護憲論の足腰強化

2007.01.21

2006年10月14日に広島高教祖の研修集会で「『護憲論』の足腰強化」と題してお話しをしました。主催者の方がテープ起こしをしてくださったので、その内容を紹介したいと思います(1月21日記)。

今日私の演題は今ご紹介ありましたように、「広島の課題と平和教育への期待」ということでございますけども、サブタイトルにありますように、あえて「広島の課題」という中で憲法問題を取り上げる必要があるのではないかと考えました。そして、その憲法問題を考えることがとりもなおさず平和教育ということに対して確信を持つことができる手がかりになるのではないのかと、そういう意味でレジュメを作っております。

護憲論というと、もう今の世の中では何か古い言葉、死語になってしまったという感も無きにしもあらずですが、敢えて護憲論という言葉を使ったのは、私なりに最近なぜ護憲でいけないのかという気持ちがございまして、敢えてその言葉を使わせていただいたという次第であります。

まず護憲論について、どうすれば私たちはもっと勢いのいい元気のある護憲論をできるのかということを考えて、そこで4つのテーマを考えています。

一つは憲法、今の日本国憲法が21世紀の国際社会を展望する上でどういう意味を持っているかということに則して、この21世紀の国際社会が一体何をめざしていかなければいけないのか、何をめざすことが望まれているのかということをまず押さえてみたいということであります。

それが「1.国際平和を考える場合の座標軸」です。まず第一番の「(1)国際平和を考える場合の視点」ということで、その国際社会のあり方を、二つのポイント、すなわち人権・民主主義ということと平和観の問題から考えてみたいと思います。

それから最初にこのレジュメの構成を述べておきますが、護憲論の足腰強化のステップの第一番目の次に、第二番目のステップとしては、今この日本国憲法に対する攻撃というのがどういう形で行われているかというと、正にアメリカを中心とした執拗に力によって国際政治を強引に推し進めていこうという、そういう流れが非常に強まっていて、そういう中で日本もそのアメリカと一緒に歩調を合わせていくんだという、そういう主張が強まっているということ。そして、そういう主張から日本国憲法はもう時代遅れであるという主張につながってくるわけですが、そもそもそういう力によって世界を強引に推し進めていこうとする政治というのが、本当に展望があるのかということを私は考えたいと思います。

もし、そういう力によって国際政治を導こうとする、あるいは強引に引き回そうとする流れが大きな問題を抱えているとするならば、それはとりもなおさず私たちとしてもう一度日本国憲法を見直すということに繋がるのではないかということであります。それが「(2)『力による』平和観は世界をどこへ導くか」ということで、特に「力による」平和観、すなわち権力政治ですけれども、それを最も積極的に推進しているブッシュ政権の先制攻撃戦略の危険性ということで見てみようではないかということであります。

それから、その権力政治の流れは自らを正当化する際に多く使う議論が、いわゆる中国脅威論と北朝鮮脅威論という問題であります。 つまり日本国憲法を守っていこう、大事にしていこうということに対して、中国という脅威を目の前にして非武装でいいのかと、9条なんかに頼っていていいのかという議論があります。 あるいは、最近行われた北朝鮮民主主義人民共和国の核実験を目の前にして、そういう北朝鮮が核保有という事態になっているときに、日本として裸のままで国を守れるのかと、そういう議論も出てきます。 そうしたときに、非常に9条の弱さということが強調されるわけですけど、私は中国脅威論なり、北朝鮮脅威論というものが、本当に実態のあるものなのかということを考え直さなければいけないのではないかと強く感じています。 このレジュメを作ったのは北朝鮮の核実験の前でしたので、レジュメには書いていませんが、今日は北朝鮮脅威論の一環としての北朝鮮の核実験をどう見るのかという問題にも触れさせていただきたいと思っています。

それから4番目の護憲論の足腰強化ステップとして、そもそも日本国憲法というのは本当に時代遅れ、あるいは使い物にならないものなのかということについて、もう一度原点に戻って考え直す必要があるのではないかということで、ここで「(3)21世紀の道標としての日本国憲法」という積極面をぜひ再確認したいと思っております。

それから次に護憲論についても、私自身いろいろ考え直さなければいけない部分があるということは間違いのないところだと思っていますが、その点は「2.護憲論再考」ということで扱います。

「(1)護憲論の足腰を弱める基本的原因」については、この護憲論の足腰を強化するために、私たちはどういう問題に取り組む必要があるのかということです。確かに今の国内におきましても護憲派とされる力は相対的に弱まっているということは認めざるを得ないのですが、それはなぜ弱まってきたのかということを考えた場合に、これは私がこの数年来考えていることですけども、二つの大きな問題があるのではないのかと考えています。

一つが、私たちの「(イ)平和観の曖昧さ」で、非常に曖昧な要素があるというところが大きな問題としてあるのではないかということです。それから私たちの側、つまり「(ロ)護憲論の側にまともな国家観が未だにないこと」の問題を、やはり真正面から考える必要があるのではないかということを考えています。

そういう根本的な問題に加えて、私はまだ広島に住むようになってから一年半たったばかりですけれども、したがってそんな大それたことを申し上げるような資格はないのですけれども、それにもかかわらずこの一年半の間で私がいろいろ学んできたことから、「(2)広島に見られる問題点」というのも間違いなく存在するのではないかと考えます。

