他者感覚が真の平和の土台です

2007.10.20

日本女性会議の大会が広島で開かれ、「国際交流と平和」分科会でお話ししました。40分の時間であったため、かなりはしょったのですが、ここでは用意した原稿を掲載します(2007年10月20日)。

1.「国際交流と平和」分科会の意義

「国際交流と平和」というテーマの設定をした主催者に強い共感と敬意を表します。なぜならば、すぐ後で述べるように、分科会での問題意識は、「国際交流」の意味を人間レベルでとらえており、それは、平和の問題を考える上ではきわめて重要と思うからです。

なぜ国際交流と平和とが結びつくのでしょうか? 常識的にはごく当たり前です。平和と反対の紛争・戦争の多くは国と国とのいがみ合いで起こることが多いから、国際交流を密にすれば、相互理解が深まり、紛争やいがみ合いを未然に防ぐことができ、それが平和をもたらす所以であるからです。

しかし、私のお話の後のシンポジウムで発言されるパネリストの中には、「平和活動青年実行委員会(へーかつ)」の人もいて、彼の発言は被爆者とのかかわりに関するものだと承知しています。そうであるとすると、この分科会で扱う「国際交流」はもっと広い意味だということが分かります。ではどういう意味なのでしょうか?

「国際」という言葉・漢字が、この分科会の趣旨・目的に関する私たちの正確な理解を妨げる可能性があるかもしれません。私たちは、この分科会では、もっと広く、「私以外の人・人たち」つまり「他者」との「交流」と理解することが、分科会を組織した人たちの趣旨に即しているのでしょう。政治学者・丸山眞男の次の言葉は傾聴に値すると思います。
「内村鑑三が「人類ってのは隣の八っつあん、熊さんだ」といっている、その意識が本当の普遍です。人類というのは何かこう遠くはるかなところにあるのではなくて、隣にいる人を同時に人類の一員としてみる目ですね。これが普遍の眼です」(『丸山眞男集』⑪、p.218)。

このように他者を客観的、普遍的に見る眼を私たちは我がものにする必要があると思うのです。なぜならば、後で繰り返し述べるように、私たち日本人は、そういうふうに他者を見るのではなく、「ウチ」か「ソト」か、仲間かさもなければ無関係か(ひどいときには敵か)という仕方でしか他者を見ない傾向が強いからです。

それでは、「平和」の意味はどう理解するべきでしょうか。これまで、「平和」という言葉を無造作に使ってきましたが、実は「平和」という言葉の意味は実に様々です。そのことに深入りすると、それだけでも優に私の持ち時間をオーバーしてしまいます。

後のシンポジウムでのパネリストの方たちの準備されている冒頭発言の内容を事前にある程度教えていただいていますが、そこで皆さんの発言に共通した暗黙の理解は、他者を真に理解することが平和につながる、ということだと思います。私自身も、そういう意味で「平和」について考えることが多いので、今日はそういう意味で「平和」をとらえたお話しをしたいと思います。

2.「他者感覚」とは?

まず「他者」とは何でしょうか。簡単に言えば、「この世界は全部他者の寄せ集りです」(『丸山眞男集』⑪、p.173)、つまり他者とは「自分とまったくちがった世界に生きている人」(『丸山眞男座談』⑤、p.296)ということです。パネリストが主題とする被爆者、カザフスタンの人、コスタリカの人、イランの人はすべて私たちとはまったく別の世界に生きている、あるいは生きてきた人たちです。さらにお話しを進めていくにしたがって、「他者」とはもっと深い意味を持っていることをお話しすることになりますが、とりあえずは、そういうごく常識的な理解でいいでしょう。私たちにとってまず何よりも重要なことは、自分とはまったくちがった世界に生きている人がいるということをしっかり意識するということです。

どうしてそう理解することが重要なのでしょうか。それは、日本人の私たちはとかく「群れる」ことが好きだし、「群れる」ことで安心感を持つことが多いからです。「群れる」ということの核心は、仲間内意識(「ウチ」「ソト」意識)であり、集団意識であります。

逆にいうと、「群れ」から外れているとみなすものに対しては、私たちは往々にして「シカト」します。それでもその人が毅然としていると、私たちは「いじめ」をし、さらには「差別」するに至ります。ひどい場合には、最近のホームレスの人たちに対するいわれない暴行に見られるように、暴力を加えることもあります。つまり、群れから排除するということなのです。それらはすべて、仲間内意識、集団意識の裏返しです。その根底にあるのは、「自分とまったくちがった世界にいる存在」を認めないという気持ちの働きです。

