朝鮮半島情勢と非核化の課題

2007.08.13

*8月2日に原水爆禁止2007年世界大会科学者集会「北東アジアに非核地帯を」で基調講演を行った際の原稿です(8月13日記)。

1.アメリカの先制攻撃戦略と朝鮮半島情勢

<新しい脅威認識と先制攻撃の戦争>

朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)にとって、いわゆる9.11事件を契機にアメリカのブッシュ政権が打ち出した脅威認識とその上に立った先制攻撃戦略は、国家の存亡を脅かす深刻な挑戦として受けとめられたに違いない。すなわち、ブッシュ政権は、9.11事件を引き起こした国際テロリズムを「恐怖という目に見えない脅威」と規定し、20世紀後半におけるソ連に代わる、21世紀におけるアメリカの安全保障に対する最大の挑戦要因と一方的に断定した。しかも、国際テロリズムを支援し、庇護し、あるいはこれとかかわりを持つとアメリカが決めつける共和国以下の国々を特定して「ならず者国家」とレッテルを貼った。
ブッシュ政権にとって、テロリズム及びならず者国家は、いわば何時、どこで、何を仕掛けてくるか分からないという不確実性を特徴とするので、相手が仕掛けてくるのを待って対処するのでは、9.11事件の際のように甚大な被害を受けることが避けられない。そのような事態を招かないための最善の政策は、相手側の攻撃を待ってから行動するのではなく、アメリカが先制攻撃で相手を叩きのめすということになる。

<先制攻撃正当化の「論理」>

 ブッシュ政権がならず者国家に対して先制攻撃の戦争を行う意思が掛け値なしのものであることは、2003年にアメリカがイラクに対して仕掛けたいわゆるイラク戦争で明らかになった。この事実は、共和国の指導部にとって戦慄を持って受けとめられたであろうことは想像に難くない。  第二次世界大戦を経た国際社会においては、国連憲章2条4により、一切の「武力による威嚇又は武力の行使」を慎まなければならないことになった。国連憲章のもとで武力行使が認められるケースは、国連安全保障理事会が「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとる」場合(第42条)、または「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合」に、安保理が「国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という時間的限定条件のもとで、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を行使する場合(第51条)の二つのケースのみである。したがって、ここでの問題は、ブッシュ政権の先制攻撃の戦争が自衛権行使に該当するか否か、という点に帰着する。
 一般国際法において、自衛権行使が如何なる場合に認められるか、という点に関し、日本政府は、三つの条件が満たされる場合に限って、自衛権としての武力行使が認められるという解釈を繰り返してきた。三つの条件とは、急迫不正の攻撃を受けること、その攻撃に対処する上で武力行使以外の手段がないこと、そして行われる武力行使が必要最小限度のもの(筆者注:攻撃の程度との均衡性という趣旨を含む)であること、である。
ブッシュ政権は、自衛権における「急迫不正」に関しては、次のように主張する。「我々は、敵に第一撃を許すことはできない。…報復するという脅威にのみ立脚する抑止の考え方は、自国民の生命や国富を賭けるリスクをとることをためらわない、ならず者国家の指導者に対してはあまり機能しない。…我々としては、急迫した脅威という概念を今日の敵の能力及び目的に適合させなければならない。…脅威が大きければ大きいほど、行動しないことに伴うリスクはそれだけ大きくなるのであって、敵の攻撃の時間及び場所に関して不確実性があろうとも、我々を防衛するために先を見越した行動をとることはそれだけやむを得ないものになる。」やや長い引用になったが、「敵の攻撃の時間及び場所に関して不確実性があろうとも、我々を防衛するために先を見越した行動をとることはそれだけやむを得ないものになる」とする最後の部分は、アメリカに関しては「急迫不正」の条件を実質的に解除しようとするものであり、この結論を導くために、ならず者国家の非合理的な行動の可能性を強調するための長い前置きがおかれているわけである。
 自衛権における「他に手段がない」という要件に関しても、ブッシュ政権は、まったく顧みない立場を明らかにしてきた。「アメリカは、可能なときはいつでも平和的協力的方法を用いるが、必要であれば軍事力を行使する。」つまり、武力行使に踏み切るかどうかを、必要性の有無を基準にして判断すると公言し、他の非軍事的手段があるとしても、軍事力行使が必要だとアメリカが勝手に決めさえすれば、そうすると言っているわけだ。このような主張は、自衛権行使の概念を完全に逸脱している。
自衛権における「必要最小限」(攻撃の程度との均衡性)という要件についても、ブッシュ政権は完全に無視する立場を明らかにしてきた。「先制の選択肢を意味あらしめるため、我々は、…決定的な結果を達成する迅速かつ精密な作戦を遂行できる能力を確保するべく、常に軍事力の再編を続ける。我々の行動の目的は常に、アメリカ、同盟国及び友好国に対する特定の脅威を絶滅することにある。」「決定的な結果」といい、特定の脅威を「絶滅する」という主張は、「必要最小限」(攻撃の程度との均衡性)という条件をまったく無視するものである。
ブッシュ政権はさらに、先制攻撃の武力行使を行う対象についても、きわめて恣意的に拡大してきた。「我々は、テロリストと故意に彼らをかくまいまたは彼らに援助を提供する連中とを区別しない」というのである。「テロリストに援助を与える連中」とは、ならず者国家を指すわけであり、この中に共和国も含まれる。ここで私たちが明確に認識するべきことは、直接アメリカを攻撃するわけではなく、国際犯罪を行うテロリストを支援すること(本当に支援しているかどうかについても、アメリカが一方的に判断する)を理由にして、アメリカが特定の国家を先制攻撃の武力行使の対象とするということが、如何に自衛権行使とは無縁であるか、ということである。