国際社会のあり方を考える場合の視点:護憲論の足腰強化ステップ①

まず、「護憲論の足腰強化ステップの①」としての「国際社会のあり方を考える場合の視点」ということです。この21世紀の国際社会は一体どういう社会になることが求められているのかということですが、私は、最初のポイントは、「(イ)国際関係を規律する基本として人権・民主主義を中心に据えるか据えないか」というのが、一つの大きな考え方の分かれ目になるポイントではないかと思っています。

そもそも人権・民主主義というのは、その根底にあるのは人間の尊厳を尊重するということで、この人間の尊厳を尊重するという考え方は、いまや誰もが正面からチャレンジすることができない人類の普遍的価値として確立しているものであると思います。

それはなぜかといえば、第二次世界大戦というものが、人権・民主主義を奉ずる側、すなわち連合国と、反人権・全体主義を報ずる枢軸側、すなわち日本・ドイツ・イタリアとの全面対決であったということであり、かつ人権・民主主義を奉ずる連合国側が勝利を収めることによって、この人権・民主主義、そしてその根底にある人間の尊厳を尊重するという考え方が、世界的規模で承認される結果になったという歴史的な背景を踏まえているということです。

そういうふうに普遍的価値としては承認された人権・民主主義、あるいはその根底にある人間の尊厳の尊重という普遍的価値ですけれども、しかし現実に国際社会、あるいは各国の事情を見た場合に、この人権・民主主義、あるいは人間の尊厳を尊重するという普遍的価値が果たして国際的規模でも実現しているかといえば、それは遥かに遠い現実があるということです。

そして、その実現を妨げてきたのは他ならぬ権力政治、私が言うところの「力による」平和観というものの支配であるということであります。この「力による」平和観、あるいは権力政治というものは、結局そこにあるものは人間の尊厳を踏みにじってでも国益を追求するとか、国家の安全保障を重視するというそういう考え方でして、そういう点におきまして人権・民主主義、あるいは人間の尊厳を尊重するという普遍的価値とは根底から対立する考え方であるということです。

逆にいいますと、人権・民主主義の価値観というものは、私がいうところの「力によらない」平和観、すなわち力の行使を否定する平和観と根底において結びついているということになります。お分かりにくいかもしれませんが、要するに「力による」平和観、権力政治というものは、人権・民主主義の価値観というものを根底において否定する考え方であるということを私は強く感じておりまして、したがってこの人権・民主主義という国際的に承認された普遍的価値を21世紀に実現するためには、なんとかして権力政治を排除する、そういう方向に人類が向かわなければならないのではないか、と考えています。

それから国際的な規模ではそういうことですけれども、21世紀の各国、この国民国家といわれている各国の課題ということも、例えば日本においても人権・民主主義を認める、それはあとでも述べますように日本国憲法が基本的人権規定を置いていることによって憲法の建て前としては認められているわけですけども、果たして現実にはどうなのかということを考えますと、例えばこの小泉政権の下での改革によって、この5年半の間で、この人権尊重、人権の実現ということをもっとも大切にしなければいけない諸々の分野、すなわち社会保障、福祉、労働、その他諸々の分野において、いわゆる改革という名の下で、非常に人権を侵害する諸々の施策が行われてきたという現実があります。

したがってこの21世紀のこの日本においても、いかに人権・民主主義を全面的に実現するかということは、相変わらず私たちにとって最大の課題であり続けるということが一つあります。

憲法改正の争点

それからもう一つは、今日の日本において日本国憲法を変えようという動きが出てきている訳ですけれども、これを変えようというときに、その争点は主に二つあります。

一般によく理解されているのは、先ほども触れましたように9条をどうするかという問題です。つまり日本は「力によらない」平和観に基づいてこの国を基本的に運営していくのか、それともそうではなくて権力政治、「力による」平和観で国を作り変える、戦争をする国にするのかという問題です。

その点についてはよく知られているところであり、そして皆さんもご関心があると思いますけども、全国に澎湃(ほうはい)として起こっている9条の会という動きなどは、なんとか9条を守り、日本が戦争をする国にならないようにするということを、運動としてめざしているということがあると思います。

もう一つ、あまり気付かれていない問題があると思います。それが個人対国家の関係をどのように律するのかという問題です。

この人権・民主主義を全面的に認める立場であるならば、それは個人対国家の関係において、個人が国家の上にくる、個人の価値というのは国家の存在理由をも上回る重みを持ったものである。要するにもっと簡単に言えば、国家権力といえども個人の人間の尊厳を侵すことはできないという、そういう考え方にならなければならないということです。それを、私は私流の表現で「個人を国家の上に置く」国家観と規定しておりますし、後で申し上げますように、日本国憲法はまさに「個人を国家の上に置く」国家観を私たちに示しているということだと思います。

それに対して今の改憲派の人たちが成し遂げようとしていることは、再び個人の権利、人権を国家の国益とか国家の安全保障とかそういう要請に服従させようという考え方です。それを私流の表現で言いますと、「国家を個人の上に置く」国家観ということになります。

この「国家を個人の上に置く」国家観というのは、私たちにとって決して目新しいものではなく、まさに第二次大戦までの日本は、国家が私たちを臣民として支配する国であった訳ですから、まさにこの「国家を個人の上に置く」国家観であったということであります。

