「広島プロセス」は名実ともに受け容れられない
―藤原帰一論文批判―

2007.10.01

以下に紹介するのは、朝日新聞『論座』8月号に載った藤原帰一・東京大学教授の論文「多角的核兵力削減交渉『広島プロセス』を提言する」に対する安斎育郎・立命館大学平和ミュージアム館長と私の連名による反論である。『論座』11月号に掲載された。(10月1日記)

本誌8月号に掲載された藤原帰一氏(東京大学)の論文「多角的核兵力削減交渉『広島プロセス』を提言する」を読んだ。氏の議論に関しては、事実認識を含め多くの点で同意できない。広島に関する国民的な理解・認識が藤原論文によって傷つけられないためにも、私たちは、以下のことを明らかにしておく責任があると考える。

 

1.藤原構想に「広島プロセス」という名を冠することは受け容れられない

 藤原氏は、「私は抑止戦略を否定しない。それどころか、日本は核の傘、アメリカの拡大抑止の受益者であり、また北朝鮮に対するアメリカの核抑止力は今なお必要だろう。」として、明確に核抑止論肯定の立場に立っている。その藤原氏が、「抑止に頼る平和を、さらに安定した状況に変えてゆくためにはどのような選択があるのか」と自問し、「核抑止のもとで生まれた安定を損なうことのないよう、段階的に、周辺的な戦力から(削減を)はじめるほかにない」として「削減プロセス」を提案し、「一連の多角的交渉を開始する最初の国際会議を、核廃絶のためにシンボリックな意味を持つ広島で開催することを提案したい(強調は筆者。以下同じ)」と、広島の名を冠するプロセスを提唱している。また、藤原氏は、「最初の被爆という経験のために、広島という名前は核廃絶の願いと結びついたシンボルとして、現在でも国際的に認知されており、核削減プロセスの出発点にふさわしい」と述べている。

まず「広島という名前」は「核廃絶の願いと結びついたシンボルとして、現在でも国際的に認知」という藤原氏の広島認識は、あたかも広島が「核廃絶の願い」の「シンボル」程度の存在であり、実質的には「核廃絶」ではなく「核削減」にコミットしているに過ぎないかの如き前提に立っているとしか考えられない。

私たちは、広島は一貫して、真摯に核廃絶を目指す国際的な運動の重要な拠点たる役割を果たしてきたし、また、そのように国際的に認知されていると考えている。藤原氏の主張は、この広島のよって立つ不動の立場をことさらに無視するもので、同氏の影響力の大きさ故にその責任は重大であると考える。私たちは、藤原氏が、「最初の被爆という経験のために、広島という名前は核廃絶の願いと結びついたシンボルとされており、核削減プロセスの出発点にふさわしい」という文章を撤回されることを厳粛に求めるものである。

より根本的には、広島は、「国家の安全保障を核兵器という力に依存する核抑止論を、ヒロシマは絶対に容認することができない」(1992年の平和宣言)と認識しており、明確に核抑止論を否定する立場に立っている。それは、核抑止論が本質的に核兵器使用の決意を前提とする以上、「ノーモア・ヒロシマ」とは絶対に相容れないからである。

また、広島は、1962年の平和宣言以来一貫して「核廃絶」を要求してきた。「唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者として国際世論の喚起に努め、核兵器の廃絶と戦争の放棄への国際合意の達成を目ざして、全精力を傾注すべきときである」(1978年の平和宣言)とする認識こそが広島の立場である。たしかに広島は、核軍縮の有用性を否定しないが、それはあくまでも核廃絶を実現することに役立つ限りにおいてである。藤原氏の説くような、核廃絶を視野の外に置く核削減の主張は、広島の立場をことさらに無視するものであり、私たちは、藤原氏の主張に沈黙することは多くの人々に誤った広島認識を植え付ける危険が大きいと考え、広島の立場を改めて明確にしておく責任を強く感じた。

ちなみに、広島が核抑止論を拒否し、核廃絶を主張するのは、藤原氏が揶揄するような「平和運動家の願望」などとしてではなく、実現不能な「理念的目標」としてでもない。広島・長崎という人類的不幸、人類の生存そのものを脅かす惨劇を繰り返すことがあってはならないという確信こそが、広島の不変の原点である。まさに、ヒロシマ(ナガサキ)は、アウシュヴィッツと並んで、人類が二度と繰り返してはならない「負の遺産」として自らの歴史的使命を負っているのである。

以上の広島の立場を明確に認識し、誠実に踏まえる限り、核抑止論に立脚し、核廃絶を明確に視野の内に捉えることなく、プロセスとしての核軍縮を提唱するような藤原氏の主張は、まったく広島の立場とは相容れないものである。したがって、藤原氏の個人的構想に「広島プロセス」という名を冠することには、私たちとしては絶対に同意することができず、その撤回を求める。

