5・3憲法集会での発言

2007.05.04

*5月3日に東京で憲法集会があり、そこで発言したこと紹介します。(2007年5月4日記)

皆さんこんにちは。広島平和研究所の浅井基文と申します。改憲攻勢が強まっている今、私は、三つの点に絞ってお話しさせていただきたいと思います。

 最初は、改憲派の危険を極める狙いを明らかにする必要があるということです。
 改憲派の最大の目標の一つが第9条を変えることにあることは、よく知られています。そこには、大きくいって、二つの狙いがあります。
一つは、「力によらない」平和観に立った「戦争しない国」という国家としてのあり方を、「力による」平和観のチャンピオンであるアメリカの言うとおりになる「戦争する国」に変えることです。小泉・安倍政治の下で、在日米軍再編計画、日米軍事一体化、日本全土の米軍基地化が強行されてきました。しかしアメリカは、日米同盟が米英同盟並みに機能すること、つまり、アメリカの指揮の下で、日本の軍隊が世界各地で戦争することを要求しています。そのためには、第9条はどうしても邪魔なのです。
この問題は、集団的自衛権を行使することの是非という形で議論されておりますが、この誤った議論を早急に正し、問題の本質を明らかにしなければなりません。
国連憲章で認める自衛権とは、他国から攻撃があった場合に反撃する権利と厳しく限定されています。日本国内の議論は、アメリカが攻撃を受けたときに、同盟国の日本が黙って何もしないわけにはいかないとするもので、一見すると、集団自衛権の問題であるかのように見えます。 しかし、イラク戦争で明らかなように、アメリカが主に考えているのは、他国から仕掛けられて応戦する自衛戦争ではなく、他国に襲いかかる先制攻撃の侵略戦争です。これは、国際法違反で、禁じられています。その違法な戦争でアメリカに攻撃された国家がアメリカに反撃することは、正に国連憲章で認められている自衛権の行使であります。
日本国内の議論は、この出発点を完全に無視しているのです。自衛権を行使して反撃してくる相手を、日本がアメリカと一緒になってさらに殴り返すということは、集団的自衛権の行使でも何でもありません。
分かりやすい例を申し上げます。日本はかつて中国に対して侵略戦争を行いました。中国は、日本に対して自衛の抵抗戦争を行ったのです。日本はその中国を殴り返したのですが、これを「自衛権の行使だ」と正当化する議論はないでしょう。
ちなみに、自民党が2005年に発表した新憲法草案第9条の2では、自衛軍の保持を定めた上で、「自衛軍は、…国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動…を行うことができる」とする規定をおいています。どこにも集団的自衛権という言葉を使っていません。 この「国際協調」という言葉は、イラク戦争に際して自衛隊のイラク派遣を正当化するために、盛んに使われたものです。当時政府は、過去のいくつかの安保理決議によって、アメリカのイラク戦争は法的根拠のあるものだと強弁し、そのアメリカに協力することを「国際協調」だからいいのだ、と言い張ったのです。
この点で民主党の立場は、基本的に自民党と同じです。民主党は、2004年に「「創憲」に向けた憲法提言「中間報告」」を出しています。そこでは、「国連安保理もしくは国連総会の決議による正統性を有する集団安全保障活動には、これに関与できることを明確にし、地球規模の脅威と国際人権保障のために、日本が責任をもってその役割を果たすことを鮮明にする」と言っています。
つまり、自民党も民主党も、集団的自衛権の行使ということで問題をとらえているのではありません。アメリカ主導の侵略戦争に加担することを、国際協調とか国連のお墨付きを口実にして正当化しようとしているのです。しかし、メディアをはじめ、国民のほとんどが「アメリカが攻撃されたら」式の議論でごまかされているのは好都合なので、彼等も頬被りしているだけのことです。
繰り返しになりますが、私たちがしっかり認識しておく必要があることは、次のことです。 第9条改憲の是非をめぐる本質は、集団的自衛権行使云々の次元の問題ではありません。 問題の本質は、アメリカを中心とする国際的な軍事行動に、日本が「国際協調」「国連安保理もしくは国連総会の決議による正統性を有する集団安全保障活動」であるとして、参加することの是非なのです。