  ですから、この問題は、あとで触れると思いますけれども、改憲論における重要な争点として私たちは認識する必要があるということを申し上げておきたいと思います。

こういう課題、つまり、人権・民主主義の全面的実現、そして個人対国家の関係における「個人を国家の上に置く」国家観を貫くということが、日本を含めたあらゆる国家において21世紀において実現していくことが望まれているところであると考えています。

そういうことで、国際的な流れ、人類史の流れという中で、この二つの人権・民主主義そして「力によらない」平和観という、人権・民主主義を中心に据えるという考え方が、本当にこれからの国際社会で求められていくことであるということを一つ確認しておいていただきたいと思います。それがこの日本国憲法とどう関わってくるのかということは後で申し上げます。

どのような平和観に立脚するのか

次にすでに折に触れておりますけども、もう一つ国際関係を見通すうえで、どういう平和観に基づいて国際関係を律するのかという問題があります。

そして私がもう触れておりますように、そこにおいても二つの大きな立場の対立があります。それは何かと申しますと、「力による」平和観、すなわち権力政治に執着するのか。それとも「力によらない」平和観、脱権力政治の立場に立つのかという、そういう大きな選択の道になります。日本に引きつけて言いますと、今の日本国憲法に基づく戦争をしない国家という立場に立ち続けるのか、それとも戦争をする国にするのかという選択として捉えることもできるということです。

この「力による」平和観、あるいは権力政治の立場というのはどういう認識に基づいて国際関係を見ているのかというと、国際社会の社会としての未熟性を変わることのない前提とする、要するに今のこの権力政治の国際社会という現実は変わりようがないと冷めた見方をして、それを前提として、とにかく国益、国家の安全を最重視すればいいのだというような考え方になると思います。

これに対して、「力によらない」平和観というものは、どういう考え方に立つかというと、確かに国際社会は今は未熟である、しかし、その未熟なままであっては人権・民主主義が実現しない。人権・民主主義が蹂躙されることになりかねない。要するに暴力が支配するわけですから、そういう暴力が支配するところで人権・民主主義は保障されるはずがないわけです。それを、人権・民主主義が保障される、人間の尊厳というものが尊重される世の中になるためには、やはり暴力、あるいは権力、軍事力、そういうものが支配することを極力抑える方向に向かわなければならないはずである。 それはつまり、国際社会の社会としての成熟をめざすという立場になる訳であって、人権・民主主義を国際規範として確立することを最重視する発想ということになります。

そこで、いったい「力による」平和観、権力政治の見方がまともなのか、それとも「力によらない」平和観、脱権力政治の立場というものが、今日的説得力を持つのかという課題がでてくるわけで、それが次の護憲論の足腰強化ステップの②、③、④ということで、②、③が「力による」平和観、権力政治の問題点ということを指摘することになりますし、④の護憲論の足腰強化ステップというのが日本国憲法の先見性、あるいは21世紀における妥当性ということで、要するに「力によらない」平和観というものが私たちとして追求すべき積極的な目標にならなければいけない、というところに繋がってくるということです。

ブッシュ・先制攻撃に戦略の危険性:護憲論の足腰強化ステップ②

そこで次に、「力による」平和観は世界をどこに導くかという問題に入らせていただきまして、そこにおいて二つのポイントを申し上げたいと思います。

一つは、ブッシュ政権の権力政治、その最も特徴的な内容は、先制攻撃戦略というものです。この先制攻撃戦略は一体どういう経緯でブッシュ政権が採用するようになったのかということを、非常に簡単にまとめて申しますと、ブッシュ政権は米ソ冷戦のときにアメリカが築き上げた強大な軍事力を引き継いでいます。

クリントン政権の時代には、米ソ冷戦が終わった時代には強大な軍事力はもはや不要であるということで、平和の配当というような形でいかにして縮小するかということも含めて議論されたのですが、結局クリントン政権の時代にはこの問題について答えが出ないままにブッシュ政権に引き継いでしまったということがあります。

そしてブッシュ政権は、アメリカはこの強大な軍事力を引き続き維持し、発展していくということを、初めから前提としていたということがあります。ただ、その場合になぜそんなに強大な軍事力を持たなければならないのかという疑問が当然でてきます。一体誰に対して、何に対して備えるのかという、その問題に対する答えが見つからないできた、ということがあります。そして、その答えを提供したのが、2001年9月11日のあのニューヨークの事件、9.11事件であったということです。

つまりこのときに、このテロリスト、要するにアメリカに対して何をするかわからない相手、そういうものが、この21世紀におけるアメリカにとっての脅威だということをアメリカは断定した、ということであります。そこに「恐怖という目に見えない脅威」とか、「新しい捉えどころのない敵」、そういうような規定の仕方がされています。以前、米ソ冷戦の時代であれば、ソ連という脅威が具体的に規定されていたわけですけれども、いまやブッシュ政権においては、要するにアメリカに恐怖感を与えるものはすべて脅威である、と規定することになります。

そうすると、アメリカが恐怖を感じさえすれば、脅威とみなされてしまうということになりますので、アメリカに対して恐怖感を与える存在、すなわち、アメリカが恐怖を勝手に感じる相手というのは、すべからく脅威になります。そういう脅威の対象としては、今申し上げたような国際テロリズムもありますし、あるいはイラン・イラク、あるいは北朝鮮のような、要するにアメリカが「ならず者」国家と名付ける一群の国家というものも出てまいりますし、あるいはここまではアメリカも公言はいたしませんけれども、アメリカに対抗する潜在的な能力を持つ中国あるいはロシアも、そういう恐怖を与える可能性のある国として、潜在的な脅威と位置付けられてくるということになります。

