私の憲法の語り口

2008.02.28

*2月16日に福山で憲法についてお話ししましたところ、主催者側でテープ起こしをしてくださいました。舌足らずであったところを私なりに入念に手を加えたものを以下に紹介させていただきます(2月28日記)。

こんにちは。浅井でございます。よろしくお願いいたします。 私は憲法の専門家でも何でもないわけでありまして、平和という問題を考える上で、日本国憲法の重要性といいますか、世界に誇る先駆性といいますか、そういうことを常々考えるものとして、レジュメをお手元に配っていただいていると思いますけれども、そこに盛り込んだようなことを常々考えているということで、皆様のご参考になればと思ってお話させていただきたいと思います。このレジュメにしたがってお話させていただきたいと思いますけれども、まず最初に確認したいことは、この21世紀という時代に、日本を含めた人類がどのような方向に向かって歩みを進めて行きつつあるのだろうかということを考えてみたいと思います。

1.21世紀の人類的課題(1):人間の尊厳及び人権・民主の徹底した実現

「暮らしの中の憲法」といういただいた演題からしますと、少し遠くを見すぎているかもしれませんけれども、やはり私たちが日本国憲法、つまり平和憲法に対して確信を持つ上では、この21世紀という時代がどういう方向を目指して進もうとしているのかということを確認し、そして後で申しますように、1946年に作られた日本国憲法はまさに、21世紀の人類が歩むべき方向を指し示しているということを、まず確認することが私たちが日本国憲法に対する確信を深めるうえで重要ではないかと思いますので、その点からお話しを進めさせていただきたいと思うのであります。

私は、21世紀の国際社会、人類の歩みというものは、大きくいって2つの方向を目指す流れの中にあると考えております。それがレジュメにおいて「国際社会のあり方を考える座標軸」というところであげました2つの点であります。ひとつは、国際関係、或いは人類の歴史の中で、やはり、人権と民主、この2つのキーワードが実現されるべき、そういう時代、あるいは社会状況というのがあるのだろうと思います。それからもうひとつは、これまでのように力(軍事力)によって何事もかたづけようとすることは、かなり徹底して破綻をきたしていて、この21世紀の人類の社会は力(軍事力)によらない形で平和を実現するということが、主流になるのではないのかということ、この2つの点を申し上げたいわけであります。

最初に国際関係を規律する基本としての人権・民主ということでありますけれども、私は人権あるいは民主・デモクラシーの根幹に座っているのは、やはり人間の尊厳を普遍的な価値として認める、そういう価値観が国際的に確立したということが非常に大きくあると思っております。そしてその人権・民主、あるいはその根底にある人間の尊厳という考え方が普遍的価値として確立したのは、まさに1945年に終了した第二次世界大戦によってであったということを確認したいわけであります。

第二次世界大戦に関しましては、確かに帝国主義対帝国主義の対立の戦争であったという性格とか、或いは侵略対反侵略の戦いであったというような位置づけもありますし、それはそれで、間違っていないと思うのですけれども、もうひとつ、この人類の歩みという視点で考えますと、人権・民主を正面から否定する、あるいは人間の尊厳というものを全く踏みにじろうとした全体主義、具体的には軍国主義の日本でありますし、イタリアのファシズムでありますし、ドイツのナチズム、こういう全体主義と、それに対して人権・民主を標榜する、アメリカ、イギリス、ソ連などの国々の間の一大決戦であった、まさに関が原の戦いであったということがあると思うわけであります。

その戦いにおいて、人権・民主、人間の尊厳を標榜する民主主義陣営が最終的に勝利を収めて、それによって今や、今日、日本の主要政党を見ましても、いかに反動的で日本国憲法を変えようとする勢力であっても、この人権・民主、あるいは人間の尊厳という普遍的価値に対して正面から異を唱えるということはできなくなっています。そういう状況が生まれたのは、まさに1945年からであったということを確認したいわけであります。

そのように、価値としては普遍性が認められた人間の尊厳であり、人権・民主であるわけでありますけれども、それが日常生活において、世界の隅々において、あるいは、日本社会の隅々において、実現されるに至ったかというと全くそうではない。むしろ、日本の場合には、1980年代に始まった中曽根政治、さらには2001年に登場した小泉政治においては、まさに人間の尊厳、人権・民主を踏みにじる、新自由主義による改革路線というものが猖獗を極めるということで、日本の場合は、まさにこの普遍的価値に逆行する流れが、中曽根時代から数えれば30年近く、小泉時代から数えても10年近くにわたって、怒涛の勢いで私たちの生活を傷つけ、生活の質を低くするべく猛烈な勢いで走ってきたという状況があります。

しかし、このように私たちが、人間の尊厳、あるいは人権・民主というものが、普遍的価値としては確立しており、また、21世紀の人類の社会がこれらの普遍的価値をあらゆる生活の分野で実現しなければいけない時代であるということを確認するのであれば、こういう小泉「改革」政治というようなものに代表されるものが、非常に間違った、歴史の流れにまったく逆行する政治であったということもまた確認できるのではないか、と思うわけであります。つまり、21世紀の国際社会の課題、あるいは日本社会の課題というのは、まさに人間の尊厳、その基盤の上に立つ人権・民主を国際規模で、あるいは日本の社会という次元で隅々まで実現するということを求めているのだということが確認できると思います。

一言補っておきますと、レジュメにも書きましたけれども、人間の尊厳という考え方と、小泉「改革」に代表される新自由主義路線というのは、根本から相対立するものであるということを、私たちは知らなければならないと思います。日本では、あたかも新自由主義とか、グローバライゼーションとか、「改革」とか、そういうものが歴史的に決まったコースであって、逆戻りができないものというような受け止め方がマスコミや保守的なオピニオン・リーダーを中心として盛んに宣伝されているわけであります。けれども、この市場原理、要するに利潤を最大の基準にして、物事の善悪を決め、そして物事のあり方を決めようとする考え方というのは、利潤を最大の基準とするがゆえに、その根底において人間の尊厳という普遍的価値とは、真っ向から対立するものであるということを知らなければならないと思います。

実はこのように新自由主義あるいは市場原理主義を当たり前のものとして受け止めているのは、先進国でいえばアメリカ、そして日本くらいのものでありまして、特に欧州における先進国の多くは、市場というものはメカニズムとして利用すべきものであるけれども、しかし市場によってすべてを規律するというのは間違っていると、いう考え方に立っていることを正確に認識するべきだと思います。特に北欧諸国のように福祉国家を標榜する国々では、市場というのはあくまで経済生活を律する上での手段であるとしっかり認識しておりまして、政治が目ざさなければいけないのは、やはり人間の幸せであるということを、明確に認識しながら政治の運営をしています。

そういうことから見ても、日本におけるような、あたかも、もう市場原理はもう動かせないものである、すべては市場原理によって律するべきであるというような行き方というのは、私は非常に間違った方向性を追求しているものであると確信しています。そういう破綻というのはすでにアメリカではかなりあらわになってきておりますけれども、なぜか日本においては、小泉「改革」の破綻が特に格差の顕在化という形であきらかになっているにもかかわらず、こういう問題に対する正面からの批判が憚られるような状況になっている、続いているわけで、私たちはやはりこの点を深刻な問題として考えなければいけないと思っています。

