子どもの権利条約と障害児の権利

2007.03.04

*以下の文章は、2月18日に障害者自立支援法の権利侵害・全国集会で「子どもの権利条約と障害児の権利」というタイトルでお話ししたものをベースにしています。主催者がテープ起こしをして下ったので、それを基礎に肉付けを加えたものです。障害者自立支援法が希代の悪法であることはますます明らかになってきていますし、政府自身もいろいろな対策を講じざるを得なくなっていますが、この法律の根幹に座る応益負担という福祉の分野には当てはめてはならない市場原理の考え方は、福祉分野の「改革」の根幹に関わるものだけに、政府は根本的に見直すことに抵抗しています。私たちは、福祉、医療、教育などの分野に市場原理を持ち込むこと自体が根本的に間違っていることを明らかにし、政府の「改革」そのものを厳しく批判していかなければならないと思います。そういう気持ちを根底に起きながら、障害児の権利を子どもの権利条約を基礎に起きながら考えたものとして読んでいただければ幸いです。(2007年3月4日記)

みなさん、こんにちは。

私にとって、障害のある孫娘を得ていなければ、障害者・児の権利という誰もが真剣に考えなければならない問題を、ここまで深く考えるようになったかどうか、正直申して分かりません。それほど孫娘の存在は、私が物事を深く考えるようになる上で、とてつもなく大きなものがあります。今日は、孫娘のことを脳裏におきながら、お話しさせていただきます。

私は、この1ヶ月あまりの間、子どもの権利条約、特に障害児の権利について、一生懸命勉強しました。今日は、私が学んだことを、みなさんにご報告することを主眼にしています。私は、福祉に関して門外漢であり、障害者自立支援法(以下「自立支援法」)、児童福祉法も一生懸命勉強しましたが、やっぱり難しいですね。子どもの権利条約(以下「条約」)についても、今回の準備にあたる中で、改めて勉強しなおしました。

国連・子どもの権利委員会は、2006年までに一般的意見として、「障害のある子どもの権利」(9号)、「乳幼児期における子どもの権利の実施」(7号)、「子どもの権利条約に関する一般的措置」(5号)という題名の意見をだしています。これらの文献にも一通り目を通しました。また、後にも出てきますように、日本政府の国連・子どもの権利委員会(以下「委員会」)に対する2回の報告書、これらの報告書に対する委員会の2回の「最終見解」、日本弁護士連合会がNGOとして委員会に提出した報告が本になったものである『問われる 子どもの人権』、岩波新書『ハンドブック 子どもの権利条約』、下村哲夫編『児童の権利条約』 さらには、清水寛『人間のいのちと権利』、白石正久『発達をはぐくむ目と心』、茂木俊彦等『障害者自立支援法と子どもの権利』なども参考にさせていただきました。

1 3つの立場からの視点とお話の全体像

今日のお話の内容は、私の3つの立場をふまえたものになります。1つは、先ほども申しましたように、障害のある孫娘をもっているということです。彼女は、身体が大きくなることができないという、世界でもまれな難病です。今、8歳になりますが、発達年齢は4歳ぐらいだといわれています。とはいっても彼女は、「あいうえお」も全部言えるようになり、私も驚くほどに、着実な発達を示していて、非常に大きな可能性を持っています。ですから、障害のある子として固定的に見るということは、肝に銘じてしないようにしています。

2つめは、障害者・児を含むあらゆる問題に取り組むにあたって、根底にすえられなければならない普遍的な価値があると考えているということです。それは、人間の尊厳だと考えています。この普遍的価値は、人間関係について考えるときだけではなく、政治や経済などの国内のあらゆる問題、国際関係の様々な問題を見るうえでも、常に物事の判断の根本的モノサシとして、常に私の思考の根底にあるものです。決して大げさな言い方ではなく、私は、人間の尊厳を根底にすえた物事に対する見方が、人類の歴史に沿ったものになると確信しています。子どもの権利条約や障害児の権利を扱うときにも、もちろん人間の尊厳を根底におかなければならないと常々考えています。

私は、かつて外務省で国際人権規約などの国会承認の事務を直接担当した経験があるというのが、3つめの立場です。つまり、子どもの権利条約のような多国間条約の性格とか特徴とかについては、ある程度理解をしていると思います。この3つの立場をふまえて、これからお話をしたいと思います。

