集団的自衛権について

2006.12

*以下の文章は、共同通信が時折配信する「対論」の企画で、日本が集団的自衛権を行使できるようにすることは是か非かについて、私が非とする立場から述べたものです。

—集団的自衛権について「国際法上保有するが、憲法上行使できない」とする政府解釈をどう見るか。

 「集団的自衛権は国連憲章に規定されており、国連加盟国の日本は、国際法上はその権利を持ちます。しかし集団的自衛権の本質は、ずばり言えば、自衛権ではなく他衛の権利。そもそも憲法が認めていない。日本は、憲法上、集団的自衛権は持っていないという結論は不可避です」

「今大勢を占める議論は、個別的自衛権と、それを行使するための自衛隊を前提とし、その自衛隊が集団的自衛権まで行使できるかという論法です。でも自衛権の行使のあり方として、憲法の禁じる戦力である自衛隊を前提にすること自体おかしい。非暴力の抵抗、国民的抵抗だってあり得る。既成事実のなし崩し的拡大の議論にはくみし得ません」

—安倍首相は集団的自衛権に関連し、米国に向かうかも知れないミサイルを撃ち落とすことも研究テーマになるとの考えを示したが。

「とんでもない発言です。そもそも米国に向かって飛んでいるミサイルを撃ち落とすことが自衛権の範囲を超えるのは火を見るより明らか。米国の意に沿う一心で集団的自衛権を持ち出すこと自体、非常識の極みです」

—と言うと。

「集団的自衛権というのは、例えば米国が他の国から攻撃されたときに、日本が米国の側に立って戦う権利です。しかし北朝鮮にしろ、中国にしろ、世界最強の米国に対して先制攻撃の戦争を仕掛けることはあり得ない。どういう場合に北朝鮮が米国に対してミサイルを飛ばすのかといえば、米国が先制攻撃による戦争を北朝鮮に仕掛け、それへの報復として、つまり自衛権の行使として発射するケースでしょう」

「その米国に対して協力するということは、日本が侵略者の側に立って戦争するということだから、集団的自衛権にそもそも該当しません。そうした前提を欠落させた議論はトリックであり、国民に不正直な首相らの政治的道義的責任は重い」

—拉致事件があって、北朝鮮を危険視する向きが多いが。

「ブッシュ米政権がそうですが、何をしでかすか分からない相手を脅威と決めつけてしまう。でも、相手を攻撃する能力と、攻撃意図があって初めて脅威になる。何をしでかすか分からないだけでは脅威とはいわない。拉致はもちろんいけないが、それはそれとして解決すべき問題でしょう」

—安倍首相の狙いは。

「首相は小泉純一郎前首相のような心情的米国ベッタリではなくて、権力主義的発想が強い。強い者と同盟するしかない、米国以外に選択はあるのか、という具合です。戦争発生の前提を無視して国民の認識を誤らせ、米国と一緒に戦う体制づくりを、無理やり集団的自衛権の問題と言い抜け、強行するという危険極まる手法です」

—国連決議に基づく国際協調行動が円滑に行えないとの批判もあるが。

「憲法九条は、戦力を持たず、戦争しないと宣言しています。国連がどんな形でやることでも、日本としては国際紛争を解決する手段としての戦争、武力行使、その威嚇は行わないと言っており、日本は参加できないし、しない。国連の集団安全保障は憲法の概念とは違う次元だから、日本が参加しても構わないというのは、侵略戦争の歴史認識を踏まえた憲法の不戦の立場を無視した荒唐無稽(むけい)な議論です」

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