したがって、このように脅威は非常に多種多様なものであるということになって、どんな脅威に対しても立ち向かう能力を持つということが必要であるという主張に繋がりますと、際限のない軍事力拡大というものを正当化する主張が出てくるということであります。しかも、「何をするかわからない敵」、いつ、どこで、何を仕掛けてくるかわからない敵というものに対抗するためには、相手が出てくるのを待って対処するのでは、9.11事件のようにとんでもない被害を受けるということになります。

したがって、そういうわけの分からない敵に対して対処するにはどうしたらよいかといえば、相手の攻撃を待つのではなくて、相手の所在を突き止め、それを先制攻撃でやっつけるということが、最も軍事的には効果的であるという考え方になってくるということで、ここからアメリカの先制攻撃戦略というものが出てきたということになります。

しかもこの先制攻撃戦略にはいろいろと付随する特徴がございまして、要するに相手は、いつ、どこで、何を仕掛けてくるかわからないということですから、アメリカは世界的な規模でそういう脅威に対して、迅速に、機敏に、果敢に対抗できる戦力配置をしなければならないという考え方が当然のごとく出てまいります。それが今世界規模で進められている米軍再編ということになりますし、それの日本版が在日米軍の再編ということになってきます。

在日米軍再編はアメリカの戦力再編の要

この在日米軍再編について一言触れておきますと、在日米軍再編はアメリカの世界規模の戦力再編においても要の位置を占めているということであります。

なぜかといいますと、アメリカはこの脅威が、いつ、どこで、何をするかわからないと言いながら、他方において比較的そういう脅威が密集している地域があると考えている。その密集している地域が何かといいますと、「不安定の弧」とアメリカは名づけておりますけれども、要するにユーラシア大陸の南側に沿ったアラビア半島中央アジアから、インド亜大陸、そして中国大陸、朝鮮半島に至る弧をなす地域、これが「不安定の弧」と呼ばれているのですけれども、そこに比較的脅威が密集していると位置付けています。したがって、その「不安定の弧」の東端に位置する日本における米軍再編というのは、アメリカの世界規模の戦力再編におけるもっとも鍵となるということであります。

ただし、アメリカにとっての鍵となる日本での米軍再編でありますから、これを私たちの側からいえば、アメリカの在日米軍再編を阻止する、あるいは押しとどめるということをすれば、アメリカの世界規模での戦力再編、ひいていえばアメリカの先制攻撃戦略そのものを挫折に追い込むことができるという、非常に大きな私たちは国際的な責任といいますか、役割をも担っているということが当然のことのように導き出されるということであります。

先制攻撃戦略は違法の戦争である

それからもう一つ、アメリカの先制攻撃戦力について触れておきたいのは、この先制攻撃戦略というのは、今日の国際法においては認められていない違法の戦争ということであります。

世界最強のアメリカがやっているものですから、誰も文句を言えないでいるという、そういう現実はありますけれども、仮にアメリカ以外の国がこの先制攻撃の戦略を採用したならば、アメリカは明らかにそれを違法であるとして叩くことが明らかであるということでお分かりのように、このアメリカがやっている先制攻撃戦略は、本質的には私たちが決して認めてはならない考え方であるということを強調しておきたいと思います。

つまり、そういうふうにアメリカ、ブッシュ政権が行っている先制攻撃戦略というのは、本当に「力による」平和観、権力政治という考え方をとことん突き詰めた考え方、表われでありますけれども、そういうものとして決して認めてはならないものであるということをお分かりいただきたいと思います。

中国脅威論と北朝鮮脅威論の実態:護憲論の足腰強化ステップ③

次に、中国脅威論と北朝鮮脅威論でございますけども、時間の関係もございますし、皆様の関心も今起こっている北朝鮮の核実験ということに対して、どのような考え方を持てばよいのだろうかということにご関心があると思いますので、それについて若干触れさせていただきます。実は私はこの問題に関しましては、私のホームページの中でも言及しておりますので、詳しい内容については私のホームページを訪れていただくことが一番よろしいのですけれども、ここでは北朝鮮の核実験という問題が本当に日本にとって脅威であるのかどうかということについて、私の考え方を述べさせていただきたいと思います。

私ももちろん、北朝鮮の核実験には反対でありますし、北朝鮮が核兵器を保有することは絶対に反対であるということに変わりはありません。

しかし、今日の流れを見ているときに、私が非常に問題を感じているのは、要するに北朝鮮を激しく非難する議論ばかりが先行しているということであります。

私も最近、よくメディアの記者の取材を受けるのですけれども、その中で申し上げていることは、特にこの広島に引き付けて言いますと、一体「ノー・モア・ヒロシマ」というのはどういうことなのだろうということです。「ノー・モア・ヒロシマ」だから、あらゆる国の核実験に反対というのは当然出てくることでありますけれども、そもそも私たちが「ノー・モア・ヒロシマ」を言う原点は何だっただろうかと。そこを私たちは見落とし勝ちではないだろうかということです。

私が申し上げたい「ノー・モア・ヒロシマ」の原点というのは、あらゆる核戦争、再びヒロシマ、ナガサキを繰り返さないという意味、つまりもう二度と核戦争は起こってはならないというところに、本来の意味があるのではないかということです。核実験というのは、核戦争に近づくステップであるが故に反対するのではないかということであります。

