アメリカの原爆投下責任を正面から問い直そう

2007.07.04

アメリカ国務省の高官が、原爆投下は日本人の多くの命も救った、として原爆投下を正当化する発言を行ったことが伝えられました。明らかに久間防衛相(前)の発言を意識したものだと考えられます。私たちの核意識の曖昧さを逆説的に問い直す意味を持つこの発言に即して私の考えを更に述べたいと思います。(7月4日記)

アメリカ国務省高官の発言の前提にあるのは、原爆投下をしなかったならば、アメリカ軍による日本本土上陸作戦は避けられなかった、そうしたら百万人の米軍兵士の犠牲は避けられなかった(スチムソン陸軍長官の1947年論文)し、本土上陸作戦に巻き込まれた日本人の犠牲も甚大だったはず、ということです。しかし、数多くの研究が明らかにしていることは、広島、長崎に対する原爆投下がなくても日本が早晩降伏することは明らかだったのであり、したがって米軍による本土上陸作戦は必要なかったということです。つまり、原爆投下は如何なる理由を以てしても許されることではなかったという真実を隠蔽するために以上の正当化神話が作られたということです。

アメリカは原爆投下が如何に残虐な反人道的な結果を招いたか、したがって核兵器は人類と共存できないものであるという真実に向き合うべきだったのです。その真実と向き合う大前提は、広島、長崎に原爆投下した過ちを真摯に認め、広島、長崎に対してのみならず、人類に対して謝罪することであったはずです。ところが、米ソ核冷戦という状況が現れたことによって、アメリカはその真摯な反省と謝罪を行うことを拒否し、核兵器の「有用性」を主張する核抑止戦略をとることになりました。そして、日本政府は独立と引き替えに日米核安保条約を受け入れることによって、アメリカに対して反省と謝罪を迫ることを自ら放棄するという決定的、致命的な過ちを犯したのです。

米ソ冷戦の終結は、アメリカの核固執政策を根本的に見直すための契機を提供しました。しかし、1994年のスミソニアン博物館の原爆展の企画を巡って、アメリカによる広島、長崎に対する原爆投下は正しかったという原爆投下神話が再生産される結果になってしまった(1996年4月7日には、クリントン大統領がトルーマン大統領の原爆投下の決定は正しく、日本に謝罪する必要はない、という発言につながりました)ために、せっかくの機会は生かされなかったのです。

久間発言に「悪乗り」してのアメリカ国務省高官の発言を前にして、私たちが考えなくてはならないことは何でしょうか?

私は、広島、長崎に対するアメリカの原爆投下は如何なる理由を以てしても絶対に許されてはならないことであったということを、アメリカに対し、また、原爆投下を正当化するアメリカに異議申し立ても行うことができないままに60数年を打ち過ごしてきた日本政府に対して、広島、長崎が正面から主張することでなくてはならない、と思います。広島、長崎は「核兵器は人類と共存できない」「核兵器は人間の尊厳を根本から否定するものとして許されることがあってはならない」ことを内外に対して強力に発信しなくてはならないのではないでしょうか。久間発言、アメリカ国務省高官発言がエピソードとして忘れ去られることを許さないために、被爆地である広島、長崎は人類に対する使命を負っていることを私は心の底から訴えたいと思います。広島、長崎が内外に向けて強力な発信をしなければ、国民保護計画が全国的に決められるこの危機的な状況を変えることはできません。そして、アメリカをして核固執政策の愚かさを認識させることもできません。

私は、日本政府の核に関する二重基準の政策(アメリカの「核の傘」に入りながら、非核三原則をいう矛盾を極める政策)を許してきた日本国民の一大覚醒を求めます。そして、日本がらみのすべての戦争が核戦争に発展してしまう危険性を持っていることを認識し、核廃絶を実現するためには、日本にかかわるすべての戦争を否定し、拒否しなければならないことをすべての国民が徹底して考えることを求めます。「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」を空念仏にさせないために、今こそ日本全国民が本気で核廃絶と日本国憲法第9条の大切さに思いをいたすべきであることを訴えたいと思います。

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