もちろん、シカト、いじめ、差別、暴力は日本人の専売特許ではありません。しかし、群れることが好きであること、群れると安心感が増したり、気持ちが大きくなったりするということは、やはり日本人に著しいことは間違いないと思うのです。

このことを考える上で、一つだけ例をあげます。アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキ、ナンキンと、すべて大量虐殺という点では共通しています。しかし、組織的、政策的に行われたアウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキに対して、ナンキンの場合は、烏合の衆と化した日本軍兵士の集団心理に基づく暴走という点に大きな特徴があります。もちろん、それを制止しようとしなかった軍指導者の責任は重大ですが、群れる日本人の恐ろしい一面を示すものであることは間違いありません。もし当時の日本人兵士が他者を意識する気持ちを備えていたら、ナンキンは起こらなかったでしょう。

以上から分かるように、私たち日本人は、「他者」を他者として受け容れるということが苦手です。苦手というより、他者の存在をあるがままにまるごと受け容れるということを、なんとはなしに、しかし、強烈に拒絶する傾向が強いということだと思います。

日本人一人一人にそういう傾向があるだけではありません。日本という国家のレベルでも同じです。明治時代の脱亜入欧、明治以来のアジア侵略の歴史を見てください。自分たちより進んでいると認めざるをえない欧州に背伸びして追いつこうとする。追いついて欧州諸国の仲間入りがしたい。仲間内意識、集団への帰属意識が持てるようにしたい。それが「入欧」の意味です。

ではなぜ「脱亜」なのでしょうか。欧州より劣っている、日本より劣っているとみなしたアジアの国々、人びとと同列視されたくない。他者としてあるがままに認めることができないし、したくもない。そのためにはアジアとは手を切る。これが「脱亜」の意味でした。

「脱亜」の後にやってくるのは、アジア侵略でした。自分たちより劣っているとみなす相手を差別するだけでは足りない。戦争という暴力に訴えてでも自分たちのいうなりにさせたくなる。それが極端までいったのが、朝鮮の人びとに強制した「創氏改名」であり、日本語の強制であり、天皇の臣民になることを強制したことでした。

第二次世界大戦に敗北した日本は変わったでしょうか。パネリストの青年たちのように、日本の将来には大いに期待が持てます。「他者」を他者として自然に受け容れる気持ちを備えた日本人が特に青年の間で増えていることは確かであり、心強いことです。

しかし、手放しで喜ぶことはできません。戦後の日本外交を特徴づける対米追随は「入欧」の現代版ではないでしょうか。しかも、ズルズルべったりの対米追随外交を受け容れる日本人が国民の過半数を占める現実があります。これはどう見てもおかしくはないでしょうか。

また、広島に原爆を落としたアメリカの絶対に許すことのできない過ち、犯罪の責任を曖昧にしたままでやむを得ないと思う日本人が多いのはなぜでしょうか。物事には、人間として許していいことと許してはいけないことがあることの区別もしっかりしない日本人は多いのではないでしょうか。原爆投下は絶対に許されてはならないことだという認識をみんなが共有するときにのみ、核兵器を持ち、作り、使用することが絶対に許されないことだ、ということについて人類的な認識が確立するし、そうしてのみ、アメリカ以下の核兵器を保有する国々に対して核廃絶を迫る迫力ある根拠が得られるのだと、私は思います。

私は決して反米ではないし、原爆を落としたアメリカに報復しろ、と主張しているのではありません。しかし、これほどアメリカべったりのままの国は世界でも数少ないことは事実です。アメリカの原爆投下責任をはっきり問うだけの毅然さを持ち合わせていないのも、どう見ても異常です。アメリカと日本が真に和解するための大前提は、アメリカが自らの責任を認めることです。そのことを抜きにした和解などはありえないし、あってもならないのです。そういうことを正確に議論する環境もないという異常さを生んでいる日本の根本には、やはり「入欧」ならぬ「入米」の意識があると思います。

近年における「北朝鮮脅威論」や「中国脅威論」が多くの国民の支持を集めるのも異常を極めています。要するに、味方(「ウチ」)か敵(「ソト」)か、の見方しかできない。つまり、北朝鮮、中国という他者をあるがままに認めることができないし、しようともしない。これは「差別」の意識の働きだし、「排除」の意識の働きに他ならないのです。脱亜の姿を変えたもの、といっても誇張ではないのではないでしょうか。

