アメリカ追随外交の日本に未来はあるか

2007.06.24

* 労働組合の雑誌に求められて寄稿した文章を掲載しておきます(6月24日)。

1.アメリカの世界戦略と日本の対米追随外交

<アメリカの世界戦略>

 アメリカの世界戦略を本格的に論じようとすれば、それだけで優に一冊の本を必要とするだろう。ここでは、日本の対米追随外交について考察する上で必要最小限の範囲に限定して、その特徴的要素を指摘する。

 二〇〇七年二月にアーミテージ(二〇〇〇年一〇月に、日本に集団的自衛権行使を要求するアーミテージ報告(以下「第一次報告」)を出し、第一期ブッシュ政権で国務副長官として対日政策最高責任者だった人物)とジョセフ・ナイ(クリントン政権期にいわゆるナイ・イニシアティヴにより、クリントン・橋本の日米安保共同宣言発出などを手がけた人物)が中心となってまとめた超党派の政策提言「日米同盟:二〇二〇年に向けてアジアを正す」(以下「第二次報告」)は、アメリカの世界戦略を考える上で有益である。確かに報告は、アメリカにとっての重要性が飛躍的に高まるアジアに焦点を絞っているが、この報告からアメリカの世界戦略の根幹を読み取ることはむずかしい作業ではない。

 客観的にいって、米ソ冷戦が終結した後の国際情勢に対して、アメリカが的確な情勢分析に基づく体系だった世界戦略を打ち出したという評価を行うことはむずかしい。ブッシュ政権は、九・一一事件という国際犯罪を軍事的脅威と断定する致命的判断ミスを犯し、「対テロ・ならず者国家戦争」をアメリカの長期にわたる戦略課題と位置づけることによって、アメリカ自身のみならず、国際社会に重大な混乱要因を持ち込んだ。

 第二次報告は、以上のような二〇年近いアメリカの世界戦略の不在及び混迷を意識し、二〇二〇年に向けたアメリカの取るべき世界戦略を(アジアを中心にして)提起しようとしている。そのキー・ワードは、二〇〇二年及び二〇〇六年の「国家安全保障戦略」で用いられた言葉でもある「自由に組みする力の均衡」である。しかし、それはブッシュ政権の政策を丸ごと踏襲するという意味ではない。むしろ、同じ言葉を用いつつ、ブッシュ政権における偏向を正し、アメリカが本来目指すべき世界戦略の姿を定義し直すという意図を読み取ることができる。

 ブッシュ路線からの決別とそれに代わるべき世界戦略とは何か。第二次報告の次の一文は、その答えである。「目下、より緊急を要するのは、死をもたらす恐るべきイスラム過激主義に立ち向かうことかもしれない。だが、より長期的には、主要諸大国の協力確保が至上命令である。それこそが、持続的かつ効果的な米外交政策を策定する原理でなければならない。」そこでいわれる主要諸大国の中核として第二次報告が指摘するのは、「米国、日本、中国、ロシア、インド、そして欧州の間の協力関係」である。「力の均衡」とは、大国間のものとして位置づけられているのが最大の特徴だ。また、ロシア及び欧州をのぞけば、日本、中国、インドが重点となる点で、アジアに大きな力点がおかれることも見えてくる。そして、「アジアにおける米国の地位の礎石は、これからもずっと日米同盟である」ということで、日本を格別に重視する姿勢が導かれる。

 それでは、「力の均衡」が「自由に組みする」という修飾語を伴うことを、どう理解するべきか。第二次報告の次の一節は、報告のタイトルにある「アジアを正す」ことの意味についての説明だが、「自由に組みする」の意味あいを理解する手がかりを与える。「アジアを正すということは、米国の価値観をこの地域に押し付けることではない。むしろ、地域の指導者たちが、米国の政治的、経済的な諸目標と共鳴する形で、自国の成功の意義付けを行えるような環境を促すことである。」

 直ちに分かるように、ここでは明らかにアメリカの価値観の優位性・正当性が当然の前提となっている。例えば、アメリカの価値観を共有することを誓約する大国(日本)は、アメリカとの友好関係を期待できるし、そうでない大国(中国)は対米関係にそれなりの覚悟をもって臨まなければならなくなる、ということが意味されているということだ。

<日本の対米追随外交>

 第一次報告は日本を酷評していたが、第二次報告は、ブッシュ政権の対テロ戦略には明確に距離を置きながらも(前述)、小泉政権のもとでの日本との関係については手放しで最大限の評価をしている。また、名指しはしないものの、安倍政権に対しても強い期待感を示している。 その場合に重要なポイントは、アメリカの価値観を日本が共有すると誓約することであり、現実の日本政治において人権・民主が行われているかどうかは、アメリカには関心がない(これはひとり日本についてそうであるということではなく、アメリカの価値観外交における二重基準はよく知られている)。