北朝鮮の核実験をどう考えるか

そこから私が何を申し上げたいかと申しますと、なぜ北朝鮮が核実験をするに至ったのかということであります。ここでは非常に長い経緯もありますので、詳しくは申し上げられませんが、私は決して北朝鮮が核のカードを使ったとか、瀬戸際外交をやっているというような考え方はとりません。とらないというよりも、北朝鮮が核実験を行うという10月3日の声明を見ると非常にリアルに伝わってくるわけですが、本当に北朝鮮は追い詰められているというのが実態だと思います。

要するに、北朝鮮は、いろいろ経緯はあるのですけれども、ブッシュ政権が登場してからは、そのブッシュ政権によって「ならず者の国家」と断定され、「ならず者国家」である限りはアメリカが先制攻撃の戦争で金正日(キムジョンイル)体制を倒すということがいいことだ、と決めつけられている状況があるわけです。ですから北朝鮮からすると、いつ何時アメリカの大量な核兵器も含む攻撃によって国を壊滅させられるかもしれない。レジーム・チェンジ(体制交代)という言葉をアメリカは使っていますけれども、そういう脅威に、ずっと身をさらされてこの6年間やってきているという状態があるということです。

そういうときに北朝鮮としては、要するに核兵器を持たない限り、アメリカの先制攻撃の戦争に対して対抗する術がないというところにまで追い詰められたというところが、非常に大きなポイントとしてあるということを私たちは忘れることはできません。

つまり、ここで問題になることは再び、アメリカのブッシュ政権がやっている核攻撃を含む先制攻撃という考え方が、北朝鮮の核武装の根本的な原因になっているというところを、私たちは押さえなければいけないと思うわけであります。現に北朝鮮は、この核実験を行ったあと、金正日体制のナンバー2の金(キム)永(ヨン)南(ナム)という人がいますけども、彼が共同通信との会見で、アメリカが北朝鮮との対話に応じ、北朝鮮の体制をやっつけないという保証を与えるならば、我々は非核化する用意があるということを言っているわけです。要するに彼らとしては、自分たちの体制の存続を確保するための唯一の手段として、核武装という道に入り込んでしまったということが非常にはっきりしているわけです。

そうしたときに国際的な動き、あるいは日本国内の動きを見ていますと、皆さんもお気づきのように、この北朝鮮に対してはとにかく圧力をかけるしかない、制裁であると、そういう形で物事が動いております。そして、国連安保理でも、北朝鮮に対する経済制裁決議が、これまで北朝鮮を陰に陽に関わってきた中国も含めて、賛成を得て作られるという状況が出てきているということ、そして、特に日本におきましては、こういう安保理の決議を待たずして制裁を北朝鮮に対して行うということが、もう既に決定されているというような状況があります。

私はこのような圧力によって北朝鮮に方向転換を強いるということは、まず見込みがないことであると思います。やはり唯一の可能性というのは、アメリカが北朝鮮との直接対話に応じるということ、これによって北朝鮮が核兵器を放棄し、核計画を放棄するという方向に導く唯一の道であると考えております。

そういうことを考えますと、私たちがなすべきことは何かと言えば、決して力によって、北朝鮮をねじ伏せるということではなくて、やはり北朝鮮をして話し合いに応じさせるような道、すなわちアメリカが北朝鮮との直接対話に応じるということに向けて、国際的な世論を盛り上げ、そしてアメリカに政策転換を迫るということが大きな鍵になってくるということだと思うのであります。

「ノー・モア・ヒロシマ」の観点から考える

もう一つ、「ノー・モア・ヒロシマ」という考え方に則して申し上げますと、今アメリカあるいは日本が中心となって行っている、北朝鮮を力でねじ伏せるという政策は、私は非常に危険な結果を招く可能性があると思っています。中国が今回の国連安保理決議において、軍事的制裁の可能性をとにかく入れないということに固執し、それに成功したようでございますけれども、それはなぜかといえば、ひとえに中国はアメリカが口実を設けて、北朝鮮に対して先制攻撃の戦争を仕掛けるということを何としてでも防ぎたいという考慮があったからだ、と見ることはもう国際的な常識になっています。

これはなぜかといえば、もしアメリカが、北朝鮮に対して先制攻撃の戦争をしかけるということになれば、北朝鮮は泣き寝入りするはずがない。そして、その場合に何が起こるかといえば、北朝鮮はもちろん体制は崩壊するでしょうけれども、その前に、仮に今回の核実験で核兵器の小型化に成功していれば、そのノドンに核弾頭を積んで日本に向けて発射することも可能となるということになります。

あるいは、核ミサイルができていないとしても、北朝鮮には精鋭を誇るゲリラ部隊がありますから、そのゲリラ部隊が日本海側から日本の各地に上陸して、日本の各地にある原子力発電所などを破壊するということが十分に予想されるということであります。これは決して私の作り話ではないわけで、何よりもの証拠に、今この広島でも作ることが進められている国民保護計画の中で、まさに核ミサイル攻撃、あるいはゲリラによる原子力発電所の破壊ということが想定されて、それに対してどうしようという問題が議論されているということから考えても、決して私の被害妄想の考え方であるということではないことがお分かりいただけると思うのです。