こうして見てきますと、「他者」ということを真剣に考えることの意味の重要性、特に仲間内意識、集団意識にとらわれがち、よりかかりがちな私たち日本人にとって「他者」を他者として認める見方を身につけることの大切さは分かっていただけると思います。

しかし、「他者」を他者として認めるだけでは、まだ「他者との交流・交わり」としての国際交流ということにはなりません。簡単な話、一番手っ取り早いのは、そういう他者と交流し、交わるのは大変だし、面倒だから、他者として認めた相手とは交流しない、交わらない、という選択もあり得るわけです。現実に、国のレベルでいえば、江戸時代に鎖国政策をとった日本がそうでした。

個人のレベルでも同じです。今日のシンポジウムのパネリストの話から理解されると思いますが、自分とまったくちがった世界に生きている人と付き合うということは、並大抵の努力ではできません。誰もが手っ取り早い方が楽です。だから、これだけ交通手段、通信手段が発達した情報通信化の時代であるにもかかわらず、ひたすら自分の世界に引きこもる日本人がまだまだ多いという現実があるのです。

しかし、国としても、個人としても、もはやそれでは通らない世の中になってしまっています。通らないだけではない。それでは済まなくなっています。はじめの方で述べたように、「他者を真に理解することが平和につながる」という意味で平和をとらえた私たちである以上、自分の殻に閉じこもっているのでは、この分科会の主題である平和が実現できない、という大変なことになります。それでは、私たちには何が必要なのでしょうか。何が求められているのでしょうか。それは他者を他者として理解することです。つまり「他者感覚」を磨き上げるということです。そういうことができるように、人間には「知性」というかけがえのない資質が備わっています。

本能や感情に流されるような私たちであるならば、他者を他者としてあるがままに理解するという高度なことはできっこありません。しかし、私たち人間を他の動物から隔てる最大の要素は、私たちが本能・感情に押し流されず、高度に考えることができるという点にあります。つまり、知性があるということなのです。

知性とはどういうことでしょうか。これも丸山眞男によれば、「他者を内在的に理解する能力」(『丸山眞男座談』⑤、p.296)、あるいはもうすこし正確かつ難しくいえば、「他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」(『丸山眞男集』⑨、p.44)、もっとやさしくいえば「他者を他者として「なんだろう」という気持ち」(『丸山眞男集』⑪、p.176)です。このように他者を理解しようとする知性の働きこそ、他者感覚に他なりません。

日本人には、特に「他者感覚」が大切です。丸山眞男は、次のようにいっています。「日本は、長い間、同一民族、同一人種、同一言語、同一領土ということになっていて-これはどこまで歴史的「事実」かという問題よりは、そう考えられていた、という意識、そういう意識が事実あったという問題なのですが-、これは文明国のなかで非常に珍しい。だからそれだけ他者感覚が希薄になりやすい」(『丸山眞男集』⑪、p.173)。「日本が同質的なのは、それだけ安心して住めるので有難いわけです。けれどまさにその点が思考様式においては盲点を生んでいる。日本だからこそ「他者感覚」が非常に大事だ」(同p.175)。「意見に反対だけれども「理解する」-この理解能力が、他者感覚の問題です。これがないと全部自分中心の遠近法的な世界になる」(同)。ちなみに、「自分中心の遠近法的な世界」と丸山眞男が言っていることを、私は「天動説的な国際観」と言っています。

このように、「他者を真に理解する」ということは決して簡単なことではありませんが、すごく重要なことであることが分かるのではないでしょうか。丸山眞男も次のようにいっています。「自分を中心とした、…自分の家とか自分の「くに」とかを中心とした世界像から、こういう意味の「客観的」認識へ歩むのは大変なことなんです」(同、p.176)。「ほっておけば、自分中心の世界像の方がナチュラルですから、いつまでたっても他者認識にならない。だから日本のような同質的島国では、他者を他者として他者の側から認識する目を養うということが特に大事だ」(同)。「異質的な他者を内在的に理解するということは、他者を自分の精神の内部に位置づけることですから、それだけ精神の内部での対話が可能になるわけです。それによって、従来の自分を自分自身からひきはがすことができる」(『丸山眞男座談』⑤、p.304)。「自分の中に他者を住まわせることが精神的自立に通ずるので、そうでないとズルズルの環境ぐるみの自我主義になる」(同)。

