被爆体験と原爆体験

2007.09.16

 最近、被爆体験と原爆体験ということの持つ意味の違いについて考えこんでいます。私も以前はあまり意識的に区別しないで、その人類的・普遍的共有という問題を考えていました。しかし、政治学者であり、自身が被爆者であった丸山眞男が生前二つの言葉を意識的に区別して扱っていたらしいことに気がついて以来、私にもこだわりが生まれたのです。

 被爆者の平均年齢が74歳を超した今、被爆体験の継承の大切さと同時に、その難しさが広島では大きな問題になっています。被爆者自身、「ヒロシマのことは被爆した者でないとわからない」(被爆者・高橋昭博『ヒロシマ、ひとりからの出発』142頁)と言われると度々聞き及びます。被爆体験とは正に個人的なものであるがゆえに、非被爆者の追体験には越えられない壁があるということでしょうか。

しかし、原爆体験は、広島、長崎そして被爆者の生々しい体験を重要な一部としつつ、今や核実験や放射線によって世界各地で引き起こされている人類的な核被害の中で最も深刻なものと理解できるし、その必要があるのではないでしょうか。「人類は核兵器とは共存できない」という認識がますます世界的な重みを持ちつつあるのは、以上に述べた意味での原爆体験が人類的・普遍的に共有されつつあるからだと思うのです。

被爆体験をそっくり継承していくことはあるいはとても難しいことかもしれません。しかし、広島、長崎に代表される原爆体験は、二度とくり返してはならない「負の遺産」として、人類の歴史にしっかりと刻み込まれ、末永く記憶されつづけていかなければなりません。そのためには、しっかりとした歴史教育を行う必要があることはもちろん、核戦争が人類の意味ある存続を不可能にすることについて私たちの想像力に満ちた認識を高め、核廃絶に対する取組を強めるなど、ありとあらゆる努力をすることが、21世紀に生きる私たちの避けてはならない責任だと思います。

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