この「ノー・モア・ヒロシマ」に則して考えれば、そのような核ミサイル攻撃、あるいはゲリラによる原子力発電所破壊というようなことが起こりうる事態を、私たちは認めていいのかという問題を考えなければならないと思うわけです。本当に「ノー・モア・ヒロシマ」を中身あるものとしていうためには、そういう戦争は絶対に起こさせてはならないということが出発点にならなければいけないはずである。それを出発点として考えれば、アメリカによる北朝鮮に対する先制攻撃の戦争を絶対に起こさせてはならないということが、まず私たちの考え方の原点に立つべきだろう。ここから考えても、アメリカ・日本による制裁優先の政策はおかしいということが出てくるわけで、私たちは再びヒロシマ・ナガサキを繰り返さないためにも、アメリカをして北朝鮮との対話に応じさせるということを、この「ノー・モア・ヒロシマ」という訴えの中の大きな内容にしなければ嘘ではないかということであります。

結論から申し上げますと、「ノー・モア・ヒロシマ」ということで北朝鮮の核実験に反対するということは、それはそれとして認める価値があることであるし、私もそうは思いますけれども、それだけで終わるのではなくて、再び日本が核被害を受けないために、その核被害を起こさせないために、アメリカをして北朝鮮との対話に応じさせるように持っていくということが、「ノー・モア・ヒロシマ」のもう一つの、そしてもっと根本的な大きな意味ではないのかというふうに、私は皆さんにも考えていただきたいということであります。そこまでいかない「ノー・モア・ヒロシマ」ですと、私は本当に何か「ノー・モア・ヒロシマ」自体が二重基準という問題を抱え込んでしまうという問題を恐れる、ということを申し上げておきたいと思います。

以上のまとめとして申しますと、要するに私たちは中国脅威論とか北朝鮮脅威論というものに、ある意味躍らされているわけで、したがってそういう作られた脅威論を受け入れてしまうと、もはや9条なんか古いと、そんなものに頼っている時代ではないということになりますけれども、しかし今の私の話を納得していただける方にとっては、そうではなくて、まさに戦争を起こさせないということが、私たちの発想の原点に立つべきであるということになるとすれば、それを思想的にあるいは憲法の規定として規定しているのが9条であるわけでありますから、まさに北朝鮮脅威論の虚妄性、その虚構性ということを考えれば、私たちは9条というものに対してさらに大きな確信を持つ手がかりを得るということになるのではないかということを申し上げたいということであります。

21世紀の道標としての日本国憲法:護憲論の足腰強化ステップ④

以上は権力政治、「力による」平和観というものがいかに危険なものであるかということから護憲論の足腰強化の手がかりを考えてきたわけですけれども、最後に4番目の問題として、日本国憲法自体がどういう内容を持っているのかということを簡単に触れておきたいというのが「(3)21世紀の道標としての日本国憲法」であります。

まず日本国憲法は、さきほどから申し上げておりますように、第9条という規定を持つことによって、徹底した「力によらない」平和観に立っております。この徹底した「力によらない」平和観に立っているというのは、あとで見る平和観の曖昧さということにも関わるわけですけれども、決して「戦争はこりごり」ということでの、引いた意味での9条ではないわけであります。

侵略戦争を二度と繰り返さないという誓い、これが9条の第一の原点です。すなわち、日本は二度と軍国主義、全体主義の国にはなりません、侵略する国家になりませんということで、そういう意味で国際的な信頼を回復するということについての強い決意を示した内容であるということ、これをはっきりと確認しておく必要があると思います。

それから2番目は、これは憲法が制定された当時には明確に認識されていたことでありますけれども、要するに核戦争を経験した人類、あるいは日本国民が、再び核戦争というものを招いてはいけないということ、そのためにはもう戦争というのはあってはならないという考え方を示した、そういう内容を持っているということであります。 つまり核時代における戦争が人類を絶滅に追い込む危険性を持つに至ったことを、徹底的に洞察して作られたのが憲法第9条であるということであります。

ちなみに、この憲法9条の先見性といいますか、非常に先進的なそういう性格を理解するうえでは、ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下される前に作られた国連憲章と比較することが非常に重要な意味を持ってまいります。国連憲章におきましては、最終的な平和回復手段として軍事力を使うという可能性を残している。それがさきほども触れました国連憲章第7章の規定でありますけれども、日本国憲法はヒロシマ・ナガサキを経験したが故に、そういう国連憲章に残された「力による」平和観という要素を徹底的に排除する、核時代における戦争というのはありえないという考え方に立っているというところが、私たちとして誇りを持って確認する憲法9条の積極的な意味であると、私は思います。

そして3番目は、「力によらない」平和観に基づいて国際的な民主主義の実現、国際関係においてもあるいは各国の国内におきましても民主主義を積極的に実現していく、それに日本としても積極的に関わっていくという方針を明らかにしたものであります。それは特に憲法の前文に出ております。

人権・民主主義への徹底したコミット

次に日本国憲法はもう一つ大きな特徴を持っておりまして、それが人権・民主主義への徹底したコミットメントということであります。 その点につきましては、この憲法11条、そして憲法97条の規定が重要であります。

例えば憲法11条では、「この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と書いております。「侵すことのできない永久の権利」というのは、国家権力をもってしても侵すことができない、そういう権利として保障しているということであります。