丸山眞男の表現では、抽象的すぎて「他者感覚」ということがよく分からない、と感じられる方もいるでしょう。もう少しかみ砕いた私流の言い方で説明してみます。

「自分があの人の立場にあったら、自分はどのように思い、行動するだろう」では、「他者感覚」を備えたことにはなりません。なぜならば、自分の頭の配線構造つまり思考方法をそのままそっくり「あの人」、つまり他者の中に持ち込んでいるのだから、そんな自分は「あの人」の装いをまとった自分にしかすぎないからです。

それは人間関係だけではありません。国際問題でも同じことです。「日本人はとかく自分の像を相手に投影してしまうか、でなければ「関係ないや」かどちらかです。日本の明治以来の外国認識のあらゆる間違いはそこに根ざしている。中国に対する認識が根本的に誤っていたというのも、他者感覚がないからです」(『丸山眞男集』⑪、p.176)。

もっと具体的に考えてみましょう。「私が被爆者の立場にあったら、私はどのように思い、行動するだろう」という発想にとどまる限り、そんな私は、現実には被爆者ではない自分の殻を抜け出していない。他者である被爆者になりきろうとしていない。だから、他者としての被爆者のことが分かるはずがありません。

そうではなく、「自分があの人であったならば、あの人としての自分はどのように思い、行動するだろう」とまで突きつめて考えるとき、私たちははじめて「他者感覚」を備えることになります。被爆者がくぐり抜けた生き地獄、最愛の肉親や親友を助けることもできず自分だけが生きながらえてしまったという人間としての極限の体験、戦後の被爆者に対する日本という国・社会・被爆者でないものの冷たい仕打ち、そういう苛酷な体験を経て今日を迎えたこと等々への様々な思い、思考方法、思想、家庭環境、対人関係、歴史、文化等々をできるだけ理解することに努め、できる限り被爆者になりきろうとする状況において、はじめて被爆者として物事を見る目に近づくことになるのだと思います。他者感覚とはそういうものなのです。

他者感覚を完全に身につけることができるのでしょうか。もちろん、完全に他者になりきることはできない以上、「他者感覚」を我がものにするということは、不断に努力する過程としてのみあるのです。つまり、「他者感覚」は、環境(客観的条件)と訓練(主体的条件)の二つが相俟って備わったときにのみ身につけることに近づくことができるものだと思います。特に仲間内意識、集団意識がことのほか強い日本人である私たちは、不断にその努力をしなければならないのです。

環境(主体的条件)についていえば、いつも身の回りに転がっています。人間が社会的存在である以上、前に紹介した内村鑑三流にいえば、「八っつあん、熊さん」である他者と接する機会は常にあるわけです。しかし、仲間内意識、集団意識が常に忍び込んでくる私たちの社会、つまり「ウチ」「ソト」意識(「たこつぼ」型社会)の日本、「天動説」国際観の日本にいて自己中心型思考が当たり前になってしまっている日本そして日本社会という環境は、私たちが「他者感覚」を我がものを妨げる方向に働きます。現実に、自己中心的な発想をすることが多い日本人には「他者感覚」を持ち合わせていない人が多いのです。

だからこそ不断に「他者感覚」を身につけるための訓練(主体的条件)が大事になるのです。仲間内意識、集団意識に知らず識らずのうちに汚染されている日本人の私たち、自己中心型思考に慣らされてしまっている私たちは、「他者になりきる」自覚的訓練を不断に重ねることによってのみ、「他者感覚」を身につけることができるようになるわけです。

この後のシンポジウムで、青年のパネリストたちの発言から、皆さんは彼等が自らの環境に工夫を凝らし、さまざまな訓練を通じて「他者感覚」を我がものにしていっていることを実感されるに違いありません。

3.他者感覚は自分自身にも向ける必要がある

丸山眞男が「他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」を「知性の機能」として定義したのは、「現代における人間と政治」という文章の末尾においてでありました。この文章は、なぜワイマール憲法下の民主国家・ドイツでヒトラーの独裁・支配を防ぐことができなかったのか、なぜ1950年代初期の民主国家・アメリカでマッカーシイ旋風が起こってしまったのかという問題について考察したものです。なぜここでこの問題を考える必要があるのでしょうか。