小泉「改革」が格差を初めとして大変な社会的ひずみを持ち込んでおり、市民生活が根底から脅かされていることを見据え、そういうものを批判しつくす際のよりどころは何かというと、たびたび申し上げているように、人間の尊厳ということを基軸におくかどうかということです。それを根底に置く座標軸というものが私たちの中にはっきりと備わるならば、巷間流布されている「改革」という言葉に惑わされてはならないということも、ただちに明らかになることではないかと思います。

特に日本という国を見た場合、人間の尊厳という普遍的価値というものが口では言われながらも、それが本当に私たち一人一人の考え方の中心に座るようになっているかというと、結構そうではない。現に例えば、学校でのいじめ、あるいは、社会的な弱者に対する非常に冷たい現象の数々というのが、あたかも当たり前のように横行するという状況を見ていますと、私は、日本において、はたして人間の尊厳、人権・民主というのがどこまでしっかりと我々の中に根付いているのかということについて、非常に疑問に思うことがございます。

したがって国際的な規模でも、人権・民主を隅々まで行き渡らせなければいけないというのが21世紀の人類的な課題でありますけれども、そういう国際的な流れの中で、日本社会そのものをこういう人権・民主、人間の尊厳というものをきちっと根底に据える社会に変えていくということが、非常に大きな課題になるのではないかと思います。

2.21世紀の人類的課題(2):「力(軍事力)によらない」平和観を主流にする

21世紀の人類的課題ということで、次にお話ししたいのは、どのような平和観で国際関係を律するかという問題です。後でふれますように、日本国憲法9条が代表するのが、「力によらない」平和観という考え方だと思うわけでありますけれども、私は、21世紀の国際社会において、まさに「力によらない」平和観が国際関係を規律する基準になっていく、そういう流れにあるのではないかと思っています。

「力によらない」平和観に対するものは「力による」平和観というものでございまして、人類はかなり古い時代から、力による平和か、力によらない平和かということで、哲学的にも、現実の政治においても、両者の考え方が対決してきました。人間の尊厳、人権・民主という普遍的価値が価値観としては世界的に確立したことと比較すれば、まだ21世紀の今の国際政治を見ましても明らかなように、力による平和という考え方が、はびこっている現実があるということは無視することができないと思います。

しかし、人間の尊厳という普遍的価値を基準にして二つの平和観を見るとき、人間の尊厳が力による平和と矛盾なく共存するかということを考えてみたいわけであります。

一見して明らかなように、戦争というものほど人の命を奪い、人間の尊厳を傷つけ、損なうものはありません。そして、戦争こそは力による平和という考え方の最も集中的な表れということであります。つまり、人間の尊厳という考え方を突き詰めていきますと、どのような平和観が人間の尊厳を実現するのにふさわしい平和観なのかという問題に対して、おのずと答えが出ます。つまり、人間の尊厳という普遍的価値を力による平和で担保できるはずがない。むしろそれを奪うものであります。したがって、21世紀における人類の歴史的な歩みの中におきましても、やはり力によらない平和という考え方が主流にならなければならないということは、人間の尊厳ということを座標軸におく限り、必然的に出てくる結論であるということが明らかになってくると思います。

そうであるといたしますと、21世紀の私たちにとっての課題というのは、現実の国際政治においてはなお圧倒的な力を持っている、力による平和という考え方の破産あるいは行き詰まりということをいかにして明らかにして、私たちの平和に関する発想を転換させるかということになっているのではないかでしょうか。そういう意味で、力による平和という考え方が、私たち、もっと言えば人類をどういう方向に導くのかということを検証することによって、その破産を明らかにすることができるのではないかと思います。

3.人間の尊厳及び「力によらない」平和観に立脚する日本国憲法

 それが私のレジュメにおきます「力による」平和観は世界をどこに導くかというところになってくるわけであります。ただその前に、今申しましたこの21世紀の国際社会が、人間の尊厳を普遍的に実現する方向を目指す時代であり、世紀であるということ。そして、力によらない平和観こそが、この21世紀のあるべき平和観であるという点について、私たちの憲法はどのような内容を持っているかということを先に見ておきたいと思います。

レジュメの7ページを開いていただきますと、そこに「私たちの憲法論の足腰強化:暮らしの中の憲法」とありますが、そこの「21世紀の道標としての日本国憲法」というところを見ていただきたいと思います。そこで簡単にまとめておきましたように、日本国憲法の最大の特徴は、私は人類の歴史的な歩みの方向性を、すでに1946年の段階で指し示しているということを確認することにあるのではないかと思います。

 つまり、日本国憲法というのは第一に、徹底した「力によらない」平和観に立脚しています。そしてそれが具体化されたのが第9条であります。なぜ、第9条はこれほど徹底した「力によらない」平和観に立っているかというと、私のこれまでの理解においては、大きくいって3つの根拠に基づいているということがいえるのではないかと思います。

一つは、レジュメに書きましたように、全体主義、軍国主義のもとで侵略戦争を繰り返した歴史を二度と繰り返さないということを国際社会に誓ったということであります。つまり過去の侵略戦争の過ちを二度と繰り返すことをしないということを約束しなければ、日本は国際社会において信頼される一員としての地位を占めることができないということを認識して、徹底した「力によらない」平和観に立つ日本として生まれ変わるということを国際社会に対して誓約したということがポイントであります。この点につきましては、いろいろな方が指摘しておられることで、皆様もそれほど違和感なく受け止められると思います。

私は、第9条にはその他に2つのポイントが重要な柱としてあると思っています。

一つは、核時代における戦争が人類を絶滅に追い込む危険性を持つに至ったということに対する徹底した洞察というものが第9条を生む背景にあったということを強調したいと思います。この点については、今日においては余り重視されていないのではないかと思うのですが、敗戦直後から1950年代初期にかけてのいろいろな文献を読むと、いろいろな人がこの点について明確な発言をしていることを確認することができます。

つまり、核兵器が登場するまでの世の中においては、ある国家が戦争を仕掛けることを考える場合、反撃によって国土が完全に破壊しつくされるという可能性まで考える必要はなかったわけです。変な言い方ですが、ある意味、安心して戦争ができるという状況があったと思うのです。ですからよく言われましたように、「戦争は政治の継続である」と位置づけられ、話し合いで問題が片づかないときには、最終的には戦争という暴力に訴えてでも問題を解決するということが公然と許される状況がありました。

たとえば、1941年に日本の東条英機率いる軍国主義がアメリカに対して無謀にも戦争に訴えたということがあったわけですけれども、なぜそれが可能であったかといえば、まさに日本という国が全滅させられるというような、そういう最終的な、究極的な破壊の可能性ということを考えないで戦争をする余地があったということであります。しかし、もし、1941年の段階で、すでに核兵器をアメリカが保有していたならば、私は、いくら無鉄砲な東条英機としても、アメリカに対して無謀な戦争をすることはなかっただろうと思います。

それほどに、核兵器という存在は人類の意味ある存続と両立しないということ、それをはっきり示したのが広島、長崎の体験であったということであります。そうであるがゆえに、もはや核時代、核兵器の時代に入った人類にとって、戦争というのは意味のある政策として考えることができなくなったという認識が憲法第9条に結実したということを、私たちは理解する必要があると思います。

