安倍政権と日米同盟の変質強化

2006.11.12

* 雑誌『エコノミスト』に寄稿した文章です。字数をオーバーしたために、掲載されるものはより短文になっていますが、ここでは原文を掲載します(2006年11月12日記)。

以下においては、まず首相・安倍晋三が過去に行った発言を概観し、彼の憲法観、安全保障/対米観、対朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)観を整理することにより、彼の基本的立場を見ることとしたい。

 次に、小泉政権下で進められてきた日米同盟の変質強化の震源地ともいうべきアメリカ・ブッシュ政権の先制攻撃戦略とその下での対日要求の所在を明らかにする。

その上で、このアメリカの対日要求に対して小泉政権はどこまで応えたか、積み残したものは何であったかを検証する。積み残したものこそは、安倍政権が継承して実現を目指す内容に他ならないからだ。

最後に、その場合の重要なポイントは、集団的自衛権行使の問題であると理解されがちであるが、そういう理解は正しいのかどうかを含めて考察する。そして、安倍政権は、第9条改憲を経ずに本格的海外派兵に踏み切るかどうかについて考える。

1.安倍首相の憲法観・安全保障/対米観・対北朝鮮観

(1)憲法観

安倍が祖父・岸信介を非常に尊敬していることはよく知られているが、その岸が憲法改正に情熱を燃やしていたことを、安倍は、「祖父がなぜあれだけ憲法改正に情熱を燃やしたか。…真の意味での占領体制からの脱却のためには、占領下においてつくられた憲法を変えていく。それこそが日本人の精神的なアメリカによる占領を終わらせることにつながっていくというふうに考えていたのではないか。」(靖国神社崇敬奉賛会『平成16年度記録集』pp.116-117)と受けとめている。安倍の複雑な対米観が以上の表現のなかに既に顔を現しているが、「精神的なアメリカの占領を終わらせる」ための改憲という考え方である点が重要なポイントだ。

したがって、「岸信介は…首相になっても憲法改正に着手することはできませんでした。…こうなると憲法改正は、われわれ戦後生まれの世代に課せられた大きな宿題であり、責任であると痛感させられます。」(『安倍晋三対論集』pp.92-93。以下『対論集』)となる。安倍が憲法改正を公言するのは、決して一時的な思いからではないことが分かる。

安倍が現行憲法を「精神的なアメリカの占領」の産物とみなしていることは、彼の憲法前文に対する執拗な攻撃から明らかだ。例えば彼は、「現憲法の前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない。いまの『平和を愛する…』のくだりも、為政者が責任放棄を宣言したような内容ですね。国民の安全と平和は諸外国に任せますと言ってのけたわけですから。」(『対論集』p.85)と決めつけている。そこから、「今の憲法を全面的に見直すことなくしては、占領軍による付与のものである戦後体制を自ら変えることはできません」(『対論集』p.78)という主張につながってくる。

安倍の改憲論は、彼自身によって次のように整理される。「三つの理由で憲法を改正すべきと考えています。まず現行憲法は、GHQが短期間で書きあげ、それを日本に押し付けたものであること、次に昭和から平成へ、20世紀から21世紀へと時は移り、9条等、現実にそぐわない条文もあります。そして第三には、新しい時代にふさわしい新しい憲法を私たちの手で作ろうというクリエイティブな精神によってこそ、われわれは未来を切り拓いていくことができると想うからです。」(『この国を守る決意』p.217。以下『決意』)

(2)安全保障/対米観

既に安倍の憲法観のなかから、彼の対米観が決して単純なものではないことを窺うことができたと思う。安倍は、日本を「アメリカの精神的な占領」から脱せしめることに強い意欲を隠さない点において、手放しでアメリカ(というよりブッシュ)にのめり込んだ小泉とは一線を画している。それでは、安倍はアメリカ追随の清算を主張するだけの決意を持ち合わせているのか。

まったくそうではない。そこには安倍の権力政治に徹する安全保障観が介在する。安倍によれば、「外交・安保政策というものを論ずるに当たっては、まず外交と安全保障は不可分一体のものだという認識が重要だ…。軍事力のプレゼンスといったものを背景に、実は外交も成り立っている…。」(『「保守革命」宣言』p.167)ということなのだ。