ちなみに、今回の準備の過程で知ったのですが、福岡県の平野裕二さんが「ARC(Action for the Rights of Children」というNGOを立ち上げています。彼の「子どもの権利・国際情報サイト」は、非常に参考価値の高いものです。彼は、国連・子どもの権利委員会の「一般的意見」を自分で訳して、サイトに掲載しています。そのほかにも様々な資料を紹介していますので、ぜひ、1度ご覧になるといいと思います。そのURLは、http://homepage2.nifty.com/childrights/inex.htmです。

次に今日のお話の全体像についてご紹介しておきます。29ページもの長いレジュメを用意いたしましたので、皆さんが見たくもない、と思われると困りますので、まず全体の構成について、簡単に説明させていただきます。

まず、普遍的価値としての「人間の尊厳」という点から、問題にアプローチすることの重要性についてお話しするつもりです。

次いで、条約が扱っている子どもの権利の条文の内容を理解する上での指針・手がかりを扱っています。条約をお読みになると分かると思いますが、第1条から順番に全体を読んでいくだけでは、条約が扱っている子どもの権利の全体像を理解することがなかなか難しいと思います。私自身の実感としても、条約の条文だけからでは、なかなか条約の重要性をしっかり理解できませんでした。そこで、条約が扱っている子どもの権利を、どのようなカテゴリーに分類すれば理解しやすくなるのか、条約はとくに子どもの権利の中でもカギとなる条文としてどこを重視しているのか、ということを理解する上で、私が学習する中で行き当たった3つの分類方法をあげています。

第三に、多国間条約としての子どもの権利条約の性格についてお話しするようレジュメを作っています。多くの国が参加して成立する条約というのは、たとえば日米、日中という2国間の条約とはかなり性質が異なります。それは、多くの国が参加していることによって、多国間条約特有のいろいろな特徴・性格が出てくるということにあります。

レジュメの第4番目のテーマは、国連に障害児の声を届けようとする際の1番のポイントなる、自立支援法と憲法を含む関係法律や条約との関係です。私は、今回の準備をすることによって、障害者自立支援法は日本国憲法、子どもの権利条約、児童福祉法に違反しているということに確信を持つことができました。この点について、是非みなさんと認識を共有のものとしたいと思います。そうすれば、私たちのこれからの闘い方として、政府や地方自治体に事態の改善を求めて働きかけるというだけではなく、違法な自立支援法を司法の場で明らかにし、政府をして自立支援法を断念させるという闘いをも展望できるようになると思うのです。

レジュメの5番目のテーマは主要条文の検討です。レジュメでは、条約の条文の中で障害児の権利に関わる部分を抜粋して、説明を加えています。私自身もまだまだ勉強の過程にあるので、不十分な抜粋になっていると思います。なお、よく知られているように、条約第23条は障害児の権利に関して独立した条文をおいています。レジュメでは、これらの点について、日本弁護士連合会の見解や、日本政府が提出した報告書の関連部分、委員会が出した最終見解の関連する部分をまとめています。ただし、今日は時間がありませんので、この部分については立ち入ることができないと思います。

これからレジュメに即してお話ししますが、その前に強調しておきたいことがあります。つまり、日本政府の2つの報告書は、障害者自立支援法が成立する以前のものです。また、本来は、去年(2006年)に日本政府は委員会に第3回目の報告書を提出しなければならなかったのですが、まだ提出していません。政府は報告書の準備をしているようですが、自立支援法の扱いについて苦労していると思います。この法律は、障害児の扱いが非常に厳しいものになっているため、もしかすると政府の報告書では、障害児関連の部分を記載しない可能性があると思います。そこで、みなさんが障害児の問題に焦点を当てたNGO見解を委員会に提出するということは、とても重要なことだと思います。そういう鋭い指摘を皆さんが行わないと、委員会も問題の所在をつかめず、委員会の第3回目の最終見解で、障害児の権利が矮小化されたものにされる危険性もあります。