そして97条におきましては、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ということも書いてある。 これは、先ほど私が冒頭でも述べましたように、第二次世界大戦を含む、そしてあるいはアメリカの独立戦争、フランスの革命、そういうものを経た、非常に多くの人類の血が流された上で獲得された権利であるということであるが故に、絶対に国家権力といえども侵してはならない権利なのだということを言っているのであります。

つまり先ほど申しました国家対国民という関係でいうならば、国家といえども個人の基本的人権を侵すことはできないということを、この憲法は明確に示しているということであって、国家観という点からいいますと、『個人を国家の上に置く』国家観というものを明確に提起しているということがお分かりいただけるだろうと思います。

私は冒頭に、21世紀の国際社会は何をめざすべきかといったときに、人権・民主主義の普遍的実現、そして「力によらない」平和観というものの国際的な普遍的実現ということだと申し上げましたが、私たちの日本国憲法はまさにその二つの点において、世界の最先端を行く考え方を示しているということを、ぜひともみなさんに自信と確信を持って確認していただきたいということがポイントであります。

以上がこの「広島の課題と平和教育への期待」というところでの護憲論の足腰強化ということで私が申し上げたいことであります。

護憲論再考:足腰強化のための主体的問題

もうすでに私のいただいた時間がかなり過ぎまして、あと20分ほどしか時間がございませんので、あとの点はちょっと急がなければいけないと思いますが、次に護憲論再考ということで、足腰強化のための主体的問題ということで、いくつかの考えているポイントを申し上げたいと思います。

一つは、私たちの側における平和観というもの、「力によらない」平和観に対する確信が揺らいでいるのではないかということであります。

どうして私たちの9条に対する確信が弱まっているのかというと、いくつかのことが考えられます。大きな柱としては二つのポイントがあります。

一つは、「力によらない」平和観(第9条)のなし崩し的空洞化ということが戦後一貫して行われてまいりまして、それに対して私たちが正面からそのなし崩しを克服する、これに対して意識的に、自覚的に対決し、克服する努力が足りなかったということがあるのではないかということであります。時間がないので簡単に言いますと、たとえば戦争責任です。この「力による」平和観という軍国主義がもたらした結果に対して、徹底した追及がなしえなかった私たちという問題があります。例えば昭和天皇の戦争責任が不問にされてしまったことをあげなければなりません。

そして、昭和天皇の戦争責任を不問にしたために、かなり重大な後遺症に私たちは見舞われることになったということであります。その点につきましては7ページの下から3分の1ぐらいのところに、国民・広島の側の問題点ということで、原爆投下に関する昭和天皇の戦争責任を直視しなかった国民・広島というような問題がありますし、その次に8ページにもいろいろな広島自身にも欠けていた加害意識と、そういう問題を触れておりますので、参考にしていただけたらありがたいと思います。

あるいは、日本の独立に際して二つの問題が持ちこまれた、という点も重要です。

一つは沖縄の米軍統治ということで、沖縄の犠牲において日本の独立が回復され、私たちは沖縄を除外した形で日本国憲法の平和を享受してきたということについての深い反省と、問題意識というのが持てなかったという問題があると思います。

あるいは日本の独立回復というのは日米安保条約の締結との抱き合わせでありますけれども、日米安保条約こそは「力による」平和観のそのままの産物でありまして、その日米安保条約を受け入れるということは、「力によらない」平和観にたつ日本国憲法とは根本的に両立しないことであったということについても、いつのまにか日米安保があるのは当たり前ということで、私たちは問題意識を眠らされてきてしまっているという問題があると思います。

あるいは、アメリカの戦争における基地としての役割を担い続けてきたこと、これは朝鮮戦争然り、ベトナム戦争然り、そして湾岸戦争然り、イラク戦争然りということになってくると思います。

それから、さらに繰り返されてきた第9条解釈改憲ということで、要するに9条をひんまげる解釈というのがたびたび繰り返されていて、いつのまにか「力による」平和観によって歪曲された9条というものを受け入れるようなことになってしまったという問題があると思います。

あるいは、この広島との関わりで言えば、曖昧を許してきた「非核三原則」ということがあり、例えば「非核三原則」とか究極的核廃絶というようなまやかしの論理が私たちを支配している。「非核三原則」を守っている日本というふうに私たちは思い込まされているわけですけども、実際は核の持ち込みはあるということで、「非核三原則」は実現しておりません。また、私たちは核廃絶を望むと言っておりますけれども、そこに政府が究極的という言葉をくっつけることによって、無限のかなたにおける核廃絶という議論に対しても、私たちは核廃絶という言葉が入っているからそれと共存するというような妥協を強いられるようになってきています。この核の問題については、憲法9条とは直接関わりはないということも言えますけれども、しかし、そういうふうに私たちは「力による」平和観というものに非常に汚染されてきたという問題があるということをここで申し上げたいと思っております。

それから、もう一つの大きなポイントは、特に1990年代以降になって保守攻勢に対して私たちが受身になってしまったという問題があります。例えば、米ソ冷戦後の国際情勢、つまりアメリカが支配するこの世界をどう認識するかという問題に主体的に対応できなかったという問題があります。そこで書いておきましたように、「ソ連の崩壊=社会主義の敗北=資本主義の勝利=アメリカの勝利」というような短絡的な受け止め方が、あたかも事実であるかのように私たちは考え方を慣らされてきたという問題があります。あるいはアメリカ主導の新自由主義、市場原理至上主義、そしてその産物であるグローバリゼーションというものが、歴史的にひっくり返すことができない流れだというふうに受け止められてきてしまっています。しかし、この新自由主義、市場原理至上主義こそが、私たちの人権を奪ういろいろな改革の原動力になっているということを私たちが理解できていないということであります。