私は皆さんに、正確なアメリカ観を持つだけではなく、正確な国連観を養うこともお願いしたいと思います。少なくとも、「国連は正義の味方」「国連がやることはすべて正しい」という類の単純なきめこみは持たないことです。国連が間違った、あるいは武力行使の決定・行動をとるときには、私たちは、その非を明らかにし、正すために行動するべきなのです。
日本国憲法と国連憲章の間では、拠って立つ平和観において根本的な違いがあります。第二次世界大戦において日独伊の全体主義陣営の侵略戦争を受けて立った、いわば被害者である連合国は、そういうときの軍事的備えをしておく必要性があるとし、国連憲章で「力による」平和観をとったのです。しかし、侵略戦争における加害者だった日本は、その過去を反省し、二度と加害者の立場に立たないことを国際的に約束する「力によらない」平和観の第9条を設けたのです。
「国際協調の軍事行動はいい」、「国連に対する協力の武力行使ならいい」、等といった安易な議論に屈し、改憲派の主張を受け入れてしまうならば、私たちは再び歴史の過ちを繰り返すことになります。「力によらない」平和観の第9条を堅持することこそが、国際社会の日本に対する信頼を確かなものにするのです。
さて、第9条を変えようとする改憲派のもう一つの狙いは、国家観の問題に集中していると言っても過言ではないと思います。彼等が改憲で狙っているのは、これまた歴史のゴミ箱に葬り去られたはずの古くさい国家観、つまり「国家を個人の上におく」国家観を私たちに押しつけることです。
自民党新憲法草案の第12条及び第13条がそれです。ここでは、「公共の福祉」という日本国憲法の文言が「公益及び公の秩序」という文言に置きかえられます。「公益及び公の秩序」とは、「国益」「国家の安全」を指します。たった一言の置き換えだけによって、憲法の定める人権はすべて国益や国家の安全に従属させられることになります。正に国家が再び個人の上に来るのです。
自民党新憲法草案は、改憲賛成の人たちの間で要求が多い「新しい人権」についても規定して、そういう人たちの支持の取り込みを図っています。しかし、それらの権利も、「国益」「国家の安全」に従うことになるのですから、改憲派にとって痛くもかゆくもありません。
後でも紹介しますが、昨日(5月2日)の朝日新聞の世論調査で際だっていた数字がありました。憲法全体を見て改正する必要があるかという問いかけに対して、「必要がある」と答えた人が去年の55%から今年は58%に増えているのですが、そう答えた人に理由を尋ねたのに対する答えとして、「新しい権利や制度を盛り込むべきだ」とした人が、去年は38%だったのに、今年はなんと2倍を超える84%にもなっているのです。
私たちのこれからの大きな課題の一つは、「新しい権利」を盛り込むべきだとして改憲に賛成する人たちに、「いかなる人権も、「個人を国家の上に置く」国家であってはじめて真に保障されるのであり、いくら明文で書き込んでも、「国家を個人の上に置く」国家にされてしまったら、新しい人権だけでなく、すべての人権が国家の意のままにされてしまうことになる」ということを理解してもらい、改憲阻止の必要性を認識してもらうことにあると思います。
話を元に戻します。私は、日本国の基本法である日本国憲法は、「個人を国家の上におく」国家観を体現していることを強調したいのです。いかなる国家観も抜きにした国家の基本法などあり得るわけがありません。しかし、長く「護憲派」といわれた私たちが国家の問題を正面から取り上げることを避けてきたことは事実だと思います。
安倍首相はかつて、「戦後日本は、60年前の戦争の原因と敗戦の理由をひたすら国家主義に求めた。その結果、戦後の日本人の心性のどこかに、国家=悪という方程式がビルトインされてしまった。だから、国家的見地からの発想がなかなかできない。いやむしろ忌避するような傾向が強い。戦後教育の蹉跌のひとつである。」と発言したことがあります。彼の意図が教育基本法をおとしめることにあるのは事実ですが、私たちに国家観がないという「弱さ」を鋭くついていることは、認める必要があると思います。
これからの私たちに必要な課題は、「個人の尊厳」を根底においた国家観、すなわち「個人を国家の上におく」国家観をしっかりと我がものにし、積極的に個人と国家の関係のあり方を語り、改憲派の古くさい国家観をあぶり出し、批判し尽くすことではないでしょうか。