<共和国の深刻な対米脅威認識>

私達が深く考えなければならないのは、国際法を公然と無視・歪曲するアメリカの以上の先制攻撃戦略が、共和国にとって恐怖そのものとして映じているに違いないということである。共和国としては、同国を灰燼に帰せしめる圧倒的な軍事力を擁するアメリカが、共和国に対して侵略戦争を仕掛ける意図を、疑問の余地なく明確にしているということにおいて、軍事的脅威をひしひしと実感せざるを得ない状況に追い込まれているのである。アメリカが共和国を脅威扱いすることは、共和国からすれば、アメリカがいつ何時共和国に対して先制攻撃の戦争を仕掛けてくるか分かったものではない、というまさに絶体絶命の境地に追い込まれている、ということなのである。

<ブッシュ後のアメリカの変化の可能性>

 対イラク戦争の泥沼化によって、先制攻撃戦略そのものの有効性が問われる状況がアメリカ国内においても浮上している。例えば、第一期ブッシュ政権において国務副長官を務めたアーミテージが中心になって2007年1月に発表した「日米同盟:2020年に向けてアジアを正す」と題する報告においては、ブッシュの「対テロ戦略」重視路線から距離を置く姿勢が顕著に窺われる。しかしこの報告は、ブッシュ政権時代に推し進められた日米同盟強化を含む対アジア政策については、全面的に肯定する姿勢で貫かれている。報告は、確かに共和国に対してブッシュ政権より威嚇的ではない。しかし、すでに詳述した先制攻撃の可能性を明確に否定もしていない。

<アメリカの「北朝鮮脅威」論と日本国内で喧伝される「北朝鮮脅威」論>

ちなみに、アメリカの「北朝鮮脅威」論と日本国内で喧伝されているそれとの間には大きな懸隔がある。アメリカが共和国についての軍事的脅威を論じるのは、あくまでもテロ支援国家(ならず者国家)としての範疇においてであり、そこでは、アメリカの同盟国・日本に対して共和国が先制攻撃を仕掛けてくる可能性はまったく想定されていない。
 日本国内で盛んに流布されるのは、「北朝鮮が攻めてきたらどうする?」式の、共和国が日本に対して先制攻撃を仕掛けてくることを前提にした「北朝鮮脅威」論である。そこにおいては、一連のいわゆる「不審船」事件、テポドン発射、そしていわゆる「拉致」問題によって極端に増幅された、「何をするか分からない北朝鮮」という漠然とした国民的不安感が、政府やメディアによることさらに扇情的な共和国を敵視する宣伝と結びついて、「北朝鮮脅威」論となって噴出しているのである。それは、アメリカ側の「北朝鮮脅威」論とはまったく異質なものだ。
 なぜ日本政府(及び政権与党)は、このように「北朝鮮脅威」論を高唱するのか。理由は明白である。仮に日本国民に対してアメリカが進める対共和国戦略の本質が明確に説明されるとしよう。つまり、共和国がアメリカに戦争を仕掛けるのではなく、アメリカが共和国に対して戦争を仕掛けることによって、アメリカと同盟関係にある日本も戦争に巻き込まれる(共和国の反撃は日本にも向けられ、国民保護計画が予想するように、原子力発電所の破壊などによる核被害が発生する可能性が高い)という筋書きが明らかにされるとしたら、多くの日本国民はいかなる反応を示すか、という設問である。多くの国民は、アメリカのそのような行動に反対するであろうし、それに無条件で協力しようとする日本政府に対する反対を明確にするだろう。そのことは、アメリカ主導で進められている日米軍事同盟強化に対する強烈な異議申し立てを意味する。別の言い方をすれば、日本政府は、本来許されてはならないアメリカの軍事戦略に対する協力(日米軍事同盟強化)を国民に納得させるための材料が必要であり、「北朝鮮脅威」論はまさにそのために作り出されているということだ。