そこから非常に打算的な対米観が押し出される。「日本は、同盟国としてアメリカを必要としていた。なぜなら、日本は独力で安全を確保することができなかったからである。その状況はいまも変わらない。自国の安全のための最大限の自助努力、『自分の国は自分で守る』という気概が必要なのはいうまでもないが、核抑止力や極東地域の安定を考えるなら、米国との同盟は不可欠であり、米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである。」(『美しい国へ』p.129)要するに、アメリカの軍事力を考えれば、日米同盟が「ベストの選択」というのだ。同時に、「米国との力強い同盟関係を、世界で日本の国益実現のテコとする」(『決意』p.21)という利害打算も安倍の対米観を下支えする。

(3)対北朝鮮観

安倍の安全保障観、日米同盟重視論におけるユニークさは、北朝鮮脅威論を強調する点にある。彼によれば、日本人の安全保障観はここ数年で大きく変わったとされるのだが、その転機・衝撃となったのは、1991年の9.11事件であり、翌1992年の「9.17」だったというのだ。「9.17」とは小泉訪朝を指すが、安倍によれば、「小泉総理が訪朝して金正日国防委員長が日本人を拉致していたことを認めて謝罪した。…さらに北朝鮮が密かに核開発を続けていたことも追い打ちをかけたと思います。そこで日本人は、国民の安全を守るのは国の基本的な責任で、安全保障にはきちんと取り組んでもらわないといけないこと、国家や安全保障に対するアレルギーが戦後ずっとありつづけたことが問題であったことに気づいたと思いますね。これは大きな転換点でした。」(『対論集』pp.146-147)という認識を示すのである。安倍は、「北朝鮮の脅威を実感して初めて、『同盟とは何か』を認識した日本人は多いはずです。」(『対論集』p.147)とも言っている。つまり、北朝鮮脅威論を仲介として日米同盟論の重要性を説くという構図である(安倍の対中国観もライバル意識むき出しで興味深いが、ここでは紙幅の関係で触れない)。

2.アメリカ・ブッシュ政権の先制攻撃戦略と対日要求

ブッシュ政権の軍事政策の際だった危険性を浮かび上がらせるものは、改めていうまでもなく、先制攻撃戦略である。ここでは、ブッシュ政権が先制攻撃を正当化する立論に力点を置き、そこから対日軍事要求が出てくる関連性を導き出す。

同政権における先制攻撃戦略を正当化する主張は、国際法における自衛権行使の概念をきわめて恣意的に拡大解釈する形でなされる。主張は、大別すると次の4点からなる。

国際法において自衛権行使が正当化される第一要件は「急迫」性である。2002年に米国防省が公表した国家安全保障戦略に次の記述がある。

「ならず者国家及びテロリストの目標に照らせば、アメリカは、過去におけるような反撃態勢にのみ頼ることはもはやできない。…我々としては、敵に第一撃を許すことはできない。…報復するという脅威にのみ立脚する抑止の考え方は、自国民の生命や国富を賭けるリスクをとることを躊躇しないならず者国家の指導者に対しては機能しない。…国際法の専門家は、先制攻撃の正当性を急迫した脅威の存在の有無によるとしてきたが、…我々としては、急迫した脅威という概念を今日の敵の能力及び目的に適合させなければならない。…脅威が大きければ大きいほど、行動しないことに伴うリスクはそれだけ大きくなるので、敵の攻撃の時間及び場所に関して不確実性があろうとも、我々を防衛するために先を見越した行動をとることはそれだけやむを得ないものになる。」

つまり、アメリカが「ならず者」と決めつける国家の指導者は、核兵器による報復を考えて攻撃を思いとどまるという、核抑止力の根幹をなす部分について無頓着であり、自国がどういう報復を受けるかについて分別を働かせないので、核攻撃を含めた攻撃を仕掛けてくる可能性を考えなければならない、というのだ。このようにアメリカが「ならず者国家」について考え、決めつけること自体、独断以外の何ものでもない。

それらの国家の指導者にとって、自らの唯一の権力基盤であり、財産である国家を失うことは自殺行為であり、そのようなことをあえてするというアメリカ側の発想には根本的に無理がある。ところがブッシュ政権は、この無理を極める前提に固執して、その攻撃からアメリカを防衛するためには、「先を見越した行動」つまり先制攻撃で相手を倒す、という強引な主張に結びつけるのである。