あるいは、軍事的国際貢献論というものが90年代以来幅を利かせていますけれども、それに対して有効な反撃を行えなかったという問題もあります。

あるいは、国連中心主義という言葉が、90年代になって保守側から言われるようになったときに、従来、国連というものに対して、私たちは期待を持っていたわけですけれども、その国連が、米ソ冷戦が終わってからは武力行使にあえて踏み込む存在になったときに、その国連と日本国憲法との関係ということをしっかり考えて、国連の武力行使に傾きがちの姿勢を、私たちの側としてしっかりと批判しきれなかったという問題も出てきていると思います。

その他にもいろいろ問題ありますけれども、このようないろいろな積み重ねによって、私たちの9条理解、「力によらない」平和観というものが、ある意味、深刻に汚染されてきたということが、私は大きな問題として私たちの前にあるということを申し上げておきたいと思います。

護憲論の側にまともな国家観が未だにない

次に、もう一つの大きな問題は「護憲論の側にまともな国家観が未だにない」という問題であります。

一つはこの敗戦に際して、過去と決別する機会が妨げられたという問題であります。つまり私たちは敗戦しましたときに、さきほど申しましたように、戦争責任を徹底的に追及するということが妨げられた、あるいはしなかった、ということによって、結局その過去を引きずる戦後の保守政治というものを許すことになってしまった。

そういう過去を引きずる戦後の保守政治というのは、相変わらず古い国家観、つまり「国家を個人の上に置く」国家観を持ってきているわけですから、そういう政治に対して、私たちはもう戦争に巻き込まれるのはこりごりということで、そういう保守政治を否定する、あるいはこの保守政治を避ける考え方が、その保守政治によって代表されている古い国家観を含めた国家そのものを否定する気持ちに導いてしまったということがあります。したがって、古い国家の否定感情が、国家そのものを否定する意識に繋がってしまったということが、大きな問題としてあると思います。

しかし、先ほども申しましたように、日本国憲法には「個人を国家の上に置く」国家観を明確にさし示している憲法11条、第97条がありますけども、そういう国家観をさし示しているということに対して、護憲派と言われてきた私たちが、明確な意識を持てなかった。国家を丸ごと放り投げてしまったがために、日本国憲法がしっかり示している国家観をも私たちは我が物にすることができなかった、という問題があると思います。

あるいは、二つ目の大きな問題点として、日本が大国であることに対する違和感があります。つまり日本が大国であるということを、私は事実認識として、事実の問題としていろいろなところで強調させていただいているわけですけれども、「とにかく大国論はやめてくれ」という反応がしばしば返ってまいります。そこにおいて見られるのは、私の場合は事実認識としての大国・日本という認識であるのですが、お聞きになる方たちは、そういう私の考え方を大国主義と位置づけてしまって、それに反発するという、そういう傾向ではないかと思います。

しかし、私たちが国際的に見た場合、日本が大国であることは紛れもない事実であって、その事実を私たちが受け入れないとするならば、私たちはこの日本という国家をしていかに国際社会と関わらせるかという問題に対して、主体的な視点、あるいは主体的な政策を打ち出すことは不可能であるという問題を、私はぜひともみなさんに考えていきたいと思うのであります。もちろん、大国にはならない方がいいというのは一つの選択でありますけれども、そういう大国・日本という事実を否定しようとするならば、私たちは現在のこの国力を50分の1、あるいは100分の1にまで縮めて、私たちの今現在享有している豊かな生活をすべて国際社会にお返ししたうえで、もうこれ以上私たちに国際社会とかかわることを求めないでくれ、と言うならば筋は通ると思うのですけれども、それまでの決意は私たちにはないと思います。そうであるとするならば、大国という果実を享受しながら、大国に伴う国際的な責任は果たさない、果たしたくないというのは、私はやはりわがままな考え方と言われても仕方がない、という問題を考えていただきたいということであります。

それから、先ほどから申し上げておりますように、私たちの中において、「国家を個人の上に置く」国家観に代わる「個人を国家の上に置く」国家観というものが未成熟なままにとどまっている、という問題があります。それはとりもなおさず、私たちの人権意識、民主主義に対する確信というものが必ずしもしっかりしたものになっていないためではないのかということであります。

そして、自民党の新憲法草案というものは、まさに「国家を個人の上に置く」国家観を押し付けようとしているということであります。その点において、草案の12条及び13条の規定を考えておいていただきたいと思います。そこでは今の日本国憲法で規定している「公共の福祉」という表現を、「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えております。「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と変えることによって、この「公益及び公の秩序」というのは、国益あるいは国家の安全保障ということを意味するといい、したがって、「公益及び公の秩序」に反しない限りで人権を享有することができるという規定になっている。わずかこれだけの表現の違いをするだけで、国家観としては「個人を国家の上に置く」国家観から、「国家を個人の上に置く」国家観に切り替えるという企みを実現しようとしているということを考えておいていただきたいと思います。

したがって、なおのこと私たちは、冒頭に申しましたように9条の問題のみならず、基本的人権の問題についても、憲法意識を高めなければいけないという問題があるということを申し上げておきたいと思います。

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