2.朝鮮半島の非核化問題

<共和国の核開発問題>

 共和国の核兵器開発の動機を理解する上では、1964年に最初の核実験を行って核兵器国への道を歩んだ中国のケースが参考になる。当時の中国は、アメリカ及びソ連という二つの核超大国から仕掛けられる核戦争の脅威に直面していた。その脅威に対抗する唯一の手段は、事の是非は別として、自ら核抑止力を保有することだった。ただし中国は、その後の展開が示すように、自らの核兵器保有を、相手が核攻撃を思いとどまらざるを得ないために必要かつ最小限のものにとどめるという、いわゆる最小限抑止の戦略に立脚している。共和国の場合も、核開発の動機は同じである。つまり、アメリカの先制攻撃を抑止し、政権の存続を確保する唯一かつ最後の手段として核兵器開発を急いだのに違いない。
日本国内では、核兵器を保有するに至った共和国は日本に対する軍事的脅威だ、とする議論が横行している。しかし、この種の議論は、およそ軍事的常識をことさらに無視した荒唐無稽なものであると言わなければならない。つまり、軍事的な「脅威」とは、相手を攻撃する「能力」を持ち、かつ、その相手を攻撃する「意志」がある場合にのみ成り立つ。確かに共和国は、日本を攻撃する能力は備えるに至っていると見るべきだろう。しかし、仮に共和国が無謀にかつ理由なく日本に対して先制攻撃をかけるのであれば、次の瞬間には、それを口実としたアメリカの共和国を壊滅する軍事作戦が行われることは目に見えている。つまり、共和国は、日本に対して先制攻撃を仕掛ける意志はない。したがって共和国は、日本に対する脅威ではない。
共和国としては、アメリカが先制攻撃の戦争を共和国に対して仕掛けてくる場合には、共和国としては泣き寝入りせず、日本、韓国に対して、両国が到底甘受できない報復攻撃を行う能力を有することにより、アメリカをして先制攻撃そのものを思いとどまらざるを得ないようにするということが最大の目的である。核兵器開発は、正にその目的実現のもっとも効果的な手段である、という位置づけであるに違いない。
共和国の立場からすれば、アメリカによる先制攻撃の戦争を仕掛けられる恐れが完全に解消すれば、核兵器を保有することに固執する理由はない、ということである。そのためにも何よりも重要なことは、米朝対話を通じて、アメリカに「対テロ支援国家」としての指定を解除させ、朝鮮半島の不正常な状態を法的に解消し、米朝国交正常化を実現し、後顧の憂いを断つことであることはあまりにも明らかだ。したがって、2005年の共同声明(及びその第一歩としての2007年の初期段階の措置)に対する共和国のコミットメントを疑うべき理由はない。六者協議に特徴的な原則である、相互不信を取り除く上で有効な「約束対約束 行動対行動」に従って、関係国がステップを積み重ねていくことにより、1992年の南北共同宣言において約束されたように、最終的に朝鮮半島の非核化と情勢の安定化を実現することには、客観的な条件があるというべきである。 確かに共和国の核開発は、客観的に見た場合、核戦争の危険性を高めること、アジアにおける核拡散の引き金になりかねないことなどにおいて、朝鮮半島ひいては東アジアの非核化に逆行する動きであることは多言を要しない。しかし、私たちが共和国の非核化を促す場合には、共和国が何故に核開発に走ったか、という動機の問題を正確に認識することが不可欠であろう。その場合、既に詳述したように、共和国を先制攻撃によって壊滅する意図を公言してきたアメリカ、特にブッシュ政権の政策があることを見ないわけにはいかない。つまり、共和国にとっては、アメリカの軍事的脅威に対する唯一の生き残り作戦として核開発・核抑止力保有が位置づけられていることは間違いないことである。とすれば、共和国をして核開発を放棄させるためには、アメリカの対共和国政策の転換が不可欠の前提になる。そういう意味で、動き出した米朝対話の行方がきわめて重要になるわけである。