またNGOの見解では、自立支援法が子どもの権利条約や憲法、児童福祉法に反するものであることを明確に指摘する必要があります。委員会は、日本政府の報告を受けて、数年かけて審査し、日本政府に対する最終見解を出すことになりますが、その際にNGOなどの見解をきわめて重視しています。その点については、委員会が、政府の報告だけでは出てきようがない内容の、政府に対してきわめて厳しい内容の最終見解を出していることからも推測できます。それは、NGOなどからの実態の報告があるために、日本政府に厳しい最終見解が出せたということです。つまり、みなさんが提出しようとしている意見というのは、委員会でも重視されることは間違いありません。教育の問題だけではなく、自立支援法で、子どもの問題が大変な実態になっていることをまとめ、国連に届けることは、非常に重要な意味を持っているといえます。

2 人間の尊厳は普遍的な価値基準

私は、物事の判断をする最も重要なモノサシは、人間の尊厳にあると思います。人間の尊厳というとやや抽象的になりますが、それを具体化したものが人権であり民主主義だといえます。

(1)人間の尊厳の歩み

奴隷制の社会から今日の社会までの人類の歴史を見ますと、紆余曲折はありますが、人間の尊厳を認め、実現する方向で人類の歴史は動いていることを確認することができます。人間の尊厳という考え方は、西洋の人間解放の歴史の中から生まれたもので、日本が位置する東洋の歴史の中で自立的に生まれてきたものではありません。人間の尊厳という普遍的価値の起源は西洋にあり、アメリカの独立やフランスの人権宣言を経て、普遍的価値として認められるようになってきました。ただし、その当時は、実際に人間の尊厳が守られていたのは資産階級などの金持ちに限られていました。人間の尊厳は金持ちだけに限定されるものではなく、人間であれば誰でも尊厳をもっているという考えを確立したのが、レーニンの社会主義革命以降の動きであったと思います。

第2次世界大戦を経て、国連憲章で民族自決の原則が認められ、先進国だけではなく発展途上国においても、民族自決を通して人間の尊厳を実現するという理念が確立してきました。今や人間の尊厳は普遍的価値として確立した、ということができるのです。今日では、人間の尊厳を否定する思想は、公然と自己主張することを憚らざるを得ません。日本では、国家主義の主張や戦争する国を目指す動きが出てきていますが、そういう主張をする人々でも、公然と人間の尊厳を否定することはできません。人間の尊厳に対する正面からの攻撃は、もはや誰もできないということ自体、人間の尊厳が普遍的な価値として確立したことを示していると思います。

人間の尊厳は価値観としては確立しましたが、たとえば日本社会の現実を見ると、障害児の問題が典型的に示しているように、子どもたちの人間としての尊厳を奪い、生きていくことすらできないようにしている現状があります。つまり、20世紀の国際社会・人類史における最大の成果は、人間の尊厳という普遍的な価値が国際的に確立したことにありますが、21世紀の課題は、価値観として確立した人間の尊厳を日本や国際社会でどのように実現していくのか、どのようにして人間の尊厳があらゆるところで貫かれる社会をつくり上げていくのか、ということだと思います。

(2)観念的な理解から全存在的実感へ

私は、理念的・歴史的に人間の尊厳をモノサシとして位置づけるようになってきましたが、それが私の全存在の切り離すことのできない一部として根付いたのは、孫娘が生まれてからのことでした。それまでは、人間の尊厳の大切さについての私の理解は、観念的な次元にとどまっていたと思います。

私は、先ほどもふれましたように、外務省で働いていたときに国際人権規約の国会承認の事務に携わっていましたが、今から考えると当時の私は、人間の尊厳を私自身のものにした上で取り組んではいませんでした。その当時の私は、条約の国会承認を得るという「仕事」という感じでした。つまり、日本が国際人権規約を承認したときに、国内の法律は1つも変更が加えられませんでした。それは、日本の既存の国内法で条約の定める義務の履行を担保できるとしたためです。おかしいなとは思いましたが、「仕事」として割り切る自分がいました。子どもの権利条約に関しても、政府は国内法を変更せずに批准しています。

もっと身近な例では、私がかつて障害のある人に接したときに、その人にどのように接したらいいのかと戸惑う自分がいました。そのときの私は、障害がある人の気持ちや考えを心底理解するすべをもっていませんでした。それは、私における人間の尊厳に対する理解が観念的な次元にとどまっていたために浅く、不十分であったためでした。