実は、いま民主国家と言われる日本でも、再び全体主義が現れつつあるという問題を皆さんに考えてほしいという気持ちが私には強くあります。そういう日本はまた「戦争する国」になる危険性が大きいのです。そうなれば、この分科会の主題である「国際交流と平和」をまじめに考える条件、雰囲気は奪われてしまうでしょう。

そして、全体主義が日本を再び支配することを許さないためには、他者感覚を自分自身に向ける必要性があるという問題を考えてほしいという気持ちが私には強くあります。全体主義こそは、すべての人間を権力(国家)の奴隷にし、他者を真に理解する営みを根底から否定するものとして、「他者を真に理解することが平和につながる」という意味で平和をとらえる私たちにとって、その再登場を決して許すわけにはいかないのです。

民主国家では軒並み大衆社会現象が進んでいます。大衆社会では、一方で権力が国家に集中すると同時に、他方では大衆となった人びとは、「政治的無党派層」「政治的無関心層」と呼ばれるように、なかなか捕まえどころがなくなるのです。この人たちは自己中心型で他者に対して無関心になるということです。だから逆に、ヒトラー、マッカーシイあるいは小泉のような煽動型のタイプの指導者が現れて煽動的な政治手法に訴えると、ひとたまりもなく身を委ねやすいことになります。そういうふうに民主国家が全体主義国家になってしまうのを防ぐためにはどうしたらいいか、それが丸山眞男の問題意識でした。そしてその問題は、いまの日本に住む私たちが最も真剣に考えなければならないものだと思います。丸山眞男は次のように述べています。

「「民主社会」における平準化の進展が、一方における国家権力の集中と、他方における「狭い個人主義」の蔓延という二重進行の形態をとること、中間諸形態の城塞を失ってダイナミックな社会に放り出された個人は、かえって公事への関与の志向から離れて、日常身辺の営利活動や娯楽に自分の生活領域を局限する傾向があること」「この「狭い個人主義」の個人は同時にリースマンのいう他者志向型の個人なのだ。だから現代においてひとは世間の出来事にひどく敏感であり、それに「気をとられ」ながら、同時にそれはどこまでも「よそ事」なのである。従ってそれは、熱狂したり、憤慨したり適当にバツを合わせたりする対象ではあっても、自分の責任において処理すべき対象とは見られない。ナチ治下における知識層の内面と外面の二重生活といわれているものも、一面でそうしたいわば「他者志向型のエゴイズム」が知識層にふさわしく合理化された形態ではなかったか。こうした自我の政治的「関心」は「自分の事柄」としての政治への関与ではなくて、しばしば「トピック」への関心である。しかしそれは必ずしも関心の熱度の低さを意味しない。むしろ現代の「政治的」熱狂はスポーツや演劇の観衆の「熱狂」と微妙に相通じているし、じっさいにも相互移行しうる性格をもっている。逆に無関心というのも、「自分の事柄」への集中でほかの事が「気にならない」ような…無関心ではなくて、しばしば他者を意識した無関心のポーズであり、したがって表面の冷淡のかげには焦燥と内憤を秘めている。現代型政治的関心が自我からの選択よりも自我の投射であるように、現代型「アパシー」もそれ自体政治への-というより自己の政治的イメージへの対応にすぎない。政治的関心かアパシーかが問題なのではなく、政治的関心の構造が問題なのである。(中略)現代における選択は「虚構の」環境と「真実の」環境との間にあるのではない。さまざまの「虚構」、さまざまの「意匠」のなかにしか住めないのが、私達の宿命である。この宿命の自覚がなければ、私達は「虚構」のなかの選択力をみがきあげる途を失い、その結果はかえって「すべてが変化する世の中では誰も変化していない」というイメージの「法則」に流されて、自己の立地を知らぬ間に移動させてしまうか、さもなければ、自己の内部に住みついた制度・慣習・人間関係の奴隷になるか、どちらかの方向しか残されていないのである。」(『丸山眞男集』⑨、pp.37~39)

民主国家において全体主義の支配が起こるという問題については、2003年に出版された『茶色の朝』という本を読むことをお勧めしたいと思います。この本は、フランク・パヴロフというフランスとブルガリアの二重国籍を持つ著者が書いたもので、東京大学教授の高橋哲也氏が解説をつけて、大月書店という出版社から翻訳されたものが出ています。翻訳された本文はわずか14ページのもので、1050円ですから是非手にとってください。