 今日ここでお話ししたい第二の問題は、平和憲法を守りきるためには、すべての護憲勢力が小異を残して大同に就く、つまりさまざまな主張・立場の違いを乗りこえて、日本国憲法の改悪を許さないという一点で団結することが今日ほど求められているときはない、ということです。 その点で、私は、最近の二つの動きに注目しています。
まず、私は、各地の「9条の会」が非常に大きな可能性を持っていると実感しています。私は今、主に西日本を中心にしてお話に伺う機会が多いのですが、その際各地でお聞きするお話で、とても心強く感じ、励まされることがあります。それは、他の問題では一緒に行動することなど考えられないけれども、憲法第9条を守るという一点で主張・立場の違いを脇に置いて、「9条の会」を立ちあげることができたということを、各地の方が異口同音に紹介されることです。
 もう一つ、私がとても力づけられていることはメディアの世論調査の動きです。
メディアにおける改憲派の先頭に立つ読売新聞の世論調査の結果、憲法「改正」賛成の数字は、2006年の55.5%から2007年には46.2%と9ポイントも落ち込んでいます。読売新聞自体が認めるように、この落ち込みの流れは、2004年の賛成約65%をピークにして、その後3年間の調査では一貫しています。3年間で約20%も改憲賛成が減ったということになります。それに対して「改正」反対の数字は、2006年の32.2%から2007年には39.1%と約7ポイント増えています。
私が読んでいる沖縄タイムスの世論調査でも、4月30日付の同紙社説が指摘するように、「9条「見直し」には警戒感が広がっている」事実を読み取ることができます。まだ私自身は確認できていませんが、NHKの世論調査でも同じ傾向が読み取れるという指摘もあります。
昨日(5月2日)の朝日新聞に載った憲法に関する世論調査の結果も元気づけられるものでした。去年の数字と比較しますと、明らかに同じ流れを見て取ることができるのです。第9条の改正について、賛成は去年の42%から今年は33%に9ポイントも下がりました。反対は、42%から49%へと7ポイント上がっています。次の数字もあります。憲法を改正して自衛隊の存在を明記する必要があるか、という問いかけに対して、「必要がある」が去年の62%から今年の56%へと、依然過半数ではありますが6ポイント減、「必要がない」が28%から31%へと3ポイント増加しています。憲法第9条を変えることに慎重な人たちが増えていることは間違いありません。
このような傾向が見られる背景を考えることはむずかしいことではありません。小泉・安倍政治の下で強行されてきた際限のない対米軍事協力の進行、その裏返しとして、第9条が空洞化されることに対する国民の警戒感の高まりが一つ。もう一つは、先の沖縄タイムス社説が指摘するように、「安倍政権になって加速する改憲論議に、国民が慎重さを求めている」ことです。 私は、今日のこの機会に、共産党の志位委員長と社民党の福島党首に心からお願いしたいことがあります。憲法改悪を阻止する潜在的な国民的エネルギーを結集するためには、両党が小異を残して大道に就かなければ、展望は出てきません。しかし、私が各地に伺ってしばしば経験するのは、第一線における両党の党員・支持者の間の溝の深さであり、歴史的に積み重なってきた相互不信の根強さです。
自民党と民主党を中心とし、改憲派を糾合する政界再編はいずれ避けられないでしょう。そういう大状況を前にしてもなお、共産党と社民党が改憲阻止で手を結ぶことができないというのであれば、両党の国民に対する政治的責任はきわめて重い、と申し上げないわけにはいきません。

 最後に申し上げたいことは、平和憲法を守りきれるか否かは、ひとえに主権者である私たち国民が一大奮起・一大覚醒することができるかどうかにかかっているということです。
 私は各地で、メディアをも巻き込んだ改憲派の攻勢の前に、「どうやったら自分たちの声を多数派にできるのか?」という深刻な問いかけに接します。簡単な答えなど、あろうはずがありません。しかし、確かなことが少なくとも三つあります。
一つは、「個人を国家の上におく」国家観を体現し、「力によらない」平和観に立脚する日本国憲法こそ、21世紀の日本そして国際社会の進むべき進路を代表しているということです。 もう一つは、「量的な変化を積み重ねていくことによってのみ、質的な変化をもたらすことができる」ということです。
そして、もう一つ確かなことは、「諦めたらおしまい」ということです。
すでに申し上げたように、「9条の会」の活動の広がりや、各種世論調査の結果は、憲法改悪を阻止する国民的なエネルギーが確実な高まりを示し始めていることを物語っています。私たちは、日本国憲法に確信を持ち、世の中の動きに関する弁証法的発展にも確信を持って、国民の一大奮起・一大覚醒を促す地道な働きかけを積み重ねていこうではありませんか。

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