孫娘が生まれて8年になりますが、今では障害のある人に接しても、自然に接している自分がいます。それは、孫娘に日頃から接することで、この子を通じて、またこの子に接する人を見る過程で、いわば無意識の中で自分のものになってきたのだと思います。私は、今では、人間の尊厳という価値が、障害という問題を考える上でも自らの思考の中に貫徹していると感じることができます。

日頃、彼女と接していると、周囲の人の目や偏見・差別をヒシヒシと感じます。その現実は、日本の社会では人間の尊厳という価値を自身のものにしている人が少ないことを示しています。人間の尊厳を自身のものにすること、みんなが自分のものとして身につけることが、障害者も社会の一員として生活していくうえで必要不可欠なものだと思います。

(3)発達権の重要性

すでに触れましたように、今回のお話を準備する過程で、茂木俊彦先生、白石正久先生、清水寛先生の本を読んできました。特に白石先生の本からは、刺激的な示唆を得ました。そのなかでは、発達権という概念を積極的に提起し、その根拠として、憲法第13条にある幸福追求権が明確に指摘されていました。このことはまさに、みなさんの障害に取り組む実践が、憲法第13条に基づく発達保障、発達権という権利の存在に行き着いているのである、ということを私は新鮮な驚きを持って受け止めることができました。私は憲法、国際法等に関わってきましたが、率直に言って、発達権という権利の考え方を知りませんでした。そこで、第13条に関連する憲法の解説書を読みましたが、その中で幸福追求権には自己決定権を含むということまでは書かれていたのですが、発達権まで踏み込んでいたものはありませんでした。みなさんの実践の中から生まれてきた、自己決定権の一部としての発達権の概念が、憲法や人権を専門とする他の学問領域によっても認識されることが非常に重要だと思います。なぜならば、憲法の人権体系のなかに発達権を位置づかせていかないと、この権利は福祉の世界の中だけでしか通用しないということになってしまうことを心配するからです。今後、他の学問・研究領域との交流をすすめ、発達権という権利が市民権を獲得するようになっていってほしいと思います。私自身も、人間の尊厳を重視する立場から、自己決定権の一部としての発達権の存在を広く指摘していかなければいけないと思っています。

3 子どもの権利条約の内容を理解する上での指針・手がかり

(1)条約における子どもの権利の分類

まず、子どもの権利条約の条文について、学習する過程で、3つの分類方法に行き当たりました。1つは、ユニセフによる分類があります。ユニセフのホームページに掲載されていますが、生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利として4つの体系にまとめています。ただ、私は、ユニセフの分類では権利条約の理解が浅く、全面的なものになっていないと思います。

2つめは、レブラン(Lawrence J. LeBlanc,“The Convention of the Rights of the Child”)による分類があります。それは、一見するとユニセフの分類に似ているのですが、子どもとして生きる権利、社会の一員である権利、保護を受ける権利、見解を明らかにする権利の4つに分類されています。

3つめは、国連・子どもの権利委員会が各国の政府に対して報告書を出す場合のガイドラインとして示している文書の中で示さしている分類の仕方です。とくに、「一般原則」としてくくられているものが重要です。それは、条約中の子どもの権利の中でもとくに「差別の禁止」(第2条)、「子どもの最善の利益」(第3条)、「子どもの生命、生存及び発達に関する権利」(第6条)、「子どもの見解の尊重」(第12条)を、あらゆる他の権利の根底に座るものとして重視しています。今日のお話では、委員会の分類に沿っていきます。

ただし、子どもの権利、とくに障害児の権利の理解を正確にする上では、レブランの分類が優れていると思います。なぜレブランの認識が優れているかというと、障害児の権利を定めた第23条の意義を正確に捉えていると思われる点にあります。特に、障害児の生きる権利について、第6条は生命への権利に加えて生存・発達の確保を強調しているのですが、障害児の権利を定めた第23条第2項および第3項の意義はまさに生存・発達の確保を強調する趣旨でおかれている点にあると明確に指摘しているのです。これは、みなさんが実践されている発達保障、発達権の考え方と一致するものです。また、社会の一員である権利として、障害をもっていても社会の一員として対等に扱われる権利があるはずです。レブランの分類では、子どもの権利条約第23条第1項を差別の禁止(第2条)と結びつけて位置づけている点で、私たちが第23条の意味を正確に捉えることを可能にしています。