「茶色」とは、ヒトラーが率いたナチス党がはじめのころ茶色(褐色)のシャツを制服としていたことにひっかけたもので、ナチスを連想させる色です。そういえば、かつての大日本帝国陸軍の制服も茶色だったのは偶然でしょうか。

民主国家が全体主義に支配される可能性は、今日でも決してなくなってはいません。そのことを理解する上で、高橋哲也氏の解説が分かりやすいので、以下に詳しく紹介します。
〇「俺」(注:『茶色の朝』の主人公)とシャルリー(注:俺の友人)がそうであるように、ふつうの人びとが、「コーヒーをゆっくり味わいながら、時の流れに身をゆだねておけばよい、心地よいひととき」を享受できる平和な国。この国にひとつひとつ、ものごとを「茶色」に染めていく出来事が起こっていきます。
〇「茶色に守られた安心、それも悪くない」。物語に出てくるこの言葉が、とても象徴的です。(中略)「茶色の安心」ないし「茶色の安全」とは何でしょうか? それは、「茶色党の奴ら」の支配下での「安心」であり、「安全」です。「茶色党の奴ら」が、全体主義的な法律や施策をつぎつぎに課してきたとしても、それらのひとつひとつは、ただちに日常生活の「安心」や「安全」を全面的に奪い去るものではありません。はじめは驚いたり、不安を感じたりしても、その法律や施策に逆らわず、新たな状況を受けいれて、それに適応していけば、さしあたりの「安全」は保証され、ひとまず「安心」が取り戻されることになるからです。そのとき人は、この物語の「俺」のように、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と感じるようになるでしょう。

ここでいう「全体主義的な法律や施策」とは、日本について言えば、周辺事態法以後のいわゆる有事法制の積み重ねであり、国民を戦争に動員する国民保護計画であることを連想してください。私達のこのおそるべき無関心は、私達がすでに「茶色に守られた安心、それも悪くない」と感じるようになっている証拠です。

〇こうして「俺」は、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えるようになります。同じ感覚は、つぎのようにも言われています。…「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまき込まれることもなく、生活も簡単になるかのようだった。」(中略) 街でなにが起きているかにはすっかり無関心になり、「チャンピオンズカップの決勝戦」をテレビで見ながら、「すっかり安心して」、「すごく快適な時間」を過ごすのです。
〇皮肉なことに、そんな確信に満たされたかと思った瞬間、彼らの「安全」と「安心」は全面的に崩壊します。「信じられないこと」が起こるのです。「ペット特別措置法」が過去にさかのぼって適用され、「前に」茶色でない犬や猫を飼っていたすべての人間、したがって、「犬や猫を愛する人間は全員逮捕されてしまう」かもしれない、恐ろしい事態になるのです。

私たちの日本で言えば、「ペット特別措置法」が過去に遡って適用される事態に対応するのは、憲法が変えられるときでしょう。「平和を愛する人間は全員逮捕されてしまう」です。

〇「俺」は、激しく後悔します。「茶色党のやつらが最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、警戒すべきだったんだ」。「いやだと言うべきだったんだ。抵抗すべきだったんだ」。

以上が『茶色の朝』のあらましです。高橋教授は、以下のような解説をつけています。

〇ファシズムや全体主義は、権力者が人びとを一方的に弾圧し、恐怖政治をしくことによって成立するだけではありません。とくに、いちおう「民主主義」を制度として前提する社会では、はるかに多くの場合、人びとがそうしたものの萌芽を見過ごしたり、それに気づいて不安や驚きを覚えながらも、さまざまな理由から、危険な動きをやり過ごしていくことによって成立するのです。
〇『茶色の朝』は、私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることを、じつにみごとに描きだしてくれています。

「私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることこそ、丸山眞男が今から45年以上も前の1961年に警告していたことでした。丸山の慧眼には敬服するほかありません。