国際法における自衛権行使正当化の第二要件は、「武力行使以外の手段がないこと」である。つまり、外交その他の非軍事的手段を使い尽くした状態のもとでのみ、自衛権行使としての武力行使が認められる。ところがブッシュ政権は、これを必要性に基づく選択の問題としてしまう。そのことを露骨に表明するのが、例えば2006年の「4年ごとの防衛見直し(いわゆるQDR)の次のくだりだ。

「アメリカは、可能なときはいつでも平和的協力的方法を用いるが、必要であれば軍事力を行使する。このため、国家や非国家主体の大量破壊兵器の能力や計画について、その所在を突き止め、…破壊する大量破壊兵器絶滅作戦が重要となる。」

国際法における自衛権行使正当化の第三要件は、「必要最小限」である。つまり、攻撃を排除する上で必要最小限のものでなければならず、その限度を踏み越えた場合には過剰防衛になって認められない。ところがブッシュ政権においては、この要件を守る意思がないことは、2002年の国家安全保障戦略における次の記述で直ちに明らかになる。

「先制の選択肢を意味あらしめるため、我々は、…決定的な結果を達成する迅速かつ精密な作戦を遂行できる能力を確保するべく、常に軍事力の再編を続ける。我々の行動の目的は常に、アメリカ、同盟国及び友好国に対する特定の脅威を絶滅することにある。」

「決定的な結果」といい、「脅威を絶滅する」といってはばからないブッシュ政権には、「必要最小限」という縛りなどはおよそ無縁である。

自衛権行使が国際法上合法と見なされるための3条件をことごとく無視するブッシュ政権は、さらにもう一つ重大な点で適法とされる自衛権行使(重要な事実は、国連憲章の下において、国家が武力行使に訴える権利が認められるのは自衛権行使の場合のみに限られることである)の概念からの逸脱がある。それは、武力行使の対象の範囲を恣意的に拡大している、という問題である。以下に紹介するのは、やはり2002年の国家安全保障戦略の記述である。

「我々は、テロリストと故意に彼らをかくまいまたは彼らに援助を提供する連中とを区別しない。」

国際法においては、自衛権行使の対象は攻撃してくる国家である。ところが以上の叙述から明らかなように、ブッシュ政権は国家ではない(つまり非国家主体である)テロリストを武力行使の対象としており、また、テロリストをかくまったり、援助したりする国家であるというだけで、やはりアメリカの武力行使の対象にするとしているのである。

国際法においては長らく、国際的なテロリズムは国際犯罪としての位置づけが明確に行われてきた。ところが、いわゆる9.11事件以後のアメリカは、国連安全保障理事会決議によって、アル・カイダ及びそれを庇護したアフガニスタンのタリバン政権に対する攻撃を自衛権行使として「正当化」した。このような決議の成立を許した常任理事国を含む国連の責任も実に重いが、その結果、上記のごときアメリカの無制限かつ一方的な武力行使を公言する事態がまかり通ることになってしまった。

このように国際法蹂躙の上にのみ成り立つ先制攻撃戦略を推進するブッシュ政権は、何時、何処で何を仕掛けてくるか分からないテロリスト、ならず者国家、そして東アジアにおける不安定要因とみなす台湾海峡有事、朝鮮半島有事に対して迅速機敏に機先を制して対処しうるようにするために、2003年以来世界規模での米軍再編に着手した。その再編の要となるのが在日米軍再編、自衛隊を実質的に米軍支配下の実動部隊化する日米軍事一体化、日本全土の実質的米軍基地化を主内容とする対日軍事要求である。

3.小泉政権の「実績」と「限界」

小泉政権のもとでの対米軍事協力という点では、テロ特別措置法(2001年)による海上自衛隊のインド洋派遣、イラク特別措置法(2003年)による陸上自衛隊のイラク派遣に注目が集まりやすいし、その違憲性において重大な問題であることは間違いない。また、国際法違反の疑いが限りなく濃いイラク戦争に対する国際的支持を必要としたブッシュ政権にとって、小泉政権による自衛隊派遣の決断は、政治的には大きな意味を持った。