それからもう一つのポイントは、日本国憲法というのは深々と人間の尊厳という普遍的価値にコミットした憲法であって、したがって人間の尊厳を奪いあげるような力による平和というものは、理念的に受け付けないというところが根本的な思想としてあるのではないかと思います。まさに「力による」平和観を克服して、「力によらない」平和観によって国際平和に貢献していくという非常に積極的な平和主義という考え方であるということであります。つまり、第9条が力によらない平和に徹底してコミットしているのは、日本国憲法が人間の尊厳に立脚した憲法であるからこそであります。

そのことを具体的に示しているのは、レジュメでも引用しておきましたように、憲法第11条と第97条の規定であります。そこにおいては、基本的人権というのは「犯すことのできない永久の権利」と書いております。「犯すことのできない永久の権利」という表現が第11条と第97条に共に出てくるというのはなかなかないことです。それほどまでにして、人権の永久性、あるいは国家権力といえども犯すことのできない基本的権利としての性格を強調しているということが大きなポイントであります。まさに人間の尊厳というのは、国家権力といえども奪宇ことが許されないという性格を持っているというところが重要な点であります。

後でご紹介しますように、自民党の新憲法草案というのはまさに、人間の尊厳・人権を国家権力に従属させようという狙いを持っているわけでありまして、そういう意味でこの日本国憲法を考える場合に、私たちは単に第9条だけに着目するのではなくて、やはり人権・民主、そしてその根底にある人間の尊厳を徹底的かつ無条件に大切にする憲法であるというところに着目する必要があるだろうと思っております。

以上に申し上げたことから直ちに明らかになるのは、私たちは日本国憲法を守ってこそ、本当に21世紀の人類の歴史的な課題に対して積極的に貢献することができるし、あるいは日本国内においても、憲法の徹底した実現を期することによってのみ、本当に私たちが納得できる生活を過ごせることになるということであります。

4.「力による」平和観①:アメリカの先制攻撃戦略

 以上、憲法の21世紀的意義ということを簡単に申し上げたうえで、「力による」平和観というものが世界をどこに導くかということを見てみたいと思います。

ひょっとしてここで仮に、「力による」平和観が国際関係において、今日なお有効であるという答えが出れば、確かに私たちは「力によらない」平和観の最終的な勝利というか、最終的な実現ということは展望しながらも、当面の情勢のもとでは「力による」平和観の支配を認めざるを得ないということになるのですけれども、はたしてそうなるのかということを考えてみたいというのが、レジュメの2ページから4ページにかけての問題意識であります。ここで私は今日、「力による」平和観がどういうかたちで自己主張しているかということについて、日本に深くかかわりがある問題として、4つの問題を考えております。

すぐ思いつくのは、力による平和観の権化であるアメリカ・ブッシュ政権の先制攻撃戦略ということになります。この点につきましては、現実問題として、皆さんはブッシュ大統領が2003年に始めたイラク戦争あるいはそれに先立つアフガニスタン戦争が、完全に泥沼状態に陥っていて、アメリカ国内においても、すでにブッシュ大統領の支持率が30パーセント代に落ち込んでいるという事実から、現実問題としてはかなりおかしくなっているということは、現実に見ておられるとおりであります。しかし、私たちはそういう事実だけで、この問題が決着済みというふうに考えるのではなくて、そもそもブッシュ政権の先制攻撃戦略が何を目指したのかということを確認し、そしてそれが果たして国際社会の問題の解決に対する処方箋になっていたのかという根本問題を考える必要があると思います。

手前味噌でありますけれども、私はブッシュ政権が9.11事件の後、あの先制攻撃の戦争をアフガニスタンに対して始めたときから、やはりこれは完全に誤っている戦争であるということを、蚊帳の外ではありますけれども、叫んできたつもりであります。そういう点が改めて、その後の6年間の流れの中で確認できているということを申し上げたいのであります。

ブッシュ大統領の先制攻撃の戦略はどういう考えに基づいているかというと、アメリカは1990年、91年まではソ連、今のロシアですね、旧ソ連との世界的な対決、軍事的対決ということを対外政策の中心にすえてきました。そして、その相手であるソ連が、空中分解してロシアという国になった時点で、客観的にいえば、アメリカは、1945年からずっと40数年にわたって続けてきたソ連との力比べ、つまり力による平和という考え方を根本的に見直すべき絶好のチャンスを迎えました。

簡単に歴史を追いますと、そのソ連の崩壊のあと、父親のブッシュ政権の後を8年間にわたってクリントン、今の民主党の大統領候補になっているヒラリーの旦那でありますけれども、そのクリントン大統領が8年間アメリカを指揮したということがあります。そして、その後2001年からブッシュということになっているわけです。当時から私が叫んでいたことでありますけれども、やはり米ソ冷戦が終わった後の国際秩序のあり方というものを、どういうふうにアメリカが展望するのか、どういう航路を描くのか、ということが非常に問われていたということがあります。

しかし現実には、クリントン政権はそういう歴史的な課題に正面から向かい合うということをしないで過ごしてしまいました。また、その間に徐々にいわゆるイスラム原理主義の台頭があって、地球のそこここでクリントン政権はそういうテロリズムの挑戦に場当たり的に対応するということで時を過ごしてきたということがあります。例えばケニアとか、そういうところでアメリカ大使館に対する襲撃があって、アメリカが報復をするとか、あるいはアフガニスタンに対して、ミサイル攻撃をするとか、そういう場当たり的なことをやっていたのですけれども、米ソ冷戦後の国際秩序はどうあるべきか、その中で唯一の超大国となったアメリカの対外戦略、対外軍事戦略はどうあるべきかという中心的課題に対して、クリントン政権はハッキリ言って何らの努力もしませんでした。

したがってそういう宿題があるままにブッシュ政権が登場したということで、ブッシュ政権の前には、なんらその見取り図といいますか、ブループリント、青写真というものもなかったということであります。しかし、ブッシュ大統領は、一つだけアメリカが絶対に変えないと初めから結論を出していたことがあります。それは何かというと、世界一の最強の軍事大国であるという地位は譲らないということです。そうすると直ちに問題が出てくるわけでありまして、何のために世界一の軍事大国であり続けるのか、なぜ膨大な軍事費を支出し続けなければならないのかという問題です。それを国民に対して説得する必要があるわけです。

それがまさに、何か、その軍事力を維持するのを正当化する対象が必要である、それは具体的にいえば何かというと、アメリカの軍事力を必要とするような脅威の存在があるということになるわけであります。「力による」平和観においては、そういう考えかたにならざるをえません。「力によらない」平和観的発想が少しでも働く余地があったならば、これだけの軍事力はもはや必要なくなったということで、削減する考えかたが導かれるわけですけれども、アメリカにおいては牢固とした「力による」平和観が支配しているために、とにかく軍事力は必要という結論が先にあって、では何で必要なのか(具体的には新しい脅威とは何か)ということを後追い的に考えるということになってくるわけです。