〇『茶色の朝』の物語が、現代日本社会に生きる私たちにとっても、けっして無縁でないことはすでに明らかでしょう。強者の論理を振りかざし、外国人や女性や障害者への差別発言をくりかえす政治家が人気を博したり、メディアが特定の国への敵意を煽り、その国につながる人びとが陰湿な嫌がらせ、暴力、暴言の標的になったり、学校で国旗・国家への忠誠が強制され、反対する先生たちが権力的に処分されたり、権力による個人情報の一元的管理、盗聴、メディア規制など国民統制を可能にする法律がつぎつぎに成立したり、「国を守る」戦争のときには国民の人権が制限され、一定の犠牲者が出てもやむをえないとする法律が制定されたり…。
〇『茶色の朝』が与えてくれるのは、こうした問題を、まさに私たち自身の問題として考えるための手がかりです。「私たち自身の問題」と言いましたが、「私たち」とはだれのことでしょう? (中略)政治家の暴言や在日朝鮮人の人びとへの嫌がらせの事実を知れば、「ちょっとひどいな」と眉をひそめ、国旗・国歌であれなんであれ、権力的強制にたいしては「やり過ぎじゃないか」と疑問を感じ、日本がふたたび「戦争をする国」になっていくことにたいしては、一抹の不安を覚えているような、そんな人たち。つまり、おそらくは現代日本社会における「ふつうの人びと」こそが、ここで言う「私たち」なのです。
〇そんな「ふつうの人びと」である私たちは、…社会が「茶色」に染まっていく傾向に、ときにはとまどい、ときには呆れ、ときには不安や疑問を感じながらも、結局は、さまざまな理由をつけて、そのつど「流れ」を受けいれてしまっているのではないでしょうか? そうでないとしたら、いったいどうして、 国内外の非難を浴びた暴言を撤回も謝罪もしない政治家が、選挙で堂々と当選したりするのでしょうか? 市民の自由を奪う法律をつぎつぎに成立させる政治勢力が、国会で絶対多数を占めつづけるのでしょうか?
〇現代日本社会では、こんな特徴的な言い訳もよく聞かれます。例えば、「国が決めたんだから、仕方がない」。これではまるで、戦前・戦中の日本と同様、「お上」の政府にたいして、「下々」の「臣民」は黙って従わなければならないかのようです。日本国憲法の「主権在民」の意味をよく考えてみれば、このような言い訳に根拠がないことは明らかです。
〇「茶色」が日一日と濃くなっていく日本社会のなかでは、「かたよった」意見だと言われても、「茶色」の色眼鏡をはずしてみれば、それこそが真っ当な意見であるかもしれないのです。なによりも、孤立を恐れてみなが流れに棹さしてしまえば、行き着く先は「茶色の朝」でしかなくなってしまうでしょう。
〇「なんだかんだ言っても、私たちはまだ自由じゃないか。権力の弾圧など受けたことはないし、毎日の生活ではとくに不自由を感じることはない。いろいろな法律が国家統制を強めるとか言うけれど、いまのこの自由が近い将来なくなってしまうなど、とても想像できない」。こんなふうに感じる人にこそ、『茶色の朝』の物語の意味を十分に考えてほしいと思います。私たちがいまも感じているこうした「自由」-それが、すでに相当程度「茶色」に染まった自由であり、「茶色の自由」でないと、だれが言い切れるでしょうか? 私たちがすでに「茶色に守られた自由」のなかにいて、まさにそのために自分たちが染まっている「茶色」の濃さを実感できずに、「それも悪くない」と感じているだけだとしたら、どうなるのでしょう? まさにそのために、自分たちを待ち受けている「茶色の朝」の衝撃を予感すらできなくなっているのだとしたら?

私たちが全体主義の支配を許さないためにはどう対処すべきでしょうか。高橋哲也教授は「思考停止をやめることだ」という答えを用意していますが、私はもっと具体的に、丸山眞男の「現代における政治と人間」の文章を踏まえ、そしてこれまでお話ししてきた延長線として、「自分自身を他者として見る」こと、つまり、自分自身について他者感覚を持つことの重要性を強調したいのです。「他者を真に理解する」気構えを自分自身にも向けるということです。

自分自身を他者として見る、というのはどういうことでしょうか。パヴロフの表現を借りるならば、「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまき込まれることもなく、生活も簡単になるかのようだった」という安易な自分にならないことです。もっと身近な言い方をすれば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という群れる気持ちにならないことです。日本人に特に著しい仲間内意識、集団意識、「ウチ」「ソト」意識に身を任せることを断固として拒否する覚悟です。そのためには、自分自身をあたかも他者として突き放して見つめるもう一人の自分がいなければなりません。