しかし、アメリカの対日軍事要求の所在という観点から見るとき、憲法第9条の制約を受け、武力行使に踏み込むまでには至らなかった小泉政権の行動は、ブッシュ政権にとっては極めて不十分なものだったし、対日要求全般のなかではほんの一部分を満足させるものでしかなかった。この不十分さを克服し、アメリカの全面的な対日軍事要求を実現するべく、小泉政権は、国内立法と日米交渉を進めた。

国内立法としては、武力攻撃事態対処法(2003年)、対米軍支援法(2004年)、国民保護法(同年)等からなるいわゆる有事法制の成立が挙げられる。また、日米交渉を担当したのは日米安全保障協議委員会(「2+2」)であり、その成果が2005年2月19日の共同発表、2005年10月29日の「日米同盟:未来のための変革と再編」(いわゆる「中間報告」)、そして2006年5月1日の共同発表の3文書である。

有事法制がいかに重要な意味を持っているかについては、2006年の小泉訪米に際して出された日米共同文書「新世紀の日米同盟」の次の一節がすべてを語っている。

「総理大臣及び大統領は、双方が就任して以来日米の安全保障関係において達成された著しい進展を歓迎した。日米の安全保障協力は、弾道ミサイル防衛協力や日本における有事法制の整備によって、深化してきた。」

本来、米軍支配下の日米軍事一体化及び日本全土の米軍基地化は、日米安保条約の枠組みを大きく超えるものであり、また、憲法違反を問われざるを得ないものであって、到底許されるものではない。法的にいえば、改憲を前提とし、日米安保条約を改定する手続きを踏んではじめて可能となるべきものである。しかし、そのような大事業は、いかに保守反動化が進んだとは言え、国会及び世論の状況からいって、到底短時日には実現できない。そこで小泉政権は、国内立法によってアメリカの対日要求を実現するという、本来違憲性が問われるべき手段に訴えたのだ。

残念ながら本稿では、有事法制の詳しい内容にまで立ち入る余裕はない。ここでは、「2+2」の「日米同盟:未来のための変革と再編」における次の2カ所の文章を引用することで代える。

まず、日米軍事一体化に関しては、「周辺事態が日本に対する攻撃に波及する可能性のある場合、又は、両者が同時に生起する場合に適切に対応し得るよう、日本の防衛及び周辺事態への対応に際しての日米の活動は整合を図るものとする」とされた。また、日本全土の米軍基地化に関しては、「日本は、米軍のための施設・区域を含めた接受国支援を引き続き提供する。また、日本は、日本の有事法制に基づく支援を含め、米軍の活動に対して、事態の進展に応じて切れ目のない支援を提供するための適切な措置をとる。」という表現で、その実現を進めることが合意された。

在日米軍再編については、2006年の共同発表において、次の表現で日本側が実現することを確約した。

「2005年10月の再編案の実施の詳細を承認…。日本国政府による地元との調整を認識し、再編案が実現可能であることを確認…。これらの再編案を完了させることが同盟関係の変革の基礎を強化するために不可欠であることを認識し、日米安全保障条約及び関連取極を遵守しつつ、この計画を速やかに、かつ、徹底して実施していくことを確約…。」

以上をまとめると、小泉政権は、米軍支配下の日米軍事一体化、日本全土の米軍基地化及び在日米軍再編の3本柱からなる日米軍事同盟の変質強化への必要な法的及び行政的な布石を打った、と言うことができる。しかし、有事法制のスムーズな実施に関しては、「国民保護計画」の名の下における国民総動員体制の実現が不可欠の前提になる。その意味で、2006年度内の成立を目途として強引に進められている市町村レベルの国民保護計画づくりの帰趨がどうなるかがカギとなる。この点を含め、安倍政権には、日米軍事同盟の変質強化を仕上げることが大きな宿題として残されたということだ。

他方、自衛隊を米軍の指揮の下で本格的な海外派兵ができる軍隊とする点については、小泉政権は基本的に手をつけるまでには至らなかった。安倍政権がこの問題に取り組む決意を明らかにしているのは、アメリカの対日軍事要求に全面的に応えるという意味では、極めて当然といわなければならない。ここで注目されているのが集団的自衛権の問題である。