先ほど申し上げましたように、クリントン政権ではその宿題を果たさないままになっていました。そしてブッシュ政権も9.11が起こるまではいわばさまよい続けていたということです。何のための軍事力保持かということについては9.11まで彼らとしての答えを見出せなかった。逆に言えば、9.11が彼らに対して、これだという敵を見つけ出すことを可能にしたわけです。つまり、国際的なテロリスト、あるいは国際的テロリズムと結託するごろつき国家(ならず者国家ともいいます)、アメリカの覇権に対して挑戦するごろつき国家をもって、アメリカにとって、21世紀において対決しなければいけない脅威と認識するということになりました。

次の問題は、そういう国際的テロリズム、あるいはごろつき国家、ごろつき国家とはイランであり、当時のイラクであり、北朝鮮、リビアなどであったわけですけれども、こういう国家とどのようにして対抗していくのかという方法論の問題になります。この場合、常識的に考えれば、テロリズムあるいはテロリストに肩入れしているとアメリカがみなしたごろつき国家の軍事力とアメリカの軍事力を対比すれば、とうてい喧嘩にならないわけです。要するに彼らがアメリカに対して真正面から戦うはずもないし、戦える力もないのは明らかであります。しかし、それに対してなぜ、脅威を感じなければならないのかということになります。

そうすると、そこで格好の材料を提供したのが9.11だったわけです。アメリカが油断すると、彼らはその隙を狙って襲ってくる。9.11のときにはわずか3機か4機の民間飛行機でも、ミサイルの役割を果たした。そしてそれによってアメリカは甚大な被害をこうむったではないかと。要するに、21世紀の新しい敵はいつどこで何を仕掛けてくるかわからない、そういう脅威なのだということです。そういう形で脅威認識が次第に形をとるということになりました。そうすると、いつ、どこで、何を仕掛けてくるかわからない脅威に対して、どのように対抗するのかということになります。そうした場合、いつ、どこで、何を仕掛けるかわからない敵がアメリカに対して仕掛けてくるのを待って対応するのであれば、それは9.11の時のように、とんでもない被害を招かざるを得ない。だから、待っていたのでは駄目だということになる。必要なことは、アメリカに対して攻めて来るかもわからない敵を探し出して、そして彼らが攻撃を仕掛けてくる前に、こちらが先手を取って相手を攻撃するという論理が出てくるわけです。これが、ブッシュ大統領が推進した先制攻撃戦略の要諦であると私は理解しております。

そしてその場合に、敵は、いつ、どこで、何を仕掛けるかわからないわけですから、アメリカは世界的に警戒態勢を強めなければいけませんしかも、ソ連というような相手の時は、力と力のぶつかり合いという性格が濃厚だから、とにかく重厚長大の軍事力が求められていたわけですけれども、新たな敵は非常にフットワークが軽いと考えられますし、どういう手段でやってくるかわからないということでありますから、アメリカとしても、ありとあらゆる攻撃の可能性に対応できるような、非常に柔軟な戦力構造を世界中に張り巡らせることが必要になるということになります。それがアメリカにおいて、今日本でも岩国基地で進んでいるような在日米軍再編という形で、それが世界規模でアメリカ軍の戦力を再編するという政策が2003年から猛烈な勢いで進められてきたのです。

今日は岩国基地のことを申し上げる場ではありませんけれども、一言だけ触れさせていただくならば、この岩国基地問題というのは、決して中国新聞が盛んに報道するような、基地騒音の問題に、矮小化されるような問題ではありません。それは米軍の世界規模での再編強化の一環であり、その中で岩国基地が嘉手納をしのぐような極東最大の発進、侵略基地になるということであり、アメリカの先制攻撃戦争の第一線基地になるための再編が行われようとしている、というのが岩国基地再編問題の本質であります。

私は歯がゆい思いで見ていたのですけれども、そういう本質的な問題がまったく取り上げられず、岩国の市民の方にとって当面する問題で最大のものは騒音問題であるというふうになって、騒音問題のことしか胸に響くような議論ができないという状況が出来上がってしまったと思うのです。そういうふうに岩国基地問題が矮小化されてしまった結果、騒音問題と市の財政破綻問題とどちらが重要か、という相手側陣営のつくり出した土俵に乗せられてしまうということになってしまいました。そうすると、騒音か、財政健全化かということになってしまって、それで結局相手の陣営が漁夫の利を得る結果になったのではないかと私は考えるわけです。

しかし、もし、私がこれまでお話してきましたように、この岩国基地再編という問題が、まさにブッシュ大統領が推進した先制攻撃戦略を実現するための重要な布石の一つであるという理解が市民の間に浸透したならば、岩国市長選挙がもっと全国的な問題として位置づけられたであろうし、その結果、もっともっと強力な全国的な支援の輪が広がって、岩国市長選挙を有利に戦えたのではないかと思うのです。聞くところによれば、確かにそういう問題意識を持って現地に入った人もおられたそうです。北は北海道から、南は沖縄まで、いろいろな人が現地に応援におもむいたということは聞いておりますけれども、それにしても、元々米軍基地と共存しながらやっていくという岩国市の中途半端な姿勢も災いして(井原候補の基本的スタンスは「これ以上の基地負担は断る」というものでした)、力が及ばなかったということがあると思います。

しかし、2000票弱の僅差で敗れた状況は、いくらでも逆転できる可能性を持っていたと思います。例えば私が住んでいる広島市のことだけを申し上げても、私はこう思っているのです。もし、国際平和都市を自ら標榜し、平和というものを市にとってのキーワードにしている広島市が、岩国基地問題のそういう軍事的、世界的な重要性ということをしっかり認識し、岩国基地問題は広島にとっても自分自身の問題であるから一言なかるべからずとして、岩国における米軍再編は絶対受け入れられないということを、岩国市民に向かってだけではなく、全国に向かって発信していたらどうでしょうか。得票率でいうと、51%対49%だったそうですけれども、広島の明確な意思表示があったならば、この2%を逆転するのはわけなかったであろうと思います。

そういう意味で、本当に私たちは今回の岩国市長選挙でアメリカのブッシュ大統領が進めてきた先制攻撃戦略に大打撃を与えるチャンスを残念ながら逸してしまったということになると思います。しかし、この問題につきましては決して今この時点で勝負がついたということではありません。むしろ、当選した福田市長も、要するに49%の反対票の重みということを無視することは到底できないはずです。まして、いくつかの世論調査を見ると、福田候補に投票した人の中でも過半数の人が基地の受け入れに対しては「やむをえない」、ないしは「反対」という人がゆうに60%を超えていたという数字があります。したがって、岩国問題についてはまだまだ勝負がついたわけではないということを確認したいし、したがって、私たちは今後も岩国の問題に、アメリカの戦略というかかわりで注目をはらっていきたいということを申し上げたいと思います。

5.「力による」平和観②:中国脅威論と北朝鮮脅威論

次に、「力による」平和観と対決する上で、私たちがどうしても向かい合うことが求められるのは、いわゆる中国脅威論と北朝鮮脅威論であります。日本国内で盛んに改憲派の人たちを中心にして唱えられているのは、軍事力を増大させる中国は日本にとって脅威であるとか、中国が攻めてきたらどうするとかの類の議論でありましょう。あるいは金正日という人物は何をするかわからない、だから北朝鮮が攻めてこないとは限らない、それに対して備えがなくていいのかという形の議論が行われているのは、皆さんもご存知でしょうし、そういう議論に対してどう答えればいいのかということで、少なからず頭を悩ましておられる方もおられるのではないかと思います。

