長崎市の国民保護計画について思うこと

2007.03

 GOOGLEを利用すると、あるキー・ワードを登録しておけば、その言葉が含まれる全国の様々なニュースを1日1回まとめて配信するという便利な機能があることを知り、国民保護計画、障害者自立支援法、米軍再編、子どもの権利条約、9条の会の5つについて利用しています。国民保護計画が急ピッチで全国の市町村レベルで成立しつつある状況も手に取るように分かるのです。

3月1日はビキニ・デーで、原水禁国民会議などが行った集会で「北朝鮮の核開発と日本の平和」と題してお話をする機会があって出かけました。会場ではいろいろな方と挨拶を交わしたのですが、長崎の集会でお会いした方も来ておられて、その方から、「おかげさまで、長崎市の国民保護計画から、核攻撃にかかわる事態を盛り込ませないことができました」という趣旨のお話を聞き、複雑な思いを味わいました。

国民保護計画は、国民の「保護」という美辞麗句とは裏腹に、武力攻撃事態、予測事態において、自衛隊、米軍が日本国内を自由に動き回ることができるようにするために、国民がじゃまにならないように行動することを確保することを狙いとするものです。狭い国土で国民がパニックに陥ったら、軍事行動の妨げになるからです。しかし、そんな本音を明らかにしたら、いくらお人好しの国民も怒りますから、有事に際して国民を保護するために計画、といっているだけなのです。

前にもこのコラムで書いたように、「武力攻撃事態」「武力攻撃予測事態」がどういう事態かといいますと、アメリカが日本を付き従えて朝鮮半島や台湾海峡で軍事的行動を起こすことを出発点として、これに対抗して朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」)や中国が日本に対して自衛の反撃を行ってくるということなのです。つまり、先にことを起こすアメリカ(及びそれに付き従う日本)は、国際法違反の戦争を行うわけであり、これに対する朝鮮、中国の武力行使は自衛権の行使として正当なのです。簡単に言えば、私たちは、反撃されても文句を言える筋合いではない、ということです。アメリカが台湾独立をも視野に入れて動く可能性があることは、つい最近このコラムでアーミテージ報告の内容を紹介したときにも指摘したばかりです。

ところが、そういう物事の展開をことさらに伏せて、朝鮮、中国が攻めてきたら応戦しなければならない、国民を動員して対処しなければならない、というのが「武力攻撃事態」であり、その前段階としての「武力攻撃予測事態」なのです。 だから、私たちが考えなければならない最初の問題は、そういう不法の戦争をアメリカ(及びそれに協力する日本)にさせてはならないということですし、不法の戦争をさせなければ、朝鮮、中国からの攻撃はあり得ず、武力攻撃事態も予測事態も招かなくて済むということであり、国民保護計画は必要ないしあってはならない、ということなのです。この出発点のことがしっかり頭に入っていれば、「長崎市の国民保護計画から、核攻撃にかかわる事態を盛り込ませないことができました」等という発想にはならないはずです。なぜならば、この発言は、武力攻撃事態などがあることを前提にしている点で、致命的な問題が潜んでいるからです。私がとても複雑な思いをした一つの理由はこのことでした。

もう一つ重大な問題があります。それは、朝鮮や中国から行われることになる日本に対する反撃は核がらみとなる可能性が常にある、ということです。朝鮮が行った核実験で核兵器の小型化に成功していれば、朝鮮は核ミサイルを日本に向けて発射する可能性を考えておかなければなりません。また、朝鮮のゲリラ部隊が日本に潜入するとき、狙いを定める対象には原子力発電所が含まれることを覚悟しなければなりません。チェルノブイリ事故が日本を見舞うという事態です。中国も核ミサイルを持っていますから、ここでも核被害が引き起こされるのです。

つまり、有事は否応なしに核がらみなのです。したがって、長崎の国民保護計画から核攻撃にかかわる事態を盛り込ませなかったといって安心しているのは、まったく自己満足にしか過ぎません。つまり、いったん有事になれば、核被害が引き起こされることを覚悟しなければならない、ということなのです。そして朝鮮、中国の攻撃を未然に防ぐ手だては一つしかありません。それは再びアメリカ(及び日本)が朝鮮、中国に対して戦争を仕掛けさせないことしかあり得ないのです。長崎市の国民保護計画から核攻撃の部分を取り除かせたという「成果」に喜んでいるのは、実はとんでもないことです。

長崎市のこういう行動は、日本政府にとって、痛くもかゆくもないでしょう。要するに、日本政府としては、有事に際して国民が政府の思いのままに動く体制を作り上げることに主眼があり、長崎市が国民保護計画を作ったということは、政府にとってはそれで十分だからです。政府も、核攻撃の事態が起こったらなんの対応策もあり得ないことは百も承知です。長崎市がそういう事態に対する対処策を設けないことは、政府にとってなんの障害にもなりません。私が長崎の方の発言にとても複雑な思いをしたのは、このことも今ひとつの理由でした。

どうして私たちは、「攻撃されたら」という発想にしかならないのでしょう。かつて日本は、暴支鷹懲と称して中国に侵略しました。いままた国民保護という名目をつけて国民を動員し、侵略戦争に踏み込もうとしているのです。そういう過去の歴史を正視しない(政治が正視できないようにしていることもあります)私たちは、何かというと被害者意識だけを増幅させ、政府の思うがままに引きずられるのです。しかし、これ以上私は過ちを繰り返してはなりません。核被害のことを真剣に考えたら、私たちはまなじりを決して日本を「戦争する国」にさせないために奮起することが求められているのです。

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