このことを丸山眞男は、次のように言っています。「“自分は何であるか”ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、ある時突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる」(『丸山眞男集』⑪、p.222)。

つまり、日本人である自分は、無意識のうちのままであれば、仲間内意識、集団意識、「ウチ」「ソト」意識に身を任せやすい、パヴロフの言葉で言えば「茶色に守られた安心、それも悪くない」と自分自身を無理矢理納得させる発想をし、社会の流れに身を任せる傾向が強い。その結果は、「無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐される」、つまり、無意識のまま「茶色党のやつらの言いなりになって」しかもそのことに染まってしまい、その挙げ句、民主国家・日本を全体主義国家・日本に変えようとする日本版「茶色党のやつら」に支配されるという形で「自分が復讐される」ことになる、ということです。

そういう最悪の事態を許さないためには、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と自己欺瞞的な発想で社会の流れに身を任せる、というような自分であってはならないという、強い意志で自分自身を常にきびしく監視する、つまり自分自身を他者として見る目、他者感覚をしっかり持つことがきわめて重要になるのです。

4.「他者を真に理解する」ことを土台にした平和

真の平和を実現するということは、人間同士が互いに相手を真に理解することを通じて、一人一人の人間の尊厳が承認され、尊重されるということだと、私は確信しています。

それでは、今までお話ししてきた他者感覚と人間の尊厳・人権の関係とはどういう関係にあるのでしょうか。丸山眞男は、「他者感覚がないところには人権の感覚も育ちにくい」(『丸山眞男集』⑪、p.175)と、興味深いことを語っています。つまり、他者感覚だけでは、まだ人間の尊厳(人権)にたどりついたことにはならない、ということです。

私は、“「他者感覚」+「個」意識=「人間の尊厳」(人権・民主)の承認”というふうに理解したいのです。つまり、他者感覚が人間一人一人にはその人固有の「個」があるという意識と結びつくとき、人間の尊厳を承認し、尊重することに到達するということです。

集団を重んじ、集団でいることに違和感を覚えない、西欧起源の「個」を重視しない(さらには排撃する)日本の文化的土壌では、かりに「他者感覚」を備えているとしても、そこから直接「人間の尊厳」(の承認)・「人権・民主」(意識)には直結しにくいのです。なぜならば、「人間の尊厳」とは、優れて一人一人の人間に固有に備わっているものであり、「個」というものを我がものにしていなければ、他者感覚だけでは「人間の尊厳」に行き着かないからです。

「個」の感覚・意識を我がものにするにはどうすればいいでしょうか。丸山眞男の表現を借りれば、「この世界に自分という存在はたった一人しかいない」という「個」であるという奇跡を深く噛みしめ(世界にたった一人しかいない自分自身をこの上なく大切に思い)、その奇跡は他者についてもそっくりあてはまることを認識するとき(つまり、自分と同じように世界にたった一人しかいないかけがえのない存在である他者は、自分とは違う独立した個としての存在、ということを認識するとき)、私たちは「個」意識を我がものにすることになるのだ、と私は認識しています。

「自分と同じ人間は世界に二人といない-簡単に言えばこの自覚、というより驚きの自覚が精神的な自立の最後の核じゃないかと思うんです」(『丸山眞男座談』⑤、p.305)。「自分とまったく同じ人間は世界に二人といないという驚きからいつも出発してゆけば、自分を(浅井注:そして「すべての他者を」)そんなに軽蔑できないんじゃないかしら」(同)。

つまり、「他者感覚」は、「個」の意識の媒介を経ることにより、「人間の尊厳」(人権・民主)という普遍概念を我がものにすることができるのだと思います。「他者感覚」が「かけがえのない個」の意識と結びつくとき、「他者もかけがえのない個」であるという認識が素直に導かれ、「人間の尊厳」(人権・民主)という普遍的価値の認識を生むのです。

日本を含むアジアの思想には「人間の尊厳」「人権」という普遍概念がありません。とりわけ、日本の思想には、元来、普遍の意識も「個」の意識も欠如している(というより、個よりも集団を重視する意識の働きが強い。この点では、例えば、普遍の意識やそれなりの「個」の意識を持つ中国と違う日本固有の困難さがある)ので、私たちが「人間の尊厳」「人権」(という普遍なるもの)を我がものにする(「ほとんど生理的なものとして自分のなかにある」(丸山眞男)ようにする)ためには、意識して不断に体得する過程が必要です。

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