この点につきまして、私がレジュメで書いておきましたことは、要するに、アメリカが考えている中国の脅威あるいは北朝鮮の脅威の中身と、日本の、今私が紹介しましたように改憲派の人たちが盛んに宣伝する中国の脅威あるいは北朝鮮の脅威というものの中身との間には、ものすごい違い、ギャップがあるということであります。

まず、アメリカが中国の脅威をどういう意味で言っているのかということでありますけれども、アメリカは確かに中国の軍事力増強が著しいということを警戒的に指摘しております。しかし、具体的にアメリカがなぜ中国を警戒しなければいけないかということになると、そこにおける根拠というのは、第一に、そして基本的には台湾問題がらみということであります。台湾問題というのはどういうことかといいますと、ご承知のように台湾には陳水扁(ちんすいへん)という総統に代表されるように、台湾の独立を目指す勢力があるということと深く関わっております。この台湾の独立ということについては、台湾は中国の不可分の領土であるとする中国が絶対に許さない、認めないということであります。結論から先に言ってしまえば、中国は、台湾が独立という方向に走らない限りは、今後かなり長い期間にわたって、現状維持が確保されればいいという考え方です。しかし、台湾が現状維持に満足せず、独立を宣言するような事態には、武力行使する可能性を排除しないとしています。当面の問題は、この3月に行われる総統選挙におきまして、対中平和共存を掲げる馬英九(ばえいきゅう)が勝利すれば台湾海峡が波立つことはないでしょうが、独立派の候補が勝つ、あるいはその総統選挙の際に陳水扁がやろうとしている国民投票(台湾として国連に加盟を申請することの是非をめぐるもの)で独立派が多数を占めてしまうような結果が出るということです。そうした場合に、アメリカがどういう立場を取るかによっては、台湾海峡情勢は一気にきな臭くなる可能性があります。

アメリカの当面の本音はやはり現状維持です。しかし、仮に台湾が独立を宣言・選択した場合にはどう出るかということになると、アメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣して台湾を防衛する行動に出るだろうというのが一般的な見方です。ということは、台湾の独立をめぐって米中の軍事激突は避けられないということになります。そういう意味で、アメリカは中国との間で戦争の可能性がある、中国は軍事的脅威になりうると認識しているということです。私たちがしっかり確認したいのは、アメリカが考えるのはそういう台湾有事のシナリオに限定しての中国脅威論ですから、日本において盛んに言われているような中国が軍事力を増強している、日本を攻めてくるかもしれないというような形での中国脅威認識とはかけ離れているということです。

要するに、台湾がしゃにむに独立に走るようなことさえしなければ、米中の軍事激突はありません。アメリカも好んで事を構えようという気持ちはないのです。しかし、台湾が暴走する可能性はあるということをアメリカは確実にシナリオの中に入れている。なぜならば、アメリカの議会あるいは日本の国会を中心にして、台湾の独立を支持し、そそのかそうとする人たちがかなりいるわけです。ですから、台湾はその力を頼って独立に走るという可能性がある。そうなってしまったときに、アメリカは台湾を捨てて中国との友好を選ぶよりも、台湾を防衛するとして中国と軍事的に事を構えるという可能性の方が大きいと考えられるのです。

したがって日本の私たちとしては、まず、「中国が日本に攻めてきたらどうする」というような議論をふっかける人に対して言うべきことは、アメリカだって中国が日本に対して戦争を仕掛けてくるという戦争シナリオは持っていないという事実関係を明らかにすることです。これは幾多のアメリカ側の文献が証明しておりますから、間違いのなく言えることであります。その次に私たちが反撃として指摘するべきことは、要はアメリカが中国と戦争する状況を生まないようにすればよいということです。

具体的には、仮にアメリカが中国との間で戦争をしようとしても、戦争発動の拠点である在日米軍基地が利用できなければ戦争できないわけですから、在日米軍基地を使用することを日本が認めないという立場を堅持すればいい、ということです。アメリカが戦争を発動できなければ、中国が、アメリカと手を組む日本に対して反撃の手を伸ばすということもあり得ない。要するに、有事法制や国民保護計画でいっている武力攻撃事態は生まれる可能性がないということです。ですから私たちがアメリカをしてどんなことがあっても中国との戦端を開かせない、具体的には在日米軍基地を使わせないという決意を固めれば、中国との間での戦争の可能性を考える必要はまったくない、ということなのです。

以上の日本の断固とした立場がはっきりすれば、アメリカとしては中国との間で軍事的に事を起こすことができないことを認識せざるを得なくなりますから、台湾が独立に走ること必死になって止めに入るでしょう。つまり、私たちは「力によらない」平和観に立脚した外交によって問題を解決するという展望を、非常に現実的に視野におさめることができるようになってくるということであります。

もちろん私は、中国が日本に対してミサイル攻撃を行ってくる可能性がゼロとは言いません。たしかにあり得ることです。それはどういうときかといえば、アメリカが中国に対して台湾問題をめぐって戦争を仕掛けて、中国が応戦し、戦争がエスカレートして、その結果、中国が日本にある米軍基地あるいは米軍に協力する日本に対してミサイルで反撃してくるという事態です。まず始めに中国に近い沖縄あるいは九州が中国のミサイル攻撃の対象になるということを覚悟しなければならないと思います。

最悪なのは、戦争が日本を巻き込んでエスカレートしても、中国があくまでアメリカに対して屈服しないということがわかれば、アメリカはある段階、つまり日本が相当な打撃を受けた段階で、アメリカが自らに害が及ぶ前に中国と休戦の手を打つ可能性が大きいということです。そういうことを考えると、私たちは、米中戦争でもっとも貧乏くじを引くのは日本であるということを理解することができるわけです。そういうことを考えますと、改憲派の人々が唱える中国脅威論の虚構性というのは、すでにお話ししたように明らかであるし、その虚構に過ぎない中国脅威論に躍らされてアメリカのいいなりになるということの危険性もまた明白であって、要するに「力による」平和観に振り回されてはならないということがわかると思います。

次に北朝鮮脅威論でありますけれども、やはり中国の場合と同じく、アメリカがまず何を考えているかということをはっきりさせることが重要です。アメリカのブッシュ政権が考えてきたことは、イラクに対するのと同じで、要するに北朝鮮が何かをしでかす前に先制攻撃の戦争で金正日政権を倒す、ということです。アメリカは、北朝鮮が血迷って日本に対してミサイル攻撃を仕掛けてきて始まる戦争というシナリオは一切持っていません。アメリカ及びアメリカに協力しようとする日本の指導者が考えているのは、アメリカが北朝鮮に対して戦争を仕掛けると、北朝鮮が泣き寝入りせず、ゲリラを日本に送り込むとか、あるいは核ミサイルを日本に向けて発射するとかという可能性があるということです。それが国民保護計画で武力攻撃事態として書かれているものであります。これは決して、何度も言いますように、改憲派が声高にいうような、北朝鮮が戦争を仕掛けてきたらどうするというような事態ではありません。そういう点を踏まえれば、ここでも非常に明らかなことは、アメリカが北朝鮮に対してイラクに対して行ったような先制攻撃の戦争を仕掛けなければ、北朝鮮が血迷うことなどはありえないということです。