日本の対米追随外交の系譜を分析することは、本稿の目的を超えている。しかし、はじめは受け身的だった対米追随が、日本の経済大国化とともに、アメリカと一体になることによって政治的・経済的・外交的・軍事的利益を追求するという積極的対米追随へと変質してきたことは確認しておきたい。そのもっとも露骨な表れは、アメリカ主導の新自由主義(市場至上主義)に対する日本財界の全面的コミットであり、アメリカが世界規模で進める米軍再編・ミサイル防衛計画に対する日本政府の全面的協力である。

対米追随外交の弊害は、あまりにも明らかである。新自由主義の「改革」が日本社会の隅々にまであらゆる形の格差を引き起こしていることは、今やよく知られている。本来市場原理を持ち込んではならない教育、福祉、医療、行政、農業などの分野が荒廃を深めている現実を見れば、一刻も早い市場原理との決別の必要は自明だ。また、日米軍事一体化、在日米軍再編、日本全土の米軍基地化が進行する日米軍事同盟強化路線は、アジアのみならず世界の平和と安定に対する脅威となりつつある。その路線をさらに推し進めようとする改憲策動の危険性に対しては、世論調査においても危機感が醸成されつつある。

また、日本の保守勢力が進める対米追随外交に落とし穴がないわけではない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核実験直後に起こった日本の核武装問題に関する中川政調会長や麻生外相などの発言、あるいは安倍首相のいわゆる従軍慰安婦に関する発言を契機に、アメリカ国内では「アメリカの言うことを聞かない日本」の可能性に対する敏感な反応が現れ、日米関係に潜む潜在的脆弱性(「価値観の共有」という虚構)が露呈された。アメリカという虎の尾を日本が踏みつければ、日米関係は暗転するエネルギーを秘めている。

2.歪んだアジア外交

 近年顕著なのは、中国、韓国など近隣アジア諸国と日本との関係が緊張含みであることである。その直接の原因を作ったのは、いうまでもなく、小泉首相(当時)が毎年強行した靖国神社参拝だった。この行動は、日本が侵略戦争・植民地支配の過去を反省せず、そのためにその過去を再び繰り返す危険性を示す(その具体化が小泉政権下で進んだ自衛隊の海外派兵)ものとして深刻に受けとめられた。

 問題は、そういう体質を戦後保守政治が持っており、年を追ってその体質を露わにしてきたにもかかわらず、アメリカが一貫して大目に見てきたことである。というより、アメリカは、日本の保守勢力がどのような反動的傾向を強めようが無関心を決め込んできた。しかし、日本に侵略された体験を持つアジア諸国が、軍事大国化を強める日本が同時に過去を美化する体質を露わにすることに警戒を強めるのは当然なことである。

つまり、今日の日本のアジア外交の歪みは、対米追随外交の負の側面とも言える。アメリカとしても、日本が原因となって日韓、日中関係が収拾不可能なまでに悪化することに対しては無関心でいられるはずはない。しかし、第二次報告によって判断する限り、アメリカがこの問題に対して認識を深めている形跡は窺えない。既に述べたように、アメリカの利害に直接かかわる事態(尾を踏まれた)と判断しない限り、アメリカが日本のアジア外交に干渉することは予想しにくい。現在の保守政治が対米追随外交に徹する限り、日本のアジア外交の前途を楽観できる材料は乏しい。

3.日本外交の転換は可能か

 私は、二一世紀の国際社会が目指すべき主要な課題は二つあると考える。一つは、人権・民主の国際的普遍化であり、今ひとつは、「力による」平和観(そこから出てくるのがアメリカの「力の均衡」政策)に代えて、「力によらない」平和観(そこからは、国際的な民主関係を推進する政策が導き出される)を、国際関係を規律する原則として確立することである。

 幸いなことに、私たちには日本国憲法という形で現存する指針を持っている。日本国憲法に基づく平和外交こそ、対米追随外交そして歪んだアジア外交を根本的に正す代替軸を示している。憲法は六〇年の時を経て時代遅れになった、とする主張があるが、憲法の根本をなす人権・民主観そして「力によらない」平和観は、正に二一世紀の国際社会が進むべき方向を指し示している。

 改憲を主張する自民党ですら、国民主権(すなわち民主)、基本的人権及び平和主義の憲法の三大原則は堅持するといっている。それでいて、国家主義をもって人権・民主を封圧し、平和主義については「力による」平和観で換骨奪胎しようとしているのが実態である。私たちは、本来の三大原則を堅持しなければならないし、ということは日本国憲法を堅持するということであり、憲法に立脚した外交を積極的に行うということでなければならない。

 日本が憲法に立脚する人権・民主外交及び「力によらない」平和外交を実践するとき、その実践そのものが、アメリカによる「自由に組みする力の均衡」の世界戦略に対して、もっとも有力な国際的代替軸を国際社会に対して示すことになる。つまり、アメリカ的価値観ではなくして普遍的価値観を提起することであり、「力による」平和観による権力政治ではなく「力によらない」平和観に立脚した脱権力政治を提起することである。

 そのようなことは可能か。可能である。私たち主権者である国民が、自民党支配に引導を渡し、主権者として国家をして国民に奉仕する役割に徹するようにさせればよいのだから。問われているのは、ただひとえに主権者・国民がそういう政治的意志を明らかにする決意をもっているかということである。

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