる事実です。確かに国際的に人道的介入と称した行動が取られることがありますが、それは大国の利害が衝突しない場合に限られるのであり、大国の利害が絡んでくる場合には人道的介入は行う余地がほとんどと言っても過言でないほどにありません。私は、いまだ未成熟な国際社会を前提とするとき、国際関係において二重基準が横行することはもっとも好ましくないことだと考えています。
この問題については、昨年中高校生向けに書いた『国際社会のルール① 平和な世界に生きる』(旬報社)で詳しく扱ったことがありますので、これ以上は立ち入りません。
第三に、チベット問題そのものに即していえば、すでに1.で述べたように、果たして「中国当局の理不尽な人権弾圧」と一方的に決めつけることが妥当なのかについて、私はかなり疑問があります。
更に付け加えていえば、中国の改革開放政策がチベットだけは除外していると考えることは極めて非現実的です。青蔵鉄道の開通は、明らかにチベット経済を振興し、チベット人の生活向上を招来する意図に出たものでしょう。それがチベット文化を破壊し、チベット人の伝統的生活を損ない、漢族の流入を招く結果を招いているとの副作用があるとしても、その功罪については冷静に評価する必要があると思います。
チベットを経済的に振興するのはけしからん、という主張が無条件で成り立つのであれば、新自由主義の下で破壊されつつある世界経済そのものをまな板に乗せるだけの一貫性がなければなりません。しかし、利益一本槍の新自由主義と比較すれば、中国政府のチベット経済振興・チベットに住む人びとの生活向上を目指す政策の方が、人権・民主を真剣に考える立場からいって、はるかに非人道的でない、と私は考えるのです。
第四に、私たち日本人が果たしてどれだけ人間の尊厳、人権・民主を我がものにしているのか、という問題についても、私は考え込んでしまうのです。後期高齢者医療制度、障害者自立支援法、少子化の時代に直面してなお進行する小児・産婦人科医療の崩壊、農村の崩壊等々、日本において進行している人間の尊厳を踏みにじる政治の横行、映画『靖国』の上映に対する妨害・自粛、反戦ビラに関する最高裁の不当判決などの最近の事例に見られる反人権・反民主の進行、日本社会は真底病んでいます。もちろん、そのこと故にチベット問題に口を閉ざせ、ということを言いたいわけではありませんが、少なくとも「人のふり見て我がふり直せ」ではないかと思うのです。居丈高に中国の現状を糾弾する日本のジャーナリズム・世論状況を見ていると、私は何ともいたたまれない気持ちになっています。

以上を要するに、国際的なレベルで起こる人権関連の問題について、国際的に広く適用できる解決の道筋はできていない、ということを私としては指摘する必要を感じるのです。ケース・バイ・ケースで考えていかなければならないし、チベット問題もその例外ではない、ということを確認したいと思います。ましてや、中国脅威論を増幅するためにチベット問題をも利用するというような悪質な企てに私たちが心を乱されるようなことがあってはならない、ということは、強く指摘したいと思います。

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