しかし、ために議論をする人は、金正日ならわからない、彼はとにかくわけのわからない人間だから、というふうにいいます。私がこの種の議論に対して指摘したいのは、広島・長崎を体験した私たちが、なおこういう古い戦争観にとらわれるのですかということです。何を申し上げたいかというと、1941年当時の東条英機と2008年の金正日とを分ける決定的な分水嶺というのは核兵器の存在の有無であります。1941年の東条英機は、日本全土が広島・長崎にさせられるという心配をする必要がなかった。だけど、今の金正日は、日本よりもはるかに国土も小さいし、そういう国に対してアメリカは数発の核兵器で北朝鮮を地上から抹殺することができます。そういうことを金正日は考えざるを得ないわけです。仮に北朝鮮が血迷って日本に対してミサイル攻撃を仕掛けたら、次の瞬間に自分たちは露と消えるということはわかっているわけです。そういう意味で広島・長崎の原爆体験は、全世界的に共有されています。

非常におかしなことは、広島・長崎を体験した私たち日本人が、いまだに、北朝鮮が攻めてきたらどうするとか、金正日はわけのわからない人間だから何をしでかすかわからないとか、そういう幼稚を極めた考え方にとどまっているということなのです。ということは広島・長崎が私たち多くの日本人の思考の中に入っていないとうことなのです。そこが私は非常に大きな問題だと思います。ですから、私は100%断言しますけども、金正日がある日突然に日本に対してミサイル攻撃を仕掛けてくるということはあり得ないということを皆さんにも是非考えていただきたいと思います。いずれにしましても、この中国脅威論と北朝鮮脅威論というのは、本当にためにする議論であります。その本質は、日本全土をまたにかけた在日米軍の再編、さらには日米軍事同盟の一層の一体化、強化を正当化する国民向けの説得材料に使われているということです。

国民保護計画について触れさせていただいた機会に、広島市の国民保護計画策定の動きについて一言触れさせていただきます。今、広島市でもこの3月末をめどにして国民保護計画を作ろうとしています。その中では、広島市が特別に設けた専門検討委員会が、核攻撃があったら防ぎようがないという結論を出しているにもかかわらず、5箇所ないしは6箇所で広島市に核攻撃があったらどうするかという対策について書いています。これでは一体ノーモア・ヒロシマの訴えはどこにいってしまったのかということです。ノーモア・ヒロシマといいながら国民保護計画を作るというのは、完全な精神分裂症です。そう思わざるを得ません。しかも、国民保護計画を作るに当たって広島市が言い訳しているのは、もし武力攻撃になったら、それに対する備えをつくっておくことは市としての責任であるということなのです。そんな馬鹿なことがあると思いますか。いま私が申し上げたように、中国や北朝鮮が先手をとって攻撃してくることはあり得ない。あくまでアメリカが仕掛ける戦争に対する反撃しかあり得ない。そうだとしたら、アメリカに戦争をさせないために全力を傾けるということがノーモア・ヒロシマを訴える広島市の最大の務めではないでしょうか。もし広島市が全国に向けてノーモア・ヒロシマを発信し、したがって国民保護計画は作らないとの立場を明確にすれば、私は巨大なインパクトを全国に与えると思うのです。

それだけの重みを客観的に広島は持っています。私は3年前まで東京におりましたので、そういう広島の平和発信基地あるいは平和の灯台としての日本における重みというのを感じています。また、それを感じたからこそ私は、広島平和研究所の職をオファーされた時に喜んできたわけです。ところがその広島が岩国について発言しない、北朝鮮脅威についても発言しない、中国脅威についても発言しない。そして国民保護計画を作るという。

では一体、日本のどこの地がこの日本をして戦争をしない国に徹するための拠点になることができるのでしょうか。日本広しといえども、広島、長崎、そして米軍基地が集中している沖縄と神奈川、この4つの地が本気になって平和、反戦平和を訴えなかったら、この国はどこへ行ってしまうのかということを私は強く感じています。特にそういう意味で、広島の重要性というのはどれほど強調しても強調しすぎることはないと私は思っています。

6.「力による」平和観③:ポスト・ブッシュのアメリカの対日政策

3つ目の「力による」平和観の代表として取り上げたいのは、今、ブッシュ政権の先制攻撃戦略が破綻をきたしているというときに、アメリカ国内で、その破産、破綻をどのように受け継ぐかという形で様々な議論が行われている点です。今年行われる大統領選挙の中でも、この問題が大きな争点となっています。つまり、ポスト・ブッシュの大統領がいかなる世界戦略、東アジア戦略を考えるだろうかということです。その点に関しまして、昨年(2007年)2月に出された第2次アーミテージ報告というものが参考になります。といいいますのは、2000年の10月にこのアーミテージという人がいわゆるアーミテージ報告というのを出して、そこでの内容がブッシュ政権の対日戦略、或いは、対東アジア戦略の指南書になったわけです。アーミテージ自身も第一期のブッシュ政権では、国務副長官として対日政策を切り盛りしました。したがって昨年出された報告のことを第2次アーミテージ報告とも呼ぶわけなのです。その中では、第一のアーミテージ報告で出した内容は、ブッシュ政権の対日戦略の指南書になったと誇っているのです。そのアーミテージが、ブッシュ政権の7年間の対外政策を総括して、次のアメリカの政府を担う指導者に対して、日本に対する政策を含め、対アジア政策を提言したというのがこの第2次アーミテージ報告であります。

レジュメでもまとめておきましたけれども、まず、基本的な特徴というのは3つほどありまして、一つはブッシュ政権の対テロ政策を実質的に否定しているということです。テロというものは軍事力で対抗できるものではなくて、やはり、警察力とか法の力で対抗すべきものだという、本来当たり前のことですけれども、ようやく常識的な次元に立ち戻っています。しかし、そうはいっても、それで「力による」平和観を見直すことになったのかというと全くそうではありません。むしろ、伝統的な権力政治、バランス・オブ・パワーという考え方に復帰するということを言っております。そして、そういう中で2000年に出したアメリカの対日政策の方向性は正しかったし、今後も続けていくべきだということをいっています。

具体的にどういうことかといいますと、日米軍事同盟を世界規模の攻撃的な同盟に変質させ、日米の軍事一体化などを進めることによって強化することは正しいし、やっていかなければいけないとしていますし、そういう方向性を実現するうえで障害になるのならば、日本国憲法は変えるべきである、という主張です。確かに、第9条を変えるか否かは日本国民の決定することであるとは断っていますが、しかしアメリカは自らの考え方を明らかにすることにためらってはならないともいっているのです。つまり、非常に明確に第9条を変えてほしいという立場を明らかにしているということです。それが大きな特徴であります。