2.核抑止論の立場に与することはできない

 私たちは、ことさらに藤原氏との論争を求めない。しかし、氏が示している認識のいくつかについては、私たちの見解を明らかにしておく必要を感じている。

(1)「核保有国に核を削減する意思がなければ、核廃絶とは原則としては正しくとも実現する可能性のない目標に過ぎない」

私たちは、アメリカの核固執政策を改めさせることができれば、核廃絶の展望は大きく開けてくる、という認識に立つ。アメリカが核固執政策を改めない根源的理由は、広島・長崎に原爆投下したことが絶対に許されない誤りであることを国家も多くの市民も認識していないことにある。しかし、人類の意味ある存続のためには、ヒロシマ、ナガサキを二度と繰り返してはならないことが明白である以上、私たちはアメリカの認識を改めさせることに全力で取り組まなければならないし、そこを突破口にして核廃絶への道筋をつけることには十分な客観的可能性があると認識する。

(2)「核保有国は核の削減に応じることがなく、不拡散体制にもかかわらず核拡散を防ぐことができないというこの現状のなかで、核保有を既成事実として認めようという態度が生まれることになる。6カ国協議初期段階の問題はここにある。北朝鮮を全面的に非核化する各国の意思は、決して強いとはいえない。」

近年、アメリカのブッシュ政権の頑なな核政策を主因として、国際的な核不拡散が停滞してきたのは事実だが、2000年のNPT(核不拡散条約)再検討会議の成果は死んでおらず、2010年の再検討会議に向けた国際的努力が国家やNGOのレベルで始動していることは紛れもない事実である。

朝鮮半島の非核化は、アメリカが北朝鮮の国家としての生存権を認め、国家関係を正常化する意志をもてば十分に可能であるというのが私たちの見解である。6カ国協議は、その目的を実現するためのメカニズムとして、安易な楽観はできないものの、機能しつつあると私たちは判断している。

(3)「日本は核の傘、アメリカの拡大抑止の受益者であり、また北朝鮮に対するアメリカの核抑止力は今なお必要だろう。」

私たちは、北朝鮮の核武装にはあくまでも反対だが、事実認識として、それはアメリカ(および日本)の軍事的脅威に対する北朝鮮の国家的生存を確保するための崖っぷちの選択であったと考える。北朝鮮は、もしも核兵器を先制使用すれば、アメリカの容赦ない核報復攻撃によって物理的に抹殺されることを、知らないはずがない。逆に、北朝鮮は、自らの核戦力がアメリカの先制攻撃に対する最小限抑止力として機能する可能性に国家の存亡を賭けている。しかし、それにもかかわらずアメリカが北朝鮮に先制攻撃を仕掛ければ、北朝鮮はあらゆる手段で死にもの狂いの抵抗をするだろう。つまり、こうした状況下ではアメリカの核の傘は機能せず、最悪の場合には日本も核攻撃の標的となって甚大な犠牲を被る事態さえ想定されよう。

藤原氏の認識は正確な現実把握からかけ離れているだけではなく、氏がどのように考えようと、氏の主張は、小泉・安倍両政権下で加速的に進行した「北朝鮮脅威論」を隠れ蓑にした日米(核)軍事同盟の変質・強化を実質的に下支えするものとなっている。

(4)「もしミサイル防衛を阻止したいのであれば、それと引き換えに中距離ミサイルの設備更新をはじめとする軍拡を断念しなければならないことを明確に中国に伝え、ミサイル防衛とミサイル開発にモラトリウムを設け、それを新規兵器配備一般へのモラトリウムに広げること。これが第一段階の課題である。」

台湾海峡の緊張の根本的原因は、中国の内政問題であるはずの台湾の帰属に、米日両国が「台湾の法的地位未決」論に固執して干渉してきたことにある。その米日両国は、2005年2月19日の「2+2(日米安全保障協議委員会)」で台湾海峡を「共通の戦略目標」と明示し、ミサイル防衛計画を加速した。したがって、台湾海峡をめぐる核戦争を含む軍事的緊張を打開するためには、まずアメリカと日本が行動をとるべきであり、あたかも中国に大きな責任があるかの如き議論展開は決してフェアとはいえない。

(5)「毎年の7月ないし8月、日本の総合雑誌は「ヒロシマ」に関連した文章を掲載し、(中略)核廃絶の願いを確かめてきた。願いを確かめた後、多くの人は次の年まで忘れてしまう。軍縮など、いくら主張としては正しくても実現するはずはないと、心の底では信じているからだ。」

この文章は、最初の一文の主語が「総合雑誌」であるのに、次の文章の主語は「多くの人」であるように、そもそも文意不明である。

その点はともかく、藤原氏の認識は、たとえ総合雑誌が忘れようとも、私たちを含む多くの市民は、核廃絶・核軍縮は実現しなくてはならない人類史的課題であると心底信じ、そのために季節を問わず真剣に取り組んでいる客観的事実を見ようとしないものである。藤原氏が「多くの人」の気持ちをどのように理解するかは氏自身の問題であるが、一方的理解で切り捨てるのは勘弁してほしいし、ある意味では、核廃絶の問題に真剣に向き合い、被爆の実相の普及、冷酷な被爆者援護施策の背後にある日本政府の核抑止政策の批判、(核)基地調査など、日常的な活動に粘り強く取り組んでいる市民たちを冒涜するものと言えなくもない。氏には核廃絶への国民的コミットメントを謙虚に受け止めて欲しいと願わずにはいられない。

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