これに対して委員会の分類では、第23条は「基礎的保健および福祉」の範疇に属するものとして位置づけています。私は、この分類は、第23条の権利の内容の理解としては不十分だと思います。それは、第23条で表明されている障害児の権利は、保健および福祉の問題だけではなく、レブランもいうように、子どもとして生きる権利、社会の一員として生きる権利を含んでいるというのが正しい理解だと思うからです。

もう一つ強調しておきたいことがあります。子どもの権利条約の大きな特徴の一つは、子どもの見解を明らかにする権利(第12条)を重視している点であることはすでに申し上げました。それは、子どもは、親や先生の言うことを聞く存在ではなく、自分の見解を明らかにする権利をもっている存在として、立派な人格をもっている存在として捉える点です。この点は、子どもたちを校則で縛り付け、親のいうことに従わない子は悪い子だ、と決めつけがちな日本では、とくに強調しなければならない権利であるということを申し上げておきたいと思います。

また条約は、条約実施のための一般的措置として、立法・司法・行政において、条約を実現するための措置をとることを求めています(第4条)。これは具体的には、各国政府に国内法においてどのような措置を講じたのかを報告する義務を課すものです。とくに委員会が各国政府に報告を求めている重要なものは、一般原則である、差別の禁止、子どもの最善の利益、子どもの生命、生存及び発達に関する権利、子どもの意見の尊重(見解表明)の4つの条項です。

(2)多国間条約としての子どもの権利条約

子どもの権利条約は、多国間条約特有の性格を持っています。国連関係の多国間条約の正文は、英語・フランス語・ロシア語・スペイン語・中国語の5ヶ国語で普通は書かれています。そのため、普段、私たちが目にする日本語訳は、日本政府が作った訳文でしかありません。私たちは、その訳文にもとづいて物事を考えやすいのですが、それは正確なものではありません。条約の正しい理解をするためには、正文に基づいて考えることが必要です。そのことが必要な理由は、子どもの権利条約について多くの指摘があるように、政府訳の日本語にはとても多くの問題が含まれていることも重要な原因です。つまり、日本語訳だけ読んでいますと、子どもの権利の中身を正確に理解できないのです。

また、多国間条約であることに基づく性格として、3つのポイントがあると思います。①子どもの権利条約作成についての欧州先進国の主導性(たとえば、子どもの権利を対親、対国家との関係で位置づけることが条約の基本姿勢ですが、このような考え方は西欧先進国の主導によるものです)、②条約交渉の終盤において、発展途上国も交渉に参加するようになって、その過程で発展途上国に関する条項も盛り込まれているということ、③条約交渉に際して、NGOやWHO、ユニセフなどの国際機関が参加して交渉がされ、その主張によって盛り込まれた条項もあるということです。ですから、とくに、②や③に関わる条文などは、日本の障害児の権利を考える際には、ひとまず横に置いておくことができるということになります。

今日は主に①についてお話します。アメリカは、子どもの権利条約を批准していない数少ない国の1つです。ただし、子どもの見解を表明する権利については、積極的に交渉に参加し、第12条の成立には大きな影響力を発揮しました。この条約の主な着眼点は、先ほどもいいましたように、子どもと親、子どもと国家の関係におかれ、多くの条文が作成されています。それは、日本で当たり前のようにいわれる、「子どもは親に従うべきである」という考え方ではありません。つまり、子どもを基本的に「一人前」の人間として扱うこと、ただし発達過程にあるために、それに応じて段階的過程で子どもの見解表明権を見ていく必要がある、という考え方にたっているということです。これは、子どもを権利の主体として重視していることの表れといえます。そして、親は子どもとのそういう関係において相応の権利・義務を負い、国も子どもの権利を十全に保障するために最善の取り組みをしなければならないという考え方に貫かれています。日本では、子どもといえば学校がすぐ連想されますが、そうではないということが大きなポイントです。実際に、「学校」が条文に登場するのは、教育への権利としての第28条ですが、条約は、子どもの教育について責任を負うのは親であり、それを保障するのが国であるとしています。