そういう中で脅威認識はどういう中身になっているかといいますと、テロというものをいちばん筆頭に掲げたブッシュ政権の脅威認識は清算する立場を明確にしているわけですけれども、こと、アジア太平洋に関しては、中国、特に台湾問題については引き続き油断を許さないといっていて、やはり、台湾問題をめぐって米中の軍事衝突があるということを予見した内容になっています。特に、この中で私が特に注目したのは、アメリカは今のところは台湾の法的地位に関して現状維持がいいという考え方だが、台湾の民意がいつまで現状維持でいいと思うかはわからない、そういう将来に備えておかなければならない、という言いかたをしていることです。つまり、台湾がもし独立を選択するならば、アメリカもそれに応じた政策をとらなければいけない、と示唆しているのです。それは、今にもまして中国と軍事対決をするという方向になってくると思います。

それから北朝鮮に関しては、今6者協議の場で扱われているのですが、報告はその先行きに対しては非常に悲観的な見方です。北朝鮮が非核化に応じるとは思えないという予断があり、そういう北朝鮮とどういうふうに関係を持っていくのかが課題だとしています。

したがって、中国との戦争の可能性、北朝鮮との戦争の可能性を明らかに残しているということです。ということは、つまり中国、北朝鮮との戦争を考えれば、その意味においてアメリカの作戦基地、発進基地になる日本の軍事的重要性は全然変わることはないということになります。私は、次の大統領がオバマになろうとクリントンになろうとマケインになろうと、今の日米軍事同盟強化の路線は変わらないだろうと思います。確かにオバマの場合は、核兵器などの扱いについては、従来のアメリカの政治指導者に比べると注目すべき内容がないわけではありません。しかし、世界規模でのアメリカの軍事力展開ということになると、基本線はブッシュ政権と基本的に変わらないと見ておかなければならないと思います。

特に私たちが考えなければならないのは、とにかく、アメリカにとって日米同盟の日本ほどアメリカにとって安あがりで、しかも忠実な言いなりになるパートナーはいないということです。したがって、アメリカ側からこのうまみが大きい同盟関係を見直す動きはまず出てこないでしょう。それどころか、対日要求はますますエスカレートしていくと思います。だからそれに対して、私たちはそうはさせないというためには、やはり私たちの「力によらない」平和観の立場からの問題意識を格段に高めなければならないということになってくると思います。

第2次アーミテージ報告には、もう一つ、日本の保守政治層の危険性に対する危機感がまったくないという特徴があります。アーミテージを代表とするアメリカの対日政策に深く関わっている人々は、日本において進行している右傾化という問題の危険性に対して、本当に目が向いていません。日本の右傾化が進む時には、日米の価値観の衝突というのが起こりうるわけですけれども、そういうことをぜんぜん気にしていない。というのは、彼らにはおそらく自信があると思うのです。もし日本がアメリカに刃向かうようなことがあったならば脅しあげればいい。そういう認識が根底にあるがゆえに、日本の国内で進行している保守化傾向、反動化傾向というのを黙視し、黙認している。日本国内で何が起ころうと、アメリカに対して忠実な同盟者である限りはたいていのことには目をつぶり、許容するということなのだと思います。

7.「力による」平和観④:国連に対する「軍事貢献」論

4つ目の問題は、私たち国民の間に強い国連信仰、「国連は正義の味方」とする見方を使った国連を絡ませた「軍事貢献」論というものであります。要するに、国連が組織するあるいは承認する国際的な軍事力行使、武力行使というのは正義の戦いであるから、それに対して日本が協力するのは当たり前という考え方であります。そして、その国連に軍事協力ができない障害が憲法第9条であるから、第9条は変えるべきであるという議論であります。この主張を強力に打ち出しているのは、民主党が2005年に出した憲法提言です。その内容についてはレジュメでも詳しく紹介してあります。ズバリ言えば、国連憲章にあわせて日本国憲法を作り変えるという考え方であります。しかし、私が申し上げたいことは、国連安全保障理事会(安保理)が定めることはすべて正しく、それに対して日本が協力するのはあたりまえという主張には、いくつかの点で大きな問題があるということであります。

まず国連憲章は、確かに一定の場合に国際的な軍事行動をとるということを定めています。しかし、国連加盟国がその軍事行動に参加するかどうかは、ひとえに安保理と当該加盟国との特別協定によって決めるということになっています(憲章第43条3)。その特別協定というのは、それぞれの加盟国が自国の憲法手続きにしたがって批准するということになっています。各国の憲法手続きに従うという規定は、アメリカのイニシアチウブで入った規定です。要するに、アメリカでは戦争権限というのは議会が持っていて、議会の同意なくしてアメリカ政府が自国の軍隊を国連軍に提供することをできないということを背景にしている規定です。日本国憲法の場合、第9条があり、第9条はもともと戦力も持たない、交戦権も持たないといっているわけですから、国連との間に軍事的な特別取り決めを結ぶそもそものいわれがないわけです。思い出していただくとお分かりの方もおられるように、日本は国連に加入するにあたって、そういうことについて明確に意思表示をしています。ですから、たとえ国連がやるあるいは認める軍事行動であっても、日本がそれに参加しないということは、なんらやましいことではありません。それは、国連憲章そのものにおいて正当に認められていることであります。

もう一つの問題はもっと本質的なことですが、国連がやること・認めることが常に正しいかということです。実は国連は往々にして間違ったことをやっています。特に、米ソ冷戦が終わって、国連が唯一の超大国となったアメリカの強い影響力の下におかれるようになってからは、アメリカの思い通りに動く国連という性格を非常に強めています。ですから、アメリカが国連のお墨付きをもらい、あるいは国連の名義を借りて、自らが行う戦争を正当化しようとするときには、往々にして安保理はそのための決議を作るのです。実は今、小沢一郎氏の発言で注目されている、アフガニスタンに展開している国際治安部隊(ISAF)というのがあります。レジュメで詳しく書いておきましたので後で見ていただきたいのですが、要するに、まずNATOが、「私たちはアフガニスタンに軍隊を送る用意があります」という決定をし、安保理に対して、「あなた、私たちに来てくださいという決議を作りませんか」という誘いをかけているのです。それに応じて安保理が、「じゃあお願いします」という決議を作りました。それに応じたISAFが国連の認めた部隊としてアフガニスタンに展開しているというのが実状なのです。

それをもっと私たちにとって身近なケースに即して考えると次のようなことが起こりうるのです。例えばアメリカが、北朝鮮に対する武力行使を日本と一緒になってやろうと思うとします。その場合に、安保理に対して「私たちは北朝鮮に対して武力行為をする用意がありますよ。あなたがそれを認める決議を作ってくれさえすれば、私たちで後はやりますから、どうぞお任せください」と持ちかけます。そうすると安保理が「はいはい」といって決議を作る。そうするとアメリカと日本は、「安保理決議があるぞ、みんなに文句は言わせない」と言って、北朝鮮に対して武力を行使するということです。もちろんこの例は、現実には常任理事国の中国やロシアが反対するから、なかなか日の目をみるということはないと思いますけれども、それほどに無茶なことをすでに安保理はアフガニスタンについてはやっているという証拠にはなるのです。ですから、安保理が決めたことは従わなければいけないという議論に関して、私たちが思考停止に陥り、身をゆだねるということは、いかに愚かであり、危険であるかということがお分かりいただけるのではないでしょうか。

