核問題をめぐる韓国の状況ーコメントと私の答ー

2006.10.26

はじめまして。Kに住んでいる在日朝鮮人2世のJと申します。先生のHPをブログで知り、7月より拝見させていただいております。

広島には、知人がいるので何度か行ったことがあります。朝鮮人韓国人被爆慰霊碑までは行きましたが、平和記念資料館にはどうも足が向きませんでした。

今回、韓国のKさんのことがでておりましたので、私の見方から感想を書かせていただきます。韓国でもKさんのような考え方もあり、違う考え方もあります。

私は、日本で生まれ育ったせいか原発も核兵器も反対です。

Kさんの韓国には反核文化がないという部分に納得がいかない点があります。もちろん日本の反核文化とは、違うものでしょう。しかし韓国の場合、1950年の朝鮮戦争が起きてから今日まで、「反核文化」と言えるかどうかは分かりませんが内容的には実在したと思います。もちろん「反核文化」という言葉はなかったと思います。その代わり、方向性が違っても「反独裁民主化」や「統一運動」等が反戦平和文化,「反核文化」の内容としてあったのだと理解してます。

米国が1950年の朝鮮戦争当時核兵器を2度も使おうとしたり、1958年頃からだと思いますが米国が核兵器を持ち込みそれ以後ずっと居座っています。クリントンの時もそうでしたが、ブッシュになってからは、核先制攻撃まですると公言しています。

日本の運動も大きな役割を果たしてきましたが、栗原貞子さんがおっしゃるような運動にはなりませんでした。韓国の民主化運動は、その理想と行動と実践と犠牲を伴うことにより、内容的に反戦平和運動,反核運動になってきたと思われます。

そういうふうに考えると、日本の運動は形式的には「反核文化」があり、韓国の運動は内容的,実質的に「反核文化」があったのではないでしょうか?意図せずともです。

もう少し両国の歴史や状況を考慮する必要があると思います。

韓国で、朝鮮(北)の核兵器保有や核実験(試験?)について同調(?)する人達は、「核武装民族主義」,冒険主義として危険極まりないとKさんは言い、かえって統一を妨げると考えているようです。もちろんそのような見方もできます。

しかし日本の平和運動と朝鮮半島での平和運動は、その状況と出発点に根本的に大きな違いがあると思われます。

それは曲がりなりにも日本の反戦平和運動は、まだ平和的状況下での運動であり、朝鮮半島での反戦平和運動は、1950年より朝鮮と米国との間での戦争下,戦時下での運動ではないかということです。

どうもKさんは、そのことを忘れているのではないかと思われます。

沖縄の太田氏が県知事をしている時、TVで沖縄の現状を訴えるのをみたことがあります。日米安保条約は、国民等しく負わねばならないのに、日本の国土の狭い一部の沖縄県が面積の70%までが米軍基地として使用され、戦後50年以上も苦痛の負担をしなければならないのか?いつまで苦痛を背負わねばならないのかと切々と訴えていらしたその場面が今でも脳裏に残っています。

朝鮮とすれば、いったいつまで分断と米国の核の脅威にさらされ、ひもじい思いをしなければならないのかと考えているのではないでしょうか。

ぶしつけな意見をご容赦ください。Ju

Ju様

わざわざ感想をお寄せ下さり、ありがとうございました。私が舌足らずだったのかもしれませんし、認識不足の点もあったか、と反省いたしました。

ただし、Kさんの言われた韓国における「反核文化の欠如」という意味は、広島、長崎を体験していない韓国の人々が、核戦争あるいは核兵器のすさまじさを想像することができない(これが「反核文化の欠如」)という趣旨だったと理解しています。もちろんKさんは、話のなかで1992年1月の「朝鮮半島の非核化に関する南北共同宣言」にも言及されており、韓国国内に核問題への関心が強く存在してきた事実は、ご自身がしっかり踏まえておられました。ただ、安全保障問題として核兵器・核戦争を考えるということと、核戦争の恐ろしさを肌で実感し、それ故に核兵器・核戦争という選択はあり得ないのだとすること(それこそが「反核文化」の中身です)とは、必ずしも無条件で結びつくわけではない、という点を強調することに、Kさんの大きなポイントがったのだと私は理解しましたし、そういう理解にKさんは大きくうなずいていたのです。そして、そういう反核文化がある日本(私自身の理解では、今日の日本ではこの文化が急速に失われつつあるという危機感があることをKさんには正直に伝えました)の人々と韓国の人々が交流を深める必要があるという認識を表明されたのです。

ただし、韓国国内にもいわゆる在韓被爆者がおり、反核文化を育む土壌は存在します。Kさん自身、この問題に直接かかわることを通じて、反核文化の重要性を認識し、国内でその重要性を訴えておられるとのことでした。

現実政治では、反核文化が育っていない韓国国内では、北朝鮮の核実験の報に接したときに、核戦争になったら朝鮮半島はとんでもないことになるということを原点においた「反核文化」を原点にした発想・認識ができにくく、一方では北朝鮮の実験を無条件で肯定してしまうか、他方ではだからアメリカの核抑止力に頼るあるいは自前の核兵器を、という主張に短絡的につながってしまう、というKさんの認識は以上のコンテキストのなかから出ていると、私は理解しました。

私は、核兵器に固執するアメリカを筆頭とする核兵器保有国は、自国の核保有を正当化するために、国内で「反核文化」が成長することに非常に神経質に対応してきていると考えています。核廃絶の声が世界を覆うようになるためには、ヒロシマ、ナガサキを体験した日本の反核文化(その集中的表現が「ノー・モア・ヒロシマ/ナガサキ」「ノー・モア・ウォー」です)が世界的に共有されるように、日本に住む私たちが反核文化の足腰強化/説得力強化に取り組む必要があると考えています。

その日本で、中川政調会長や麻生外相の方言が続いて止まないこと(安倍首相もそれを制止させようという気配すら示さないこと)は、私の危惧する、日本国内における反核文化の衰えを象徴しています。

私の以上に申し上げたことが、Ju様のご趣旨を理解していないものでしたら、どうか忌憚のないご批判をお寄せ下さい。

これからも微力ながら、発言を続けていきたいと思いますので、引き続き私のHPへのアクセスをしてくださることをお願い申し上げます。

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