(3)条約の目的・趣旨を理解する上でのポイント

なぜ子どもに注目した条約がつくられたのでしょうか。それには、子どもを主体とした権利条約をつくる必要性を導いた歴史的な背景がありました。まず1924年の「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」があります。つまり、国際的に子どもの権利を守らなければならないという発想は、第一次世界大戦直後に生まれています。しかも、この宣言の第2項では、「遅れた子どもは援助されなければならない」とあり、「遅れた子ども」という表現に当時の認識の反映を見ますが、障害児を含めた権利を、その当時から考えはじめている国際社会がありました。そして、1948年の世界人権宣言第25条でも、児童に限定はしていませんが、「すべて人は」として、心身障害の場合に保障を受ける権利を有するとし、第2項で「母と子は、特別な保護および援助を受ける権利を有する」と規定しています。このように、障害を含めた子どもの権利を扱っています。

子どもの権利条約の直接の出発点となったのは、国連総会で1957年に採択された「子どもの権利に関する宣言」です。そこで、子どもの権利を全面的に訴える考え方が出され、その第5原則として、「肉体的、精神的または社会的に障害がある子どもは、その特別の状況によって必要な特別の扱い、教育およびケアを与えられなければならない」と明記されています。ただし、国際人権規約第24条では、子どもに関連した規定はありますが、障害に着目した条項にはなっていません。

このような背景の中で、国際社会は子どもの権利条約に向かって動いてきました。特に、日本のように、本当に子どもを権利の主体として考えることが希薄で、そのような考えが育っていない国において、以上のような国際的な蓄積の上に子どもの権利条約があるということを理解することは、子どもの権利、障害児の権利を国内で広めていく運動のなかで、重要だと思います。

4 子どもの権利条約ならではの子どもの権利に関する規定

(1)差別禁止(第2条)

第2条では、人権に関連する他の条約と比べても、手厚い差別禁止の条項が盛り込まれ、特に「障害」という言葉を明記して差別の禁止を表明しています。1924年、1957年の宣言でも盛り込まれていましたが、条約としての法的な義務、拘束力を持つものとしては、子どもの権利条約が初めてです。その点について、日弁連は、日本政府は第2条を無視していると指摘し、国連・子どもの権利委員会の最終見解(1998年、2004年)も、日本政府の不作為を厳しく指摘しています。2004年の委員会の最終見解では、1998年の最終見解で指摘した部分について、日本政府は何もしていないと厳しく指摘しています。つまり前にも述べましたように、NGOから委員会に実態にもとづいた報告をすることは、委員会が日本政府の条約不履行に対する正確な指摘をすることを確保する上で重要な意味を持っています。

(2)子どもの最善の利益(第3条)

子どもの最善の利益という考え方は、1957年の「子どもの権利宣言」の第2原則に明確に示され、第7原則でもふれられています。条約は、1950年代に明確に打ち出された子どもの最善の利益を条約として拘束力を持たせたものです。日本の実情を考えると、子どもの最善の利益が、あらゆる法律の根底におかれているとは到底いえません。例えば、児童福祉法は、児童の福祉の根幹をなす法律ですが、そのなかですら「子どもの最善の利益」という思想は打ち出されていません。その意味で、子どもの権利条約から見たら、児童福祉法ですら不十分ということになります。自立支援法は、そのような児童福祉法から障害児のサービスを取り除いているので、二重の意味で「許すことのできない法律」だといえます。

(3)権利の発展が結実した発達保障(第6条)

子どもの権利条約第6条は、政治的・市民的権利である生命への権利と、経済的・社会的・文化的権利である生存および発達を統合した規定で、とても重要です。政治的・市民的権利というのは、無条件で個人に保障しなければならない権利ですが、経済的・社会的・文化的権利は、国の発達段階・財政状況に応じて、漸進的・段階的に保障することが求められる権利と理解されています。この第6条は、2つの権利を統合して、本来は分かちがたいものであるという規定ぶりをしています。つまり、日本のような先進国段階にある国では、障害児を含めた子どもの生存・発達を積極的に保障することが求められるということです。

(4)子どもの市民的政治的権利を保障する見解表明権(第12条)

見解表明権は、子どもの政治的・市民的権利を保障するうえでの基本的権利とされています。日本政府訳は「意見を表明する権利」としていて、単なる意見の表明権と誤解されやすいです。しかし、英語の正文によれば、【VIEWS(見方・捉え方という意味)】を表明するという権利です。例えば、私の孫娘が、何らかの意志を表明したら、それはまさしく「見解表明権」の行使ということです。つまり、言葉が満足でないからといって、見解を表明する権利がないということでは、まったくありません。この点について、日本政府は文部科学省を中心として、極力この権利を無視しようとしていますが、委員会の最終報告は、校則などで規制してはいけないのだと、明確に指摘しています。