以上「力による」平和観の具体例として4つのケースを挙げましたけれども、力による平和観というものは本当に大きな問題があるし、やはり私たちとしては受け入れられないものであるということがお分かりいただけると思います。そして現実に、「力による」平和観が現実に国際社会に何を生み出したかというと、圧倒的に多くの場合は、混乱と無秩序であり、もっと大きな悲劇であるということを直視すれば、私たちにとって重要なことは、「力によらない」平和観、具体的には憲法第9条を世に広めていくということになるということに確信をもつことができるのではないでしょうか。

8.改憲論に立ちむかうために

時間が限られてきましたので、私たちの憲法論の足腰強化と、暮らしの中の憲法ということで、一言二言ずつ申し上げておきたいと思います。最初に確認しておかなければならないのは、私たちは改憲問題で正念場を迎えているという、厳しい現実認識をもたなければいけないのではないかということです。やはり、国民投票法ができてしまったということは、改憲を発議し、国民に態度決定を迫るイニシアチブを改憲派が握ったということを意味していることは間違いのないことだと思います。ですから彼らが、勝機ありと見たときには彼らは改憲を仕掛けてくるということです。もちろん国会議員の3分の2の多数による発議というのは決して簡単な条件ではありません。しかし、去年の暮れの福田首相と民主党の小沢代表との間で画策された大連立の動きを見ればわかるように、改憲派が時機到来と判断すれば、いつ何時政界再編が起こっても不思議ではないと思います。そういう意味で、来たるべき衆議院総選挙というのは非常に重要な意味を持つというようになると思います。

私はここで改憲に反対する政党が、10、20という単位で当選者を増やすということまで高望みしません。護憲を掲げる政党が、得票率においてあるいは議決数において、数パーセント、数議席増えるということだけでも、改憲反対の民意を強烈に示すことになると思うし、格段に状況を改善することができると思います。そういう意味で、死に票になることを恐れずに、私たちはやっぱり改憲勢力に属する政党、或いは候補者に投票しない、改憲反対を明言する人に投票するということを、やはり自分自身に課す最低限の条件にしなければならないということを、私は皆様とともに確認したいと思います。

またレジュメにも書きましたように、憲法をめぐる状況は決して悲観し、絶望する必要はありません。全国的に広がっている9条の会の躍進があると思いますし、あるいは、いろいろな世論調査を見ても、改憲に対して反対・慎重な人たちが増えています。むしろ、以前、数年前のほうが、「改憲になったらいずれ徴兵制ですよ。そんなことに耐えられますか」といっても、「そんなの将来の話だから心配する必要がない」と無関心を決め込む状況があったと思います。しかし最近では、「改憲がいつ強行されるかわからないよ」という言葉に対し、ますます多くの人々がもっとリアルに反応するし、「改憲のあかつきには徴兵制だよ」と言えば、これにも敏感に反応する人々が多くなっているという状況が生まれているということは、決して私たちの条件が厳しいものだけではないということを物語っていると思います。私たちの考え方・状況判断に確信を深め、私たちは「改憲ノー」と言う人たちを増やすということが大きな課題になってくるということを申し上げたいと思います。

「改憲ノー」の人たちを増やすという点では、二つの大きなグループに注目していただきたいと思います。一つは、自衛隊、日米安保には賛成だけれども、これ以上日本は軍事的に海外に出て行くことはどうかと思うという意味で、第9条はあったほうがいいという人々と、やはり私たちは手をつなぐという方向で考えていく必要があると思います。もちろん、そういう人たちとの間に「自衛隊は合憲か違憲か」、「日米安保は合憲か違憲か」という議論になるときには、私たちの立場をはっきりさせなければいけませんけれども、しかし、「第9条改憲反対というところでは一致できますね」というところで、私たちは小異を残して大同に就くという精神を持ち続けていく必要あると思います。

それからもう一つ申し上げておきたいのは、9条改憲には反対だけれども改憲全体としては賛成という人が国民の3分の2近くを占める状況をどう見るかということです。そういう人たちの非常に多くの部分が、新しい人権や環境権などが憲法に入るならば、憲法全体の改正には賛成という人が多いということです。そして、レジュメに示しましたように、確かに自民党の新憲法草案では新しい人権の規定がいくつか入っております。しかし、憲法第12条及び第13条を見ますと、今の憲法では「公共の福祉」と書いてあるところが、自民党の新憲法草案では、「公益及び公の秩序」という文言になっています。公益及び公の秩序というのは、政府のこれまでの有事法制審議の際における国会答弁などによりますと、それぞれ「国益」及び「国家の安全」を意味すると言っています。つまり、国益の前には人権はすべて制限されるということです。この第12条にいたっては、自民党新憲法草案では「国民の責務」という表題が掲げられています。基本的人権の章の総則的規定である第12条を「国民の責務」を定めるものと位置づけるということは、あらゆる人権が国益には服従するのだということです。ということは、新しい人権の規定を盛り込んだとしても、この第12条の規定によって国益や国家の安全が優先するということです。ですから、「新しい人権が入るならば憲法改正に賛成だ」という人に対しては、以上のことを丁寧に説明することにより、それまでの考え方を見直してもらう要に働きかけを強める必要があると思います。

その他にも、私たち自身のなかにある平和観のあいまいさ、というものを厳しく問い直すという自己検討作業が必要だということ、それから私たちの側において健全な国家観がないということ、それをどうするかという問題についても、レジュメでは扱っております。これは、もっと詳しくお話したいと思っていましたけれども、とても話し終えることができないのが残念であります。国家についてだけ一言申し上げますと、私たちは過去の一連の戦争において国家によって散々な目にあわされた、したがって、国家というのは胡散臭い存在である、国家のことについて考えたくないという気持ちになっている。つまり、健全な国家観を持ち合わせていないという状況があると思うのです。それに対して、改憲派の人たちは、古い国家観、戦前の国家観をそのままその持ち越してきており、今、この自民党新憲法草案と称するものの中で、憲法第12条及び第13条を仲立ちにして、私たちにその古くさい国家観をまた押しつけようとしているわけです。そうしたときに、私たち自身にひき続き健全な国家観がないとすると、多くの国民は、何らの国家観をもたない私たちの主張に対して現実味を感じないのではないでしょうか。そうすると、古くさくても国家観というものを提起できる改憲派の主張の方がどうしても国民に受け入れられてしまうということがあると思うのです。

私が申し上げたいのは何かというと、以前のような「国家を個人の上に置く」国家観ではなくて、「個人を国家の上に置く」国家観を我がものにする必要があるということです。要するに、国家をして我々主権者のしもべにさせる、そういう国家観ならばなんら私たちの人権・民主の考え方と矛盾しないわけです。むしろ、世界連邦政府ができるとしても、先の先の話ですから、今後とも国際社会は国家を単位にして動いていきます。ですから、私たちが国際社会に積極的に関わろうとすれば、非常に多くの部分で国家を通して国際社会にかかわっていくということなのです。そういう意味では、やはり国家というものについて明確なイメージを私たちが持たないと、改憲勢力の攻勢に対して確固たる立場から応戦する立脚点をもち得ないのではないかということを申し上げたいわけです。決して私は偏狭なナショナリズムを鼓吹するわけではないけれども、健全なナショナリズムというのはあると思うのです。それを是非とも最後の問題提起として皆さんに考えていただけたらありがたいと思います。どうもありがとうございました。

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