久間防衛相の原爆投下容認発言の重大性

2007.07.01

久間防衛相が6月30日に千葉県柏市の麗澤大学で行った講演の中で、アメリカが広島、長崎に原爆を投下したことを容認する発言を行いました。朝日新聞が掲載した発言要旨と中国新聞が掲載した共同配信の発言要旨を見比べましたが、大筋において一致していますので、久間防衛相は間違いなく重大発言を行ったことが確認できます。7月1日付の朝日新聞及び中国新聞は、被爆者や関係者のコメントを載せ、久間防衛相を糾弾しています。久間防衛相発言の重大性についての私の判断を記しておきたいと思います。(7月1日記)

私がとくに重大であると思った久間防衛相の発言は次の2点です。一つは、多くの人が批判の対象としていることと同じですが、長崎に原爆を落としたことに関して、「あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」と述べた点です(久間氏は、ソ連参戦による北海道占領の可能性と関連づけて、この発言を行っています。アメリカの原爆投下において、久間氏が指摘するような考慮が働いていたことはないということは、数多くの研究から明らかになっていることですから、同氏の歴史認識のいい加減さには呆れるほかありませんが、その点はおいておきます)。

「原爆投下は、目的如何によっては正当化される」という発想が同氏の発言に潜んでいることが何よりも問題です。核兵器こそは、その無差別大量虐殺の本質において、そして、放射線による長期にわたる人間破壊の反人道を極めるその残虐性において、如何なる目的を以てしてもその使用(従って保有)が許されてはならないものであり、その観点からアメリカの原爆投下に対しては妥協ない批判を行わなければならない、という根本的認識がまったく欠落しているところに、久間発言の最大の問題があるのです。

第二に、久間氏は、「国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうこと(原爆使用)も選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った」とも述べています。ここでも根底にあるのは、「原爆投下は、目的如何によっては正当化される」という発想が根底にあることは明らかですが、それに加えて私たちが重大視しなければならないのは、この発言は将来的なことをも念頭に置いた発言であるということです。つまり、久間氏は将来においても、目的如何によっては核兵器の使用が認められる場合がある、と認識しているということです。

私は、この発言を読んで、国民保護計画を連想しました。周知の通り、国民保護計画では核戦争を想定しています。核戦争が起こることを想定する国民保護計画を平然と作る神経の自公連立政府・政権与党にとっては、将来に向けての核戦争は当然「想定内のこと」なのです。それが「国際情勢…などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな」という発言につながっているのではないでしょうか。

私は、私たちが国民保護計画に対して無関心を決め込んできたことが久間防衛相の今回の発言を許す土壌を生み出していると思います。逆に言うならば、国民保護計画の恐るべき内容に対して、私たちが鋭く反対の世論を高めていたならば、国民の健全な「核アレルギー」の確かな存在を認識させられるはずの政治家たちが、久間発言に見られるような発想に走ることはあり得なかったのではないでしょうか。たとえば、多くの国民が年金問題について示したような強烈な抗議の意思を国民保護計画(さらには危険な日米軍事同盟の暴走ぶり)に対して表していたならば、今回のような事態を許すはずはなかった、と思うのです。

そうです。私たち自身の「ノーモア・ヒロシマ/ナガサキ ノーモア・ウオー」の確かさが深刻に問われていることを、今回の久間発言がもっとも痛烈な皮肉な形で示しています。私たちは、久間氏を厳しく糾弾すると同時に、私たち自身の平和意識の確かさを見つめ直すことが急務だと思います。核兵器廃絶を実現する決意と憲法第9条を変えさせない決意が一体になってはじめて、私たちは久間発言に象徴される自公政治の暴走に「待った」をかけることができるということを知らなければならないと思います。

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