4.集団的自衛権問題と海外派兵

まず、集団的自衛権とは、「ある国が武力攻撃を受けたとき、密接な関係にある他の国が共同して防衛にあたる権利」とする一般的な定義にしたがって議論を進める。ここでまず明らかなことは、集団的自衛権を行使できる前提は、他国からの武力攻撃があることである。裏返していえば、ブッシュ政権が進めようとする先制攻撃の戦争については、集団的自衛権を行使できる大前提が欠けているということだ。

既に詳しく見たように、確かにブッシュ政権は自衛権行使の概念を限りなく緩やかに解釈することによって、先制攻撃の戦争をも自衛権行使として正当化しようとしてはいる。しかし、日本国内のこれまでの議論においては、当然のことながら、そのような恣意的な解釈を前提にするのではなく、本来の自衛権の概念(つまり、敵国からの攻撃をまってはじめて発動しうる権利としての理解)に基づくことを前提にしている。

しかし、安心するのは早い。有事法制が前提にする「武力攻撃」とは、「我が国に対する外部からの武力攻撃をいう」(武力攻撃事態対処法第2条一)とある。この定義だけをとれば、いかにも自衛権の概念とは矛盾していない印象を与える。だが、「外部からの武力攻撃」がどうして生起するかには触れていない。

既に紹介した「2+2」の文書の「周辺事態が日本に対する攻撃に波及する可能性のある場合」を併せ読めば、例えばアメリカが北朝鮮に先制攻撃の戦争を仕掛ける場合は「周辺事態」に当たる。したがって、アメリカの攻撃に対して自衛権を行使して反撃する北朝鮮の「日本に対する攻撃」は、有事法制発動の条件である「武力攻撃」に当たるのだ。なんのことはない。有事法制は、アメリカの先制攻撃の戦争に日本が呼応する仕組み・からくりになっているのだ。

ところが日本国内では、以上の有事法制の仕組み・からくりに無頓着のまま、「アメリカが攻撃を受けた場合、同盟国・日本が傍観することが許されるのか」という形で議論されてしまう。もちろん、そういう安易な問題設定の仕方で議論が終始することは、政府・自民党にとっては極めて都合がいいから、彼らはその土俵を利用している。

安倍政権も当然例外ではない。むしろ安倍政権は、内閣法制局長官の首のすげ替えをしたことに見られるように、従来の憲法解釈(憲法第9条が認めるのは固有の自衛権の行使だけであって、他の国の防衛のための武力行使である集団的自衛権の行使は認められない)を変更することを狙っている。そして、集団的自衛権行使に関する国内の議論が、アメリカの先制攻撃の戦争に加担することが法的に(つまり憲法上)認められるか(さらに付け加えるならば、政治的道義的に許されるのか)、という本質論の次元で行われず、「アメリカが攻撃されたら」という皮相の次元で終始することを利用して、自衛隊の参戦・武力行使を正当化することを狙っているのだ。

ただし、アメリカの対日軍事要求はこれだけにはとどまらない。再び「2+2」の「日米同盟:未来のための変革と再編」は、「同盟に基づいた緊密かつ協力的な関係は、世界における課題に効果的に対処する上で重要な役割を果たしており、安全保障環境の変化に応じて発展しなければならない」とする。

2000年のアーミテージ報告が早くも明らかにしたように、アメリカの狙いは、日米軍事同盟を米英軍事同盟並みの水準に引き上げることにある。つまり、日本が米軍の指揮下で海外派兵できるようにすることだ。

安倍の対米観は、冒頭で見たように、単純なものではない。しかし、権力政治に徹する安倍は、最強国・アメリカに寄り添うことが、彼の考える「日本の国益」追求にとりベストの選択と考えていることも既に指摘したとおりだ。

完全に「戦争する国」に変貌するためには、集団的自衛権の解釈改憲だけでは不十分であり、どうしても現行憲法を排し、新憲法を作らなければならない、と安倍が確信していることは間違いない。自民党の改憲案が、「自民党新憲法草案」とされ、例えば「日本国憲法改正案」とされないのは、「戦争しない国」から「戦争する国」への根本的変質を図ろうとする意図を反映したものであることを忘れてはならない。

RSS