<韓国及び日本の対米核抑止力依存政策>

朝鮮半島の非核化問題を考える場合の次の問題は、アメリカの核抑止力に依存する政策をとっている韓国及び日本である。対米核抑止力依存の政策は、米ソ冷戦時代の遺物であり、米ソ冷戦後の新しい国際環境・状況に対する思考停止以外の何物でもない。共和国(及び中国)による核兵器保有に対抗するためには、自ら核兵器を持たない韓国及び日本としては、アメリカの核抑止力に依存することは引き続き必要、とする主張はあるが、既に見たとおり、共和国(及び中国)の核兵器保有はアメリカの政策に対する対抗手段・抑止力としての位置づけが明確である以上、この主張は本末転倒であり、韓国及び日本は、アメリカの核抑止力に依存する政策を根本的に見直し、止めるべきである。そのことは、共和国の警戒感を和らげ、解消する上でも重要なステップである。

<アメリカの核固執政策>

もっとも根本的な問題は、以上から明らかなとおり、アメリカの核政策が朝鮮半島を含む東アジアにおける深刻な核状況の震源地になっていることである。アメリカが核兵器に固執する政策を改めない根本的原因としては、広島及び長崎に対して原爆を投下したことに対する無反省がある。しかし、広島及び長崎の悲惨な体験が明らかにしたことは、核兵器は二度と使用されてはならず、したがって廃絶されなければならないということである。ところが、9.11事件以後「対テロ戦争」に暴走したブッシュ政権は、「使える核兵器」という危険きわまる発想にとりつかれ、核抑止力という発想を踏み越えるまでになった。アメリカ国内でもこの危険を極める発想に対しては批判が強いが、だからといって、脱冷戦後の新しい国際環境に即応して核抑止力という発想そのものを根本的に見直すという流れが生まれる可能性には直ちには結びついていない状況がある。しかし、朝鮮半島の非核化という課題も含め、核軍縮・核廃絶という課題に取り組む上では、アメリカの核固執政策を根本的に改めさせることが不可欠、ということを忘れることは許されない。

<日本は何をなすべきか>

 朝鮮半島の非核化という課題は、南北朝鮮とアメリカが直接の当事者であり、日本を含む近隣諸国は、その非核化実現に有利な国際環境作りに努めることが主要な責任・役割であることをまず確認しておく必要がある。
日本に住む私たちが取るべき最初のステップは、日本政府の核政策の本質を見極めなければならない、ということである。この点では、即ち、日本政府は長年にわたり、非核三原則と対米核抑止力依存を同時に口にしてきたが、このような支離滅裂で矛盾を極める政策(?) は、国際的に見た場合、笑いもの以外の何物でもなく、日本政治のいい加減さ、私たちの核問題に関する認識のいい加減さをこの上ない形で露呈しているということである。実際には、アメリカの「核の傘」に依存する政策が支配し、非核三原則は空洞化されてきたというのが実態であるが、多くの国民はその現実に対して「見て見ぬふり」を決め込んですまし、タテマエとホンネの乖離は余りにも明らかとなっている。このような状況に目をつぶって、いくら私たちが朝鮮半島の非核化を声高に叫んだとしても、国際世論を喚起する説得力を持ち得ないことを知らなければならない。つまり、私たちの出発点として、本気で核廃絶に取り組む決意を確立することが求められているということであり、そのために、日本政府の欺瞞を極める核政策を徹底的に清算する不退転の決意を我がものにする必要があるということである。
その上で私たちが考えるべきことは、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」を空念仏にしてはいけない、ということである。具体的には、核兵器が出現したことによって、今や戦争そのものが「政治の延長」としての性格を持ち得なくなった、という点をしっかり認識することが求められる。つまり、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ」のみを強調するのではなく、「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」を一体のものとして訴えなくてはならない。より具体的に今日的状況に即して言えば、私たちが朝鮮半島の非核化を含む核軍縮・核廃絶に対して真摯に向きあう上で、核廃絶(ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ)と憲法第9条(ノーモア・ウオー)を不可分の一体として捉えることが求められているということである。
「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」を日本の立場として確立する私たちが、朝鮮半島の非核化に資する国際環境作りの一環としてやるべきことは、第一に、非核三原則を厳格に守ることを日本政府に約束させることである。このことすらもできないでは、私たちは朝鮮半島の非核化を含む国際問題に対して何をも語る資格はない。その上で私たちは第二に、アメリカの「核の傘」・日米軍事同盟にしがみつく日本の政策を改めさせなければならない。日本が本気で朝鮮半島の非核化を望むというのであれば、この政策を抜本的に改めることが不可欠の前提になる。それとともに第三に、アメリカに対して、広島及び長崎に原爆を投下したことに対する無反省を改めさせ、核固執政策を抜本的に見直させることを国民的課題として位置づけなければならない。「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」をアメリカに受け入れさせてこそ、朝鮮半島の非核化を含む世界の核問題を解決する上でのもっとも確かな条件がつくり出されることになるであろう。

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