(5)日本だけにとらわれない視点の重要性

少し視野を広げて、スウェーデン政府の第3回報告を見てみましょう。そこでは、忠実に子どもの最善の利益を法律の中心にすえる、見解表明権を十全に保障するために法律に規定を盛り込んでいるということを報告しています。条約の内容を国内的にできる限り実現しようとしているほかの国の報告書と見比べながら、日本政府に主張・要求していくことも重要だと思います。特に、日本の文科省などは、子どもが自己を持つ個性のある人格であることを嫌い、みんなと横並びに扱おうとする傾向があります。これは、まさに見解表明権に違反するものです。障害のある子どもの権利を保障するうえでも、最大限に子どもの権利を尊重する法律改正をしていく必要があると思います。

5 障害者自立支援法の憲法・条約・児童福祉法に対する違反性

障害者自立支援法は、日本国憲法、子どもの権利条約、児童福祉法に違反していることを指摘しなければいけません。日本の法体系では、効力の高い順に、憲法、条約、法律となっていて、法律よりも条約のほうが上位にあります。本来なら、条約に違反する法律は無効です。被爆者、残留孤児、公害被害者などは、関係する法律が憲法違反であるとして、人権回復の訴訟を起こしていますね。前にも触れましたが、障害児の分野でも、憲法や子どもの権利条約を根拠として、障害者自立支援法による人権侵害を回復するための裁判という方法も考えるべきではないかと思います。

(1)憲法との矛盾

障害者自立支援法は、市場原理に基づくもので、利潤を最高の価値とするものです。利潤を最高の価値とするものが、人間の尊厳を最高の価値とする憲法と両立しないというのは明らかです。市場の原理に基づいて行われることが適当な経済の分野もありますが、福祉や医療、教育というような分野において、応益負担、市場原理を持ち込むことは、憲法に違反することだと思います。その点については、茂木俊彦等『障害者自立支援法と子どもの療育 新増補版』の次の文章からも明らかだと思います。「障害者自立支援法が、文字通り「ゆりかごから墓場まで」多大な応益負担を求める方であること、障害が重複し重度の人ほど費用負担がかさみ、逆に軽度の人は支援システムから除外されかねない仕組みであることなど、ライフサイクルを貫く問題点」を持っていることは、明らかに憲法違反と思います。具体的には、自立支援法は、憲法第13条(幸福追求権)・第14条(法の下の平等)・第25条(生存権)に違反するということを指摘しておきます。

(2)子どもの権利条約に違反する障害者自立支援法

乳幼児期に求められる支援のあり方と大きく矛盾する自立支援法は、子どもの最善の利益を求めた第3条に明確に違反します。さらに、第4条(締約国の実施義務)、第8条第2項(アイデンティティの保全)、第16条(プライバシーの保護)、第18条第2及び第3項(親の第一次的養育責任と国の援助)、第23条第3項(障害児の権利)などに明確に違反していると思います。健康・医療、社会保障、生活水準、教育にかかわらせるならば、第24条、第26~29条、第31条に抵触する可能性が非常に高いと思います。

(3)児童福祉法の本旨にもとる障害者自立支援法

自立支援法は、障害児を含む子どもの福祉の基本法としての性格をもつ児童福祉法に真っ向から対立する応益負担を持ち込むために、障害児に関連する規定を児童福祉法から取り除きました。これは、児童福祉法の本旨にもとるもので、国連に声を届けるうえで是非強調してほしい点です。

ただし、障害児の権利だけを強調して、自立支援法から障害児部分の削除を求めるというアプローチには、障害児・者全体の権利の保全という観点からすると悩ましい部分があります。この点では、被爆者と空襲等の戦争被害者との関係でも似たような状況があります。それは、被爆者の権利だけを優先すれば、他の戦争被害者の権利を保全しなくてもいいということになりかねず、戦争全体の被害者が1つになって国に権利回復を要求する闘いを組むことが難しくなっています。障害児の権利保全という問題を考える上でも、全体的な問題を視野に入れた議論の組み立てが必要になると思います。

以上で、お話を終わります。ありがとうございました。

RSS